heidi 1-1-1

Zum Alm-Öhi hinauf

Vom freundlichen Dorfe Maienfeld führt ein Fußweg durch grüne, baumreiche Fluren bis zum Fuße der Höhen, die von dieser Seite groß und ernst auf das Tal herniederschauen. Wo der Fußweg anfängt, beginnt bald Heideland mit dem kurzen Gras und den kräftigen Bergkräutern dem Kommenden entgegenzuduften, denn der Fußweg geht steil und direkt zu den Alpen hinauf.

アルムおじさんの山小屋へ登る

気さくな村人らが住むマイエンフェルトから一本の杣道が木立の多い緑野を抜けて、雄大な渓谷を見下ろす丘の麓まで伸びている。その道をたどり始めるとすぐに、たけの低い草や野生の山草が生い茂る藪からかぐわしい香りがただよってきて、さらにその道はまっすぐに険しいアルプスの上まで続いている。


zu は場所へ、hinauf は上へという意味だからそのニュアンスを出すには意訳するしかないか。

kräftig は強い、というより、たくましい、野生の、という意味だろう。

Bergkräuter、Kraut には薬草、香草、香辛料となる草、つまりハーブという意味もあるが、ただの葉、あるいはキャベツの意味もある。ここでは単に山草と訳した。

作者ヨハンナにとって、マイエンフェルトは土地勘のある場所ではなかったはずだ。鉄道が通り、駅が出来、ふるくからある修道院の湯治場が開発されてラガーツ温泉という保養所ができて、それでヨハンナはチューリッヒから汽車に乗ってマイエンフェルトに訪れることになった。そうして初めてヨハンナはこの地で小説を書くために現地の人たちから取材をした。そういう意味で、この freundlich は、普通の田舎の村や町がよそものに対して「閉鎖的」で「親しみにくい」のに対して、マイエンフェルトやラガーツ温泉が、「観光客」であるヨハンナにとって、「開放的」で「親しみやすい」、というような意味合いであったはずだ。このようなニュアンスの差はヨハンナが書いた他の小説の冒頭と比較してみればもっとわかりやすいと思う。ここでは無難に「気さくな村人らが住む」と訳してみた。そんな気さくな村人の典型がデーテやバルベルだというわけだ。

ヨハンナはみずからファンタジーを好んで書く人ではなく(そのような需要やリクエストは多かったに違いないが)、その描写はいつも克明で具体的でリアルだが、翻訳の段階で多くは「夢の国」「子供の楽園」スイスというファンタジー要素が付加されてしまっているように思われる。

僭主と王

僭主(τυραννος)と王(βασιλεύς)の違いはなんだろうかということをずっと考えていた。

Wikipedia の「僭主」を読んでもよくわからないと思う。英語由来のタイラントだともっとわからない。タイラントには「暴君」という意味しかない。これは一般化するよりは、古代ギリシャ世界における特有の呼び分け方だと思ったほうが理解しやすいと思う。

王というのは、血縁と地縁があって、その族長がなるものである。だから王には血統があって、血筋というものが重視され、才能などはまあどちらでもよいということになる。族長というものはどんな原始社会にもある。王は、歴史に残らぬ古代から現代までずっとある君主の形態である。人の集団は多かれ少なかれ、地縁と血縁、宗教や習俗でできているからであり、それは昔も今も大差ない。

これに対して、僭主はある程度文明が発達した社会にしか生まれ得ないはずである。

たとえば、地縁や血縁が強固なスパルタには僭主は生まれ得ない。王しかうまれない。

いっぽうアテナイやテーバイなどでは、無産階級が生まれ、奴隷や富豪などさまざまな、
地縁とも血縁とも関係のない市民がいた。同じことはペルシャでもいえるのだが、ペルシャのような巨大な国では皇帝独裁というものが発達した。アテナイのようなミニチュアのような国では逆に、市民全員が政治に口出しする直接民主制というものが生まれた。

アテナイでもペルシャでも、一代で財をなしたり、あるいは領主となったり、あるいは領地を相続したり、あるいは武力にうったえて政治権力をもったり、戦争に功績があった将軍が民衆の支持を得て独裁を行ったり、そういう形で僭主が生まれることがあるわけだ。

アテナイでは直接民主制もしくは貴族による寡占政治から逸脱した状態として、僭主が嫌われた。

しかし、ペルシャのように、大昔に支配者と被支配者が完全に分離した社会では、ある日突然、一般人が領主になることがある。それは婚姻によるものであったり、跡取りがない領主が親しい奴隷に領地を相続させたりする。宮廷の官僚や宦官などが王位を簒奪して領主になることもある。

アテナイではペイシストラトスとかテミストクレスが僭主と呼ばれる。ペイシストラトスは貴族の親玉だった。無産階級をたくさん雇って農地や鉱山を開発させて一代で巨富を得た。テミストクレスは戦争の英雄だった。サラミスの海戦でペルシャ艦隊を覆滅させた。
どちらも大衆を扇動して権力を独裁しようとしていると疑われたわけだ。

だけど、同じギリシャ人のポリスでもシチリアあたりだと全然違う。どちらかといえばペルシャ世界と近い。

ギリシャ本土以外では、領主が血縁以外で継承すると僭主と言われる。娘婿でもたぶん僭主扱い。ただそれだけだ。

アテナイでは血縁や地縁が薄れてきたので、王政が貴族政に移行したのだろう。直接民主制に移行したのは直接的にはペリクレスのせいだが、狭いポリスで、アゴラに無産市民が集まって好き勝手いう環境が民主制というものを生み出したのだ。でも同じギリシャ人でも、スパルタではそうはならなかった。無産市民が発生せず、市民はみな農村にはなればなれで暮らしていたせいだろう。


追記: 要するに世襲でない王、一代で成り上がった権力者のことを僭主というのだ。西アジアでは、僭主がその部下や召使い、奴隷に財産と権力を継承することがあった。これは父から子への相続ではないから、僭主から僭主が生まれることになる。実の男子だけでなく、娘婿に継がせる場合は世襲である。ゲルマン法、ローマ法というが、ローマ法(ローマ皇帝の継承法)というのはマケドニア王国の継承法を真似たものであろう。当然、東ローマはマケドニア王国の王制をそのまま引き継いでいる。一方でゲルマン法では不動産(領地)は男子にしか所有権、継承権が無い。

タイラントが暴君か独裁者かなどということは関係ない。単に私有財産制、相続制度の問題なのだ。

水尾の里と小野の里

清和天皇と惟喬親王の扱われ方というのは良く似ている。二人は文徳天皇の皇子で、異母兄弟なのだが、二人ともほぼ同じころに宮廷を追いだされて、山の中に幽閉された。惟喬親王は貞観14年(872年)、京都の東、比叡山中の小野の里に。清和天皇は元慶3年(879年)5月、京都の西、嵯峨野の山中・水尾の里に。まあ要するに、藤原基経高子兄妹によって、傀儡陽成天皇を立てて、要らなくなったから追放されたのだ。

ひどい話だなと思っていた。

でもまあよくよく考えるに、惟喬親王も清和天皇も生活も経済力も外戚に丸抱えされていたわけである。天皇や親王が個人所有している資産というものが、この時代にはなかった。飛鳥・奈良時代にはあったんだろうが、律令国家というものを作って、官僚組織を作って、中央独裁にした結果、天皇個人の財産と国家の財産というものの区別がなくなり、国家から切り離された天皇個人の財産というものがなくなった。桓武天皇とか嵯峨天皇のころにそうなっちゃった。

それで日本では、通い婚、婿取り婚の伝統があるから、本卦還りしてしまって、天皇は嫁さんの実家の経済力に頼らざるを得なくなった。摂関政治の本質はそこだよな。

摂家の陰謀で、清和天皇と惟喬親王は追放された、というよりは、二人とも隠居後の資産なんて何ももってなかったから、京都近郊の山の中を開拓して、水尾の里と小野の里というものを作って、そこに住民も移住させて、死ぬまで生きていけるようにした。ようは老後のための年金として水尾の里と小野の里が与えられたのだろう。今も山の中に老人ホーム作ったりしてるがあれと同じ。そんなふうに思えてきた。別に幽閉されたというわけではなかったようだ。京都近郊をうろうろしてた。

惟喬親王は宮中を追いだされて25年後に54才で死んだ。まあまあ長生きしたほうだ。

清和天皇は貞観18年(876年)突然譲位。まあ、失脚したんだわな。そして3年後、出家して水尾に入り、翌年あっという間に、30才で死んでしまった。よっぽど嫁さんに嫌われてたみたい。あんまり指摘されることはないのだが、清和天皇ってかわいそうなひとだったんだなってことに新井白石は気付いていた。たぶん。

で、似たような状況が後三条天皇までは続いた。だから、花山院みたいな悲惨な上皇もいた。皇太子や天皇の間はちやほやされるが上皇になったらもう見捨てられちゃうみたいな(時代は違うが後鳥羽院にもなんとなくそのけがある)。白河天皇は、その反省から、天皇家が自分で資産を持つようにしたわけよね。そうして、外戚の資産に頼らなくて済むようにした。それがまあ白河院が目指した院政というものだわな。

堅信礼の贈り物

ヨハンナ・シュピリ処女作出版の経緯についてはこちらの記事に詳しく記されている。

> Johanna Spyri und Bremen: ein Beitrag zu den schweizerisch-hansestädtischen
Literaturbeziehungen und zu den schriftstellerischen Anfängen der “Heidi”-
Autorin

後書きに書いた通り。ほんとはもっとたくさん書きたかったが、あまりに「後書き」が長すぎてもかっこわるいので、必要最小限しか書かなかった。中途半端に書いておくとあとで自分も忘れてしまって困るので整理しておく。

> Autor(en): Richter, Dieter

Dieter Richter はドイツ語学者。

> Zeitschrift: Librarium : Zeitschrift der Schweizerischen Bibliophilen-
Gesellschaft = revue de la Société Suisse des Bibliophiles
Band (Jahr): 31 (1988)
Heft 2

「Liberarium」という、スイス愛書学会(?)から出ている論文誌に載っているらしい。

> Die kleine Schrift kostete in Bremen sechs Grote (30 Pfennig) und wurde im Kolportagevertrieb auch von Pastor Vietor selber verkauft.

その小さな著作は、ブレーメンで6グローテ(30ペニヒ)で売られた。また、フィエトル牧師は自ら販売した。Kolportage は行商、Vertrieb は販売。出典は

Titelblatt-Faksimile bei J.Winkler, a.a.O., 123. Ein Exemplar dieser Auflage befindet sich in der ZB Zürich.

Titleblatt は製本された本の中に挟まれる標題紙。当時販売された書籍から採られたコピーということ。ZB Zürich == Zentralbibliothek Zürich はチューリヒ市とチューリヒ大学共同の図書館。おそらく記事に掲載されているこの画像のことだ。

vietor


> Das Büchlein ist für 6 Grote zu haben in Bremen bei C. Hilgerloh, am Brill No. 19, und bei Pastor C. R. Vietor, Domshof 27. Bestellungen von auswärts werden durch C.Hilgerloh ausgeführt.

「この小さな本はブレーメンのAm Brill 19番地の C. Hilgerloh で、また、Domshof 27番地の C. R. Vietor牧師から、6グローテで手に入る。国外販売は C. Hilgerloh が行う」と書かれている。
つまり、フィエトルは自ら売り歩いたわけではなく、セールスして回ったわけでもなく、出版社の C. Hilgerloh から分けてもらった本を、自分の教会に置いて頒布していた、ということであろう。
Domshof(教会広場) 27番地はまさにその教会(Die Kirche Unser Lieben Frauen)やらブレーメン市庁舎が建ち並ぶ、市の中心地である。
Am Brill 19 というのはその北西へ1kmほど行ったところ。
ブレーメン中心部はかつて川を挟んで[星形要塞](https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bremen_Old_Map.jpg)
の中にあったようだ。

1280px-Bremen-1641-Merian


> Das «Bremer Kirchenblatt» empfiehlt das Büchlein als Konfirmationsgeschenk: «Manche Eltern werden gern in dieser Zeit mit ihren Kindern etwas Geeignetes lesen’.»

Konfirmation 堅信礼 Geschenk プレゼント。

Konfirmation はルター派の用語らしく、英語では Confirmation。英訳すると、affirmation of baptism、すなわち、生まれたばかりのときに受けた洗礼を、成年に達してから自らの意志で肯定する儀式。「堅信礼」より「洗礼肯定」のほうがいくらかはわかりやすいのではなかろうか。この儀式は通常16歳に行われた。それまでにゲマインデにおける初等教育は終了する。上流階級の子らはその後で海外に留学したり、さらなる高等教育を受ける。そうでない普通の子らは社会に出て働き始める。

「ブレーメン教会新聞」は、この小冊子を堅信礼の贈り物として推薦した。この当時の相当の父母たちが、子供たちと読むのに適したこの本を読むのを好んだ。

出典は

Meta Heusser-Schweizer, Hauschronik, hg. von K. Fehr, Kilchberg 1980, 58.

メタ・ホイッサー・シュヴァイツァー(ヨハンナ・シュピリの母で詩人)の家の歴史、という本らしい。

フローニの墓

訳者は著者ではないので作品をずけずけと批評できる立場にいる一人であるはずだが、私の場合「フローニ」を「ハイディ」の謎解きのために無理やり訳し、それでもまだ謎が解けきれないから続く数編も訳して読んでみたので、純粋に「フローニ」という作品を読んだとは言えないかもしれない。

「ハイディ」をある程度知ってはいるが深くは知らない普通の人に「フローニ」を読んでもらうと、だいたい同じような印象を持つようだ。つまり、ストーリーは別に面白くはない、しかし、文章にある独特の雰囲気があって、なぜか最後まで読んでしまう、と(ストーリーは面白くなく独特の雰囲気はあるが最後まで読む気にならないものは、ありがちだが、単につまらないということよね)。

その独特の雰囲気というのは明らかに訳者である私の文体のせいではない。逆に私がそのヨハンナの独特の言い回しの影響をうけた、のは確かだ。もちろん私もそれに気付いてはいたが、うまく表現できない。しかし周りの人も同じようなことに気付いているとすれば、やはりそこが「フローニ」のおもしろさであって、もしかすると私は宝石の原石を見つけたのじゃないか、という気にもなる。その雰囲気というのは当然「ハイディ」にもあるんだが、アニメにも表れてはいるが、残念ながら十分に表現されているとは言えないと思う。その雰囲気というのはアルムおじさんやデーテのあたりに濃厚にただよっていて、つまりそれらのキャラクターに何らかの実在のモデルがいることを暗示しているのだ。そしてそのモデルを作中に描写するときにヨハンナは奇妙な、達者というよりはぎくしゃくした表現をして、そこが何かしらの味になっている、と思う。

man ihr das Äußerste in dieser Richtung hätte zutrauen können, wenn nicht die schelmischen Mundwinkel von unten herauf sich wie darüber moquirt hätten.

たとえばフローニの容貌を描写しているこのとても訳しにくい部分。特に moquiren という単語がわからんし(ラテン系の言葉をドイツ語の動詞化したものだが、調べてもわからん。しかたなく口がへの字に曲がってると訳した)、
das Äußerste in dieser Richtung
もよくわからん(目が賢そうなわりに鼻がとても純朴で、その印象がちぐはぐだ、ってことを言いたいらしいのはなんとなくわかる)。
あるいは

Drüben standen die dunkeln Felsenspitzen des Pilatusberges auf dem lichten Abendhimmel, und die Hügel umher lagen so lockend grün im Abendschein.

「ピラトゥス山の薄暗い断崖絶壁が明るい夕空の上に浮かび、夕焼けの中、心があこがれるような緑色の丘があたりに横たわっていた」などのような自然描写。so lockend grün は「心があこがれるような緑色」とでも訳すしかないではないか。

しかしながらヨハンナの作品にはとても退屈なものも混じっていて、そういうものにはたぶんそういう何か屈折した、「魔法をかけるような」描写が盛られてないのだろうと思う。


追記

 man ihr das Äußerste in dieser Richtung hätte zutrauen können, wenn nicht die schelmischen Mundwinkel von unten herauf sich wie darüber moquirt hätten. この moquiren とはなんですか。

moquiren(現代ドイツ語の綴りでは mokieren または moquieren)は、「〜を馬鹿にする」「〜をあざける」「冷やかして笑う」を意味するフランス語由来の動詞です。

通常は再帰動詞 sich über jemanden/etwas mokieren の形で使われ、「〜を冷やかす」「〜について皮肉を言う」という意味になります。

語源や本文でのニュアンスは以下の通りです。

  • 語源: フランス語の se moquer(嘲る、バカにする)がドイツ語に入ってきた外来語です。
  • 文中でのニュアンス: 文中の “wie darüber moquirt hätten” は、「まるでそれを(下から)あざ笑っているかのように」「冷やかしているかのように」という意味になります。

「(口元の)悪戯っぽい形が、上にある真面目さや厳格さを下からからかっているようだ」という、人物の表情を描写する場面で使われています。

das Äußerste in dieser Richtung もよくわかりません。

das Äußerste in dieser Richtung は、直訳すると「この方向における極限・一番極端なこと」という意味になり、文脈としては「その傾向における極度(最大級)の態度や状態」を指しています。

パーツごとに分解すると以下のようになります。

  • das Äußerste: 「極限」「極度」「最も遠いところ / 一番極端なこと」
  • in dieser Richtung: 「この方向に(おいて)」「その点に関して」

本文でのニュアンス

この一節の直前には、その人物が「ある特定の傾向や雰囲気(例えば、非常に厳格な様子、冷酷さ、真面目さなど)」を漂わせていることが描かれているはずです。

したがって、“man ihr das Äußerste in dieser Richtung hätte zutrauen können” は、

「その方向(=その雰囲気や傾向)において、彼女なら**そこまで極端なこと(一番厳しいこと/極度な態度)**でもやりかねない(と人に思わせるほどだった)」

という意味になります。

全体の流れとしては、「彼女の様子からは『そこまで極端なこともやり兼ねない』と思わせるほどの真面目さや激しさ(=das Äußerste in dieser Richtung)を感じさせたが、一方で口元の茶目っ気がそれを自らからかっているようでもあった」という、表情や性格の二面性を表しています。

Aus dem Leben と Verirrt und Gefunden と Ein Blatt auf Vrony’s Grab

[Aus dem Leben (Projekt Gutenberg)](http://gutenberg.spiegel.de/buch/aus-dem-leben-670/1) (1900)
はテキストデータ化されているのだが、元の書籍の写真(PDF版)は見つからない。

[Verirrt und Gefunden](http://www.e-rara.ch/sikjmc/id/5316201)
は初版は1872年だが、このPDF版は1882年の第2版。

[Ein Blatt auf Vrony’s Grab](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5287470)
は初版は1871年だが、このPDF版は1883年の第4版である。

細かく差分を見て行くとこの三つの版は少しずつ、微妙に異なっている。
それでどれが一番古い形なのか、
まあ普通に考えれば 1882版なのだろうが、1883版のほうが古いような気がする箇所もある。
1900版では明らかに標準ドイツ語への書き換えが行われている。
Fluth を Flut と綴ったり、thut を tut としたり。
treulich Hülfe を treuliche Hilfe としたりしている。
また zum ersten Mal を zum erstenmal としたり、
大文字や小文字を変えたり、
コンマやコロン、セミコロンの打ち方を細かく変えたりしている。
ただしこの辺りのことはヨハンナ自身ではなく編集や校正がやった可能性が高い。

1882版と1900版では

> Wir waren nahe Freunde.

となっているところが、1883版では

> Wir waren nahe befreuendet.

となっている。
どちらも「私たちは仲良くなった。」と訳せば良いわけだが。
また 1882、1883版では

> Warte nur, balde, balde /
Schläfst auch Du!

となっているところが 1900版では

> Warte nur, balde /
Ruhest du auch!

になっている。
1900 のほうはゲーテの詩のままであるが、
昔のは少し改変してある。
それをヨハンナは気にして、
後から[ゲーテのオリジナル](https://de.wikipedia.org/wiki/Wandrers_Nachtlied#Ein_Gleiches)
に戻しているらしいのである。
しかし子供の頃のフローニが口ずさんだ歌としては 1883 のままのほうがそれっぽくみえる。
実は私がこのゲーテのオリジナルを見つけたのはまったくの偶然だった。
たまたまゲーテの詩集を読んでておやっと思ったわけだが、それくらいこの詩は有名だということになる。

* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1883](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1883.txt)
* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1900](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1900.txt)

引用符は » と «、または › と ‹ に揃えてある。
実は原作は引用符がきちんと閉じてないところがあって、それは 1900版でも直ってない。
訳すときに割と困った。
仕方ないのでそこだけは私が直した。

クララ

びびりなのでときどきドイツ語原文を読み直したりしているのだが、

> »Ja,« erwiderte sie, »sehr lange und tief krank war ich an Leib und Seele.«

> 「ええ、」彼女は答えた、「とても長く深く、私は体も心も病んでいた。」

この部分、本の中では

> 「ええ、とても長い間、とても重い、体と心の病気を患ってた。」

と訳している。
会話中に erwiederte sie とか sagte sie(彼女は言った)のような短い言葉が挿入されることが非常に多いのだが、
これはヨハンナの癖というよりは、
ドイツ文にはよくあることのように思える。
現代日本文としてはやや違和感あるし、文脈上書かなくてもわかるので、全部省くことにした。
しかし、

> »Klara,« sagte ich nun, »hast Du die Krankheit durchmachen müssen, an der wir Marie damals so elend sahen?«

の nun ような語が付加されている場合には、省かずに

> 「クララ、」私はまた言った、「あなたはもしかしてマリーが苦しんでた頃からもう心身を病んでいたの?」

などと訳した。
ところでこのクララという女性なのだが、
もちろん「ハイディ」に出てくるクララとは名前が同じだけなのだが、
どうもヨハンナの友人というよりはヨハンナ自身がモデルなのだろうと、
私にはますます思えてきた。

数年間、心も体も病んでいて、音信不通で、しかもある詩人に失恋していた。
何千もの「知性の泉」の水を汲んで飲んでみたが、何の役にも立たなかった。
友人に聖書を薦められても納得がいかなかった。

ヨハンナが結婚してチューリヒで暮らしはじめ、
子供が生まれるまでの間、ヨハンナ自身がそういう状態だったのだろうと思えるのだ。
親しい女友達の「私」とは、
コンラート・フェルディナント・マイヤーの妹、ベッツィー・マイヤーであったかもしれない。
ベッツィーのほうがむしろ、ヨハンナよりは信心深かったかもしれない。


追記: 会話が続いたときどっちの発言かわかりにくくなってしまう場合には、むしろ積極的に入れたほうが良いのではないかと思えてきた。

『ハイディ』原作者に見るドイツ精神世界の深淵

「アルプスの少女ハイジ」の深層が垣間見えるファン必読の小説集

と書いてあるので(言っておくがこれは私の文章ではない。編集者が考えた煽り文句である)、何も知らないハイジファンがうっかり買ってしまうのではないかという不安が、どんどんつのっている。ふつうの「アルプスの少女ハイジ」ファンが読んだら激怒するんじゃなかろうか。しかし私は嘘は何も書いてない。私は(解説と前書き以外)単なる訳者であって、原著はまぎれもなく作者のヨハンナ・シュピリが書いている。

ちなみに私が当初予定していた副題は

『ハイディ』原作者に見るドイツ精神世界の深淵

というものだった。いかにも売れなさそうだ(笑)後書きの一部をここに自ら引用するくらいはかまわないだろう。

今回ヨハンナの作品を読んで、スイスの自然や風俗というよりも、ドイツの文学、特にゲーテの詩や、宗教詩についてずいぶんと学ばせてもらった。聖書についても改めて勉強させてもらった。ヨハンナの視点で、非常に効率良くドイツの古典文学を概観させてもらった。ヨハンナは私たちをドイツ文学の森の入り口まで招待してくれる。そこはかつてヨハンナが生まれながらに住んでいた場所だ。少なからぬ人が『ハイディ』をきっかけにその作家の世界をも知ろうと願う。そうしてさらにその森の奥へ足を踏み入れようとして、その深淵をのぞき見て、ぎょっとすくんでしまう。ヨハンナの童話以外の作品が未だに英訳すらされてないのはそのせいなのだろう。

こういう内容の本だという心づもりで読んでもらえば、びっくりすることはないと思う。


この、amazonに辛辣なレビューを書いた人のサイトを後になって発見した。というよりそのサイトは前から知っていたが、そのサイトを作っている人がレビューも書いたのだということが最近になって記事が追加されていたので判明したわけである。

フローニ他

知り合いに
『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』を読んでもらい、いろいろ感想を聞いたので書いてみる。

私はこの本ではできるだけふりがなをふらないつもりでいた。
というのは『定家』ではふりがなのおかげで校正でひどい目にあったからだ。
『定家』は illustrator で版組されていて、ふりがなもすべて手作業で(しかも書き終えた後で追加で)ふってたので間違いが半端なかった。
『シュピリ』は in Design で組み版されているのでそういう間違いはまったくなかったのだが。

また、もともと原作が若者向けのわかりやすい話であったはずだから、わざわざルビをふらなきゃならないような難しい単語や言い回しは(少なくとも本文中は)使わないようにしようと思った(しかし童話のような文体にする気はなかった)。

難しくて読めない単語があったというから聞いてみるとそれは「敬虔」だった。
なるほどこれは確かに子供には読めない。
調べて見るともとの単語は fromm であったり religiös であったりする。
「信心深い」とか「信仰心の厚い」などと訳するべきだったかもしれない。
ただ「敬虔」のほうがドイツの敬虔主義的なキリスト教の信仰を表すにはふさわしい気もする。

いずれにしても、『定家』では最初の数ページでギブアップした人も、今回「シュピリ」は、本文は最後まで読めてくれたようで、多少堅苦しい言い回しはあったようだが、誰でも読める本になってると思う。
普通の翻訳ものに比べて解説が異様に長くてこ難しいのは訳者の趣味なので勘弁してもらいたい。
ドイツ語の引用が多いのはドイツ語をひけらかしたいとか厳密を期したというより、むしろ訳者が自分の訳に自信がないからだ。
私にしてみれば、ゲーテの詩集が原文の引用なしであんなに出ていることの方が不思議だ。
小説ならそんな必要はないかもしれんが。
確かに私もドイツ語なら原文が多少気になるが、アラブ語やロシア語の原文をいちいち引用されては迷惑な気もする。
普通翻訳というのはそんなものだろう。

「フローニの墓に一言」をkindleで出版したのは2014年1月のことだった。
ここでは、ハインリヒ・ロイトホルトがアルムおじさんのモデルである、などと書いているがこれは間違いだ。
「若い頃」に出てくるヨハネスがハインリヒ・ロイトホルトをモデルにしたものであるとすれば、ロイトホルトは「怖い大工」ではなく、少年の頃からふにゃっとした詩人タイプであったはずだ。

「ハイディ」は処女作「フローニ」を土台として構築されたメルヒェンであると考えてほぼ間違いなかろうと私は今も考えている。その考えは2014年以降、他の初期作品も訳し終えてみて変わってない。
「ハイディ」はヨハンナの他の子供向け作品と比べると宗教色が濃厚である。
初期作品よりはずっと薄められているが、例えば1878年に出た Am Silser- und am Gardasee 《小さなバイオリンひき》(ジルス湖とガルダ湖のほとりで)、Wie Wiseli’s Weg gefunden wird 《ヴィーゼリの幸福》(ヴィーゼリの道はどうやって見つかるか)などの作品が完全な童話として構成されている(ただし主人公は片親だったり孤児だったり、家が貧乏だったりして不幸な子供のことが多い)のに対して、ハイディには暗い死の影が落ちている。
それはやはり、生涯童話作家になりきれなかったヨハンナが、フローニを下敷きにハイディを書いたからだと思われるのだ。
「ハイディ」を書いた動機は、ハイディという少女を描きたかったというよりも、フローニを不幸に死なせてしまったアルムおじさんの魂を救済するため、またフローニという不幸な娘の霊を慰めるために、ハイディという、ある意味聖なる少女をアルムおじさんのもとに遣わしたいという衝動であったのに違いない(というより、書いているうちどうしてもそっちのほうに話がひっぱられていった)。
つまりフローニの夫を悔い改めさせることによってフローニの物語を完結させたかったのだと思えるのである。ここでハイディは牧師役でもあるし、天使役でもある。
フローニを弔うという意味でやはりハイディはフローニの続編とみなしてよいと思うのだ。
ヨハンナは単に宗教的な作品を書きたかったのではない。おそらくは実在のモデルに基づくフローニという人を哀れんだゆえに宗教的になってしまった。
しかしフローニの話から書き始めるともう話が複雑でかつ暗くなってしまって児童文学にはならない。ハイディを児童文学として書きたかったヨハンナは、その代わりに、ハイディの母アーデルハイトや父トビアス、そしてアルムおじさんについてのなにやら思わせぶりな噂話をデーテに語らせている。
そして読む人が読めばわかるような仕掛けがしてあるのではなかろうか。
ハイディの続編、クララが山に来て立つという部分は明らかに当初の執筆動機から逸脱している。しかしながらクララが立たないことにはハイディは成り立たないことになってしまった。
ハイディが世界に通じる一個の仮想物語(メルヒェン)になり得たのは、そうしたいという出版社の意図と助言があったからだろう。ヨハンナ自身の意志もあったかもしれないが。

「フローニ」を読まねば「ハイディ」はわからんよということに多くの人がだんだんに気付くに違いない。

「彼らの誰も忘れない」に出てくるロベルトとザラの関係は、アルムおじさんとハイディの関係に近いかもしれない。

ある人は頭からどんどん読んでしまったが、またある人は、時代背景が難しくてなかなか読めないといって進まない、らしい。
確かに、たとえばグリム童話で、継母に森に捨てられた兄妹が魔女に騙されるという話、これなどは時代背景などいらない。
そういう(現実世界とは切り離された架空の)世界観の中にさっくりと読者を連れ込めれば良い。
アニメの「ハイジ」もまた同様な手法を採っている。
19世紀末のスイスの時代背景やドイツ文芸事情なんてものをいちいちアニメを見る子供にわからせてはいられない。
ヨハンナはゲーテファンだったからゲーテの話から始めます、という悠長なことは言ってられない。

ズイヨーはハリウッドやディズニーの手法を取り入れたのだと私は思う。
アメリカは歴史が短く文化が貧困な国だから、ヨーロッパから盛んに原作を輸入して、アメリカンにアレンジして、実写化し、アニメ化した。
ヨーロッパの歴史的伝統的でドリーミーな要素をよりこってりと濃縮し、一方ヨーロッパ固有の暗くて重い宗教観をそぎ落とすという脚色手法を取り入れた。
キリスト教を絡めるとイスラム諸国に売れなくなるなどとズイヨーの会長は言っているようだが
高橋茂人,日本におけるテレビCMとTVアニメの草創期を語る(TCJからズイヨーへの歴史)、

> イデオロギーは,みなそれぞれ違う。それを出すべきではないと思う。「ハイジ」には深層に流れているものがある。それはキリスト教思想なんだ。しかしそれを正面きっては出せない。世界に広く作品を売ろうとするなら,キリスト教のほかイスラム教の国もあり,例えば中近東では売れなくなってしまう。

高橋茂人が当初からそこまでワールドワイドにアニメを売ろうとしていたとは考えにくい。
ヨーロッパの市場はそれなりに大きいから、ヨーロッパ人に受けるようにキリスト教的な要素を盛り込もう、という戦略もあり得たはずだ。

ハイディをヨハンナの作品群の中の一つに戻す。
ヨハンナを当時のドイツ文学界の中の作者の一人に戻す。
そして当時のスイス、ドイツ文芸界、ドイツ語圏の社会情勢の中で、では、ヨハンナとは、ハイディとは何だったのかということを示してみせたことになっただろうか。
いろんな本を効率良く読もうという忙しい人は、本をいちいち頭から読んだりしない。
その概略だけさらっと知りたいと思うだろう。
解説から読み始めるかもしれない。
ところがそういう読み方をする人にはこの本は時代背景が難しすぎてなかなか読めない、ということになる。そりゃそうかもしれない。
私もそんなに簡単に読める本を書いたつもりはない。
しかしできるだけいろんな人に読んでもらいたい。
だからこんな本になった。

ロッテンマイヤーはスイスの少女に聖なる幻想を持つ人だった。
一方デーテやハイディは生の、野生のスイス娘だった。
デーテ対ロッテンマイヤー、あるいはハイディ対ロッテンマイヤーのやりとりは、もしかするとヨハンナと編集者の間のものであったかもしれない。
つまりロッテンマイヤーみたいな潔癖でかつスイスに幻想を抱いているドイツ女がいて、編集者として、もっとこんな風なストーリーにしましょうよ、などとヨハンナに提言する。
ヨハンナはそれに対して半信半疑に従ったり抵抗したりする。
もしかすると、ヨハンナの多くのかなり退屈な童話群というのは、Gotha Friedrich Andreas Perthes にいたロッテンマイヤー女史みたいな人の要望に沿ったもので、ハイディはそんな編集者への反発を反映したものかもしれない。
などと空想するのは楽しい。

短篇小説講義

筒井康隆の『短篇小説講義』だが、私が最近読んだ「小説の書き方」の本の中では一番わかりやすくて面白かった。小説の新人賞というのは最近ではみなだいたい短篇であって、
それはつまり応募者がたくさんいるから、あんまり長いの書いてこられたら迷惑だというのもあるのだろう。作家としての才能の有無を見るだけならば名刺代わりの短篇でも良いではないかということじゃないか。

文学部唯野教授も短篇を書いている。それと平行してこの『短篇小説講義』を筒井康隆は書いたわけだ。『文学部唯野教授』は岩波書店だし、『短篇小説講義』は岩波新書だし、
『短篇小説講義』に出てくる短篇のサンプルはみな岩波文庫だ。そして筒井康隆が『短篇小説講義』を書いた直接のきっかけは岩波新書の『短篇小説礼讃』(阿部昭 1986)を読み、自らも短編小説についてエッセイを書いたからだという。

筒井康隆はいろんな批評家からの批評やら、直木賞を逃したことやらに腹を立てて『大いなる助走』(1979)を書いて『文学部唯野教授』はその続編みたいなもんだ。そして自分でも文芸論や文芸批評論を書いてみたくなった、のだと思う。

でまあ、私はあまり小説を読まない人で(笑)、日本文学もだが欧米文学は特に読まないので、チェーホフとかトーマスマンとかゴーリキーとかの簡潔な紹介をしてもらったのはありがたかったし、ディケンズ、ホフマン、ビアスはなかなか興味深く読んだ。でまあいろんな古典的サンプルを紹介してその結論というのは、良い小説とはまだ手垢の付いてないアイディアとか文体で書かれたものだというものであって、そりゃそうなんだろうが、
たぶん新人賞を取るのにはあんまり役に立たない話だわな。新人賞なんてものはとびきり有能で上質なライターの素質がある人、つまり作家としての商品価値のある人が取るもんじゃないのか。或いはなんらかの話題性(タレント性)がある人とか。ほんとに novel なものを書く人(そういう人は往々にして商業的に成功するとは限らない)にほんとに出版社が新人賞を与えるなんて私には信じられない。