絵で見る幕末日本

エメェ・アンベール著、高橋邦太郎訳「絵で見る幕末日本」「続・絵で見る幕末日本」など読む。鶴岡八幡宮の描写など面白い。あと日枝山王社や神田明神の祭りなど。今よりかなりどぎつかったようだ。

この、名前から察するに、フランス語系のスイス人の物の見方は現代人とほとんど何も変わらないように思える。

しかしまあ、

われわれは、彼に対して、もし彼が、われわれのために、閉塞されている建物の中に入れるよう取りはからった場合には、その奉仕に対しての代償を提供するであろうということを説明した。

みたいな言い回しはどうにかならなかったのかな。
CNN の同時通訳じゃないんだから。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。

熊手

源氏前記平氏の平治の乱の辺りを読んでいた。「平将軍再生すと謂ふべし」というくだりがある。ここの「再生」も「死んだ人がよみがえる」という意味だな。また八町二郎という者が「鉄搭を以て」平頼盛のかぶとを「鉤す」とあるがこの搭もやはり「熊手」なのだろう。wikipedia にも「熊手」の中に「武器としての熊手」という項目があるが、どうやら長い柄がついた鉤鉾のようなもの、あるいは今でも漁港や釣りで使われる打ち鉤のようなものだったのではないかと推測されるのだが、よくわからんな。水上の戦闘では敵の船に打ち付けて引き寄せるのに使ったそうだから、必需品だったようだ。「熊手」というのは軍記物にそのままそう書いてあるのだろう。実際熊の手に似せて作ったのかもしれん。

しかし我ながらこんなにボロボロになるまでよく読むなと思う。この岩波文庫の日本外史など絶版なので、無くすと古本をamazonかなんかで買うしかなく、たいへん困る。

曽我兄弟

日本外史を読んでいて、やはり、予備知識がないとわからんところはどうしてもわからん。例えば曽我兄弟のことを「二孤」などと書いてあるのだが、曽我兄弟を知らない人が、ここの漢文だけを読んで、何を言おうとしているのかわかるだろうか。どうひねくり返してもわからんときには、頼山陽が参照した原典を読んでしまった方がずっとわかりやすい。

たとえば腰越状などにしても、「先人の再生にあらざるよりは、誰か為に分疏せん」などと書いてあるがちんぷんかんぷんだ。これは「亡き父・義朝がよみがえるようなことでもなければ誰が私のために申し開きをしてくれるだろうか」という意味だ。がんばって解読するよりはさっさと古典を読んだ方がまし。

「疏」というのもわかりにくい漢字だが、箇条書きのようなものを言うらしい。「分疏」では細かく説明する、弁解するの意味になり、「疏状」は告発書、訴状のようなものを意味するらしい。わからんよなあ。

壇ノ浦の戦いで「鉤」または「搭」などの語が出てくるが、これらはいずれも「鉄の熊手」のことで、「鉤」はまあ鉄のかぎ爪だとわからんでもないが、「搭」に至っては、たぶん漢和辞典でなく中国語辞典でも引かないとこれが「熊手」であることはわからんのだな。

「法皇弗予」なども「弗予」が謎である。読み仮名の「ふよ」と、文脈的に「不予」(天皇の病気)だろうと推測できるが、そもそも不予という言葉を知らなければ予測もつかない。

で、結局、日本外史を読むということはその出典もすべて読まないと完璧とは言えない、ということだろう。幕末維新の武士たちが日本外史を読んで勉強したというがどの程度彼らは読めていたのだろうか。たぶん、日本外史以外の書籍が相当にちんぷんかんぷんで、日本外史はそれらよりはましという状況だったのではないか。まあ、今の教育が進んだ情報化社会と比較しても仕方ないわけだが。

google日本語入力だが、固有名詞には非常に強い。マイナーな登場人物の名前もばんばん変換できる。しかし、当然変換できるはずの単語がうまく変換できなかったり(たとえば「頼家」とか)。atokの手書き文字入力も捨てがたい。なんで結局atokとgoogleを切り替えながら書いている。

平維盛

すげえ面白い人だな。

たぶんこの人は、長男ではあったが嫡嗣ではなかったのだろう。平氏は清盛の代で初めて摂関家よりも朝廷で権力を握ったが、長年の姻戚関係で藤原氏と天皇家は親戚同然。平氏も嫡男は後見役として藤原氏と婚姻関係を持たないと、何かと形見が狭かったろう。維盛は平氏の中でも都でもかなり浮いた存在だったのではないか。

富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いでは総大将ということになっている。富士川の戦いほどよくわからん戦いもないだろう。一応平氏の長男として維盛が総大将だが、目付役として藤原忠清が付いている。まあ二人とも公家だわな。物見遊山気分で遊女など連れて繰り出したんだろうな。まあ負けそうだよな。倶利伽羅峠に至っては野人のごとき木曽源氏の本拠地で公家が戦ってはまあ負けるわな。

平家都落ちの際には妻子を都に残し、一の谷の合戦の頃に敵前逃亡。自殺したことになっているが果たしてどうか。ま、ともかく、平氏の一門として闘争心があったかどうかはかなり疑わしい。運命共同体的なものは、感じてなかったに違いない。

ある意味ダメ平氏の象徴みたいな人ではある。

維盛の子どもが六代で、清盛の血筋では最後まで生き残ったが、結局殺されてしまう。平家物語では重盛-維盛-六代の血筋がかなりひいきされているようにも見える。

燃えよ剣下巻

本棚を整理していたら燃えよ剣の下巻が出てきたので読み始めた。もともと私の本ではなく死んだ祖父の本を拝借したもの。うーん、なんちゅうか、七里研之助を倒し、伊東甲子太郎を暗殺したところまでは、面白かったんだが、その後は史実をなぞるだけな感じでどうでしょう、という。

うすうす感づいてはいたがやはり七里研之助は架空の人物だったのだな。こちらはまあ良く書けてるとして、妻として出てくるお雪とのあれこれというのは、もうはっきり言って邪魔。下巻読む気を失わせる一番大きい原因かも。

やはり、鳥羽伏見の戦い辺りからもう新撰組がどうこうという話ではなくなってしまうので、小説としては書きにくかったのではないかなとか。

後書きが陳舜臣で割と面白い。司馬遼太郎がこれを執筆したのが昭和三十年代後半というのだから、ちょっと驚く。当時三十才後半くらい。まだ私は生まれてない。そのころは調布も府中も八王子もあの辺一帯まだまだ田舎で桑畑だらけだっただろう。ちょうど、今で言う所沢あたりのように、冬は畑から土埃がもうもうと舞ったのだろう。初夏には竹のささらで地面を叩きながらマムシを避けないと歩けなかったのだろう。気性も荒く、殺伐としていて、子供の喧嘩も酷かったのだろう。という多摩の風土を書いたものとして読めば面白いのだが、維新後に北海道に渡って独立国家を作ろうなどというのはどうも私にはただの茶番に思えて仕方ない。結果論というやつかもしれんが。

内村鑑三「代表的日本人」の「上杉鷹山」のところを読む。山形県的には偉人、というか昔の日本人的には偉人なのか。江戸中期くらいに藩の財政改革として荒れ地に桑を植え始めたのかな。

マルコ福音書

マルコ福音書は最初に13章までが書かれたのだという。つまり受難の前まで。さらに受難の章14,15が書かれた。復活について書かれた16章目は、もともとマルコには含まれていなかったという。

ということはだ、マルコの最初の形は、冒頭ヨハネの話がちょっと出てくるが、いきなりイエスのガリラヤ布教の話に移る。そしてほとんどがガリラヤでの布教活動の記述の列挙で終わる、ということだ。つまり、マルコ福音書というのはもともとは「イエスのガリラヤ布教伝」 というものだったらしいのだ。

「イエスのガリラヤ布教伝」というテクストがまずあって、これに若干加筆してマルコとなり、また「ガリラヤ布教伝」または「マルコ」を参考にして「マタイ」と「ルカ」が出来た、ということらしい。

「マタイ」が現在の新約聖書の冒頭に配置されているのは、「マタイ」がダビデからイエスまでの系譜やら、イエスの誕生などを時系列で丁寧にまとめているからだろう。

司馬遼太郎3

つまり、司馬遼太郎は、義経は書いているが、鎌倉幕府とか北条氏の時代から何も書いてない。太平記の時代になり義満の時までない。

つまり、源頼朝から足利義満までの間のことは小説に書いてない。

なるほど、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康は武士であろう。薩摩や長州も武士だし、新撰組も武士だろう。明治の軍人たちは武士の子孫に違いない。

だが、執権北条氏も、足利氏、新田氏、楠木氏らもまた武士であろう。南北朝や応仁の乱のごたごたもまた武士であろう。それらを全部ひっくるめて武士なのである。しかし、司馬遼太郎は、吉川英治「私本太平記」を例に挙げて、吉川ですら残念ながら水戸史観を頼りにこの時代を見ている、などと批判している。水戸史観を通してみれば悲壮美にみちたきらびやかな時代だが、それを取り払えばただのごたごたでなんでもない時代だ、と言っている。なるほど、なんでもない時代ならなんでもない時代として淡々と描写すれば良いのではないか。あるいはそれこそ水戸史観を司馬史観とやらで置き換えれば良いではないか。まあ、新田次郎などはそれをやろうとして、派手に失敗しているし、吉川英治も中途半端にやろうとして適当にごまかしているがな。歴史家か歴史小説家が、ある特定の時代を取り出して、なんでもない時代、なにもなかった時代などというのは怠慢に過ぎない。 プロじゃない。そもそもなにもない時代なんてものがあるはずがない。逆に、なにもかもおもしろかった時代というのも幻想に過ぎない。

南北朝時代と応仁の乱の時代は、時期的にも近接していて、非常に良く似たものだっただろう。どちらも、ほんとうの歴史というものは、ごたごたしただけのものだ。司馬史観というが、幕末や安土桃山時代ばかりとりあげて、武士の、日本史の暗黒の歴史、つまらなく、ごたごたどろどろした部分はほったらかして、それじゃただミーハーなだけではないか。頼山陽の立場で考えれば、彼はまあ彼の生きた時代なりに、日本の通史を書こうとして、武士の良いところも悪いところも全部彼なりに最初から最後まで書いてみた。さらに日本政記やら日本楽府も書いた。そして彼は彼なりに、日本に武士がおこった所以を説明してみた。藤原氏による国家の私物化、武家による簒奪(或いは王家の傀儡化)、さらに北条氏という、天皇家でも貴族でもない階級による一時的な「善政」と崩壊。長引く混乱の中で荘園制から守護大名、戦国大名への変遷。そして封建制の完成。すべては連続的にかつ必然的に起こってきたこと。だが、司馬遼太郎は日本の歴史をつまみ食いしただけだ。彼が、宋学とか、水戸史観とか、そういうものを嫌っていたのはわからんでもないが、
それもまた武士の思想なのであり、それをどうにかこうにか自分なりに消化しなくては武士を描写することなどできまい。

思うに、太平記がただのつまらない歴史だと言うのであれば、史記に描かれた項羽と劉邦の話だって、脚色を取り払えば、ほんとうの歴史はごくつまらないものだっただろう。安土桃山にしろ幕末にしろ、史実が明らかになればなるほど、ふつうのごくつまらない事実の積み重ねに還元されるだけだろう。そんなことは当たり前のことなんじゃないのか。歴史小説を書くには何かの脚色が必要で、だから司馬史観などと言われるのではないのか。

司馬遼太郎2

司馬遼太郎は案外著作は少ない。長編が多いせいかもしれない。
歴史小説で時代が古い順に並べてみる。

#### 秦漢

項羽と劉邦

#### 平安初期

空海の風景

#### 平安後期

義経

#### 室町

妖怪

#### 戦国初期

箱根の坂

#### 安土桃山

梟の城、夏草の賦、新史太閤記、尻啖え孫市、功名が辻、城をとる話、国盗り物語、
戦雲の夢、風神の門、播磨灘物語、城塞、関ヶ原

#### 明末清初

韃靼疾風録

#### 戦国・江戸初期

覇王の家、宮本武蔵

#### 江戸初期

大盗禅師

#### 江戸中期

菜の花の沖

#### 幕末

上方武士道、風の武士、龍馬が行く、燃えよ険、北斗の人、俄 浪華遊侠伝、十一番目の志士、
胡蝶の夢

#### 幕末・維新

最後の将軍 徳川慶喜、峠、歳月、世に棲む日日、花神、

#### 維新

翔ぶが如く

#### 明治

坂の上の雲、ひとびとの跫音、殉死

司馬遼太郎

「燃えよ剣」を読むまで、まったく気がつかなかったのだが、結構重大なことのようなので調べてみる。

「燃えよ剣」の中で司馬遼太郎は、近藤勇が日本外史の愛読者であり、 また頼山陽にまねた書を書くなどと書いている。近藤勇は当時の平凡な田舎武士、あるいは町道場主として描かれており、その趣味が頼山陽なのであり、それ以上のことは書いてない。

また、「項羽と劉邦」の後書きで、頼山陽と日本外史について次のように触れているそうである。

日本人が中国大陸から漢字・漢籍を導人するのははるかなのちのことになる。以後、日本社会はその歴史を記録として織りあげてゆくのだが、人間のさまざまな典型については自分の社会の実例よりも、漢籍に書かれた古代中国社会に登場する典型群を借用するのがつねであった。このことは、ひとつには江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽が出て『日本外史』を書くまで自国の通史が書かれなかったことにもよる。中国文明の周辺の文化というのは自国を鄙であるとするらしく――朝鮮やヴェトナムも同じだと思うが――通史が成立しにくい。たとえ成立しても、人間についての彫琢にとぼしい。『日本外史』にもそのきらいがあるが、それは山陽の罪ではなく、多くは日本社会の性格によるといえるであろう。中国社会の場合、すでにのべたように田園にみずからを飼い養っていたひとびとがに挙に柵を脱し、山野へ奔りだすということがあるために、そこに浮沈する人間たちは、浮沈の力学として彫琢が深刻にならざるをえない。典型ができやすいということがあり、とくに戦国から秦末の争乱にかけてはそうであった。まだその典型たちの塚が古びていない時期に、記録者の司馬遷があらわれている。かれは宋代以後の学者よりもはるかにこんにち的な感覚をもち、二十世紀に突如出てきても違和感なく暮らせるほどに物や人の姿を平明に見ることができた。

日本外史が日本初の通史であろうか。水戸藩の大日本史は確かに日本外史よりも完成は遅れたが、それよりも先に編纂が始まっていた。北畠親房の神皇正統記は、日本の通史とはいえまいか。ほかにも日本外史に先立つ日本通史に近い著作はあるだろう。また、日本書紀は明らかに当時としての通史であっただろう。それらについて、司馬遼太郎ともあろう人があまりにも無関心すぎないだろうか。

また、日本外史が、史記と比べて、「人間についての彫琢にとぼしい」と言っているのはどうにもわからない。史記は司馬遷が書いたというよりは、地方に伝わった伝承を蒐集したものであろう。民間伝承とはつまり平家物語や義経記、あるいは太平記などの軍記物語に近いものだったろう。それらをつなぎ合わせて史記ができている。それを後世の宋代の学者と比べて「はるかにこんにち的な感覚をもち」などと評するのはあまりにもとんちんかんではないか。

司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その1、司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その2。なるほど、これは詳しい。よく読んでから、また書いてみる。