結婚式

シャイニングを、原文と和訳を見比べながら読んでいるのだが、なかなか面白い。これによると、キリスト教徒の伝統的な結婚式では、神父(牧師)が新婦の父親に

Who giveth this woman?

と尋ねて、それに

I do.

と答えるらしいんだが、つまりこれは女は父の持ち物から夫の持ち物となるという、完全な家父長制の、というかゲルマン法に基づく儀式であって、「バージンロード」というからには処女の娘を夫となる男のところへ連れて行くのは父でなくてはならず、従って新婦の母親はいなくてもよいし、新郎の父もいなくてよいことになる。

この箇所、和訳では「この男にめあわすために、この女を渡すのは誰か?」「われこれを行なう」となっていてしかも傍点までふってある。日本でも昔は教会でこういうふうなセリフを使ったのかもしれない。そのまま訳しちゃわけわかんないから略さずに言うセリフを探し、さらにそれを古風な和訳に置き換えたのだろう。翻訳者の苦労がわかるね。

鬼平犯科帳24巻読了

とうとう鬼平犯科帳を全部読み終えたので何か感想を書こうと思うが、これがまたけっこう難しい。

第23巻から「荒神のお夏」という同性愛の盗賊の頭が出てきて、それまでの路線からちょっとはみ出していて、あれっと思った。マンネリ気味になったので新しいキャラを入れて無理矢理新しい展開を作り出そうとしているようにもみえた。

お夏は火付盗賊改の密偵となっているおまさを気に入り、おまさもお夏の妖しい魅力に抗しきれてない。おまさらの活躍でお夏一味の押し込みは失敗するが、お夏だけはなぜか逃げ延びる。

おまさはお夏がおまさを殺しに来るのだろうと思っているが、お夏はおまさが密偵であることに気づいておらず、ただおまさを見つけ出して一緒に暮らしたいと考えている。お夏はおまさを連れてくるよう、知り合いの盗賊、三河の定右衛門なる者に依頼するが、彼の一味の中にはおまさが密偵であることに気づいている者がいて、おまさをお夏の所へ連れて行く前に始末しようと考えている。

ここで定右衛門一味は神谷勝平という浪人を雇っておまさを誘拐するが、神谷はおまさやお夏に同情的で、おまさの危難を救ってやろうと考えている。

という辺りまできて作者死去のため、この「誘拐」という長編は中断している。

この続きがどうなるかというと大筋としては定右衛門一味は例によって火付盗賊改によって捕らえられおまさは救い出される、ということになろう。ただこの、荒神のお夏なるキャラはこの鬼平犯科帳では明らかに浮いていて、いかにも唐突に出てきた感じで、このキャラをいまさら池波正太郎が縦横に使いこなすとは、ちょっと考えにくいのだが、もしこの話をもっと引っ張るつもりならば、おまさがお夏に連れ去られて二人とも姿をくらますとか、そういうオチにして続編につなげるなどするかもしれない。お夏とおまさは二人組の女盗賊となって京都辺りを荒らし回り長谷川平蔵が京都に乗り込んでなんとかかんとか。

でも鬼平犯科帳はおそらく長谷川平蔵がなんかとんでもないことをやらかして罷免になるところで終わるだろうから、なんかメインのキャラが何人か死んで(おまさとか木村忠吾とかお熊とか?)それで引責辞任ってあたりがおとしどころではあるまいか。

こうしてちょっと書いてみて気づいたが、この鬼平犯科帳について何か書こうとするとまずそのあらすじを紹介するだけで一苦労で、これに自分なりの解釈を加えてみるというのはそんなに簡単なことではない。ざっとネットを検索してみても、そんなややこしいことをやっている人はほとんどいないようだ。鬼平犯科帳はテレビドラマにもなり漫画にもなり、役者や漫画家も複数いて、原作は一応あるにはあるんだけど、原作をじっくり分析しようという人はいないように思う。

私は自分でも小説を書くので、原作からどのように映像化されるのか、そのときどんなふうに脚色されるのかってことに非常に興味がある。それでドラマも漫画もそれなりに見てみたんだが、やはり原作が一番面白い、良い原作を書く以上に面白いことはないと思うのは、私がやはり小説を自分で書く人間だからかもしれない。

世界最強バルチック艦隊

笑。

日本国紀

松平定信や白河天皇に対する評価なんて、ほんとに一番ダメな部分の水戸学の影響を受けた、ほんとに駄目な薩長の史学を受け継いでる。だからネトウヨはダメなんだよ。ホンモノの勤王、ホンモノの水戸学を知らない。本当の歴史を知らない。ごく大雑把に言えば司馬遼太郎程度の史観しかない。

徳川幕府が260年続いたのはともかくもうまく治めたからだよ。足利幕府や鎌倉幕府と比べてみれば一目瞭然。明治維新からまだ160年。あと100年もたなきゃ薩長は徳川には勝てないよ。

特に、松平定信は名宰相と言って良い。彼がいなければ徳川幕府はもう少し短命だったかもしれんね。家継の後、吉宗が将軍になってちょっとましになり、孫の定信が出たから100年くらいは寿命が延びたんじゃないか。大政委任論は定信が完成させたんだがそれは彼が尊皇だったからだよ。宣長の思想をちゃんと理解できてたからだよ。宗教音痴の家康からはそんな発想は全く出てこなかったと思う。薩長に比べれば徳川宗家はずっと勤王、尊皇だよ。ひどいもんだよ明治政府が作った皇室典範なんてさ。開国して富国強兵が国是だったからある程度仕方ないとしてもだよ。

家康は浄土宗から天台宗に改宗したり、天海とか林羅山とかわけのわからない坊主を側近にした新興宗教狂い、宗教音痴で、日本人を宗教でがんじがらめにしようとした。そのうえ健康オタクでどうしようもないヤツだった。その成れの果てが林家であり湯島聖堂だったわけ。朱子学とは似ても似つかぬ邪教になってた。家康のせいで日本人はますます宗教音痴をこじらせた。定信はこりゃいかんと思ってそこをちょっと改めただけだよ。普化宗とか虚無僧とかアホみたいな宗教流行らせたのも家康だよ。

日本国紀

そうそう。為永春水の小説なんか読むと書いてあるんだがなあ。

日本国紀

ポツダム宣言を受諾したのも、ひとえに当時の大日本帝国政府の大臣らが無知だったせいなんだろうなあ。

三国干渉を飲んだのも当時の明治政府が無知だったからなんだろうな。

日本国紀

今更ブログでいろいろ書きたいことがあるわけでなく、また、酔った勢いでツイッターであれこれ書くのももうやめようと思っているのだが、本は売りたいと思っている。だから本の宣伝になるようなことはしたいと思っている。あと、ツイッターで書き散らしたことも、ある程度こちらでまとめ読みできるようにしておこうという気持ちがある。

『日本国紀』の初版が出たときは、私も買ってみて読んで、Shin Hori氏や、桜ういろう氏、事務カリー氏らと競っていろいろアラを探したりしたのは楽しい思い出だ。私は単なるうっかりミスとか、Wikipediaの引用なんかにはさほど興味はなかったのだ。誰だって本を書けば間違いの一つや二つはあるよ。それは改訂版出すときに直せば良い。著者の芸風というか、ビジネスモデルに文句言っても仕方ないしそういう辺りにのめり込む趣味は無い(ってあたりがワイが左翼とは違うところか)。

問題はその間違い方にあるわけで、間違う背景に、非常にいびつな、偏った、よく調べもせずに決めつけたような歴史観があるのが気に障ったわけだ。たとえばヨーロッパ諸国はみな君主国というのはおかしいわけで、古代には共和制アテナイや共和制ローマなどがあったわけだし、中世、近世、近代にも共和国はあった。「重箱の隅」の「驚くほど小さなミス」というより、歴史事実から知見を得ようとせず、逆に自分の主義主張趣味を歴史に当てはめようとする態度が気に入らなかったわけでしょ。

確かにこういう重箱の隅突きなども面白がってやったわけだが、これなども、大学生が適当にレポート書くというのとは訳が違う、物書きとして、本を出版する人間がこういう孫引きをしてはならんというところに憤っているわけですよ。参考文献があるなら書くべきだし、単なる歴史読み物だから参考文献は付けないというならそう断るべきだし、「本当の歴史」などと謳うべきじゃないだろってことを、多くの物書きや研究者が指摘しているのに、それに気づかないふりをしている。本物の歴史なんて言われちゃこちらも反論せざるを得んだろ。「葬り去ろう」というより、自分らのいる領分から「排除」したい、区別したいという気持ちはある。ああいう本が世の中の一部の人たちでちやほやされるのはもう仕方ないと諦めている。

事件物の雑味

鬼平犯科帳全24巻中第21巻辺りまで読んだのだが、だんだんに雑味が増えてきたように思える。コロンボ全69話を3分の2くらいまで見たときにも同じような気持ちになった。最初の頃は、話も面白く、濃くて、殺人事件とか強盗というネタを扱っていながら、時にユーモアも交えてあり、爽快感もある。しかしだんだんと話がドロドロと陰鬱になってきて、リアリティはあるんだろうが、読んでて気持ち悪くなってくる。犯罪なんだから気持ち悪いのは当たり前で、それを敢えてエンターテインメントに仕立ててあるのだが、つい生のどろどろした部分が、濾過されないままに出てくるという感じか。惣菜の刺身を買ってくれば良いのに、サクを買ってきて自分で切ってみると中に寄生虫がいて食欲を失うような感じと言えば良いか。ウィキペディアなんかも、普通に読んでる分には良いが、底の底までデータをさらって分析しようとすると、気持ち悪い、読まなきゃよかったようなことまで読まされてしまう。

シリーズものとはそうしたものなのかもしれないが、原作者や演出家も、やりたいことはもう大抵やり尽くしてしまって、無理に新作を作ろうという気は失ってしまって、しかし続きを出せばそこそこ売れるとわかっていれば、周りから言われてどうしても続けなくてはならない。あまり使いたくない、一度ボツにしたネタなども使ったりするのだろうか。

鬼平犯科帳再論

ここの記事を整理していて昔自分で鬼平犯科帳について書いたものを見つけたのだが、今とはかなり認識が違っていて驚く。
当時私はまず、さだまさしが出ていたテレビドラマの鬼平犯科帳を見て、次に、私が通院している病院の待合室に置いてあったさいとうたかをの鬼平犯科帳シリーズを読み始めた頃だ。それから刑事コロンボBlu-rayボックスも平行して見つつ、原作全24巻の鬼平犯科帳も読み始めた。

さだまさしが出たのは中村吉右衛門が鬼平を演じる、犯科帳テレビドラマシリーズの最後、2016年のものだ。1969年から2016年まで、50年近くかけて、主演もさまざまに変わりながら、原作をテレビドラマとして骨肉化した最終形態だったと言える。
その後もしばしば他のドラマ版鬼平をみたが、それらは決して原作をそのまま忠実にドラマ化しているのではなく、配役を増やしたり減らしたり変えたり、原作のいくつかのネタを合わせて一本にしていたり、くノ一みたいな女盗賊を加えたりして、かなり脚色している。
原作はほぼ時系列につながった長大なストーリーであって、これをドラマにぶつ切りにしては、見る人は到底理解することはできないだろう。

原作者の池波正太郎はぎりぎり大正時代に生まれ、前近代的雰囲気を残す江戸をある程度まで実体験し得た人だ。だからこそ町の雰囲気や、情景描写や、あと盗賊のあだ名の付け方などに非常にリアリティがある。今の人がどんなに想像を膨らませてもあんな盗賊の名前は思いつかないだろう。
テレビドラマではそこらのディテイルがかなり削られ、現代風に相当様式化されていて、リアリズムを失っている。1950年代に作られた時代劇が今の時代劇とは全然雰囲気が違うのと同じだ。
例えば今の時代劇には、田舎の河原や田んぼでヤクザどうしが大勢でチャンバラをするなどというシーンはほぼ出てこない。たいていどこかの武家屋敷の中庭辺りで斬り合うばかりだ。しかしおそらく昔は、つい最近まで、こうしたヤクザどうしの喧嘩が見られていたのではなかろうか。昭和残侠伝や、あるいは鬼平の原作などでは刀の他に槍や弓矢も出てくるが、こうした道具は今の時代劇で出てくることはほとんどなく、刀と刀のいわゆる殺陣という形に様式化され、多様性を失っている。

さいとうたかをの鬼平犯科帳は比較的原作に近く作られているほうだと思う。

原作に関して言えばこれだけ長い小説をこれだけ中だるみもせずに書けたのはすごいと思うが、おそらくこれは池波正太郎一人の力というよりは、取材やシナリオ作りを大勢のスタッフが助けたためと思われる。こういうプロットがしっかりしていて、人気がある小説というのは、出版社としても金づるだから、元手も人手もたっぷりかけたに違いない。それは刑事コロンボも同じだったはずだ。

吉川英治が書いた太平記や平家物語は実際現代小説を単に舞台だけ過去にもっていった時代小説にすぎなかった。あんなものを読むくらいなら普通に現代のサラリーマン小説を読んだ方がましだ。
しかしながら、少なくとも原作の鬼平犯科帳は、野村胡堂や岡本綺堂らにリスペクトを払いつつ、松平定信時代の江戸を忠実に再現しようという明らかな意図をもって書かれたものだと思う。恐るべき傑作だと思う。
残念ながら、『相棒』にせよ『古畑任三郎』にせよ、刑事コロンボほどの金と人手はかけられないと思うよ。

これだけ私がこうした刑事物にのめり込んだのは私自身『潜入捜査官マリナ』という警察捜査ものを書いたからだ。
いろんな刑事物を読みつつ『マリナ』にはかなり加筆修正を加えた。
自分で書くことによって他人の作品も何倍も面白く読めるし深読みできるようになるしもちろん執筆の参考になると思う。

ダ・ヴィンチ・コード

病院の待合室に『ダ・ヴィンチ・コード』があったので読んでみたがわりと面白い。もちろん映画はDVDなんかで何度か見たことあるんだが、原作だとより細かなこだわりが描写されていてそこが興味深い。ただし欧米中心、特にアメリカ人がフランス文化に憧れて書きましたっていうスタンスが露骨で鼻につく(いやそんなふうに書かないとアメリカでは小説が売れないんですよねきっと)。ついつい、いや、欧米ではそうでしょうけどアジアはまた別ですよと突っ込みをいれつつ読んでしまう。世界一の美術館or博物館は、ルーヴルでもヴァティカンでもなくて台湾の故宮博物院だろうと思う。ルーヴルはブルボン家が蒐集した工芸品などの他は世界各地特にエジプトから収奪したもので埋められているが、故宮博物院は清朝が蒐集した中国5000年の財宝が収められている。比較にすらならんと思うのだが誰かちゃんと比較してみてほしい。