文学部唯野教授3

『文学部唯野教授』を読み返してみようと思ったのは、 『短編小説講義』を読んでみて、すごくわかりやすかったからだ。 やはり筒井康隆という人は他の人に比べるとはるかに深く良く理解しており、 またわかりやすく説明できる人だなと思った。 『文学部唯野教授』は面白いは面白いのだが、大学での講義形式になっている文芸理論、 というより文芸批評理論、というより哲学談義が何言ってるかよくわからなくて、 その部分はめんどくさくて退屈で飛ばして読んでいた。

同じ文学と言っても、文芸と哲学。 不思議なことに、日本には哲学が好きな人が多くて文芸はあまり書く人がいない。 つまり、ハイデッガーとかサルトルとかを書くのが好きな人のほうが、 ゲーテやハイネなんかを書く人よりずっと多い。 私はずっと哲学には苦手意識というか、あんなもの何になるんだという気持ちが強かった。

『文学部唯野教授』と『短編小説講義』は同じ時期に平行して構想され執筆されたものであり、 内容も似通っている。 だから『短編小説講義』を読んでから『唯野教授』を読むと、 『唯野教授』だけではよくわからなかったところがわかったり、 あるいは共通する言い回しが出て来てより深く理解できたりする。

たとえば『短編小説講義』でマーク・トゥエインの『頭突き羊の物語』が、 「話の横滑り」のギャグでできていると書かれているが、 この「横滑り」という言葉が『唯野教授』にも何度も出てくる。 だから「横滑り」という言葉が出てくるたびにああ、 あのマーク・トゥエインの羊の話を念頭にこの言葉を使ってるんだなって思えるのだ。

唯野教授の講義だが、これはハイデッガーの話が分かれば後は大して難しくないってことが今回わかった。 ハイデッガーが難しいっていうのはつまり彼の言っていることが単なる同義語反復、 つまりトートロジーに見えるからだ。 たとえば「目の前に現実に存在しているものが現存在であり実存である」、 「現存在の存在規定は、我々が世界内存在と名づける存在体制をもとに、アプリオリに看取され、了解されなくてはならない」 などという言い方であり、 だからそれが何だ、そんなものが哲学ならば哲学なんて何の役に立つのだ、と思って、 それ以上ハイデッガーを読もうとも、哲学というものを理解しようとも思えなくなってしまう。

ハイデッガーだけを読んでいればどうしてもそうなるのだが、 ハイデッガーの師匠のフッサールという人と対比させてみると、 ハイデッガーの言っていることは良くわかる。 フッサールという人はそんなふざけた、トートロジー的なことは言ってない。 ただ、デカルトが言うような「意識」は存在しない。 自分が意識していると意識するような意識なんてものすら不要である。 確かなものは何もないのだから「判断中止」しろという。 判断中止してしまえば何もわからないはずなのだが、 フッサールはそこから「純粋意識」とか「超越論的主観性」とか「先験的主観」なんてものがあるなんてことを言い出す。 「判断中止」までは理解できるがそこから先が宗教になってしまってる。 ハイデッガーはそれはいかんよと言いたいわけだ。 人間の存在とはただ自然と対話することとか、いずれ死ぬという時間の中にいる存在だと言ってるだけ。 自分の死を直視しましょう、常に自分を未来に投げ込みましょう、 そして人間という存在は決して完成しない、などと言っている。

で、『文学部唯野教授』はフッサールの回までをめんどくさがらずに読んで、 フッサールの次のハイデッガーの回を丁寧に読めばそんなに難しいことは言ってない。 ハイデッガーを越えれば後は楽だ。 しかし飛ばし読みしてるとなんだかよくわからないということになる。 ともかくもハイデッガーについての筒井康隆の説明は非常にわかりやすい。

そんでまあ現代文芸批評はポスト構造主義とかいうところまで来たと言っているわけだが、 私が見るに、 文学も文芸批評も、近代科学の影響をうけて、 印象批評や、 宗教や哲学やイデオロギーから自由になろうとし、科学になろうとした。 いや、文学や哲学は、科学よりもさらに根源的な学問でなければならない。 つまり科学的技法というものに嫉妬して、科学を模倣し科学を超えようとした。 科学的に分析できる、 科学以上に厳密に根源的に分析しなくてはならないと考えた。 しかしその悪戦苦闘のすえ、文芸は、小説というものは著者がいて読者がいて、 その関係で美的価値が生まれるものであり、 科学的には解釈できないから科学ではない、というのが結論、というか、 筒井康隆がたどりついた独自の文芸理論なんだと思う。

文学は批評家がわざわざ脱構築してやる必要はなくて、なぜかというと文学は初めっから自分をディスコンストラクトしているからだし、それどこかディスコンストラクションのやりかたについて自分でぶちまけたりもしてるからなんだそうです。

文学はそもそも構築されていないから脱構築する必要すらない。 文学は科学的に分析できる、自然科学になれる、 自然科学を超えるなにか根源的な学問たり得る、 っていうのが最終目標だってことがそもそも間違っていたというのが結論であり、 まあ至極当然なポストモダン的な帰着だわな。 自然科学やら数学だって、何か根源的な学問たりえるわけではない。

たいていの現代思想の本はそういう結論で締めくくっている。 哲学とか科学とか宗教というものが何か究極の解決策であるかもしれないという考え方自体が、 大いなる錯覚だった。 わからんものはわからん。

でもまあこれって宣長がとっくの昔に言ってることと同じだと思う。 「文学とは何の役にも立たないものだ」「文学は文学であって、その他の宗教や政治や道徳で判断してもダメだ」ってことでしょう。

小林秀雄の芸

白洲正子「花にもの思う春」p.64

小林秀雄には「飴のやうにのびた時間」「一枚の木の葉も、月を隠すに足りる様なものか」といった、一言でずばりと真髄を貫く言葉があり、愛読者はみな空で覚えたものなのに、
「本居宣長」にはそんなものは一つもない。「批評をすることなど、考えてもいない」、ある学者は「今度の作品にはまるで発見がない」、また別の学者は「あんなものは作文に過ぎない」とけなしたというのである。

白洲正子は小林秀雄にむかって、「本居宣長」は以前の作品とは違っている、読んでいるあいだは面白いけれども、読み終わると全部忘れてしまう、何が書いてあるのか一つも思い出せないのが不思議である、などと言ったらしい。それにこたえて小林秀雄は「そういうふうに読んでくれればいいんだよ。それが芸というものだ」と。

私もまったく「本居宣長」と、それ以前の小林秀雄の著作とは違うと思っていた。ただし白洲正子や小林秀雄の愛読者や学者らとは正反対の意味でだ。「本居宣長」は小林秀雄が書いたものの中では私には一番わかりやすく、ぐんぐん頭に入ってくる。それ以前のものと同じ著者とは思えないくらいだ。私に言わせれば、「飴のやうにのびた時間」なんてのは何の意味もない、理解不能な言語にすぎない。世阿弥を評して「美しい花がある、花の美しさがあるのではない」というのもわかるようでわからない、というより批評でも何でもない、ただの言葉遊びのように思える。

「本居宣長」で小林秀雄は歌人宣長を発見している。宣長は自分を歌人だと思っているし、小林秀雄もそこに気付いたのだが、普通の人は宣長が歌人だとは思わないし、小林秀雄にいくら丁寧に説明されても理解できないのだ。

世間では国学者は神道家かなんかだと思っている。宣長がたくさん歌を詠んだことは知識として知っていても、また歌とはなにかについて何度も繰り返し繰り返し彼が書いていても、そのことが重要だとは思えない。宣長はへたくそなくせにたくさん歌を詠んだものだ、契沖に似てる、くらいのことしか感じない。

国学者とはまず第一に歌学者であり、歌人でなくてはならない。小林秀雄は明らかにそのことに気づいていた。後半、グダグダ書いた「古事記伝」の箇所は宣長の神道家としての説明であって、私にはここは退屈だ。たぶんここでは小林秀雄は昔の小林秀雄に戻ってしまったのだ。

小林秀雄は読者が自分の書いたものを理解しているとはまったく思ってなかった。そんなことは期待してなかった。めんどくさいので説明する気がなかったというべきか。たぶん説明すればするほど理解してもらえないとでも思ってたか。もっと詳しく丁寧に説明するには原稿料が足りないと考えたか。

ともかく「本居宣長」以外の小林秀雄の著作が私にはちんぷんかんぷんな理由を白洲正子に教えてもらった気がした。

一緡の青蚨

一緡(いちびん、もしくは、ひとさし)の青蚨(せいふ)、と読む。穴の開いた銅銭に通して百銭、または千文単位で結ぶひもが緡。青蚨とは銭のこと。一緡の青蚨とはつまり、ひとまとめにした銅貨のことを言う、らしい。銭緡(ぜにさし)、銅貨一緡、青蚨半緡などとも。

青蚨は青鳧とも書く。蚨は水棲の虫で蝉に似るという。鳧はケリという鳥。

青蚨がなぜ銅銭なのか。よくわからない。

南方有虫名敦禺、一名則蜀、又名青蚨,形似蝉而稍大,味辛美,可食。

南方に敦禺(とんぐう)、あるいは則蜀(そくしょく)、または青蚨(せいふ)という名の虫がいる。形は蝉に似ているがやや大きい。辛いが美味で、食べられる。

生子必依草叶,大如蚕子。

卵は必ず草の葉に付き、育つと蚕のようになる。

取其子,母即飛来,不以遠近。

その幼虫を取ると、母は遠近にかかわらずすぐに飛んでくる。

雖潜取其子,母必知処。

こっそりその子を取っても、母は必ずどこかわかる。

以母血塗銭八十一文,以子血塗銭八十一文,毎市物,或先用母銭,或先用子銭,皆復飛帰,輪転無已,名曰「青蚨還銭」。

母の血で八十一文の銭に塗り、子の血で八十一文の銭に塗る。市場で売り買いするとき、母の銭から先に使っても、子の銭から先に使っても、皆まだ再び返ってきて、繰り返し終わることがない。そこで「青蚨還銭」という名がついた。

由此,古之銅銭常以「青蚨」或「蚨钱」代指。

そこで「淮南子・万華術」では、昔の銅銭を代わりに「青蚨」或いは「蚨銭」という。

らしいですよ。なぜ81文で束にするのだろう。9×9=81というつもりだろうか。

子母銭ともいうらしい。「青蚨術」。ま、要するに、ただの銅銭ではなくて、一つづりになった銅銭の束、ということであろう。

捜神記というものに書かれているらしい。

原勝郎

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。司馬遼太郎やドナルド・キーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。ちゃんと統計を取れば、昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。

国枝史郎

いろんな意味でいろいろひどい。

天草四郎の妖術。天草四郎の臨終の言葉がイエスと同じく 「われ渇く」「事畢りぬ」 だったというのだが、作り話にもほどがある。

ヒトラーの健全性。 たわいないとしか言いようがない。 戦中の日本人がみなこんな馬鹿だったとは思えないが、 こういう人はたくさんいたのだろう。

ローマ法王と外交。これも戦中、日独伊三国同盟絡みの話と思われるが、 いろいろつっこみどころがある。

法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行とりおこない、 「汝を神聖ローマ皇帝となす」 と宣言し、その冠を頭上に置き、 「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至ないしは攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。

ローマ皇帝がローマ教皇に戴冠されるというのはカール大帝に始まる権威付けであり、 オットー一世はそれをなぞったのにすぎない。皇帝と教皇は持ちつ持たれつ。つづくグレゴリウス七世とヘンリー四世の破門がどうのこうのと言うのも同じ話。誰が皇帝となり誰が教皇となるか、誰を担ぎだれを蹴落とすか。皇帝を戴冠するのも破門するのも教皇の自由だが、皇帝はその教皇をローマから武力によって追い、或いは枢機卿を味方につけて、自分に都合の良い教皇を立てることができる。複数の皇帝と複数の教皇が権威と武力を駆使して駆け引きをしているというのが実態なのであり、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝より偉いというのは全然間違った見方である。

ペーターという狂信家を利用してウルバヌス二世が第一次十字軍を招集した。まあそこまでは良いとして、

私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎ともすると法権を侵す態の行動をし英気を他に洩らす術なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。

その観察は明らかに間違っている。確かにウルバヌス二世は第一次十字軍の重要なロールプレイヤーの一人だが、それ以上ではない。十字軍は、少なくとも第一次十字軍は、東ローマが衰退し、相対的にトュルク人とノルマン人の勢力が東欧に伸張したことによって起きた。ただそれだけだ。キリスト教とはほとんど関係ない。その後の十字軍はヨーロッパのキリスト教国の勝手な暴走であったかもしれないが。

中島敦の日記と書簡

中島敦の旧宅は今の世田谷区世田谷の世田谷中央病院の辺りだが、 私はこの界隈に二度ほど住んだことがある。 最寄り駅は世田谷線世田谷駅。 松陰神社や代官屋敷も近い。 ボロ市も何度も見たし、豪徳寺を散歩したりもした。 彼の昭和十七年七月十三日の書簡に

これからは役人をやめて、原稿を書いて生活していくことになるでしょう。今も盛んに書いています。 但し、僕の書く物は、女の子の雑誌には向かないから、君たちの目にはなかなか触れないでしょう。 時々清書してくれる人が欲しくなりますよ。

八月六日には

南洋庁へは辞表を出しました。作品を書きたいからではなく、身体が(また南洋へ行くのでは)もたないからです。

十月二十八日には

小生、まだ南洋庁からお暇が出ません。 今度またあちらへやらせられれば身体のもたないことは判りきっていますので、これだけはどうあっても頑張ってやめさせて貰おうと思っております。

などとも書いている。 ざっと読んだだけだが、小説を書こうなどと言い出したのは、南洋から帰ったあとであり、 南洋から帰るということは役人を辞めて小説を書こうと考えたからだろうと思われる。 彼は役人という仕事が嫌いだった。 病気のためもあるかもしれないが、中島敦は役人を辞めて物書きになろうとしているのであり、 「山月記」の李徴の境遇に近いのではないか。

「山月記」の主題とは何かということを改めて考えさせられたのだが (「山月記」はなぜ国民教材となったのか、および人虎伝)、 「大して裕福でもなく、病気で死にかけているのに、役人を辞めて物書きになろうとしている、妻子持ちの自分」というものをどうしても書きたかった、 というより、 どうしてもそちらのほうへ話が引きずられてしまった、というあたりが真実ではなかろうか。 彼はおそらくパラオで役人をやっていたら世田谷で死なずに済んだはずだ。 パラオから帰ろうと思ったのは著作活動には東京の方が何かと便利だと思ったからだろう。 しかし、病状が進んで南洋に帰ることもできず、東京では養生もできずに死んでしまった。 「山月記」に主題があるかどうか知らんが、もし主題というのならそのあたりではなかろうか。

人生の無常とか世の中の不条理とかが現代小説の主題ですとか言う必要はないと思うんだ。 いやていうかね。 高校国語で「現代小説の特徴」とかいう雑駁なことを教えようとするからいけないと思うんだ。 (コモンセンスとしての)「現代小説の特徴」などというものは存在しないのだから。

ちなみに私も昔役人だったが辞めた。 辞めた年齢も、ちょうど中島敦と同じくらいだった。 独身だから気楽に辞められたが、妻子がいたら思いとどまったかもしれない。 中島敦は役人(仕事)が嫌いだった。 私と同じ理由かどうかはわからんが、 辞めたときの私の気分は「巨鐘を撞く者」の中で大塩平八郎に代弁させてある。 今度当該箇所を読んだらにやりとしてほしい。

世田谷にいた頃に書いた日記を探してみたがろくなのがない。

人虎伝

「山月記」はなぜ国民教材となったのかというのを書いたせいで気になって調べてみた。山月記の中で、中島敦は虎に

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

などと言わせているのだが、私はこの台詞がすごく好きなんだが、これが原作の人虎伝にすでにある文句なのか、それとも、中島敦が独自に挿入したものなのか。

人虎伝の原文現代語訳も、今では簡単にネットでみることができる。当該箇所を読んでみると、それらしきことは書いてなくて、

於南陽郊外、嘗私一孀婦。其家竊知之、常有害我心。孀婦由是不得再合。吾因乘風縱火、一家數人盡焚殺之而去此。爲恨爾。

つまり、女の家に放火して、一家数人をことごとく焼き殺した、などということが書いてある。それでさらに検索してみると、なんと中島敦の本家本元筑摩書房でその箇所について解説しているではないか。

なるほど。「山月記」は国語教科書の定番なので、「人虎伝」までさかのぼって深読みし、指導の助けにしようという教師は少なからずいて、筑摩書房もその要望に応えたというわけだ。

「人虎伝」を読めば明らかなように、人が虎となったのは、密通放火殺人の罪による。中島敦はここをすべて捨て、代わりに、己の詩業に熱中するあまり、妻子を顧みなかったから虎になった、そう読み変えたのだ(家庭をないがしろにする男などいくらでもいる。そういう男がみんな虎になったらたいへんだ。中島敦もだから虎になった理由は明記してない。そんな説得力のある理由じゃない。だから思わせぶりな記述になった)。自分なりにストーリーを書き換えてみたい、あるいは多少のオリジナリティをもたせたいと考えるのは自然で、芥川龍之介もやっていることだ。

この筑摩書房のサイトの解説がなかなかおもしろいのだが、

李徴の詩は、微妙な点において欠けているものがあるから一流になれなかったということなのですが、

李徴の詩が、微妙な点において欠けている、と感じたのは中島敦本人なのである。そう感じたからストーリーを改変した。中島敦はおそらく李徴に自分自身を投影したのだ。しかし中島敦自身は、李徴のような鬼畜な人間ではない。作者は感情移入できない。「妻子とか、生業などに煩わされながら、物書きをしている自分」というものを主人公にしないとそもそも話を物語ることができない。李徴に遭遇した袁傪はただの脇役なのでやはり感情移入しにくいわな。

この微妙な点を生徒の多くは「愛」に求めます。妻子への愛がなかったからいい詩が書けなかったというわけです。私が「では、愛があればいい詩が書けるの?」と問えば、躊躇なく「はい。」と答えてきます。本気で「愛があればなんでもできる。」と信じ込んでいるわけではないのですが、生徒たちは小説・物語はそう読むということに慣れ親しんでいるのだと思います。テレビ・アニメ恐るべしです。

ここで「私」と言っている人が誰なのかと探してみてもよくわからない。署名記事ではなさそうなのだが、いかにも高校国語教師の感想という感じでほほえましい。

妻子への愛があれば良い詩が書けるとは中島敦も考えてなかっただろう。そんな雑な結論を導かれちゃ困るだろう。読者は自分の好き勝手に誤解したがるものだ(そしてそれが当然の権利で正しい行為だと思っている。自分が作者よりもよい解釈をしてやったとすら考えている)。作者の意志などどうでもいいのだ。作者は(と言いながら自分のことを書くが)、そんなありきたりの、誰でも思いつく、誰が書いても同じな、毎日テレビで垂れ流されていてわざわざ自分で書く必要すらない、つまらないストーリーなんか書きたくない。普通の恋愛、普通の推理、普通の歴史小説なんて書きたくない。二重三重に意味を持たせた、トリッキーなストーリーを書きたい。はぐらかしたりだましたりしながら、ちゃんと読めばちゃんとわかるように書いてあるのだ。しかし最初のトリックにつまづいてそこで読了した気持ちになっている読者を見るとがっかりする。

思うに、山月記が説教臭い教材になってしまった理由は、普通の高校生とその教師と親がそういう解釈を好んだためだとしか言いようがないと思う。中島敦が山月記を書いた理由?おそらくは自分の著作活動における自問自答、葛藤のようなものをそのまま書いたのだろう。教科書会社は売れるから載せているだけだ。文科省の役人は特に現状を変更する理由がないから放置しているだけ。「なぜ国民教材となったか」と言われればそれこそ「国民が望んだから」としか言いようがない。文科省の官僚や教科書出版社や指導要領の作成者のせいにするのはよろしくない。

おそらく「人虎伝」で種明かしをされてしまうと怒り出す高校生や国語教師がたくさんいるのではないか。そんなの俺の「山月記」じゃねえ、とか言い出して。アニメとかラノベのファンなんてみんなそうだ。

追記。やや嫌らしいが、教育指導要領の方もみておこう。

李徴が虎になった原因が三点も記されていることについて考える。

それは、中島敦が、本来の理由を削除して、自分なりの解釈に改変したが、その解釈を読者に押し付ける自信がなかったからだわな。

李徴が詩に執着した理由を考える。

詩人が詩に執着して何がいけないのか。

現代小説に特徴的な主題を読み取り、現代小説に親しむ。

ていうか現代小説を書いているつもりの私にも「現代小説の特徴」なんかわからんよ。主題を読み取るというが、この小説に何か明確な主題なんてあるのか。元の伝記小説にはあったかもしれんが。つか小説なんてのは、特に近代や現代の小説てのは(漫画とかアニメとか娯楽物でない限り)、何か具体的な主題に沿って書かれるものじゃないだろ。無理に高校生に主題を読み取らせようとするから筑摩書房のサイトに書かれているような頓珍漢な答えが出てくるんじゃないの(それとも自己流に解釈すればそれはそれで、自分で頭を使ったからよいということか)。

さらに、「山月記」なんか読んで現代小説に親しめるか?

現代小説独特の表現に親しみ、その特性を理解する。

同上。

表現とそのリズムに親しむとともに、表現された心情を考えながら音読・朗読する。

音読、朗読か。なぜわざわざそんなことをさせたいのかよくわからない。それって必要なのか。てか、朗読させたければ詩にすればいいんじゃないか。

運命に対して無抵抗であり、理由の分からないものをただ受け入れざるを得ないという不条理、人間という存在に対する嘆きがあります。人間がこの世界に投げ出された状況とは、まさにこういうことでしょう。理由などないのです。それを人間は、自分たちの物語に理由づけようとして悪戦苦闘しているのです。

いろんな理由を考えさせて、高校生を悩ませておいて、結論はこれなのだろうか。答えは「理由はない」。世の中は不条理だ。人間は苦しんでいる。それが現代小説の特徴なのだろうか。はて。うーん。ニーチェとかサルトルみたいなもん?(笑)

なんか、もっともらしい理由づけではあるが、高校生に読ませる教材なんだよね?もっとほかにふさわしいのがありそうなものだが。いやいくらでもある。やはり、いろいろ生徒に悩ませておいて、最後にこうですと、手の内をあかして、けむに巻いてみせたいだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。

ネット時代の今、そんな手口はもはや高校生には通用しないんじゃないのかなあ。一時期「ポストモダン」な人たちが風靡してたころはそんなわかったようなわからないような禅問答的解釈でよかったかしれんが、今はググればごまかしはすぐばれるよ。

追記あり〼

池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄の『本居宣長』について今までいろいろ書き散らしてきたのだが(小林秀雄でこのブログを検索してもらったほうが話は早い)、担当編集者池田雅延氏の詳しい講演があり、『本居宣長』がどのように執筆されて成立したかがわかる。130分もあるので、ゆっくり聞くことにする。もともとは茂木健一郎がソニーのサイトにアップしたものらしいが、その大もとのMP3はもはやなく、適当に検索したら見つけたのが上のリンク。

単行本では50章に分かれているが、もともとは『新潮』に64回連載された記事であり、11年半も連載した。と、いうことは、2ヶ月に1回程度の寄稿であったか。それを1/3くらいに縮めて、最後に1章新たに付け足して、単行本にしたのだそうだ。ふーん。すごく削ったな、もったいないな、というより、そんなに削ったのにまだあんなに冗長なんだ、というのが素直な感想なんだが。

追記 wayback machine

国語教科書の闇

ついでに読んでみた。

これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。そこから先は読まない。大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。

おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、それはあまりにも狭い世界で、定番で、既視感で、予定調和で、昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、或いは国内旅行に切り替えるようなもの。

別にね、ハリーポッターとか、シャーロックホームズとか、高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。ラノベは読みやすい。読者も多い。従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。

私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、その外の世界の存在を想定してないからだろう。

それから今回初めて森鴎外の舞姫を読んでみたのだが、なんじゃこりゃという感じ。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。

は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。

たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。なんかかっこよさそう。それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。

「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、その代用品を提供するというところにあるわけ。最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。

さらに、菊池寛とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。

今年のセンター国語センター試験「国語(古文)」を解いてみる。などにも書いたことだが、今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。だから教材も定番なほうがいいに決まってる。どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。或いは特許とか?曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年ガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝中島敦の書簡と日記