私は三島由紀夫の著作をすべて読んだわけでもなくまたこれから読破してみようという気力もおそらくないのだが、今のところのざっくりとした予想を書いてみようと思う。
三島由紀夫の家系というのは平民出身の官僚だ。彼の父、平岡梓は開成中学から旧制一高、東大法学部に進んでいる。平民に与えられたごく普通のエリートコースだ。しかし三島由紀夫はなぜか学習院から東大へ行く道をとった。
彼の最初の長編『盗賊』は副題に「華冑会の一挿話」とあるが、つまり華族社会のことを彼は書きたかったのである。彼は官僚の息子だし学習院にいたから、平民の中でももっとも華族階級に近いところにいて彼らを観察しえた。そのいわば、上流階級のスキャンダラスな暴露話を書きたくて仕方なかったらしい。
この『盗賊』は川端康成に絶賛されたらしいがほとんど反響がなかった。実際長くて退屈な話である。三島由紀夫にとってはしかしこの長く退屈な話を書く必要があったしこの体裁でなければ華族のアンニュイな暮らしは表現できないのだ。またそこを川端康成は高く評価したが同時に世間に受け入れられなさそうなことを惜しみもしたのだろう。
私は、『仮面の告白』ではなくこの『盗賊』にこそ、三島由紀夫のすべてのエッセンスがすでに内包されていると思う。
『仮面の告白』は自分自身を描いた私小説と言える。当時としてはセンセーショナルな内容だったから、たちまち世間に認知されるに至った。しかしながらこれもまた長くて退屈な話には違いない。
『金閣寺』に至っては単に金閣寺を焼いた男というこれまたセンセーショナルな話題を小説にしたというにすぎず、まあ、一般受けはするかもしれないし、外国人にも面白がられるかもしれないが、しかしやはり、退屈で長い話に過ぎない、とも言える。
その他の小説はおおむね売れっ子作家になったあとの頼まれ仕事のようなものだろう。いちいち読むほどの価値があるものがそれほどあろうか。
で、三島由紀夫は死を覚悟した。そこでもう一度、「華冑会」の話を書いてみたくなったのではないか。自分が死ぬ前に、自分が売れる前に書いた小説をもう一度リメイクして、広く読んでみてもらいたくなったのではないか。『豊饒の海』、特にその第一部『春の雪』は『盗賊』に題材が酷似している。そしてこの『春の雪』こそは、私が見た限り、三島由紀夫の作品の中ではとりわけ面白いのである。
作家が最初に書いた長編小説ほど、作家自身がほんとうに書きたかった作品に違いない。その上彼はそれを再び書いて彼の最後の作品にした。よっぽど書きたくて仕方なかった。よっぽど人に読ませたかった。よっぽど後世に残したかったのだ。
三島由紀夫はほんとうは何を書きたかったのか。
三島由紀夫は自決にあたって輪廻転生を信じたくなったのだろう。だから『豊饒の海』はああいう構成になった。しかしながら、彼がほんとに書きたかったのは、彼がほんとうに愛してやまなかったのは、「華冑会」の退廃した世界、もはや二度とよみがえることのない虚構の世界だったのではないか。ああいう世界は奈良時代にも、平安時代にも、鎌倉時代にも、室町時代にも、江戸時代にもなかった。日露戦争の勝利から第二次大戦の敗北まで、わずか40年ばかりしか存在しなかった。彼の文体、彼の文章の美しさというのはその世界を描くときにもっともしっくりとくる。なぜなら三島由紀夫が彼の青春時代に憧れてやまなかった世界だから。彼そのものが作られた世界だから。
この華族というものは明治政府が生んだ虚構社会だ。人工的に作られたフィクションの世界だ。そして彼はもともとその外の世界の人だ。しかしながら、いや、だからこそ、外側から、マジマジと、その世界を客観的に観察し得た。もし彼が最初から華族だったらあんな屈折した小説を書くはずがなかった。中にいた人ならその虚構に最初から気づいてしらけてしまうだろう。だがその「華冑会」の外にいて、いわばセレブに憧れるマニアであったから、あんな小説が書けたのである。
おそらく彼が守りたかったのは天皇ではなく華冑会なのだ。
明治政府が作り上げた戦前の皇室制度というものが華冑会を作った。その制度が失われれば華冑会もまた失われる。だから天皇は人間宣言などしてはならなかったのだ。「華冑会」がよみがえらなければ生きていても意味が無い。そうも思ったかもしれない。
彼にどうして天皇などというものが理解し得ようか。天皇の実態を想像し得ようか。彼に見えていたのは、目の前の現実であったのは華冑会だったのだから。
カテゴリー: 読書
鬼平犯科帳
別に『鬼平犯科帳』の悪口を言いたいわけではないが、あれは結局、江戸時代を舞台に今の刑事ドラマを作り替えただけのものであり、だから一般受けするのだ。
元は同じで、そのアレンジ次第で時代劇にもなり、『相棒』にもなる。ただそれだけのことだ。結局人はいろんなものを見ているようでごく狭い限られたものを見ているに過ぎない。
別の言い方をすれば刑事ドラマにしても、今の現実の刑事やら警察官をきちんと取材すれば、全然違う作り方をすることができるはずで、全然違う『亀有交番前』ができるはずだ。だがそのためには一からネタを仕込み、まったく新しいプロットを考えねばならない。そんな売れるかどうか当たるかどうかもわからぬことに労力を費やす人などいないのだ。
小説の英訳
さて何かブログに書こうかと思っても最近はいろいろ気が散ることが多くて、ツイッターに何か書き込んだり、調べ物をしたりしているうちに、 執筆意欲というものがどんどん消費されていって、他にもいろいろやらなきゃならないことが思い出されてきて、結局書かないってことが多い。 以前はそうではなかった。2010年くらいまでは、twitter や facebook はまだ閑散としていたし、電子出版というものがそもそもまだ普及しておらず、 kdp など影も形もなかったから、何か書きたい衝動が起こってきたらブログに書くしかなかった。
『1984』に主人公の Winston Smith が「さて何か日記を書こうか」と思い立ったときの心境が描写されているのだが、これがいまさらながら少し面白い。 最近は英語の原作をぼちぼち読み始めているのだが、 やはり、日本語訳で読むときと原文で読むときではかなり雰囲気が違う。 この雰囲気というものを訳すのはやはり難しい。 なんで英語の小説を原文で読み始めたかといえば、自分が書いた小説を一部英訳してみようと思ったからだ。 思うに英語を読まねばならぬという義務感のようなもので読み始めても頭に入っていかず、結局途中で読むのをやめてしまうのだが、 自分の小説を英訳したいという動機があり、その自分の英文にはなはだ自身がなく、他人の小説の言い回しを参考にしようという下心があると、不思議と読めてしまうものだ、ということが今回わかった。
He sat back. A sense of complete helplessness had descended upon him.
まあたったこれだけでも、英文と和文では受ける印象が違うのがわかるというものだ。 A sense of complete helplessness。意味はわかる。しかしこれをどう日本語に訳すのか。自然な意訳ならば「完全な絶望感」とでもなろうか。He sat back。これも案外難しい。意味は明解だ。しかし、back をわざわざ訳すと長ったらしくなる。sat すら訳せない。座っているのは自明なのだから訳すまでもない。もとの 3ワードの簡潔な文をどううまく訳すのか?たぶんこれは訳せない。「彼は真新しい日記を見つめながら途方にくれた。」くらいにしか訳せないと思う。
For whom, it suddenly occurred to him to wonder, was he writing this diary?
この言い回しもなかなかしゃれていてかっこいい。まず For whom、と来て、その後に挿入節、というか転置された文が挿入される。しかしこれも和訳すれば単に「誰のためにこの日記を書こうとしているのか、という疑問が突如彼に涌いてきた。」くらいにしかできまい。
For some time he sat gazing stupidly at the paper.
こういう書き方ね。これが George Orwell という作家の持ち味なんだが、これを日本語で表現するのは難しい。「しばらく彼はぼんやりと紙の上を見つめていた。」とでも訳しようがないのだが、それでは元の味わいというものがまるででてこない。 たぶん私ならこの sat は書かない。he gazed stupidly at the paper. と書くだろう。日本語にも特に訳しようがない。stupidly もここで「馬鹿のように」と訳すと直訳臭がするから「ぼんやりと」とでも訳すしかない。でもそうすると明らかに原文の味は失われる。でまあそういう英文の「味」をうまく和文に変換できれば、おそらくだが、村上春樹みたいなシャレオツな文章になるのだろう。この、シャレオツと直訳臭の違いは純粋に感覚的なものだから、誰もが書けるわけではあるまい。村上春樹のパロディみたいな文章は、割と誰にも書けるのかもしれんが。
単に英語の勉強のために英文を読むのではなく、つい私の場合、著作権が切れた作品を英訳してみようという色気が出てきてしまうのだが、別に著作権が切れてなくても、ハリーポッターなんかは読んでみたりしている。 George Orwell の著作権が切れてるかどうかはぎりぎりのところでなんともいえないが、どうも私にはうまく訳せるようには思えない。しかし、うまいかへたかはともかく訳せば少なくとも自分の勉強にはなるし、売れれば多少の収入にはなるわけだ。
キリリと引き締まった短編
私が好きな作家、というか、天才だなと思えると言うか、尊敬する作家は芥川龍之介、志賀直哉、中島敦などなのだが、皆キリリと引き締まった短編を書く人たちだ。夏目漱石や村上春樹にそういう短編があるかと言えば無い。 では実際、芥川や志賀の長編を読んだことがあるかと言えばまともに読んだことは私はないのであって、短編の印象だけで彼らの才能を判断している。 中島敦は全集をたびたび読んだから、おそらく相当好きなのだろうと思う。だが長いものでもせいぜい李陵とか、スチーブンソンの伝記くらいでそんなに長いものはない。 菊池寛も好き。 長いものでまともに読んだのは日本外史くらいじゃないか。 あとはハイジとか? ヨハンナシュピリは好きな作家と言ってもよい。 嵐が丘は読んだ。エミリーブロンテはたしかに天才だ。スタンダールは挫折したが、嵐が丘はきっちり最後まで読んだのだから。あの気が狂ってる感じがとても良い。
昔良いなと思ったキンドル作家の作品を読み直すとそうでもないことがある。未知の作家には自分の趣味を投影して勝手に想像して読んでしまうからかも知れない。その作家を知り、作品傾向を知るにつれて初期作品のあらがみえてしまうのだろう。
韃靼タイフーン
安彦良和の『韃靼タイフーン』を読んでみてまず考えたのは、これほど優れた作品が世に知られていないからには、 私のような弱小作家の小説がまったく売れなくても当たり前だな、ということだった。 『韃靼タイフーン』が彼の他の作品と比べてものすごく優れているといいたいわけではない。 出来としては『王道の狗』『虹色のトロツキー』くらいだろうか。 最近の作品で比べれば、『麗島夢譚』や『天の血脈』よりはましな気がする。
『麗島夢譚』もほとんど知られていないが、『韃靼タイフーン』と同じ理由で、連載されている雑誌がマイナーだからだ。 『天の血脈』はアフタヌーンなのでまだメジャーといえる。
安彦良和は恐れずマイナーな雑誌に書きたいものを書く人だ。 逆の言い方をすると、書きたいものを書こうとしても企画会議を通らないから、そういうネタはマイナーな雑誌に回さざるを得ず、それゆえに世間に知られないということになる。
『ナムジ』や『神武』は強烈につまらない。 たぶん『アリオン』の流れでギリシャ神話から日本神話に飛び火したのだと思うが、彼には神話(というより、ファンタジー全般)を書く才能は無いと思う。
『ヴイナス戦記』のつまらなさにはあきれた。アマゾンでまとめてポチったが1巻目の最初のところで挫折してほってある。 たぶん彼にはSFの原作を書く才能も無いと思う。 『Cコート』は非常に面白い。『ヴイナス戦記』を書かせるために『Cコート』の連載を中断させたのだというが、まったく馬鹿げたことだ。なるほど読者は『ガンダム』の作画監督・キャラクターデザイナーが書いた宇宙戦記物が読みたいのだ。『クラッシャー・ジョウ』の挿絵を描いた安彦良和のオリジナル作品が見たいのだ。そして出版社はそれをアニメ化して当てたい。しかし彼にそんな才能はない。彼には『Cコート』を書かせるべきだったのだ。『ヴイナス戦記』に費やした労力は大いなる損失だ。 『韃靼タイフーン』もまた『ガンダムオリジン』を出すために中途半端に終わらせたというのだが、まったくもったいない話である。
『三河物語』は非常に面白いのにほぼ同じ時代を描いた『麗島夢譚』がつまらないのは意外な感じもするのだが、このあたりに安彦良和という人の限界があると思う。 ある程度史実に基づいて脚色したものは面白いのだが、史実から逸脱してほとんど空想だけで書いたものはつまらない。そう思うのは私だけだろうか?鄭成功と宮本武蔵を絡ませた話が面白いだろうか?荒唐無稽というべきだろう。 『韃靼タイフーン』も破綻寸前なのだが、なんとか帳尻あわせてある。
『ジャンヌ』もつまらない。なんなのだあのフルカラー書き下ろしは。よくもこんなくだらない企画を思いついたものだ。 どうも、メジャーなメディアからの頼まれ仕事ほど本人のやる気がなくてつまらなく、 マイナーなメディアで出したものほど本人のこだわりが濃厚で面白くなるのだ。 しかし世間様の評価というものは、作品の出来とはまったく何の相関もなく、 ただメジャーな媒体に出したものほど評価が高く、 マイナーな媒体に出した作品はほとんど認知されない。
安彦良和ほどの人ですらこのようなありさまなのだから、私のようなひよっこが世の中に正当に評価されるはずもない。 そう思ってずいぶん気楽になったし、これからも周りにあわせず自分の書きたいものだけを書いて遺そうと思った。 同時に、世間に媚びず、マーケティングもせずに読者を獲得することは恐ろしく困難なのだと思った。
安彦良和の本質は「右翼作家」なので現代の出版界では決して正当に評価されることはない。笑うべし。
度胸星
第1巻が無料で面白かったので、第4巻まで買って読んだのだが(最近マンガを買うのは珍しい)、これはなあ。作者の意に反して打ち切りになったというより、これ以上話を続けられなかったのじゃないかなあ。
まあ、面白いんだよ。でも、地球では起きない超常現象が火星では起きることの説明が付かないよな。付けられれば傑作と言えるかもしれないが、たぶんできなかったんだろうと思うよ、これは。これじゃあ最後にどんな種明かしがくるかを知るためだけに金払った人は納得できないよ。
小林秀雄問題
文科省が読解力を問う国語入試を導入しようとしていて、たとえばこれまでは、小林秀雄の悪文を一部切り取ってきて、そのどうしようもなく論理的に破綻した文章を読ませておいて、その設問に対して間違いから一番遠いものを選べとか、最もあり得なさそうなものを選べとか、そういう馬鹿げた問題だった。ただしこのような問題は官僚や弁護士の事務処理能力を問う問題としてはある程度有効だっただろう。法律の条文と照らして正しいのかただしくないのか。多くの場合正しいと一意には決まらないから、もっとも正しそうなものを選ぶ、より正しく無さそうなものをより分けるという作業が必要になる。実にくだらない。おかげでくだらない文系人間を大量生産することになった。
漢文の問題もひどかった。どれが正しい読み下しかを問う問題があって、明らかに間違っているものもあるが、間違いとは言えないものが複数あり、素直に考えれば正解と思われるものは間違いであり、間違いとは言い切れないものが正解であったりする。その根拠というのは、作問中の他の部分の読み下し方に統一するならば、そのように読み下さなければならないから、だというのだ。漢文の基礎をきっちり学んできた者がひっかかり、漢文についてろくに知らなくても、設問の全体の雰囲気で一番確からしそうなものを選ぶ猿知恵に長けた者が得をする。まさにセンター試験的悪問。これでは、整合性のある読み下しをすることが漢文教育にとって重要だということになってしまう。まったく馬鹿げている。
こんな問題をずっと作り続けて、よくこれまで訴訟にならなかったものだ。
新しい問題は、複数の異なる資料(図、パンフレット、討議など)の組み合わせを提示して、そこから何らかの意見を記述させるという手の込んだものであって、「小林秀雄問題」とは対極にある。いわば企画立案タイプの出題だ。
せいぜいラノベとかBLとか村上春樹くらいしか売れないこの嫌な時代を矯正してもらいたいものだ。
naturalist と natural history
実におかしな感じである。
『種の起源』にわざわざ名前を挙げて出てくる naturalist はほぼみな間違いなくプロの学者であり、学会に属し、論文を書き、研究をしている。
これに対していちいち名前は挙げていないが「飼育家(raiser)」「(家畜の)育種家(breeder)」「愛好家(fancier)」「園芸家(gardener)」「(栽培植物の)育種家(cultivator)」などについても多く言及していて、彼らは明らかに naturalist とは異なる立場の、別の世界に生きている人間として描写されている。つまり研究のプロ対アマチュアという構図である。
多くの naturalist は飼育や栽培というものを研究の対象に値しない、無視している、だがこれもまた絶好の研究対象であるというのが私の信念などと言っている。つまり私(ダーウィン)はあえて、これまで素人がやってきた品種改良のための「選択」というものを研究対象とします、と宣言しているのだ。またたとえば、
May not those naturalists who, knowing far less of the laws of inheritance than
does the breeder, and knowing no more than he does of the intermediate
links in the long lines of descent, yet admit that many of our domestic
races are descended from the same parents…
breeder よりも遺伝の法則についてほとんどわずかしか知らず、また、品種の長い連鎖についてはなおさら知らない naturalist たちでさえ、多くの家畜品種が単一の親に由来することを認めるのではないか。
つまり素人の愛好家や飼育家たちは、どちらかと言えば、遺伝現象について極めて博識であるがゆえに、たくさん亜種が一つの親から派生したとは容易に信じない。むしろそうした家畜や園芸種の繁殖の知識に乏しい naturalist のほうが、たくさんの亜種が一つの種に属すると考えているのである。
したがって、訳者が言うように、
ダーウィンがナチュラリストと呼んでいる人物の多くは在野の自然観察者や昆虫マニア、園芸家であったりすることが多く、いわゆる「学者」のイメージにそぐわない。
というふうには私にはとても読めないのである。
そもそもダーウィンはアメリカ海軍の艦長の許可を得てわざわざ南米、オセアニアを探検して回ったプロの研究者であるし、本文中に言及されているウォレスなどもマレー諸島を探検しているプロだ。マルサスも、チャールズ・ライエルも、ジョセフ・ダルトン・フッカーも、イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールも、フリッツ・ミューラーも、プロスパー・ルーカスも、その他もろもろの人たちもみんなその道のプロの学者だ。
いったいどこから「ナチュラリスト」が「昆虫マニア」のたぐいだという発想が出てくるのか。不思議だ。
というより今日「ナチュラリスト」と言うと、どちらかと言えば、少なくとも日本語においては、「自然保護主義者」とか「自然回帰主義者」とか、動物愛護団体とかベジタリアンとかヒッピーとかアナーキストのようなものを連想すると思う。naturalist を「博物学者」と訳してきた歴史は長く、訳語としては非常に安心して使える。わざと新しい訳を試みてちと勇み足したのではないのか。
しかし私にとってもっと奇異に感じるのは man’s selection を「人為選抜」と訳し、natural selection を「自然淘汰」と訳しているところだ。ダーウィンは明確に、man’s selection を拡張解釈した先に natural selection というものがあるに違いない、という論理展開をしている。ダーウィンの人為選択説はそのまま優生学や家畜や作物の品種改良の理論に通じるものである。ダーウィンはそれまでの品種改良に用いられてきた経験則的選択(methodical and unconscious selection)を、人為選択という概念でまとめ直して、博物学的に扱えるようにし、さらに近代科学へと橋渡ししたのである。ダーウィンはきちんと自分で多くの鳩の品種を飼って交雑させて、鳩が単一の種であることを確かめた。彼の鳩に関する実験と研究と考察は今日にも通用するまっとうなものである。いっておくがダーウィンは鳩の愛好家の一人ではない。鳩を学術研究の対象にした学者である。
ところが彼がそこから類推した自然選択というものは、彼の空想に過ぎず、何の根拠もない。
私は、「人為選択」を確立し、「自然選択」という新しい概念をこしらえて、「人為選択」と「自然選択」を対比させて、「自然選択」の存在を予言したのがダーウィンの仕事だと思う。しかるに、「人為選抜」「自然淘汰」と訳してしまっては、その対比関係がまったくわからなくなってしまうではないか。
どうも日本人に「自然淘汰」と訳したがる一群の人たちがいるらしい。それを「自然選択」に直そうと努力する人たちもいるのだが、なぜかまぜっかえされる。しかも「選抜」という進化論ではあまりなじみのない訳語を引っ張り出してきたのはどういうつもりなのだろう。選抜というのは高校選抜野球みたいに、なんだか個体間や集団間の闘争や競争のようなものをイメージしてしまうのだが。無色透明な「選択」という言葉でなぜいけないのか。
単純に「選択」という訳語を使っておいてあとは読者に判断させればよい。それをときに「選抜」と訳しときに「淘汰」と訳すのは訳者の恣意であり、おそらくは何らかの思想への誘導であり、或いは単なる奇をてらった訳であって、読者を混乱させる。
また、natural history を「自然史」と訳すのもおかしな感じがする。natural history はもはや時代遅れな用語であって、「自然史」などと科学用語(自然科学?社会科学?それとも人文科学?)のような訳し方をするのは奇異である。natural history はやはり「博物学」とでも訳しておいたほうが無難ではなかろうか。そうすればこれが19世紀に流行った、近代科学よりも少しだけ前の時代の、それこそ手塚治虫や荒俣宏が描く牧歌的な世界であることがわかるだろうと思う。
私にはどうも、natural history という言葉には、キリスト教的創造説のニュアンスを感じる。人間に歴史があるように、神が創造した自然にも歴史があるのだ、という考え方。これは東洋の、中国の史学とはまったく相容れないものだ。歴史とは人が後世に書き遺すものだからだ。
私はたとえば Gesang を「賛美歌」と訳すのが嫌いだ。単に「歌」と訳す。Gesang には「賛美」なんて意味はどこにもないから。そういうもとの言語にない日本語固有の色を付けるのは嫌だ。
村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ
少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがある
少女漫画のように読みやすい、というのは、そうかもしれないなと思う。何も難しいことは書いてなく、書いてあってもそれは表面をなぞるだけで中に入っていくわけではない。ただのBGM。たとえば、村上春樹には、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたチェコスロバキアの人民が幸せであったかどうかなんてことを深く追求するつもりはないのだ。村上春樹にとってハプスブルク家は中世以来の圧政的・絶対王政的な封建領主であり、ヒトラーは独裁者なのだ。だからその両者から自由であったチェコスロバキアは自由だったはずだ、と言っているだけのことであり、実際に自由だったかどうかを考証するつもりもない。単に世界史的にはそのように教科書に記述されている、それで充分なのだ。ヤナーチェクの音楽がどうだということを語るつもりもない。単にそれらは、読みもしないのに本棚に飾られている革張りの書籍と同じだ。
そして唐突に殺人や自殺やセックスが挿入されるのはまさに少女漫画的展開であり、テレビドラマ的でもある。軽薄すぎる、とさえ言える(私は冒頭いきなり人が死ぬ話が好きになれない。多くのミステリーがそうだが。いきなり事件が起きて、謎解きするだけ。1Q84もある意味そうだ。殺意もとってつけたような場合が多い。殺意は単に、推理に必要とされるヒント、加害者と被害者の関係性としてだけ利用されている。そんなただのパズルみたいな話はいやだ)。
居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店
グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家
人さらいのいるサーカス小屋
着飾った女性たちのいる遊郭
そう、村上春樹は読者に魔法をかけてやろうと待ち構えている。そんな「薄気味の悪さ」は確かに村上春樹の作品の特徴だろうと思う。そうして、そこにやらせを感じて、読むのをやめてしまう人もいるはずだ。私はどちらかと言えばそっちだ。魔法をかけてもらおうとよろこんで身を委ねる人もいるだろう。彼の読者はおそらくこちらのタイプだ。
この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか?
何をもって恋愛小説というかだが、たとえば、氷室冴子の小説が恋愛小説だとすると村上春樹は全然違うと思う。志賀直哉や吉行淳之介や安岡章太郎なんかとは全然違う。谷崎潤一郎とか田山花袋とも違う。どちらかといえば、三島由紀夫や川端康成のそらぞらしさに近いものがあるかもしれない(ちなみに私が書くものは比較的志賀直哉や吉行淳之介に近い、と本人は考えている)。ちなみに宮崎駿の作品には恋愛ものはない。若い男女の非日常があるだけだ。
作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。
そう。村上春樹は実はほんとは恋愛なんかしたことないんじゃないかと思いさえする。
村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか!
そう。1Q84のヤナーチェクもまさにそう。別に何の必然性もない。
砧から渋谷へ
1Q84を頭から読み始めて、とりあえず第1章を読んでみた。
ヤナーチェクのシンフォニエッタから第一次大戦後のチェコスロバキアの話がでる。ハプスブルク家の支配とヒトラーの侵攻のはざまでつかの間の平和を楽しんでいる。この歴史認識からして私にはステレオタイプに見える。わざとなのか?それともほんとうにそう思っているのか。ハプスブルク家がいようといまいと、ヒトラーがいようといまいと、中欧の小国はパワーポリティクスにふりまわされて、ひとときも安らぎなどなかったはずだ。 さらに日本で大正が終わり昭和になって「日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。」などと書いている。わざとなのか。わざとこんな陳腐なことを書いてみせているのか。青豆という人がそういう考え方をする人だといいたいのか。それとも作者が本気でそう思っているのか。大正を美化しすぎているし、昭和を、戦後民主主義史観でしかみようとしてないようにみえる。
それから、砧から渋谷へ、タクシーで行く、しかも首都高に乗ってという話なのだが、まああり得ないことだと思う。よほど土地勘がないのか、タクシーに乗るのが好きならともかく。砧は確かに不便なところだが、少し歩けば新玉川線か小田急線がある。タクシーが渋滞に巻き込まれたのが3:45。待ち合わせが4:30。何時にタクシーを拾ったのだろうか。3:30くらい?首都高や一般道が渋滞することは当然予測できるはずだ。待ち合わせの時刻まで1時間しかないなら、普通の人なら安全確実な電車に乗る。新玉川線ならそのまま渋谷まで出れるし、小田急線なら下北沢で井の頭線に乗り換えるだけのことだ。
文章はところどころ非常に凝っていて、それ自体は少しおもしろい。
女性の姓が「青豆」でそれについてくどくど説明しているのはまあよいとする。
第2章も読んだ。芥川賞うんぬん。新人賞の下読みうんぬん。どうなんだろうこれは。
第3章も読んだ。なるほど。青豆は4:30に人と待ち合わせたわけではなかったのか。では4:30でなくてもよかったわけだ。つまり、もともと急ぐ必要はなかったのだが、急にタクシーを降りてみたくなったのかもしれない。それと、人に自分の特徴のある表情を見せたくなかった。警官が自動拳銃を持っていてそれが9mmで13発入る、なんてことを普通の女性が気にするはずがないのだが、それも理由があることだったわけだ。
まあ、ここがつかみだわな。いきなり殺人事件がおきる。主人公青豆は必殺仕置き人みたいな暗殺者だった。
あざやかなイントロだとは思う。多くの人はここで引き込まれてどんどん読んでいくんだろうなあ。