手の震え

たぶん加齢のせいだと思うが最近手が震える。

緊張したときには特に震えるのだが、緊張しなくても震えることがある。左手はほとんどまったく震えないが右手が震える。右手も、腕の角度によっては、腕をねじったりすると震えないことがわかった。右手を、ゆったりと自由な状態で、前に差し出した状態にしたときに一番震えやすい。

はんだ付けしていたのだが、右手にはんだごてを持ち、左手に銅線を持っていたりすると右手が震えるから左右持ち替えてもこんどは銅線が震えるから同じこと。両腕を使ってこまかい作業をするときに困る。

右手で箸を持ってものを食べるくらいの雑な動きならほとんど影響はない。

針の穴に糸を通すなどの作業は肘をついたりして腕を固定するから特に問題にはならない。

酒に酔っているときは逆に震えないことが多い。たぶん筋肉(神経)が弛緩しているのだろう。

いろいろ調べるとパーキンソン病とかアルコール依存とかいろいろ怖い病名が出てくるのだが、おそらくは加齢による原因不明の姿勢による震え(姿勢時の振戦)だと思う。若い頃ははんだ付けするときにこんなに苦労することはなかった。

大勢の前でパソコンでプレゼンするときマウスを持つ手が震えることはわりと昔からあった。これは完全に緊張によるもので、大して緊張していないつもりでも、意識すればするほど震える。これについては、慣れでほぼ震えなくなった。

喫煙という悪臭(悪習)

なんのへんてつもない田舎のラーメン屋があった。大してうまくはないことはgoogle mapsのレビューなど見ればほぼ確定的なのだが、特別まずいわけではないらしく、この町に来た記念に一度くらいは食べておこうかという気持ちで、炎天下にわざわざ出かけてみた。

そうすると先に来ていた客がなんのことわりもなく灰皿を取って煙草を吸い始めた。

私はエアコンの風上にいたが部屋は閉め切っているからそのうち煙は店内全体に充満した。私のこの店に対する好感度は65点くらいから0点まで落ちた。

こんなことなら来なければよかったと思った。というより、このあたりの飲食店やら居酒屋を一通りめぐってみようかとも思っていたのだが、その気持ちは一気にうせた。帰り道、それらの店の前を通ってみたがどこにも禁煙のシールは貼られていない。店頭に消毒液をいまだにおいているのに禁煙ではない店もあった。シャレオツな見た目のイタ飯屋にも、どこにも禁煙のマークはなかった。ああ、この大いなる田舎よ。

もうこの町では飲食店に入るのはやめようと思った。というよりこの沿線のどの駅に降りてもこうなのだから、もう一切ここらで飲食店に入るのはやめようと思った。店に入ったらまず店内を見回して灰皿を置いていたらそのまま出るくらいじゃなきゃダメ、というより、店先に禁煙のシールが貼ってない店にはもう入るのはよそうと思った。ここでは喫煙できるのがデフォルトなのだ。健康増進法などという法律はいまだここには存在していないのだった。

世の中には心優しい人がいてタバコの煙なんかきにしない、そんなことで店を選んだりしないという人がいるが、私にとっては、どんな料理を出すかとか、どんな日本酒をおいてるかとかそんなことより禁煙かどうかのほうがずっと重要だ。そして、喫煙可でも、喫煙不可でもどちらでも良いという心優しい人が多ければ多いほど、喫煙という悪習はこの世からになくならない。喫煙者は淘汰されないのだ。

田舎者ってなぜあんなにコロナを恐れるくせにタバコには無頓着で寛容なのだろう。田舎の人間には何を言っても無駄だということもまた真理なので、私はただここのブログに愚痴を書くだけにする。

世の中はうるさい

農家はうるさい。一年中、朝からうるさい。農家は工務店や工場と同じくらいに自分の家の隣にはありたくないものだ。私たちはなにか牧歌的なイメージで農村とか農家というものを考えるが、実際農家の隣に住んでみると実にいらいらする。農家というものは朝雨戸をあけるがこの雨戸の数が半端ない。庭に小屋のようなものを建ててその下に業務用の洗濯機か何かを置いて、服だか農作業用の何かだか知らないが延々と洗濯しているからうるさい。

第一種低層住宅地にも農家は存在するからタチが悪い。また、第一種低層住宅地には工務店のようなものはないけれど、そういう規制のないところにはけっこう工務店があったりして、そういうところではきまぐれに板金を叩いたりするから油断できない。古い農家の納戸か何かのように見えて実は中で機械を使って作業していたりする。何か味噌か醤油でも作っているのだろうか。まったくもって油断できない。少し田舎にいくと雑草や植え込みなんかがいたるところにある。それを原動機付きチェンソーで朝から晩までずっと刈っていてうるさくて仕方ない。

かといって住宅街の中もまったく静かではない。まず自動車。冬場は延々と暖気運転するやつがいる。ドアをやたらと何度も開けたり閉めたりするやつがいる。ケルヒャーで外壁をしつこく洗浄するやつがいる。ときどきバイクをもちこんで空ぶかしするやつもいる。深夜三時になると原付で新聞を配達しにくるがこれがまたうるさい。あと、小型犬だから鳴き声もかわいいでしょうと遠慮なく窓を開けっぱなしで無駄吠えさせるやつもいる。非常にうるさい。

バイクにしろ自動車にしろ、ガソリンエンジンの車はうるさいし臭いので早く絶滅したほうが良い。電気自動車が別に好きというわけではないのだが、せめて街中は電気にすべきではなかろうか。街中は無人運転のタクシーみたいにしてシェアするのが一番良いと思う。

私のような人間の場合鉄筋コンクリートの建物の地下の宿直室みたいなところが静かで快適でよく眠れるのだろうと思う。ひとけがなくて、冷蔵庫と簡単なキッチンがあって、ベッドとシャワールームがあって、クローゼットがあって、歩いて近くにトイレがあればよい。近所にスーパーとホームセンターとコンビニがあるとなお良い。というか、そういうところは探せばいくらでもありそうなものだ。

とにかく周りに人がいるといらいらする。朝は朝日があたる部屋じゃなきゃいけないという人もいるようだが私は別にどうでもよい。朝日なんかなくたって普通の精神状態で暮らせると思う。

二次創作とパブリックドメインと生成AI

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。

大塩平八郎

パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。