二次創作とパブリックドメインと生成AI

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

デモ

常々日本人はなぜデモをやらなくなったのかと思っていたが、最近のツイッターではしばしばデモが起こるようになってきた。おそらくこれからますますSNSがデモに利用されるようになり、私はますますSNSが嫌いになると思う。

昔は労働組合が人を組織して公安と対立しつつも共存してデモを主催していた。今もその名残で、路上のデモはたいてい労働組合が組織しているから一般人はばかばかしくてデモなんかやってられない。そこへいくとツイッターなどは自宅に居ながらにして自分の正体を明かす必要もなくデモに参加できるのだから便利だ。

じゃあ自分もデモやったりクラウドファンデングやったりするかと言えば私はやらんだろうと思う。私の場合はますます孤立感を深めるだけだし、私がいくら旗振り役をやっても誰も言うことはきかんだろう。デモやめろとも思わないけど、なんて馬鹿な主張をしてるんだろうなあとは思いながら眺めている。

腹が張る

たぶん年を取って胃腸の働きが弱ってきたせいではないかとおもう。以前のように暴飲暴食はできぬ。腸内細菌を整えるためには味噌、納豆、ヨーグルトなどを食べると良いらしい。ほかにもヤクルト1000を飲むようにしている。食物繊維などは逆に腹を膨らましてしまうらしい。

美濃焼

スーパーなどで、ちょっとおしゃれな柄物の洋食器があって、持ってみると軽くて薄い。裏返すと銘が入っているものもあるが、英語かURLのようなものが書いてあったりして調べてみると岐阜県の多治見市あたりの会社で、つまり美濃焼であることがわかる。そういう会社はだいたいそんな古くはなくて、とはいえ1960年頃に創業したものが多いようだ。つまり、戦後日本の庶民生活が洋風化して行く中で、洋食器に活路を見いだして、美濃焼というブランドを表に出さない形で売ってきたということだろう。

そういうことは有田や波佐見ではあまりやってないと思う。名古屋、岐阜あたりには、ノリタケ、カネスズ、ナルミなどかなり古い洋食器メーカーがあるようだ。中京地区では明治維新以後すぐに洋食器の製造が始まったということだろう。そういう風土というか慣習の違い、あと大消費地に近いという利点もあったのだろう。

夢

ウィキペディア「夢」 にも、

夢を見る理由については現在のところ不明である。

などと書かれているのだが、どうも夢というのは、外部からの感覚が遮断された状態の脳の活動そのものではないか。私たちは夢というものを寝ている間に見る不思議な演劇のようなものだと考えがちだ。

睡眠というものは、脳を休ませるためのものというよりも、身体や、視覚や聴覚などの感覚器官を休ませるものだとしよう。眠ると脳は感覚が遮断される。脳もまた眠るが、身体よりも先に脳は目を覚ましてしまう。外部からの刺激がまったくない状態の脳は幻覚を見る。それが夢である。

外界を見たり、音を聞いたり、他人と話をしたり、食事をしたりすることによって、脳は情報を得て、外界や他者に対して反応しなくてはならない。外から得られるバイアスによって人は、いや、動物というものは、正常に行動できる。というよりも、バイアスのもとに行動が最適化されるように進化し、淘汰されている。外界からの刺激がない場合の脳の働きは定義されてない(する必要がない)から、幻覚となり、夢となる。

人も動物も無重力ではうまく動き回ることができないが、重力下では歩いたり座ったり寝転んだりすることができる。それと同じだ。凧は糸が切れると制御不能になる。糸というバイアスがあるからこそ凧は安定して浮かんでいられる。

外界からの刺激がない状態では脳はうまく動くことができず、浮遊し、くるくる回って飛んでいってしまう。それが夢なのだ。動物の見る夢もそれで説明つくのではないか。

つまり、人工知能とか人工の自我とか、自我エンジン、意識エンジンというものが発明されたとしよう。外部からの刺激がまったく無い状態で、それはただ空回りするしかない。
それが夢だ。逆に言えば、人工知能を作りたければまず無入力状態で夢を見る機能を持たせなければならない。そこに外部から刺激を与えることによって反応するように仕込む。意識というものはただそれだけなのではないか。夢にも、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのではないか。だから、クラウドの中に人工知能だけが存在していても役に立たない。それはただクラウドの中を浮遊しているだけだ。人工知能は個体の中に入れてやり、目を付け耳を付け手足を付けて、自己存続のモチベーションを与えてやらないと、知能として成立しないのではないか。

で、夢というものがそういうものだとして、では夢から小説のネタができるか。うーん。場合によっては偶然できるかもしれない。

ある種の薬物は感覚を狂わせたり遮断したりするのかもしれない。だから脳は幻覚を見る。脳が麻痺したり興奮したりするから幻覚を見るのではないのかもしれない。脳とはもともとそうしたものなのだ。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲、鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

小田原城

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小田原城はきれいなんだが、木が天守閣を隠しているのはよくないと思うんだ。城というモノは威厳を示すものだから、東海道筋を通ってきた旅人たちにも、堀と、櫓と、天守閣が見えるようになっていたと思う。決して木で隠すなんてもったいないことはしなかったはず。


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本丸のすぐ下、というか、本丸の一部に図書館と文化館があるのだが、それはまあ良いとして、そこまで電信柱と電線が通っているのはいかがなものか。こういう現代建築こそ木で隠すなどの配慮をしてほしいものだ。特に電線は地中に埋めるとか。そのくらいの配慮がなぜできないのかと思う。城は堀の外から眺めた姿も大事だと思う。特に櫓や橋が壕に逆さまに移り込んでるのが絵的に極めて貴重なのだ。


迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。