ネトウヨ政党

私自身は決してネトウヨ政党ができても支持することはないが、ネトウヨはある程度いても仕方ないと思っている。今の日本には左翼が多すぎて、特に全共闘世代の年寄り連中がまだ闊達に活動している現状では、対抗勢力として多少のネトウヨがいないと釣り合わない。自民党は政権与党の地位を維持するのが最優先で、あまり過激なことは言えないので、自民党以外の右翼政権というものはどうしても必要になる。

ネトウヨはアサハカだというが左翼だってアサハカなんだから別に問題ない。アサハカな人たちが支持するアサハカな政治家がある一定数いるのは民主主義では当たり前だろう。そうとはいえ、県知事を直接選挙で選ぶのはもうそろそろやめても良いのではないか。余りにもおかしな知事が多すぎだろう。まず市町村長を直接選挙で決めて、市町村長が知事を選出するとかにしてはどうか。

二次創作とパブリックドメインと生成AI

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

デモ

常々日本人はなぜデモをやらなくなったのかと思っていたが、最近のツイッターではしばしばデモが起こるようになってきた。おそらくこれからますますSNSがデモに利用されるようになり、私はますますSNSが嫌いになると思う。

昔は労働組合が人を組織して公安と対立しつつも共存してデモを主催していた。今もその名残で、路上のデモはたいてい労働組合が組織しているから一般人はばかばかしくてデモなんかやってられない。そこへいくとツイッターなどは自宅に居ながらにして自分の正体を明かす必要もなくデモに参加できるのだから便利だ。

じゃあ自分もデモやったりクラウドファンデングやったりするかと言えば私はやらんだろうと思う。私の場合はますます孤立感を深めるだけだし、私がいくら旗振り役をやっても誰も言うことはきかんだろう。デモやめろとも思わないけど、なんて馬鹿な主張をしてるんだろうなあとは思いながら眺めている。

腹が張る

たぶん年を取って胃腸の働きが弱ってきたせいではないかとおもう。以前のように暴飲暴食はできぬ。腸内細菌を整えるためには味噌、納豆、ヨーグルトなどを食べると良いらしい。ほかにもヤクルト1000を飲むようにしている。食物繊維などは逆に腹を膨らましてしまうらしい。

美濃焼

スーパーなどで、ちょっとおしゃれな柄物の洋食器があって、持ってみると軽くて薄い。裏返すと銘が入っているものもあるが、英語かURLのようなものが書いてあったりして調べてみると岐阜県の多治見市あたりの会社で、つまり美濃焼であることがわかる。そういう会社はだいたいそんな古くはなくて、とはいえ1960年頃に創業したものが多いようだ。つまり、戦後日本の庶民生活が洋風化して行く中で、洋食器に活路を見いだして、美濃焼というブランドを表に出さない形で売ってきたということだろう。

そういうことは有田や波佐見ではあまりやってないと思う。名古屋、岐阜あたりには、ノリタケ、カネスズ、ナルミなどかなり古い洋食器メーカーがあるようだ。中京地区では明治維新以後すぐに洋食器の製造が始まったということだろう。そういう風土というか慣習の違い、あと大消費地に近いという利点もあったのだろう。

NHK

チコちゃんに叱られるも、最初は、大人のくせに、ぼーっと生きてると5才の子供でも常識的にわかるようなことがわからず、子供に叱られて恥をかくよ、という程度のごく妥当なコンセプトの番組だったのだろうが、視聴者が見たがるためにどんどんネタを広げて行かなくてはならなくなり、到底5才の子供が知るはずもないような専門知識でチコちゃんに叱られなくてはならないというあり得ない状況に陥ってしまっている。しかもその専門知識にしても、いわゆる諸説ありで、なんでわざわざそんなことで怒られるのか意味不明なこともある。

しかしNHKの視聴者はたぶん5才の子供に叱られるのが屈辱的、というような見方をしているのではなくて、単にNHK様に叱られて、あーNHK様に叱られたあ、えへっ。もっとチコちゃんみて賢くなろう、くらいの気分で見ているのだろう。

この番組の制作スタッフも、NHKの管理職連中も、この矛盾にはとっくに気づいているはずだが、視聴率が取れるからやめることができない。そのうちアインシュタインでもフォン・ノイマンでもアラン・チューリングでも、シュレディンガーでも高木貞治でもわからないようなことでチコちゃんに叱られるハメになるだろう。問題は明らかにNHKそのものというよりは、NHK様をありがたがる権威主義的マゾヒストたちなんだが、だからさっさと国営放送なんていう、社会主義的、全体主義的な放送局は廃止してしまえばいいのに、飯の種はそう簡単に自分からは無くせない。

NHKという存在自体が自己欺瞞の塊になってしまっていて、中の人もとっくにそれに気づいているのだが、周りをびっしり取り巻く視聴者様がいるから、そこから外へ抜け出すことができない。

ブラタモリにしてももともとはテレビなんか見てないで町をぶらぶら歩き回ろうというようなコンセプトだったに違いないが、いつの間にかガチガチの教育番組になってしまっている。タモリも嫌でしかたないだろうがしかしタモリほどの人でもNHKの番組に出るという魅力に抗することはできないらしい。タモリ倶楽部はスタッフの犠牲の上に相当無理して続けていたんだと思う。こうしてお上品なNHKの番組だけが生き残る世の中で良いのだろうか。

しかしあの、江戸川のせせらぎでー、という歌を流行らそうとしてたのが無くなって良かった。江戸川は大河なのにせせらぎというのは言語感覚的に、NHK的におかしいだろ。

老後

見るもの聞くもの何もかも嫌になって、ツイッター見ても嫌な気分になるし、youtube premium もいい加減見尽くして次何見ようか悩むし、人様のブログ見てもあまりのくだらなさに憂鬱になる。世の中から目を背けてたった一人で生きていけば良さそうにも思うが、それではなんで、なんのために生きているのか。生きていても死んでも同じじゃないか。

エリザベス女王みたいに90才くらいまで生きてある日誰もしらんうちに死んでいた、本人もいつ自分が死んだのか気づかなかった、みたいな死に方は良いなと思う。昭和天皇みたいに病気で苦しんだあげく死ぬのは嫌だ。

もし90まで生きるとしたらあと30年もある。けっこう長い。あっけなく死んでくれても別に良いのだが、30年間あるとしたら何して生きれば良いんだろう。

若い頃と比べて寝返りをうたなくなってきたように思う。ずーっと同じ姿勢で寝ていると体が痛くなってくるので意識して右を向いたり左を向いたりする。睡眠も浅くてずーっとぼーっとしているような気もするし、実は寝てるような気もするし、自分でもよくわからん。

歯はどんどん弱く悪くなっていく。歯は鍛えても強くはならずただどんどん弱くなる一方なのだそうだ。ガムなんかを噛んで歯や歯茎を鍛えようと思っても、なんの効果もないのだという。歯はだんだんもろく弱くなっていき、やがては割れてしまう。

老後、アホみたいにどうでも良いブログを書くのは、ボケ老人の戯言で大した害はないと思うのだが、若い頃書いたものを手直しするのは非常にまずいと思っている。もうそろそろその限界の年が近づいている。

今更ブログを再開してSEOみたいなこともやり始めたのだが、これにいったいなんの意味があるんだろうか。私はこれまでもいろんなことに手を出して飽きたらまた別のことをやってきた。どれ一つとしてまともに世間に認められたことがないと思う。しかし世の中に認められるとはなんなのだろうか。本が50万部とか100万部売れることか。ブログランキングで1位になることか。そんなこととは全然違うだろう。

昭和のおっさんが、もちろん私もその一人だが、飲み屋でテレビみながら説教じみたことを言うのはほんとに害悪だと思う。もちろんそのうちおんなじように平成のおっさんとか令和のおっさんが出てきておんなじことを言われるのだろうが、どうも私には、戦後昭和のおっさんが一番タチ悪いような気がしてならない。だいたいみんな自分を過大評価していて自分は社会に必要とされているとか若者に慕われていると思っている。若者はそういうおっさんの扱い方、おだて方に慣れているに過ぎない。おっさんは社会の厳しさをすごく薄めてワクチンにして若者に接種してあげてるんだと思っているが、若者にとっては大きなお世話だ。さっさと死ねば良いと思われているだけだ。

企画

世に「歴史エンタメ」と呼ばれている作品の多くは、「サラリーマン金太郎」や、「課長島耕作」と同じで、戦後サラリーマン小説の一種であり、 それを子供向けにすれば「ワンピース」になるのだ。 吉川英治が受けたのは、歴史上の人物や舞台を素材としつつ戦後のサラリーマン社会を描いたからであり、 「のぼうの城」もまた同工異曲といえる。

「のぼうの城」の場合、中小企業を継いだ二代目の世間知らずが大企業に刃向かって、前社長の部下たちが頑張って、そこそこ勝利したという話の焼き直しに過ぎないし、 上田合戦にしろ、あるいは真田丸にしろ、歴史好きだから面白いというよりは、 今の日本のサラリーマンが見て素直に共感できるから受けているだけだ。

NHKの大河ドラマも似たようなもので、日曜日夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけに作られているわけだ。

世の中は、いくら歴史好きのために歴史小説を書いても売れはせず、 「日曜夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけ」に作られた「えせ歴史もの」しか売れない仕組みになっている。

たとえば最近はやった「相棒」とか「倍返し」みたいなサラリーマンものを歴史エンタメに作り替えるのが、 売れる歴史小説、時代小説を書くコツだろうと思う。

村上春樹が売れている理由が私にはずっとわからなかったのだが、 村上春樹は英文学の翻訳などをやっていて、「マス」が読みたがっている小説とは何かということを把握し、 自分でも書いてみたのだろうと思う。 要するに村上春樹の小説というものは官能小説を純文学に仕立てたものだ。 多くの純文学がそういうしかけでできている。 ふわっとしてて、登場人物も少ないし、ストーリーがあるわけでもない。そのままでは「やおい」ものになってしまうのだが、 読者が読み続けるのは官能小説のエッセンスが仕込んであるからだ。 そういう小説は、小説を読むのが苦手な「マス」にも読まれるのだ。 カズオ・イシグロだとそこまで露骨ではなく、彼の場合やはり、日本からイギリスに帰化したという屈折が、 根っこになっている。

新人でいきなり売れっ子になる小説家もいるが、だいたいは文章力というよりは、企画で売れている。 ということは一人で思いついたというよりは誰かヒントをくれて売り出してくれた仕掛け人がいるに違いない。 かならずそういう人たちが生まれてくるコミュニティというものがある。

いろいろ売れている小説を調べていると、最初から企画どおりに書いた小説のほうが売れるに決まっていて、 書きたいものを書いてそれを企画会議に通すために書き直すのではそもそも企画会議に通るかどうかすらわからない。 で、企画会議を通るのは純文学かエンタメ小説を偽装した官能小説かサラリーマン小説しかあり得ない。 それ以外のものにも読んで面白いものはあるし、むしろ、そういう規格から外れた小説のほうが私にとっては面白いが、 しかしそういう規格外れの企画は企画会議を通らないから出版されることはめったになく、 出版されても売れることはないのだ。

夢

ウィキペディア「夢」 にも、

夢を見る理由については現在のところ不明である。

などと書かれているのだが、どうも夢というのは、外部からの感覚が遮断された状態の脳の活動そのものではないか。私たちは夢というものを寝ている間に見る不思議な演劇のようなものだと考えがちだ。

睡眠というものは、脳を休ませるためのものというよりも、身体や、視覚や聴覚などの感覚器官を休ませるものだとしよう。眠ると脳は感覚が遮断される。脳もまた眠るが、身体よりも先に脳は目を覚ましてしまう。外部からの刺激がまったくない状態の脳は幻覚を見る。それが夢である。

外界を見たり、音を聞いたり、他人と話をしたり、食事をしたりすることによって、脳は情報を得て、外界や他者に対して反応しなくてはならない。外から得られるバイアスによって人は、いや、動物というものは、正常に行動できる。というよりも、バイアスのもとに行動が最適化されるように進化し、淘汰されている。外界からの刺激がない場合の脳の働きは定義されてない(する必要がない)から、幻覚となり、夢となる。

人も動物も無重力ではうまく動き回ることができないが、重力下では歩いたり座ったり寝転んだりすることができる。それと同じだ。凧は糸が切れると制御不能になる。糸というバイアスがあるからこそ凧は安定して浮かんでいられる。

外界からの刺激がない状態では脳はうまく動くことができず、浮遊し、くるくる回って飛んでいってしまう。それが夢なのだ。動物の見る夢もそれで説明つくのではないか。

つまり、人工知能とか人工の自我とか、自我エンジン、意識エンジンというものが発明されたとしよう。外部からの刺激がまったく無い状態で、それはただ空回りするしかない。
それが夢だ。逆に言えば、人工知能を作りたければまず無入力状態で夢を見る機能を持たせなければならない。そこに外部から刺激を与えることによって反応するように仕込む。意識というものはただそれだけなのではないか。夢にも、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのではないか。だから、クラウドの中に人工知能だけが存在していても役に立たない。それはただクラウドの中を浮遊しているだけだ。人工知能は個体の中に入れてやり、目を付け耳を付け手足を付けて、自己存続のモチベーションを与えてやらないと、知能として成立しないのではないか。

で、夢というものがそういうものだとして、では夢から小説のネタができるか。うーん。場合によっては偶然できるかもしれない。

ある種の薬物は感覚を狂わせたり遮断したりするのかもしれない。だから脳は幻覚を見る。脳が麻痺したり興奮したりするから幻覚を見るのではないのかもしれない。脳とはもともとそうしたものなのだ。