大塩平八郎

パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

Serious Sam HD The 2nd Encounter クリア

クリアと言っても一番簡単な tourist でさらっと最後までいっちゃった感じ。やりこむような時間もなし。昔やったときを思いだしつつ。

最初がマヤ、次が古代メソポタミア、最後が西欧の大聖堂。それぞれ特に脈絡なし。それぞれにラスボス戦あり。1st Encounter がひたすらエジプトだったので、それと同じ要領で三倍にふくらました感じではある。

御衣黄

飯田橋で電車を降りて、東京大神宮、靖国神社、千鳥ヶ淵、皇居御苑などをぶらぶら歩く。
気持ちの良い一日だった。
最近は、テレビも「パワースポット」などという言葉を流行らせようとしているが、
これは要するに新手の霊感商法のようなもので、
こんなものに荷担するのはいかがなものかと思う。

飯田橋から東京大神宮の間にバーガーキングがあり、昼飯代わりに食べる。
日本で簡単にワッパーが食べられるようになり幸せ。
肉はニュージーランド産なのだな。

それはそうと東京大神宮はもともとは明治政府が作った伊勢神宮の遙拝所から始まり、今のところに移転したものらしい。
昔は高台にあったもののようだが、今やビルに囲まれて伊勢神宮の方角など見えないわけだが。
かつては、神社の前の、南西方向に延びた道が伊勢神宮を遙拝する目的の表参道だったのかもしれない、
今神殿は南面しているので、礼拝する人は伊勢神宮に背を向ける形になる。
遙拝所という意味ではかなりおかしいが、神明神社だと思えば別に変ではない。
神前結婚式がここで始まったというのもなんとなくそんなものかもしれんと思った。
もとは伊勢神宮の出張所で首都布教の拠点だったわけだからな。
その後大正時代になると明治神宮が出来、東郷神社や乃木神社などが出来ていく過程で広まっていったのだろう。
赤福を食べた。
東京大神宮を詠める:

> 武蔵野の原より はるか神風の 伊勢のやしろを 拝む丘かな

靖国神社は新緑がきれいだった。
八重桜がまだ咲いていた。
いろんな種類の桜があるようだが、花が咲いてないとよくわからない。
特に「吉野桜」というのがソメイヨシノを言うのかヤマザクラを言うのかがわからない。
ソメイヨシノという名前が紛らわしすぎる。
ここの桜は、ぎりぎりまで植え替えないのだろう。
またおそらくは、あまり農薬などは使わないのだろう。
かなり年を取った桜が見られる。
街路樹や公園の桜などは幹が黒々として太くごつごつしている。
ここの桜はどちらかと言えば細く、幹は苔むしていて緑色である。
育て方が根本的に違うと見える。

植ゑられし 古きさくらは 苔むして 朽ち折れてゆく やすくにの庭

苔むして 蟻むれたかる 一筋の 道さへとほる 朽ち桜かな

老いにける 桜なれども 宮人に まもられ保つ 命なるかな

朽ち木立つ このやすくにの 宮の庭 かたへに苗ぞ かつ植ゑらるる

植ゑられて あるがまにまに 生ひ育ち 老い朽ち果つる 宮桜かな

元宮と鎮霊社にもお参りする。
元宮は、京都に作られたほこらを移したというもので、特に問題もないが、
鎮霊社は、「靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている」
とのことでなにやらただ事ではない。
調べてみると賊軍として死んだ白虎隊の隊員や、西南戦争で死んだ西郷隆盛らが祭られているとのことだった。
靖国神社の献木としては桜が多いとは思うが、そうでない木、たとえばモッコクなどがたくさん植えられている。
何かいわれがあるのだろうか。

鎮霊社を詠める:

> やすくにの 庭居に百千 植ゑられし 木の間に暗き 隠れ宮かな

千鳥ケ淵戦没者墓苑。ほとんどひとけがない。比較的新しい施設のように思われる。

御製:

> 戦なき 世を歩みきて 思ひ出づ かのかたき日を 生きし人々

昭和天皇御製:

> 国のため いのちささげし 人々の ことを思えば むねせまりくる









千鳥ヶ淵沿いにかえで、西洋かえで、八重桜などが植えてあり、これがまた美しい。
皇居御苑には「御衣黄」という珍しい桜が咲いていたので、
少し写真を撮った。

花の形から八重桜の一種であることがわかる。
花びらに葉緑素があるので、黄色または黄緑色に見えるが、花心はピンク色。
栽培種で、日本全国の庭園など100箇所くらいで見られるという。


宮城の 千鳥が淵に 春たけて 散りそめにける 八重桜かな

大君の 千代田の宮の 苑におふる 浅葱桜の 盛りなるかな

九重の 千代田の苑も いにしへは 日比谷の海の 入り江なりけむ

今に見る 千代田の城の 石組みに もののふの世の いにしへを思ふ

もののふが 開きし海の あとなれや 千鳥が淵の 深き濃緑

春たくる 千鳥が淵を 見渡せば 水面も岸も みな青みたり

花散らす 風は吹けども 夏近き 千鳥が淵に さざなみもなし

城の濠 巡りて走る 外つ国の人は やまとの春を知るべし

外つ国の 人にみせばや 武蔵野の 千代田の城の 春の盛りを

後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」

駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波

1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。 承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。 丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」 などと表現している。 確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、 戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、 「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。 非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。

源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、 それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、 若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。 たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。 そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。

承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。 後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、 頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、 若くはつらつとした時期だったのに違いない。

1189年、頼朝が上洛したとき、後鳥羽天皇は在位中であり、頼朝は天皇に拝謁している。
後鳥羽天皇はまだわずかに9才の時だが、もはや分別は付いている頃で、その印象は強烈だったに違いない。

宮廷文学が喪失したあと、「玉葉」「風雅」などの、実質的には存在しない、 バーチャルな宮廷というものに逃避したような連中も確かにいただろう。 正徹はそうだったのだろう。 しかしそのようなバーチャル宮廷文化を「受け継ぐ天才」など居るはずもない。 そこで江戸時代に目を転じたときに、丸谷才一の目に映ったのは「芭蕉」や「蜀山人」といった、
町人文化の「天才」たちだけであり、 秋成、良寛、景樹、蘆庵といった歌人たちの業績はまるで見えてないのだろう。 江戸時代における宮廷文化とは「一粒の麦」であって 「もし死なずば一粒にてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし」 というように、万葉時代には広く大衆のものであった歌の文化は、 後鳥羽院時代を頂点として一時期宮廷の中に凝縮され、
宮廷サロンが喪失したのちには、再び武士のサロンや町人のサロンなどの広い多様な形態に拡散して行ったのであり、 もはやバーチャル宮廷など必要としなくなった、と考えるのが一番素直ではないか。

蜀山人が天才かどうか知らないが、あのような下品なげてものを優れていると感じる感覚には、 正直ついていけない。別に江戸時代について勉強したいわけではなかったのにどうしてもそうなってしまうのは、江戸時代の文芸や学問というものが、いろんな意味でさけて通れないからなのだろう。

「大正天皇御集 おほみやびうた」の解説で岡野弘彦氏が言うには、武士はいついかなるときに腹を切ることになるかもしれないので、はずかしくない辞世の歌を詠むためだけに、ただそれだけのために、普段から一生懸命和歌を学んでいたのだと。

思うに、歌人の風習に、辞世の歌を詠むということはそもそもなかったはずだ。宣長は遺言状の中に歌を詠んだがこれも別に辞世の歌というつもりはなかったと思う。

その由来は、wikipedia にあるように「禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗」だったはずで、さらに状況証拠で言えば、辞世の歌を多く詠んだのは、江戸中期以降の狂歌師たちだ。歌舞伎となった忠臣蔵の大石内蔵助や浅野内匠頭長矩が切腹するときに辞世の歌を詠んだことになっている。

たぶん創作だろうけど。それで武士や狂歌師らに広まっていったのだが、実際に武士が切腹する場面などそうそうないので、狂歌師の狂歌が目立つということなのだろう。だから、武士の心得として和歌を学んだというは、あっているかもしれないが全然違うかもしれない。たとえば田安宗武がそういうつもりで和歌を学んだとはとても思えない。

切腹自体が江戸時代に様式化されたものであり、太平記の時代には切腹は単なる自決方法の一つにしか過ぎなかった。切腹、忠臣蔵、辞世の歌、桜、大和魂などというのは、歌舞伎を媒介として江戸中期以降に作られたイメージではないか。

橘曙覧

水島直文・橋本政宣編注「橘曙覧全歌集」を読む。 わりとおもしろい。
冒頭に載っている歌:

あるじはと 人もし問はば 軒の松 あらしといひて 吹きかへしてよ

「嵐」と「あらじ」をかけている。愉快な歌。

朝ぎよめのついでに
かきよせて 拾ふもうれし 世の中の 塵はまじらぬ 庭の松の葉

道元の山居の影響を感じるよね。
同じ福井の山の中だし。

閑居雪
なかなかに ふり捨てられて うれしきは 柴の網戸を あけがたの雪

これも、「戸を開け」ると「明け方」をかけている。おもしろいなあ。

あばらなる やどはやどにて すみわたる 月は我にも さもにたるかな

「あばら」というのは歌にはあまり使われない言葉なのではないか。
全体にくだけた口語調に見える。

述懐
なかなかに 思へばやすき 身なりけり 世に拾はれぬ みねの落ち栗

いいなあ。この屈折した感じが。

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。 千人といっても、 江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

三度炊く 米さへこはし 柔らかし 思ふままには ならぬ世の中

式亭三馬:

善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵もほめず 閻魔叱らず

蜀山人:

生きすぎて 七十五年 食ひつぶし かぎりしられぬ あめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

暑くなく 寒くなくまた 飢ゑもせず 憂きこときかぬ 身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

酒も飲み 浮かれ女も見つ 文もみつ 家も興して 世にうらみなし

のんきだな。 とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

思ひきや 野田の案山子の あづさ弓 引きも放たで 朽ちはつるとは

宮本大平:

えびす船 打ちもはらはで 白雪の ふり行く老いの 身ぞあはれなる

日本史百人一首

渡辺昇一「日本史百人一首」。 平凡な構成。
北条泰時:

事しげき 世のならひこそ ものうけれ 花の散るらむ 春も知られず

いやあ。京都で訴訟に忙殺されていたきまじめな泰時の姿が目に浮かぶような良くできた歌だけど、 本人が詠んだ歌じゃないよな。 太田道灌以来うたぐりぶかくなった。

徳川家康:

嬉しやと ふたたび起きて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

辞世の歌というが、まあ、本人の歌じゃないよね。というかどう見ても江戸の町人が詠んだ歌だろこれは。

またまた徳川慶喜:

この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり

うーん。どうなのかこれは。いずれにせよ渡辺昇一という人は歌の真贋などまったく興味無く、ただ面白そうな歌をあれこれ集めたということだろう。狂歌とはそうした遊びかもしれんが、和歌の勉強にはならない。