釣月耕雲と禁葷食

相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、 それでいろいろ人とも話をしてみて、
果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、 もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。

道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。 一休も、また、済顛も肉を食べた。 道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。 我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。 しかし、当時中国でも日本でも、 僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。

どうもwikipediaの禁葷食 など読むと、 中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。 というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、 中国の神仙思想から来ているように思えるからである。 カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。

宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。 日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。 インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、 独自の中国仏教というものが出来てきた。 私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが (寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、 あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、 中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。 ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、 仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、 その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、 そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、 道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。 日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。 そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、 今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。 曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。 日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、 むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、
インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、仏教は中庸を唱えた。

ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。 そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。 「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、 「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、 「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、 済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと 「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。

そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。 道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。 そう思って読むと、 「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。 「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。

済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。でまあ、私のブログで良く読まれているのが臨済関連の「裏柳生口伝」と済顛関連の「山居」なのは単なる偶然ではないのかもしれん。誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。最近中国語のスパム多いし)。

ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、ついでに宣伝しておく。

ところで臨済という人は、 というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、 それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。 警策自体は江戸時代以来らしいが、 それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。 そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。


追記。wikipedia を読んでも禁葷食のことはさっぱりわからない。改めてAIにも聞いてみた。思うに、wikipedia はもう時代遅れだ。AI を導入すべき時代が来ている

京都巡り

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、
寺では鐘楼を、
神社では舞殿を撮るようにしている。
鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、
舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

[鐘](/?p=12653)については以前も書いた。
上の写真は相国寺の鐘楼だ。
相国寺の近所に一泊した。
特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。
相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、
たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。
なかなか一般人が見る機会はないと思うが、
舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。
というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、
拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。
薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。
石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、
これも以前[舞殿](/?p=12046)というのに書いた。
なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、
鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、
四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。
それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、
人にとっては神の表象である。
神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。
後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。
上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、
社殿ができたのはずっと後のことである。
といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。
結界に入って神に対面する人は当然貴人である。
貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。
そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。
本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。
舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。
我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。
本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。
社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。
いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。
将軍放浪記冒頭、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。
それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。
しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。
面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、
京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、
北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。
ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、
神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、
いったいどういうわけなのだろうか。
そういや京都御苑もルートから外れているわな。
あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。
今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、
あんなひどいところはない。
五条からの参道は狭くて車が多いし、
建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。
見た目が京都っぽいってことだろうか。
京都七不思議の一つにすべきだ。
上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、
逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。
実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、
京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、
教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。
しかし建物はよかった。
義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。
たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、
やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、
「西行秘伝」を書いたので見に行った。
法住寺。
すごいなこれは。
清盛が後白河に建ててやったものだが、
京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。
他に何かあっただろうか。
まったく思いつかない。
後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、
ここで矢通しをしたわけだ。
不思議なことをしたものである。
西行の時代に通し矢があったかどうか。
たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、
ランチだったが、ずいぶん散財した。
よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。
牛肉を食うのは横浜が先だし、
それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。
だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。
上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、
なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。
両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。
そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。
いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、
鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、
めずらしくて撮影した。
鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。
鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。
河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。


道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

国枝史郎

いろんな意味でいろいろひどい。

天草四郎の妖術。天草四郎の臨終の言葉がイエスと同じく 「われ渇く」「事畢りぬ」 だったというのだが、作り話にもほどがある。

ヒトラーの健全性。 たわいないとしか言いようがない。 戦中の日本人がみなこんな馬鹿だったとは思えないが、 こういう人はたくさんいたのだろう。

ローマ法王と外交。これも戦中、日独伊三国同盟絡みの話と思われるが、 いろいろつっこみどころがある。

法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行とりおこない、 「汝を神聖ローマ皇帝となす」 と宣言し、その冠を頭上に置き、 「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至ないしは攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。

ローマ皇帝がローマ教皇に戴冠されるというのはカール大帝に始まる権威付けであり、 オットー一世はそれをなぞったのにすぎない。皇帝と教皇は持ちつ持たれつ。つづくグレゴリウス七世とヘンリー四世の破門がどうのこうのと言うのも同じ話。誰が皇帝となり誰が教皇となるか、誰を担ぎだれを蹴落とすか。皇帝を戴冠するのも破門するのも教皇の自由だが、皇帝はその教皇をローマから武力によって追い、或いは枢機卿を味方につけて、自分に都合の良い教皇を立てることができる。複数の皇帝と複数の教皇が権威と武力を駆使して駆け引きをしているというのが実態なのであり、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝より偉いというのは全然間違った見方である。

ペーターという狂信家を利用してウルバヌス二世が第一次十字軍を招集した。まあそこまでは良いとして、

私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎ともすると法権を侵す態の行動をし英気を他に洩らす術なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。

その観察は明らかに間違っている。確かにウルバヌス二世は第一次十字軍の重要なロールプレイヤーの一人だが、それ以上ではない。十字軍は、少なくとも第一次十字軍は、東ローマが衰退し、相対的にトュルク人とノルマン人の勢力が東欧に伸張したことによって起きた。ただそれだけだ。キリスト教とはほとんど関係ない。その後の十字軍はヨーロッパのキリスト教国の勝手な暴走であったかもしれないが。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『坑夫』をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、ちょうど

いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。さらに進むと、

そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。春日部がどんなだかは知らない。

ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、そっちは取材してなくて、たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

追記あり

迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。

高家の真相

『上野介の忠臣蔵』を読み進めてみたのだが、 吉良義央が畳の縁の模様が有職故実と違うから取り替えろと命じたとか、 そんな細かな家元みたいな指導を浅野長矩にしたのだろうか、 それが遺恨なのか、 非常に疑問だ。

古来天皇家と武家の間には遠い身分の隔たりがあった。 武家というものがないときには天皇と庶民の仲介をするのは公家などの貴族の仕事。 北条氏が頼朝を必要としたのは頼朝が貴種であって、 天皇と武家の間の仲介役として貴重な存在であったからだ。

足利氏もまた天皇家と武家の間を仲介する貴種として地方の下級武士らに重宝だったのである。だから御輿に担がれ幕府の将軍となったのである。

それは、時代が下って徳川の世になっても同じであって、足利宗家は絶えてしまったが、 分家がいくらも残っていた。一色、今川、吉良などがそうである。 徳川氏は天皇家と武家の間を直接仲介するほど身分は高くない。 官位官職はもらえたかもしれんが出自が怪しすぎる。 というか官位官職をもらうために仲介役が必要で、 そのために足利氏の正統な血を引いている吉良氏などが必要になったのである。 つまり天皇家と徳川氏の間の仲介をするために足利将軍家の血統を保っている吉良氏などのいわゆる高家が必要になったのである。 徳川氏が足利氏を実力で排除してとって代わった、という発想になりがちだがそれはまったく当たってない。徳川氏はもし足利宗家が残っていたら、やはり彼を幕臣として重く用いたのに違いない。信長が義昭を利用したように。

高家は堂上公家的に単に有職故実に詳しいからというので徳川氏の旗本になったのではない。重要なのはその知識ではない。知識などは身分の低いものでも学べばいくらでも身につけることができる。吉良氏が重要なのはその血筋によるものであり、 誰も吉良氏の代わりにはなれないのだ。

だから、義央が長矩にいちいち畳の縁の模様まで口出ししたなどというのはなんか違和感がある。義央は高家、長矩は五万石の大名である。畳のことでいちいち諍いしたりするだろうか。 遺恨があるにしても全然違うことだったように思う。遺恨と言っているが義央はいちいち身に覚えがないと言っている。もしかして恥辱を受けたのは長矩本人ではなく長矩の父であったかもしれん。そっちの方がずっと筋が通りそうな気がする。 遺恨というのは普通は親の仇とか積年の恨みというものであろう。 たまたま勅使応接の仕事を任されて、その上司が吉良で、上司に腹を立ててカッとなったというのが遺恨であろうか。あまりに戦後日本的な解釈ではないか。

いずれにせよ、足利将軍家の血を引くものがいきなり江戸城本丸中奥辺りの廊下で、無抵抗の幕臣に切りつけ、重傷を負わせたのだから、いくら大名とはいえ、長矩が切腹になるのは仕方の無いことだと思う。また、忠臣蔵はあまりにも有名な事件だから、もうこれ以上、遺恨とはなんであったかなど調べても何も出てこないのだろうなと思う。

ただ、義央が何かごちゃごちゃと古今伝授のようなことにこだわっていたというのは、まあ間違いなく誤解なんじゃないかなと思う。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。