宣長教

再びatokを使い始めた。atokが好きなわけではないが、ms ime やgoogleのimeに比べればはるかにましだ。google の ime は頭が悪すぎる。もう開発する意欲を失ったのだろうか。世の中消去法で特に嫌なもの耐えがたいものをのぞいていき一番最後まで残ったものを使うしかない。自民党しかり。windows しかり。好きなものを使う人はたぶん何か宗教にはまっているのだろう。

浅草にアジトを移すという暴挙に出て1ヶ月ばかりが経って、また著書も書き終えややヒマになったので(給料をもらっているほうの仕事は忙しいままだが)、本棚を整理してみると実にへんてこな本を買ってすっかり忘れている。例えば「江戸吉原図聚」とか。「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」とか。

自分の本を書いた後に人の本を読みかえしているとそれまでは気付かなかったことにいろいろ気付いて、自分の本を書き直したくなってくる。小林秀雄、丸谷才一、白洲正子とか。丸谷才一の『後鳥羽院』とか改めて読んでみると自分と考えが違い過ぎて、もう頭がクラクラする。昔はよほど何も考えずに読んだのだろう。特に自分の考えというものもなかったから何か名著のように考えていた。今読むと迷著としか言いようがない。しかしここまで読んでくれて丸谷才一も喜んでくれていると思っている。

手直しすると言っても大きな直しではないし、明らかに間違っているところとか言い過ぎているところを削る程度。

literature とは第一義には written works、文字に書かれた作品、つまり文芸という意味であろう。study of literature を文学と訳すのは良いとして literature を文学と訳すことに、そしてブンガクと今世の中で呼ばれているものに対して、かなり反感を持っている。私が書いたものでは敢えて文学と書くときには文芸に関する研究のことをのぞけば、ブンガクと呼ばれている近現代文芸(および近現代文芸論)について批判的な意味合いで言及するときだけで、それ以外は文芸と書くようにしている。

山本七平が「小林秀雄の流儀」で

小林秀雄が何故に本居宣長に関心をもったのか。それはわからない。だが宣長は、歌と源氏物語と古事記にしか関心をもたなかった人間と言ってよい。この点では非政治的であり、北畠親房以上に全く非政治的である。彼には未来を創出しようなどという意識は無かったであろうし、古事記を「見る」彼には、そんなことを念頭に浮かべる余裕があったはずはない。

と書いていて、おそらく山本七平も宣長を誤解しているのであろうと思えてくる。なにゆえ山本七平は北畠親房を非政治的だと思うのであろうか。あんな政治的な公家はいないと思うのだが。また宣長も『秘本玉くしげ』を書いて紀州藩主に献上し、また天皇から家康への大政委任を肯定する「みよさし論」を説き、それを老中松平定信が徳川家の権威付けにありがたく利用したのは明白だ。宣長は極めて政治的な人であり、自分の息子春庭を紀州藩の医師にするために就活さえしている。紀州藩に士分に取り立てられ葵の御紋入りの羽織を下賜されたときには

見ればもよ みけしたばりぬ さきくさの 三つ葉の葵 あやのみけしを

などと、うわあい、「見ればもよ(ほらごらんよ)」、葵の御紋入りの御衣(みけし)もらっちゃったあ、などという大はしゃぎな歌を臆面も無く詠み、帯刀して子分を従えて駕籠に乗って帰宅しているのである。医者の髪型である総髪をやめて髷を結うようになったのもおそらくこの頃からだ。この宣長の大喜びようについては「神社発信」vol.3 「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」に書いた。この「神社発信」の連載では現実主義者宣長の世渡りについて、「みよさし論」と尾張、紀州の徳川家との関係について書こうと思っていたのだが「神社発信」は8号で休刊してしまった。こういう政治的な宣長については尾張徳川家を研究している人が中心になって研究していて論文も書いていてそれを国会図書館に読みに行ったりもしていたのだった。

宣長は学問好きなカルト少年で、儒教も仏教も好きだった。そこから和歌を詠むようになり、師について体系的に研究もするようになり、和歌が好きといっても和歌の全てではなく王朝趣味ともいうべきそのごく一部を愛好していたのであって、また古事記に関していえば、古事記が好きだったというよりは研究テーマとして最も効率的に自分の業績を残せると思ったからライフワークに選んだだけだ。

(職業的)研究者というものは自分の好きなことを研究するのではない。もし人と研究テーマがかぶっていて、自分が負けると思ったらそこには手をつけず、自分の才能と労力を最大化できそうな別のテーマを選ぶ。研究者として学術界で認められないことには研究を続けることもできないからだ。宣長にとって古事記はちょうど手頃な研究テーマだった。もちろん興味なければ研究テーマに選ぶことはなかっただろうけれど。宣長がそういう考え方をする人だったことは「うひやまぶみ」を見てもわかる。

職業というものはそうしたものだ。そんな好きとは言えなくても収入を最大化できることを仕事に選ぶ。もちろん嫌いな仕事だと続かないから自分の性格と折り合いをつけながら適当な仕事を選ぶ。そしてほんとうに好きなことはプライベートで、趣味としてやる。宣長にとって歌を詠むことは研究というよりはまず第一に趣味であった。誰だってそうやって自分の職業を選ぶだろう。研究者だって同じだ。

和歌と古事記しか興味がないと言い切ってしまうと宣長は浮世離れした学者のようだがそんなことは決してない。宣長は彼なりに世渡りしてああなった人で、出世欲も名声欲もあり、徳川とも真淵ともうまく折り合いをつける人だった。

一方で上田秋成は大阪の市井の文人だったからあんなふうにガチンコで口論したのであり、また、あそこまで持論をかたくなに押し通そうとしたのは、単に自分がそれを信じていたからではなく、おおくは世間体のため、自分の立場、なによりも自分の業績を守るためだったと言える。

宣長は生涯宗教まみれな人だった。子供の頃儒教も仏教も大好きだった宣長は国学に目覚め、外来宗教から神道を分離しようとした。儒教も仏教も熟知しかつ古事記を徹底的に研究した宣長だからこそできたことだ。神道だけを研究して神道を論じることなどできない。神道以上に儒教も仏教も知ってなければ比較なんかできるわけがない。

ところが上田秋成が、神道は儒教や仏教と混淆してもいいじゃんと言い出したから、宣長は自分の努力が全否定されたと思った。だから反論せざるを得なかった。宣長も腹の底では秋成と同じ考え方なのだが、体面上、秋成を許すことができない。しかしそれをそのまま言っては世間にはばかりがある。門人らにうまく説明がつかない。だからああいう言い方になった。宣長は「国学の大人」というぺルソナを自らかぶることにした。

宣長の行動パターンを観察していればそういう結論にならざるを得ないのだが、世の中ではいまだに宣長は浮世離れした研究者のように考えている。

宣長は教祖になろうとしていたところがある。ところが宣長は真淵と違って門人に教えを説くということに興味がなかった。めんどくさがっていた。門人らは口伝とか秘伝のようなものを授かりたかったのだろうけど、宣長は自分の考えを全部書いて遺した。

ちなみに真淵は宣長に自分の万葉研究の極意を伝授したがっていたフシがあるが、宣長は真淵の研究なんぞにはまったく興味がなかったようだ。

ソクラテスにしろイエスにしろ孔子にしろマホメットにしろ、教祖様とか哲人は自らものを書いて遺さぬものだ。弟子たちが教祖の言行を伝記にするから宗教の始祖になれる。教祖自身が文字に書き記すと曖昧さや解釈の余地がないので宗教になりにくい(つまり二次創作や共同制作の要素が無いと宗教は成立しにくい。教祖が全てを厳密に決めてしまっては、一般大衆に広く受け入れられるのは難しい。初代ガンダムからさまざまなガンダムがが派生したことによってガンダムはあそこまで広く受け入れられた。富野由悠季独りではああはならなかった。天理教のおふでさきは教祖が書いたものだが解釈の余地が多く残されていたのだろう)。

平田篤胤のように直接宣長に会ったことのないようなやつが直弟子を自称し、夢か何かで入門したとか言い出して、それで宣長もかなりの程度に教祖化し宗教化したところがある。

ともかくも宣長はかなりの程度カルト的素養があったのだが、彼自身が教祖にならなかったのは、彼が物書きであったから、弟子に口伝などしたがらなかったからであろうし、息子の春庭、養子の大平などにも秘伝を授けたりはしなかったからだ。

もしイエスの弟子ペテロの如き者、ソクラテスの弟子プラトンの如きものが宣長にいたら宣長教というものができていたかもしれない。

宣長は真淵の弟子を演じ、死ぬまで演じきったが、実際の宣長は真淵の弟子でもなんでもない。松坂の一夜などは佐佐木信綱が作った架空の美談に過ぎない。宣長は自分の弟子を持つにあたり、自分の師を必要とし、真淵を選んだのに過ぎない。平田篤胤が宣長の弟子を無理矢理演じたのと同じ。師弟愛などというものは、少なくとも国学四大人、春満、真淵、宣長、篤胤の間には存在しない。そんなものを信じるから国学がわからなくなるのだ。

白川静 孔子伝

最近頻繁に電車通勤するようになり、文庫本を読んだりしているのだが、白川静など読んでいる。

この白川静という人は、なんだろう、どう言ってよいかわからないが、少なくとも宮崎市定のようにはおもしろおかしく本を書かない人だと思う。

まず白川静の『後期万葉集』というのを読んだ。『前期万葉集』というものもあるらしいが、『後期』しか持ってなかったので『後期』から読んだのだが、普通の人なら万葉集のこの歌が面白いみたいなキャッチーな書き方をするんだが、そういう要素をほぼ完全に落としてしまっている。いろんな歌を平板に並列に並べていて、わざとそういう書き方をしているんだと思うが、正直微妙。賀茂真淵が万葉集好きだったんだよという話も、かなり微妙。多分、漢学者、漢字の研究者として、万葉仮名で書かれた万葉集の解説をしたかったのだと思うのだけど、結局何が言いたいのかよくわからない。万葉仮名の使用例のサーベイに徹してくれればよかったのかもしれないが文芸批評もしようとして迷走しているようにも見える。

万葉集の文芸評論というものは、賀茂真淵以来まともなものはほとんど無いと思う。というのは、万葉集の頃までの和歌というものは、まだ「文芸化」されていない、生の歌謡、生のサンプリング、生の言霊なのであって、少なくとも万葉集の編集方針というものは秀歌を選りすぐろうというものであったわけでは必ずしもないのだから、文芸評論に適さないのは当然だろう。古語の解読とか、古代人のメンタリティの分析などはできても、文芸批評にはもともと不向きであって、そこへ「ますらをぶり」などという価値観を持ち込んで良い悪いなどと論評することにはほとんど意味が無いと思う。

『孔子伝』。こちらも役には立つが、決して面白い本ではない。毛沢東時代に書かれた孔子評の一つ、と言えば言えるかもしれない。

孔子を奴隷解放者とする試みは、必ずしも成功であったとはいえない。それは社会史的にみても実証が困難であるばかりでなく、孔子教団の性格、その思想の中心的な課題からも逸脱したものである。歴史的研究が、今日の課題から出発することはもとより尊重すべき態度であるが、それは歴史的なものを、今日に奉仕させるという方向であってはならない。それは歴史をけがし、古人を冒涜するものであるといえよう。歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験は、あくまでも個人的な、また主体的な営みを通じて、行われなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである。

この箇所を白川静はどの程度の熱量で書いたのか、文章を見る限りではまるで伝わってこないのだが、たぶん何かに対して相当怒っているか、誰かに対して憤慨しているか、攻撃したがっているのに違いないのだが、自分の感情を隠すためだろうか、そういう書き方をする人なのであろう(※追記。文庫本のためのあとがき、解説などを読むと文革期のさなかにいろいろ思うところがあったことがわかる)。

私も本居宣長を弁護するために、最近よく似たことを書いたので、まだ発表前ではあるけれどもそのごく一部であるからここにお見せしてもかまわぬと思う。

日本は海を隔てて世界から隔絶しており、日本固有の信仰が失われるという危機感は皆無だった。上田秋成ですら、日本人は外から入ってきた思想を自家薬籠中のものにし、ありとあらゆるものを丸呑みにして完全に同化できる、その受容性の高さこそが神州日本の才能であると己惚れていた。宣長はしかしその持ち前のオカルト的直感によって、神道にも不寛容さが必要になってくる、そう気付いた。他宗教に対する免疫を持つ必要性に最初に思い至った人だった。

元来宗教とはものわかりの悪いもの、排他的なものである。友好的で寛容な宗教と、排他的で不寛容な宗教がぶつかれば、ものわかりの良い宗教は常に相手に譲歩し、ものわかりの悪い宗教は常に相手を圧迫して、ついに寛容な宗教は淘汰され、不寛容な宗教だけが世の中にはびこる。世界史上そういう前例はいくらでもある。ギリシャ、ローマ、ゲルマン、エジプトなどにかつてあった土着信仰はもはや死に絶えた。古代ギリシャ信仰はクリスチャン化したギリシャ人自身によって抹消された(新プラトニズム哲学者ヒュパティアの迫害など)。

それまでの神道にも教義や神学はあったが、所詮は仏教や儒教の理論を借用したものにすぎない。それらを取り払うと神道には自ら生み出し築き上げた学問体系や理論と呼べるものは何も残らない。神道とは儒教や仏教の亜種に過ぎない。それが江戸期の知識人、特に儒学者らの共通認識であった。
神道はかつて地上に自然発生した無数の原始宗教の一つであった。そうした、すべての原始部族に見られる太古朴陋の巫術が次第に整理され、教義を蓄え、民族を超えて世界に伝播し、仏教やキリスト教のような普遍宗教となる。他に先んじて普及した宗教は周囲の原始宗教を飲み込んで多民族宗教に成長していった。後進の日本神道もまた他宗教に従属する状態から脱して一個の自立した普遍宗教とならねばならない。太古、インドに生きた人はインドが世界の中心であると思い、中国に生まれた人も同様に中国が世界の中心だと思ったに違いない。だから日本が世界の中心であり、太陽は神だと古代日本人が信じていたのであればそれを前提に神道は再構築されなくてはならない。今の人がどう思うかということはひとまずおいて、自分も古代人と同じ精神構造になってみなくてはならない。それは一種の実証実験である。そのためには古代語を復元して古代の風俗の中で生活し、古代人の目に世界がどう見えていたか体感してみなくてはなるまい。和歌を詠む意義もまたそこにある。
中国に儒教があり、インドに仏教が生まれたように、日本に日本固有の神道が定まればそれで十分であり、他と比較してどこが本地でどこが垂迹かなどということは古代日本人の念頭にはなかったことだから無視すれば良い。陰に対して必ず陽が対になっているという発想は古代日本人には観察されないのだから、神道の教義に混ぜてはいけない。宣長はそう明確に意識していた。

白川静は追体験と言い、私は実証実験と言っているが、言っていることは同じことである。

バラモン教やヒンドゥー教がインドを出ることなく、或いはゾロアスター教がペルシャを出ることがなかったのは、それらが民族宗教であったからだ。アーリア人固有の宗教だったからだ。仏教が中国を経由してはるか日本まで伝わったのはそれが民族固有の宗教から進化した、民族を超える普遍宗教だったからだ。日本は無菌状態ではなかった。キリスト教伝来当時、すでに仏教の洗礼を受けていた。仏教や儒教、道教、陰陽道などの外来宗教は神道を変質させもしたが免疫を作りもしたのである。もし古代神道時代にキリスト教が伝来していたら、またたくまに神道はキリスト教に侵食され消滅していただろう。フィリピンではそうなった。同じようにもしインドネシアのように最初に伝わった普遍宗教がイスラム教だったら、日本もイスラム教の国になってしまっていただろう。

※追記。やはり戦後昭和期に書かれたものは一度精査する必要がある。それらは戦前に書かれたものと同様にそのまま素直に受け取れるものではない。もちろんあるものは、今でも通用するような書き方がされているが、多くは戦争直後の日本という時代のバイアスがかかっていて、或いは方法論的に未熟過ぎて、今の観点からはかなり外れている。無論今の価値観が正しい保証などは何もないのだが。戦後民主主義教育という名のもとに正当化されてきたものが多すぎる。

九条良経と後鳥羽院

九条良経の歌というのは、今で言えばファッション雑誌を見て、どこかのシャレオツな店のマヌカンに選んでもらって、金持ちのボンボンだからいくらでも高い買い物ができる人が着るような服、といえばわかり良いだろう。そして世の中にはそんな金持ちの慶応ボーイみたいな歌が好きな人が一定数いて、それなりの需要はあるのだ。それはそれとしてそういう歌をうまいとか絶唱とか褒めるのはやめてもらいたいと常々思っている。ジャニーズのイケメンがかっこいいのは当たり前じゃないか。

九条良経の四歳下の妹任子は後鳥羽院の中宮なので良経と後鳥羽院は、血はさほど近くはないが義兄弟である。この二人の歌は良く似ている。ほとんど区別できないこともあるが、だいたいにおいて後鳥羽院のほうがうまい。後鳥羽院は後鳥羽院で、それなりに苦労はしているので、そうした生まれ育ちが歌に微妙な屈折を与えている。良経にはその屈折とか鬱屈というものがまるで無いように見える。

後鳥羽院にはあの腹違いの兄安徳天皇がいるわけだから、それが性格に暗い陰を落とさないわけがない。後鳥羽院は生涯九条家と鎌倉武士に頭を押さえつけられて生きていた。京都武士に多少そそのかされたということはあったかもしれないが、後鳥羽院が自ら倒幕などという大胆な改革を思いつき実行しようと企んだということはほとんど考えにくいと思う。それに京都武士らにそそのかされたのはむしろ順徳院であって、後鳥羽院は息子と取り巻き連中の暴走を制御できなかった、というのが正解であるはずだ。

疑似文語

1月27日に1年、いや1年半かけて書いた本の最終原稿を提出して、もちろん校正段階で手直ししたり差し替えたりということもできなくはないのだが、それはもうやらず、最小限の修正に留めて、余計に書きたくなったらここのブログに書いていこうと思う。そういう文章が溜まっていってまた本にまとめるかもしれないし、しないかもしれない。

短歌の表記について:文語・口語のこと

あざやけし・やすらふ(1)

あざやけし・やすらふ(2)

あざやけし・やすらふ(3)

江戸時代にあったのは国文(くにぶみ)であり、国文には和文(やまとぶみ)と漢文(からぶみ)があった。『平家物語』や上田秋成の『雨月物語』のような和漢混淆文もあり、本居宣長の『玉勝間』などを見てもわかるが、散文に関していえば、和文だけでは語彙が足りないから適宜漢語を混ぜて書いていた。その書き言葉を記したものを文語というのであれば、確かに文語は江戸時代からあった。

この江戸期にすでに確立されていた文語を逸脱したものを擬似文語と言いたいわけだが、より狭義に言えば、口語、話し言葉にはあるが、文語にはない語を文語風に造語し補完したものを擬似文語と言いたいわけなのだが、今どき散文を文語で書く人など皆無であるから、疑似文語の問題はただ、俳句とか近現代短歌のコミュニティだけで見られるものである。

一番わかりやすい例でいえば「大きい」。古語には「おほし」しかなく、「多し」「大し」「大きなる」などとしか言わなかった。「おほきなる」から口語の「大きい」が出来て、「大きい」を文語化すると「大きし」となるが、「大きし」などという古語の用例はない。

同じく「近しい」という現代語はあるが「近しし」という古語は存在しない。

「おだやかな」という言葉はあるが「おだやけし」という形容詞は存在しない。「おだし」という言葉は『源氏物語』にも見える。ただし私の知る限りにおいて「おだし」が和歌に用いられた例はないように思う。話し言葉には用いても和歌に用いられない言葉というのはよくある。よく知られているのは、係り結びで「ぞ」「こそ」は使うが「なむ」は話し言葉にしか使わない、など。

同じように「あざやかな」とは言うが「あざやけし」とは言わない。古語には「あざらけし」という言葉があって、「あざらけし」というのが正しい、などという人がいるが、それもどうだろうか。「あざらか」は『土佐日記』に用例があるらしいが、「あざらけし」の用例は非常に少ない。まして和歌に用いられた例はなかろうと思う。

「たけのこ」は「たかむな」「たかうな」とも言う。『源氏』には「たかうな」と出る。和歌に使われるのは圧倒的に「たけのこ」であって、私は特に理由が無い限り「たけのこ」と言うべきだと思う。

「ずき」「ずけり」などは万葉時代には使われていたらしい。「見れど飽かずけり」など。しかしこれも、「ざりき」「ざりけり」と言うべきだと思う。もし文字数の制約で、或いはわざと万葉調にするため、或いは単に奇をてらってそうするというのは慎むべきだと私は思うし、私ならば絶対やらない。

「悲し」「悲しむ」という古語があるのだから、「寂しむ(さびしむ)」「愛しむ(いとしむ)」「侘びしむ(わびしむ)」「激しむ(はげしむ)」などという語があってもよかろうという人はいるかもしれない。実は「侘びしむ」は『岩波古語辞典』にも載っているれっきとした古語である。崇徳院に

いかでいかで 嘆きを積みし 報いとて 逢ひ見てのちに 人をわびしむ

また西行に

寝覚めする 人の心を わびしめて しぐるる音は 悲しかりけり

がある。「さびしむ」にも用例がある。しかしながら「愛しむ」は「いとほしむ」と言うべきだろう。「激しくする」を「激しむ」というのはおそらく誰もが違和感をおぼえるだろう。

俳句や現代短歌ではこれら疑似文語をしばしば使う。言語というものは移り変わっていくものだから、現代語を現代人が勝手に作り変えて新しい造語を作るのは勝手だという考えもあるだろう。どうぞそうしてかまわないと思う。その代わり和歌とは混ぜないでほしい。

どんどん新しい言葉を作ってその中には後の世に残る良い言葉も含まれているかもしれない。しかし多くの造語は淘汰されて残らない。何十年か後に、昭和の歌人たちはなんてでたらめな言葉遣いの歌を詠んでいたんだろうといわれたくなければそうした珍文語は使わないのが良い。

新語とか造語ではなくて、明らかに単なる誤用という場合もあると思う。「やすらふ」はグズグズする、ためらう、優柔不断、の意味であって「休む」という意味はない。「安心する」という意味も無い。それらの誤用を許容する理由は、現代短歌や俳句ならいざしらず、少なくとも和歌には無いと言ってよかろう。

私が言いたいのはつまり、九州弁と関西弁と東京の標準語を見境なく混ぜて使ってそれがまともな言語といえるか、ということだ。イギリス英語とアメリカ西海岸の英語とインド人の英語を混ぜた英語が許容されうるか。同じことで、万葉時代や江戸時代にはあった言葉を平安朝の言葉に混ぜて使って、そんな言葉で平気で和歌を詠むんですか、ということだ。現代人は古語には語感がきかないからなおのことちゃんと用例を調べて、例えば紫式部の日本語を標準として定めて、そこに併用しても違和感の無い語彙や文法を慎重に選んで和歌を詠むべきじゃないですかと言いたい。

浅草地下商店街マップ

東京メトロのサイトにも銀座線浅草駅構内図に6, 7, 8番出口が記載されているが、非常にわかりにくい(特に浅草地下街から6番出口まではかなり省略されている)。A4、A5出口などは本来は都営浅草線の出口に振られた番号であろう。都営線と銀座線の連絡は極めて悪い(1番線到着ならば都営線への乗り換えは比較的スムーズだが、2番線に着くと面倒なので、その場合1駅前の田原町駅で降りて次の1番線到着の電車を待てなどと車内アナウンスがあるほどである。ただし雷門、浅草寺方面に行くには2番線到着のほうが便利。6, 7, 8番出口に向かうならば一番先頭の車両に乗るのが良い)。都営線と東武線に至っては直接の接続は無い(銀座線に入場することなく都営線と東武線をつなぐ地下通路は無い)。地上にいったん出るしかない。あまりにも設計が古すぎ、またあまりにも場当たり的なので、新宿や渋谷のようにいっそのこと完全に再開発してしまったほうがよいのだろうが、それでは浅草駅らしさが失われてしまうので、昭和遺産かなにかに指定して未来永劫現状のまま保存してはどうか。

6番出口と8番出口は幅が2メートルほどしかない。銀座線から新仲見世通りへの近道として機能させるにはあまりにも細すぎる(玉の井の「抜けられます」のようなものか。昭和30年、敗戦直後の貧乏性がなせるわざなのだろう)。浅草の要衝に位置しながら盲腸のような役割しか果たせていないのは、これら6, 8番出口のせいである。銀座線から地上に出る場合は普通1, 2, 3, 7番出口を使うだろう。4, 5番出口は隅田川のほうに出てしまうので普通こちらを利用することはない。

地下街の通路も幅4メートルしかない上にテーブルや陳列などが店からはみ出している。漏水は地下街全体に見られ、まったく手の施しようがない。エアコンも2025年夏になってやっと設置された。

地下街は深夜から朝6時までシャッターが降りて閉鎖されている。

浅草地下街商店一覧

虚構の歌人 藤原定家

『虚構の歌人 藤原定家』を書いたのは2015年、もう10年も前のことなのだった。久しぶりに読んでみると恥ずかしい。特に最終章がかなり恥ずかしい。自分の中ではこんな終わり方じゃなかったはずなのだが、確かにこう書いたのは私なのだった。まぎれもない証拠だ。最後にちょっと気取ってカッコつけてそれらしいことを書こうというスケベ心が出てこんなことを書いてしまった。

応仁の乱で勅撰集の編纂も途絶えた日本に『新古今』以来の「長(たけ)高く幽玄有心なる姿」を復興しようと唱えたのは宗祇だ。なるほど連歌は和歌から派生したものである。また世阿弥は「能の道を極めようと思う者は能以外の芸を行うべきでない。ただし歌道は能を飾るものなので、特に勉強しなさい」と言っている。 私はずっと和歌ばかり見ていた。それで定家を調べることになり世阿弥や宗祇に出会った。そして彼らに教えられた、和歌はひとり日本文芸の核心なのではない、日本芸能すべての祖(おや)であり源流(ルーツ)なのだと。皆がそれほどまでに和歌を愛しているのだと。そう気づいて私はこれまでずっと和歌をやってきて良かったなと思った。

10年前からこんなことをずっと考えていた。同じようなことを今も考えている。その表現の仕方が10年前だとどうにも拙いし、浅い。そこが恥ずかしい。書くなら書くでもっとましな書き方があったはずだ。文章を書くと言うことは難しい。書いているときには気付かない、なかなか気づけないのが難しい。

あれから10年経って私は少しは成長したのだろうか。10年後の私が、今年出すはずの本を見てどう思うだろうか。とりあえず悔いのないように推敲しておきたい。

ここのこういうブログに書いたものなどはろくに推敲もしていない。書いたら書きっぱなしなことが多い。あまりに変なやつは非公開にするようにしている。

掛け布団カバー

今までは何気なくアマゾンで一番安い掛け布団カバーを買っていたのだが、最近は、いやいや、外資系企業がネット通販している、外国工場に丸投げした製品ではなくて、ちゃんと日本で作った品物を日本の企業から買ってやらねばなるまいと思い、楽天市場など見るがだいたい出品が(本気で売る気あるのかというくらい)割高だし、送料も高い。では店舗で買うかとなるのだが、メーカーはニトリかアイリスオーヤマあたりが安いらしいんだが、近頃は何もかもが値上がりしたせいかとにかく安い掛け布団カバーがない。

私としては西川のようなまっとうな国産の高級品が買いたい(買って応援したい。日本経済に貢献したい)わけではない。ただ単に布団の生地が傷まず、汚れてもカバーだけ洗えば済むような一番安いやつが欲しいのである。病院の四人部屋とか自衛隊のベッドに使われているような無地のカバーで十分。というわけで某イトーヨーカドーに行ったのだが、ニトリ売り場の掛け布団カバーはどれもネット販売のものよりも高い。大量にいろんな種類の掛布団カバーがこれでもかこれでもかと売られているがどれも高い。

それでイトーヨーカドーの衣服売り場に行ってみるとなんと掛け布団カバーが700円(税込み770円)で売っているではないか。この物価高の御時世に恐るべき安さである。ヨドバシ価格の2分の1か3分の1だ。おそらくそうとう長い間ここで売れ残っていたのだろう。イトーヨーカドーの売れ残り在庫がすごいという話は聞いたことがあったが、私にとっては実にお買い得だった。中国製と書かれていたのでもしかしてこれも〇〇人の〇〇労働で作られたものなのかなあと心が痛んだが、とりあえず満足した。

ニトリは安値を売りにはしているがなんとかブランドイメージと価格を維持しているんだが、イトーヨーカドーはとにかく無駄なく在庫をさばこうとしているようにみえるんだよね。これからもハイエナのようにイトーヨーカドーの売れ残り在庫を物色していこうと心の中で誓った。みんなが世の中の商業主義に目くらまされず、イトーヨーカドーに行って安く買い物をすれば、家計も助かるしイトーヨーカドーも助かるんだがなあってたかだか特売の掛け布団カバー買ったくらいで、すごい偉そうなこと言ってみた。

ついでだが、キャベツ1玉1000円とか世間では煽っているが私の見たところ、まあ、小玉1個で500円か600円というくらいか。東京都の最低時給と比べているところがせこい。キャベツが食えなきゃ白菜を食えばよかろうと思った。白菜もまあまあ高かったけど。

オリューゾファゴイ

ギリシャ語にどんぐり食い βαλανηφάγος、魚食い ιχθυοφάγος、米食い ὀρυζοφάγος などの言葉がある。このうち古くからありかつ最も一般的なのはイクトゥオファゴイ。ギリシャ人も魚食いであるはずだが、自分のことを言っているわけではない。紅海沿岸に住むエチオピア人やバビロニア人やインド人などのことを言っている。単に魚を食うだけでなく、主食であるはずの穀物の代わりに魚を食っている、もしくは魚しか食わない種族、というようなニュアンス。

バラネーファゴイはアルカディア人の異称。低地のスパルタ人たちが穀物を食べていたのに対して山の中に住むアルカディア人は昔ながらにドングリを食べていたかららしい。

オリューゾファゴイ、米食いという言葉はあるにはあるようだが、ほとんど使われていない。ギリシャ人も米は食うのだが、主食はあくまでも小麦であるということだと思う。日本人はオリューゾファゴイと言っていいよなあ。

歌道普及会

大正の頃に歌道普及会というところから新派なんだか旧派なんだかよくわからない立ち位置から和歌の本がいくつか出ている。著者や編者が書かれていないので誰が書いたのか不明だが、かなりものを書き慣れた人だろう。明治以前の和歌については漠然とした知識しかない。つまり平安時代から江戸時代までは単なる教養として和歌を詠んでいた、というような雑なイメージしか持っていない。出版社は東盛堂。ここから本を出している人で、黒法師とか匿名とかで本を書いている人がいてこの人があやしい。渡辺霞亭という人のようだ。

かちかちの 山のたぬきは 焼け死にぬ 悪事をなせる 報いなりけり

こんなものを和歌だと言っていたり、和歌は平安朝以来明治初年まで娯楽の文芸として取り扱っていたため、などと書いていたり、どうも歌というものがよくわかっているとは思えない。『和歌の作りやう』という本に「同人」とか「読人知らず」で出ているのがこのひとの歌かもしれない。

源清蔭

源清蔭についての考察も今度出す本から除外することにしたので、こちらに載せておく。

桓武天皇の生母は百済(くだら)王家の血を引く高(たか)野(のの)新(にひ)笠(がさ)。西暦六六〇年百済滅亡、六六三年白村江の戦いにも敗れ、大陸から多くの百済王族が任那(みまな)符の難民らとともに亡命してきた。人の移動とともに大陸由来の天然痘が流行し、聖武天皇は疫病を避けてあちこち遷都した。桓武によって新しく造られた平安朝廷では宮廷の公卿や女官にも移民が多く含まれ、和風より漢風の文芸が貴ばれた。「昔、聖武天皇は侍臣に詔し、万葉集を撰ばしめた。これ以来十代、百年を歴(へ)て、其間和歌は棄てられ採られず。野相公(小野篁。野宰相とも)のごとき風流、在納言(在原行平)のごとき雅情ある者はあれど、皆、和歌で世に知られることはなく、他才(すなわち漢詩)で知られるばかりであった(筆者意訳)」と『古今集』「真名序」でぼやいている状況が生まれたのである。これに反発した平城天皇は奈良に都を戻し、日本文化を復興させようとしたが、薬師の乱で敗れ、嵯峨天皇が勝利した。

嵯峨帝は唐詩(からうた)を好み和歌(やまとうた)はほとんど顧みられなかった。この傾向は人臣にして初めて摂政となった藤原良房と、その甥で天皇が成人しても関白に居座り続けた基経の頃まで続く。清和天皇は二十代半ばで退位、出家させられて、三十路に入ってまもなく嵯峨野の奥、水尾(みずのお)の里で寂しく死んだ(そのため清和天皇は水尾の帝とも呼ばれる)。清和の兄、惟(これ)喬(たか)親王もいきなり基経に比叡山の麓、小野の里に蟄居させられ、あちこち放浪したあげく、五十才過ぎに寂しく死んだ(『伊勢物語』に詳しい)。清和の皇子、陽成帝は長寿を保ったが、やはり若くして退位させられ、院御所に引き籠もった後、何をしていたか全くわからない。『小倉百人一首』に採られた「筑(つく)波(ば)嶺(ね)の 峰(みね)より落(お)つる みなの川(がは) 恋(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりける」、これ一首だけが陽成帝の御製として知られる。たった一つでは他の歌と比較することもできず、本人の歌かどうかすら疑わしい。調べは美しく、屏風歌としては良い出来かもしれないが、この時代の宮廷和歌がいかに形骸化して低調だったかを象徴するような歌ではある。

満十二才で即位して三年目、陽成帝には皇子(後の源(みなもとの)清(きよ)蔭(かげ))が誕生するが、その年、基経は突如陽成帝を廃位し、皇統を四代遡り文徳天皇の弟、時(とき)康(やす)親王を立てて光孝天皇とする。時康親王はすでに五十五才、基経の恣意的な皇位介入に腹を立てて自分の皇子らをみな臣籍降下させてしまう。

光孝天皇は皇太子を立てぬまま崩御。このとき陽成院はまだ十八才だったが、基経は源氏姓を賜って臣下となっていた光孝天皇の皇子、源(みなもとの)定省(さだみ)を皇籍復帰させ、立てて宇多天皇とする。藤原基経、人臣の分際で、もうやりたい放題である。

源清蔭の母は紀氏、『伊勢物語』の主要人物の一人である紀有(あり)常(つね)の娘は在原業平の妻。業平とともに『伊勢物語』によく出てくる惟(これ)喬(たか)親王(文徳の皇子で、清和の兄)の母は有常の父名(な)虎(とら)の娘。さらに陽成帝廃位の直接原因と関係があると思われる、宮中殺人事件で殺された陽成帝の乳母、源(みなもとの)益(まさる)(嵯峨源氏)もやはりその母が紀氏。

紀氏は名虎でさえ正四位下で、いわゆる受領階級、国司に任じられ地方に派遣される程度の家柄だった。その紀氏が天皇や皇族の妃となって徐々に宮中で勢力を拡大し、藤原氏を脅かす存在になりつつあった。もしかすると皇族は、摂政関白に居座り続ける藤原氏に対抗し得る氏族として紀氏に期するものがあったかもしれない。しかし有常は文徳朝末期に左遷。惟喬親王も清和朝に蟄居。

陽成朝に基経は出仕拒否。藤原氏から女御が入内する気配すらない。陽成帝が藤原氏を嫌っていたのは明らかだ。そうしたところで陽成帝に清蔭が誕生。帝が清蔭に譲位して院政を始めれば、藤原氏は皇統から切り離され、摂政になることもできない。誰の入れ知恵か、源融(みなもとのとほる)あたりか知らないが、そういう企てが進行していたかもしれない。源融は東宮傅として皇太子時代の陽成帝に仕えていたので、自分が摂政になると思っていたのに基経に摂政を取られて怒っていたという説もある。源融はおそらく藤原氏によって軟禁状態にあったと思う。紀氏を巻き込んだ皇族対藤原氏の対立。薬師の乱以来の大乱になる可能性があった。それで基経は藤原氏を母に持つ時康親王まで皇統を強制的に巻き戻した。陽成帝の生母藤原高子と兄基経の仲が悪かったとか、陽成帝に乱行があった、などというのはすべて作り話か、事実としても本質的な問題ではない。

陽成天皇暴君説。藤原氏に同情的に書いているのが自分ながら意外だ。

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹。ここにもちょこっと陽成天皇の話が出てくる。小室直樹の書いたものも今読むといたるところに間違いがあることに気付く。

水尾の里と小野の里。

ほかにもいろいろ書いているがめんどくさくなってきたのでとりあえずこのへんで。