迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。

高家の真相

『上野介の忠臣蔵』を読み進めてみたのだが、 吉良義央が畳の縁の模様が有職故実と違うから取り替えろと命じたとか、 そんな細かな家元みたいな指導を浅野長矩にしたのだろうか、 それが遺恨なのか、 非常に疑問だ。

古来天皇家と武家の間には遠い身分の隔たりがあった。 武家というものがないときには天皇と庶民の仲介をするのは公家などの貴族の仕事。 北条氏が頼朝を必要としたのは頼朝が貴種であって、 天皇と武家の間の仲介役として貴重な存在であったからだ。

足利氏もまた天皇家と武家の間を仲介する貴種として地方の下級武士らに重宝だったのである。だから御輿に担がれ幕府の将軍となったのである。

それは、時代が下って徳川の世になっても同じであって、足利宗家は絶えてしまったが、 分家がいくらも残っていた。一色、今川、吉良などがそうである。 徳川氏は天皇家と武家の間を直接仲介するほど身分は高くない。 官位官職はもらえたかもしれんが出自が怪しすぎる。 というか官位官職をもらうために仲介役が必要で、 そのために足利氏の正統な血を引いている吉良氏などが必要になったのである。 つまり天皇家と徳川氏の間の仲介をするために足利将軍家の血統を保っている吉良氏などのいわゆる高家が必要になったのである。 徳川氏が足利氏を実力で排除してとって代わった、という発想になりがちだがそれはまったく当たってない。徳川氏はもし足利宗家が残っていたら、やはり彼を幕臣として重く用いたのに違いない。信長が義昭を利用したように。

高家は堂上公家的に単に有職故実に詳しいからというので徳川氏の旗本になったのではない。重要なのはその知識ではない。知識などは身分の低いものでも学べばいくらでも身につけることができる。吉良氏が重要なのはその血筋によるものであり、 誰も吉良氏の代わりにはなれないのだ。

だから、義央が長矩にいちいち畳の縁の模様まで口出ししたなどというのはなんか違和感がある。義央は高家、長矩は五万石の大名である。畳のことでいちいち諍いしたりするだろうか。 遺恨があるにしても全然違うことだったように思う。遺恨と言っているが義央はいちいち身に覚えがないと言っている。もしかして恥辱を受けたのは長矩本人ではなく長矩の父であったかもしれん。そっちの方がずっと筋が通りそうな気がする。 遺恨というのは普通は親の仇とか積年の恨みというものであろう。 たまたま勅使応接の仕事を任されて、その上司が吉良で、上司に腹を立ててカッとなったというのが遺恨であろうか。あまりに戦後日本的な解釈ではないか。

いずれにせよ、足利将軍家の血を引くものがいきなり江戸城本丸中奥辺りの廊下で、無抵抗の幕臣に切りつけ、重傷を負わせたのだから、いくら大名とはいえ、長矩が切腹になるのは仕方の無いことだと思う。また、忠臣蔵はあまりにも有名な事件だから、もうこれ以上、遺恨とはなんであったかなど調べても何も出てこないのだろうなと思う。

ただ、義央が何かごちゃごちゃと古今伝授のようなことにこだわっていたというのは、まあ間違いなく誤解なんじゃないかなと思う。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

大塩平八郎

パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。

Serious Sam HD The 2nd Encounter クリア

クリアと言っても一番簡単な tourist でさらっと最後までいっちゃった感じ。やりこむような時間もなし。昔やったときを思いだしつつ。

最初がマヤ、次が古代メソポタミア、最後が西欧の大聖堂。それぞれ特に脈絡なし。それぞれにラスボス戦あり。1st Encounter がひたすらエジプトだったので、それと同じ要領で三倍にふくらました感じではある。

御衣黄

飯田橋で電車を降りて、東京大神宮、靖国神社、千鳥ヶ淵、皇居御苑などをぶらぶら歩く。
気持ちの良い一日だった。
最近は、テレビも「パワースポット」などという言葉を流行らせようとしているが、
これは要するに新手の霊感商法のようなもので、
こんなものに荷担するのはいかがなものかと思う。

飯田橋から東京大神宮の間にバーガーキングがあり、昼飯代わりに食べる。
日本で簡単にワッパーが食べられるようになり幸せ。
肉はニュージーランド産なのだな。

それはそうと東京大神宮はもともとは明治政府が作った伊勢神宮の遙拝所から始まり、今のところに移転したものらしい。
昔は高台にあったもののようだが、今やビルに囲まれて伊勢神宮の方角など見えないわけだが。
かつては、神社の前の、南西方向に延びた道が伊勢神宮を遙拝する目的の表参道だったのかもしれない、
今神殿は南面しているので、礼拝する人は伊勢神宮に背を向ける形になる。
遙拝所という意味ではかなりおかしいが、神明神社だと思えば別に変ではない。
神前結婚式がここで始まったというのもなんとなくそんなものかもしれんと思った。
もとは伊勢神宮の出張所で首都布教の拠点だったわけだからな。
その後大正時代になると明治神宮が出来、東郷神社や乃木神社などが出来ていく過程で広まっていったのだろう。
赤福を食べた。
東京大神宮を詠める:

> 武蔵野の原より はるか神風の 伊勢のやしろを 拝む丘かな

靖国神社は新緑がきれいだった。
八重桜がまだ咲いていた。
いろんな種類の桜があるようだが、花が咲いてないとよくわからない。
特に「吉野桜」というのがソメイヨシノを言うのかヤマザクラを言うのかがわからない。
ソメイヨシノという名前が紛らわしすぎる。
ここの桜は、ぎりぎりまで植え替えないのだろう。
またおそらくは、あまり農薬などは使わないのだろう。
かなり年を取った桜が見られる。
街路樹や公園の桜などは幹が黒々として太くごつごつしている。
ここの桜はどちらかと言えば細く、幹は苔むしていて緑色である。
育て方が根本的に違うと見える。

植ゑられし 古きさくらは 苔むして 朽ち折れてゆく やすくにの庭

苔むして 蟻むれたかる 一筋の 道さへとほる 朽ち桜かな

老いにける 桜なれども 宮人に まもられ保つ 命なるかな

朽ち木立つ このやすくにの 宮の庭 かたへに苗ぞ かつ植ゑらるる

植ゑられて あるがまにまに 生ひ育ち 老い朽ち果つる 宮桜かな

元宮と鎮霊社にもお参りする。
元宮は、京都に作られたほこらを移したというもので、特に問題もないが、
鎮霊社は、「靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている」
とのことでなにやらただ事ではない。
調べてみると賊軍として死んだ白虎隊の隊員や、西南戦争で死んだ西郷隆盛らが祭られているとのことだった。
靖国神社の献木としては桜が多いとは思うが、そうでない木、たとえばモッコクなどがたくさん植えられている。
何かいわれがあるのだろうか。

鎮霊社を詠める:

> やすくにの 庭居に百千 植ゑられし 木の間に暗き 隠れ宮かな

千鳥ケ淵戦没者墓苑。ほとんどひとけがない。比較的新しい施設のように思われる。

御製:

> 戦なき 世を歩みきて 思ひ出づ かのかたき日を 生きし人々

昭和天皇御製:

> 国のため いのちささげし 人々の ことを思えば むねせまりくる









千鳥ヶ淵沿いにかえで、西洋かえで、八重桜などが植えてあり、これがまた美しい。
皇居御苑には「御衣黄」という珍しい桜が咲いていたので、
少し写真を撮った。

花の形から八重桜の一種であることがわかる。
花びらに葉緑素があるので、黄色または黄緑色に見えるが、花心はピンク色。
栽培種で、日本全国の庭園など100箇所くらいで見られるという。


宮城の 千鳥が淵に 春たけて 散りそめにける 八重桜かな

大君の 千代田の宮の 苑におふる 浅葱桜の 盛りなるかな

九重の 千代田の苑も いにしへは 日比谷の海の 入り江なりけむ

今に見る 千代田の城の 石組みに もののふの世の いにしへを思ふ

もののふが 開きし海の あとなれや 千鳥が淵の 深き濃緑

春たくる 千鳥が淵を 見渡せば 水面も岸も みな青みたり

花散らす 風は吹けども 夏近き 千鳥が淵に さざなみもなし

城の濠 巡りて走る 外つ国の人は やまとの春を知るべし

外つ国の 人にみせばや 武蔵野の 千代田の城の 春の盛りを

後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」

駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波

1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。 承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。 丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」 などと表現している。 確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、 戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、 「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。 非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。

源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、 それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、 若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。 たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。 そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。

承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。 後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、 頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、 若くはつらつとした時期だったのに違いない。

1189年、頼朝が上洛したとき、後鳥羽天皇は在位中であり、頼朝は天皇に拝謁している。
後鳥羽天皇はまだわずかに9才の時だが、もはや分別は付いている頃で、その印象は強烈だったに違いない。

宮廷文学が喪失したあと、「玉葉」「風雅」などの、実質的には存在しない、 バーチャルな宮廷というものに逃避したような連中も確かにいただろう。 正徹はそうだったのだろう。 しかしそのようなバーチャル宮廷文化を「受け継ぐ天才」など居るはずもない。 そこで江戸時代に目を転じたときに、丸谷才一の目に映ったのは「芭蕉」や「蜀山人」といった、
町人文化の「天才」たちだけであり、 秋成、良寛、景樹、蘆庵といった歌人たちの業績はまるで見えてないのだろう。 江戸時代における宮廷文化とは「一粒の麦」であって 「もし死なずば一粒にてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし」 というように、万葉時代には広く大衆のものであった歌の文化は、 後鳥羽院時代を頂点として一時期宮廷の中に凝縮され、
宮廷サロンが喪失したのちには、再び武士のサロンや町人のサロンなどの広い多様な形態に拡散して行ったのであり、 もはやバーチャル宮廷など必要としなくなった、と考えるのが一番素直ではないか。

蜀山人が天才かどうか知らないが、あのような下品なげてものを優れていると感じる感覚には、 正直ついていけない。別に江戸時代について勉強したいわけではなかったのにどうしてもそうなってしまうのは、江戸時代の文芸や学問というものが、いろんな意味でさけて通れないからなのだろう。

「大正天皇御集 おほみやびうた」の解説で岡野弘彦氏が言うには、武士はいついかなるときに腹を切ることになるかもしれないので、はずかしくない辞世の歌を詠むためだけに、ただそれだけのために、普段から一生懸命和歌を学んでいたのだと。

思うに、歌人の風習に、辞世の歌を詠むということはそもそもなかったはずだ。宣長は遺言状の中に歌を詠んだがこれも別に辞世の歌というつもりはなかったと思う。

その由来は、wikipedia にあるように「禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗」だったはずで、さらに状況証拠で言えば、辞世の歌を多く詠んだのは、江戸中期以降の狂歌師たちだ。歌舞伎となった忠臣蔵の大石内蔵助や浅野内匠頭長矩が切腹するときに辞世の歌を詠んだことになっている。

たぶん創作だろうけど。それで武士や狂歌師らに広まっていったのだが、実際に武士が切腹する場面などそうそうないので、狂歌師の狂歌が目立つということなのだろう。だから、武士の心得として和歌を学んだというは、あっているかもしれないが全然違うかもしれない。たとえば田安宗武がそういうつもりで和歌を学んだとはとても思えない。

切腹自体が江戸時代に様式化されたものであり、太平記の時代には切腹は単なる自決方法の一つにしか過ぎなかった。切腹、忠臣蔵、辞世の歌、桜、大和魂などというのは、歌舞伎を媒介として江戸中期以降に作られたイメージではないか。