賀茂真淵の大和魂

賀茂真淵にいまなびによれば、

女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、やはり賀茂真淵なのかもしれない。そういうことはうまい人だったのだろう。宣長は真淵の弟子ということになっているので、宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。

橘曙覧

水島直文・橋本政宣編注「橘曙覧全歌集」を読む。 わりとおもしろい。
冒頭に載っている歌:

あるじはと 人もし問はば 軒の松 あらしといひて 吹きかへしてよ

「嵐」と「あらじ」をかけている。愉快な歌。

朝ぎよめのついでに
かきよせて 拾ふもうれし 世の中の 塵はまじらぬ 庭の松の葉

道元の山居の影響を感じるよね。
同じ福井の山の中だし。

閑居雪
なかなかに ふり捨てられて うれしきは 柴の網戸を あけがたの雪

これも、「戸を開け」ると「明け方」をかけている。おもしろいなあ。

あばらなる やどはやどにて すみわたる 月は我にも さもにたるかな

「あばら」というのは歌にはあまり使われない言葉なのではないか。
全体にくだけた口語調に見える。

述懐
なかなかに 思へばやすき 身なりけり 世に拾はれぬ みねの落ち栗

いいなあ。この屈折した感じが。

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。 千人といっても、 江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

三度炊く 米さへこはし 柔らかし 思ふままには ならぬ世の中

式亭三馬:

善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵もほめず 閻魔叱らず

蜀山人:

生きすぎて 七十五年 食ひつぶし かぎりしられぬ あめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

暑くなく 寒くなくまた 飢ゑもせず 憂きこときかぬ 身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

酒も飲み 浮かれ女も見つ 文もみつ 家も興して 世にうらみなし

のんきだな。 とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

思ひきや 野田の案山子の あづさ弓 引きも放たで 朽ちはつるとは

宮本大平:

えびす船 打ちもはらはで 白雪の ふり行く老いの 身ぞあはれなる

日本史百人一首

渡辺昇一「日本史百人一首」。 平凡な構成。
北条泰時:

事しげき 世のならひこそ ものうけれ 花の散るらむ 春も知られず

いやあ。京都で訴訟に忙殺されていたきまじめな泰時の姿が目に浮かぶような良くできた歌だけど、 本人が詠んだ歌じゃないよな。 太田道灌以来うたぐりぶかくなった。

徳川家康:

嬉しやと ふたたび起きて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

辞世の歌というが、まあ、本人の歌じゃないよね。というかどう見ても江戸の町人が詠んだ歌だろこれは。

またまた徳川慶喜:

この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり

うーん。どうなのかこれは。いずれにせよ渡辺昇一という人は歌の真贋などまったく興味無く、ただ面白そうな歌をあれこれ集めたということだろう。狂歌とはそうした遊びかもしれんが、和歌の勉強にはならない。

鎌倉宮

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。
未だに参拝客は多い。
車が多く道が狭い。
要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、
まずは宝戒寺に行く。
拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。
ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、
北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺の東勝寺で討ち死にし、
小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。
これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。
この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、
今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。
庭にリスが居る。
あと、ヤブツバキ。
東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。
今度の機会に訪れよう。
幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

> もののふのほろぼされたるやかたあととぶらふ寺となりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。
ボタンといえば花札では六月だが、
一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。
数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。
源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、
本宮を参拝。

> 鶴の岡のやはたの宮のきざはしをのぼれば君のおもほゆるかな

宝物殿200円。

> しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

> いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、
静御前の「静」にかけてある。
まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

> 歌あはれその人あはれ実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。
[葛飾北斎筆「酔余美人図」](http://guide.city.kamakura.kanagawa.jp/Link/kokuhoukan/1ujiie-33.html)
(つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、
司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。
ここにも白旗神社がある。
ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。
墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、
大江広元、島津忠久、毛利季光の墓が三つ並んである。
も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。
毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖、
島津忠久は島津氏の祖。
この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、
何か意味ありげはある。
[追記](/?p=2270)。

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、
ごく普通の天神さん。
大蔵幕府の鬼門に当たるという。

さらに行くと官幣中社[鎌倉宮](http://www.kamakuraguu.jp/)がある。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、
いわゆる[建武中興十五社](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E4%B8%AD%E8%88%88%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%A4%BE)の一つとして一括りにされているが、
創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、
明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。
そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。
本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。
よくわからないが中はかなり広い。
しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。
いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、
それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。
先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。
普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。
太平記の記述では土蔵となっているから、
実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、
しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

> すめらぎの皇子と生まれて野に山に仇と戦ひ果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。
また、明治天皇が行幸したときの行在所が今は[宝物殿](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kamakura-gu_Treasure.jpg)となっていて、
かなり手狭な建物だが、
中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、
東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、
山本五十六「至誠奉公」の額、
乃木希典「忠孝」の額、
それから伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、
かなり無造作に展示されているのだが、
これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。
私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、
なんというおそるべき宝物群であろうか。
思うに、明治神宮も東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、
この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。
そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、
なんちゅうかあまりにももったいない。
こんだけのコンテンツがありながら、
あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、
本殿向かって右手に祭られている。
宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。
つまり、
「身代わり様」と呼ばれ、
「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。
また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、
この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。
吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、
村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

> 身代はりにいのちささげて今もなほ人を助くる神あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。
これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、
なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。
南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。
写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。
親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、
また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、
積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。
鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子と源実朝の墓に向かう。
ここもまた岩窟。
他の墓同様にきわめてささやかなものだ。
ここは寿福寺という寺の裏の墓地。
寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。
墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。
鳴き声はかわいくない。

> もののふのふりにし墓をたづねむと登れば険し鎌倉の山


ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、
あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。
あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。
参道がやはり岩窟。
岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。
元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、
実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。
鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、
頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。
こんな華美ではなかっただろう。
鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、
あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。

曽我兄弟

日本外史を読んでいて、やはり、予備知識がないとわからんところはどうしてもわからん。例えば曽我兄弟のことを「二孤」などと書いてあるのだが、曽我兄弟を知らない人が、ここの漢文だけを読んで、何を言おうとしているのかわかるだろうか。どうひねくり返してもわからんときには、頼山陽が参照した原典を読んでしまった方がずっとわかりやすい。

たとえば腰越状などにしても、「先人の再生にあらざるよりは、誰か為に分疏せん」などと書いてあるがちんぷんかんぷんだ。これは「亡き父・義朝がよみがえるようなことでもなければ誰が私のために申し開きをしてくれるだろうか」という意味だ。がんばって解読するよりはさっさと古典を読んだ方がまし。

「疏」というのもわかりにくい漢字だが、箇条書きのようなものを言うらしい。「分疏」では細かく説明する、弁解するの意味になり、「疏状」は告発書、訴状のようなものを意味するらしい。わからんよなあ。

壇ノ浦の戦いで「鉤」または「搭」などの語が出てくるが、これらはいずれも「鉄の熊手」のことで、「鉤」はまあ鉄のかぎ爪だとわからんでもないが、「搭」に至っては、たぶん漢和辞典でなく中国語辞典でも引かないとこれが「熊手」であることはわからんのだな。

「法皇弗予」なども「弗予」が謎である。読み仮名の「ふよ」と、文脈的に「不予」(天皇の病気)だろうと推測できるが、そもそも不予という言葉を知らなければ予測もつかない。

で、結局、日本外史を読むということはその出典もすべて読まないと完璧とは言えない、ということだろう。幕末維新の武士たちが日本外史を読んで勉強したというがどの程度彼らは読めていたのだろうか。たぶん、日本外史以外の書籍が相当にちんぷんかんぷんで、日本外史はそれらよりはましという状況だったのではないか。まあ、今の教育が進んだ情報化社会と比較しても仕方ないわけだが。

google日本語入力だが、固有名詞には非常に強い。マイナーな登場人物の名前もばんばん変換できる。しかし、当然変換できるはずの単語がうまく変換できなかったり(たとえば「頼家」とか)。atokの手書き文字入力も捨てがたい。なんで結局atokとgoogleを切り替えながら書いている。

切腹

腹を切って内臓露出しただけじゃ死ねないんだよ。 一日くらいは絶命しないこともある。
だから、江戸時代に様式化されると、苦しまないよう介錯が始末してくれる。

もともとは苦しんで恨みを残して、周りに迷惑をかけて汚く死ぬための死に方だったわけだし。

だから、今回の切腹は、割と正しいやり方だったと思うよ。 歴史的には自分の死をもって嫌がらせをするために切腹する場合もあり、 きれいに死ぬのが切腹とは限らない。

逆に、ブラックホークダウンみたいに、大動脈が切れれば30秒くらいで出血多量で死んでしまう。 手当が間に合わない。

山居

「釣月耕雲慕古風」に関しては961208000306などで考察して来たのだが,インターネットもずいぶん広くなったようで, 明確な出典が見つかった.道元の漢詩だった.思ったよりも古くて大物だったな.

山居(さんご)
西来祖道我伝東 西来の祖道我東に伝ふ
釣月耕雲慕古風 釣月耕雲古風を慕ふ
世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛べども到らず
深山雪夜草菴中 深山雪夜草菴のうち

道元というひと,それからこの漢詩の前後の文脈から,だいぶはっきりしたことがわかる.おそらく「釣月耕雲」というのは,後世の人間どもがこねくりまわした「禅問答」じみた意味ではなくて,俗世間を離れた山奥の静かで質素な勤労生活のことを言っているのだと思う.つまりこの四行の詩は全体に非常に具体的で単純明快なことを言っているのであって,「釣月耕雲」の部分だけになにか深淵な謎がかけられているとは考えにくい.「耕雲」というのはつまり雲が眼下に広がってるような高原の畑を耕している光景が思い浮かぶし,「釣月」というのは夜水面に映った月に釣り糸をたれているような感じがある.しかし,禅宗とか道元というのはかなり保守的な仏教のように思うので,魚を釣って食べたというのは少し考え難い.ここに疑問が残る.が,しかし,鎌倉仏教というものは,肉食はしなくとも川魚くらいは食べたかもしれん.江戸時代までの日本人はだいたいそういうもんだし.「紅塵」というのは繁華な市街の土ぼこり,つまり「俗塵」のこと.山の上には俗世間の塵が飛んでもとどかないということだね.

台湾の高雄にも「曲橋釣月」という名所があるそうだ.しかし台湾の中国の歴史というのはせいぜい清朝からこちらだし,日本の植民地だったこともあるので,日本の禅宗の影響を受けている可能性は非常に高い.であるから,「釣月耕雲」というのは,すでに中国語にあった慣用句というよりは,道元の「独創」であるというので間違いないのではないか.

で,私の爺さんがなぜ「釣月耕雲慕古風」を掛け軸にしていたかということだが,禅はずいぶん好きだったようだし,そのころ京都に本部がある日本剣道連盟と喧嘩別れしたということもあったようだから,世俗の評判や名声などは気にかけず,田舎でひたすら古武道を探求する,というような心境だったのではなかろうか,と推察される.

松尾芭蕉が初めて句集を編んだのが「釣月庵」というそうだ.

追記: 道元 永平広録 巻十 偈頌

切腹の起源

昔,切腹について調べたことがあったが,また少し調べた. 一番古い記録は「播磨国風土記」で,これはほとんど神話,というか, 何かの象徴的な伝承であって,船に乗っていて嵐に遭い, 女性が腹を切って死んだら海が静まったというもの. 武士の切腹とは何の関係もない. 次にはずっと下って鎌倉初期の説話物語の一つ「続古事談」 1219 年に出たもので, 藤原保輔(やすすけ)という者が982 年に追放処分にあって, 袴垂(はかまだれ)と呼ばれる盗賊或いは 反体制活動(?)のようなものの首領をやっていたのだが, 何故かその後出家し, 仲間のところを尋ねたら検非違使に密告され,985 年に追いつめられて, 腹を切って内臓をつかみだし, 辺りに投げつけた上,翌日死んだ,というもの.

保輔は「宇治拾遺物語」(第125話)にも出てくるので, こちらの方が有名らしい. 宇治拾遺物語の成立は続古事談と前後するくらいで同じ鎌倉初期. 宇治拾遺では保輔は商人をだまくらかして殺して埋めたり, その他盗賊などもやったが,死ぬまで捕まらなかったという. 吉川英治も「袴だれ保輔」という短編を書いているという. 私はこの保輔という人物が本当に実在したのか半信半疑だったが, どうやら本当に居たことは居たような気がしてきた. 保輔の兄に保昌(やすまさ)という人がいることになっている. というか,この保昌という人は保輔よりはるかに有名人であり, どこかで聞き覚えのある名前だと思ったらあの和泉式部の夫だったのだ. 但馬,大和,摂津など,いくつかの国の司をつとめたかなり偉い人, というか,道長の四天王の一人である. もし保輔が保昌の弟であれば,保昌自身がまず相当な権力者だし, また道長の庇護も当然あっただろうから, 検非違使に捕まって自害するなどいうところまで行くだろうか. 保輔が反体制だったというより,兄の権勢を笠に着て暴れていた, という方がわかりやすいのだが.

で,問題は本当に保輔が切腹第1号と認定できるかどうかだ. 985 年のできごとが 1219 年に記されたのであるから, これは同時代の資料とは言い難い. 130 年以上の隔たりがある. かなりあやしい. 当時,保輔は説話として語られるほど有名な, しかし伝説的な大盗賊だったわけだ. であるから,鎌倉時代のもっと小者の盗賊の捕物話がこの伝説的盗賊に投影され, 説話化されたとも考えられる. 今昔物語などを読んでもわかるように, 説話物語というものは噂話や民間伝承のたぐいなのだ.

義経記などの軍記物というか,おとぎ話によれば, 義経も切腹したとされ,また同様に為朝も切腹したことになっているのだが, どうもこれらもうさんくさい. おそらく源平合戦の頃にはまだ切腹というものはなかったのではないかと思うのだが.

切腹が武士の習いとして賛美されるようになったのは, それよりさらに 100 年下り, 村上義光以来だと思うのだ. 彼は,北条高時の元弘の乱で,主君の護良親王を落ち延びさせるために, 親王の姿形をして,吉野宮の二の木戸の高櫓に登り, 「後醍醐天皇第三の皇子,一品兵部卿親王護良,逆臣のために亡ぼされ,うらみを泉下に報ぜんため, ただ今自害する有様を見よ」 と言って腹を切った. そこへ賊兵が集まる隙に,親王はつつがなく逃れた,というもので, これが 1333 年,北条氏滅亡直前,鎌倉幕府の末期のことだ.

上がおそらく史実だと思うのだが, 「太平記」によればこの記述は若干違っていて, 義光は「吉野山蔵王堂山門」の上で, 「汝ら武運たちまち尽きて自害する時の手本にせよ」と叫んで切腹したことになっている.

W. S. モーム著,西川正身訳「世界の十大小説」岩波文庫,を読んだ. その中で紹介される小説の一つが「嵐が丘」なのだが, これは半分だけ読んだことがある. えーと,つまりキャサリンが死ぬところまで. これはまさにおそるべき奇書である. 嵐が丘の著者のエミリーのその姉のシャーロットが書いた, なんか女家庭教師の話などは比べるべくもないのだ. それはそうと,モームの紹介の中に出てくる話なのだが, エミリーの兄のブランウェルという人が,病気になって死ぬのだけど, そのとき

彼は死の近いことを知ると,立ったままで死ぬんだと言い, 寝床から起き出すと言って聞かなかったそうである. 彼が死の床にあったのはわずか一日にすぎなかった. いよいよ死期が近づいた時, シャーロットはすっかり取り乱してしまったので部屋の外へ連れ出さねばならなかったが, 父親とアンとエミリーの三人は,ブランウェルが立ちあがり, 二十分ほど苦しんだあげく,望み通り,立ったままで死んで行くのを見守っていた

のだそうだ. 実に大した強情っぱりだ.

H. G. ウェルズの「タイムマシン」も読んだ. 当時イギリスというところは階級社会で,社会主義思想が流行ってて, それを未来に投影した,という感じだ.

藤原保昌は源頼光の叔父,致忠の子,元方の孫. 元方は菅根の子. 菅根は菅原道真に呪い殺されたのだそうだ. 調べててだんだん嫌になってきた. 保昌は,頼光とともに道長の腹心で,頼光が武人であったことから, 後世特に同じように武人であると考えられているようだが, 果たしてそうだろうか. 今昔物語巻19第7にも出てくるようだ.

保昌は,宇治拾遺物語第 28 話にも出てくることがわかった. その他いろいろ調査中.