なんじゃこりゃ(笑)
キューティーハニーの原型だな。
自動ドアのマリア役の小日向しえ、キューティーハニーにもお局OL役で出てる。
なんじゃこりゃ(笑)
キューティーハニーの原型だな。
自動ドアのマリア役の小日向しえ、キューティーハニーにもお局OL役で出てる。
結局ストーリーは、四人のボスキャラを倒し、ラスボスがビオランテか小林幸子、最後は愛が勝つ、というのはうーんどうかと思うが、まあ、なんとか中だるみせず、最後まで見ようと思えば見れる作品だと思う。中だるみ感を出すということはそれなりの安定感があるということだろう。
シン・ゴジラにも出てくる市川実日子が良い味出している。そのほかシン・ゴジラとの共通点も多い。CGがときどきしょぼくなるところなども。
主人公とヒロイン以外はほとんどでてこない。
主人公の「カントク」は明らかに庵野秀明がモデルであるが、実際の俳優は岩井俊二という(庵野よりはずっとイケメンな)映画監督である。
ヒロインはこの映画の原作者である藤谷文子。彼女は俳優のスティーヴン・セガールの娘で日本人の母とのハーフ。藤谷文子は小説家でもあり、俳優でもあるわけだ。
この配役がまず、非常に屈折している。
物語の舞台の宇部市は庵野監督の生まれ故郷でもある。庵野が安野モヨコと結婚する以前に、故郷に帰省したときの実話として見ることも可能。描写はかなり私小説的だし、実際そうなのかもしれない。
カントクとヒロインの間に緊張感があってじょじょに接近していく前半部分は割と面白い。映像も美しい。31日間の物語で、1日ずつカウントダウンしていき、31日後に何が起きるのか期待させたわりには、結局カントクはメンヘラ女のヒロインにあいそを尽かすこともなく愛し合ってしまうし(しかもその恋愛描写はあまりにも不自然!)、最後の日は大竹しのぶがヒロインの母役で出て来て母と娘が和解するというあまりにも平凡なエンディング。ひねらないのがひねりなのだろうか?
ましかし、これは割と見るに値する作品だと思う。
もっと雑な自主制作特撮物なのかと思っていた。想像していたものとは随分違った。
比較的かっちり真面目に作ってあるのに、ハヤカワ隊員の役者は庵野監督ではない。しかしハヤカワ隊員がウルトラマンに変身するとき庵野監督本人がウルトラマン役になっており、かぶり物もしてない。非常に違和感のある作品だが、その違和感以外に何か特筆すべきものがあるのだろうか、この作品は。
見て損は無い。
庵野秀明監督の実写作品をいくつかみた。
『ラブ&ポップ』は原作が村上龍、『エヴァ』をやった直後にDVカメラで撮った作品。
まあ、民生用カメラ出始めの頃にそれをあえて使ったことと、アングルにこだわりは見えるものの、庵野らしさはほとんどない。
私はこういう、渋谷で女子高生がどうしたこうしたという話が好きじゃないのかもしれない。見てていらいらしたので途中でやめてしまった。渋谷、女子高生、1990年代。自分にとって嫌な思い出しかないからかもしれない。
村上龍の作品もそれほど好きではない。『限りなく透明に近いブルー』は読んだことがある。こういうものがブンガクなんだな、ついてけないな、としか思えなかった。まあ、私の中では山田詠美とか内田春菊と同じジャンル。
その村上龍が、女子高生の援助交際ものを書いて、しかもネットでネタバレなんか読むと、おじさんが援助交際する女子高生に説教するみたいなストーリーになっているらしく、まあ、まったく共感できないなと思った。さすがの村上龍も女子高生の売春を書くことは社会通念上できなかったわけよね。彼も功成り名を遂げたから、リスクを冒す必要もなかったわけだし。
文科省が読解力を問う国語入試を導入しようとしていて、たとえばこれまでは、小林秀雄の悪文を一部切り取ってきて、そのどうしようもなく論理的に破綻した文章を読ませておいて、その設問に対して間違いから一番遠いものを選べとか、最もあり得なさそうなものを選べとか、そういう馬鹿げた問題だった。ただしこのような問題は官僚や弁護士の事務処理能力を問う問題としてはある程度有効だっただろう。法律の条文と照らして正しいのかただしくないのか。多くの場合正しいと一意には決まらないから、もっとも正しそうなものを選ぶ、より正しく無さそうなものをより分けるという作業が必要になる。実にくだらない。おかげでくだらない文系人間を大量生産することになった。
漢文の問題もひどかった。どれが正しい読み下しかを問う問題があって、明らかに間違っているものもあるが、間違いとは言えないものが複数あり、素直に考えれば正解と思われるものは間違いであり、間違いとは言い切れないものが正解であったりする。その根拠というのは、作問中の他の部分の読み下し方に統一するならば、そのように読み下さなければならないから、だというのだ。漢文の基礎をきっちり学んできた者がひっかかり、漢文についてろくに知らなくても、設問の全体の雰囲気で一番確からしそうなものを選ぶ猿知恵に長けた者が得をする。まさにセンター試験的悪問。これでは、整合性のある読み下しをすることが漢文教育にとって重要だということになってしまう。まったく馬鹿げている。
こんな問題をずっと作り続けて、よくこれまで訴訟にならなかったものだ。
新しい問題は、複数の異なる資料(図、パンフレット、討議など)の組み合わせを提示して、そこから何らかの意見を記述させるという手の込んだものであって、「小林秀雄問題」とは対極にある。いわば企画立案タイプの出題だ。
せいぜいラノベとかBLとか村上春樹くらいしか売れないこの嫌な時代を矯正してもらいたいものだ。
藤沢周平の原作を読んだ。
やはりなと思った。帯屋は、あんなふうに、城内にどやどやと押し入ったのではない。藩主の近習部屋の者たちが、みな帯屋に内通していて、あるいは帯屋に内通しているものが近習部屋の者たちをどこかほかの場所に連れ出していたのだ。
そして帯屋は誰にも見とがめられることなく、藩主のいる部屋までやってきて、そこで兼見にいきなり遭遇して、斬り合いが始まる。
こうでなきゃおかしい。帯屋は、ちゃんと段取りを組んで、藩主一人と対峙するつもりだった。
あるいはだ。帯屋に内通していると見せかけて、帯屋を油断させて、実は中老の指示で、
近習部屋のものたちは隠れていて、わざと帯屋と兼見を一対一で斬り合わせた。そういう設定でもよい。
帯屋がわあわあわめきながらたった一人で屋敷の中に闖入してくるはずがない。
兼見だが、醜男で剛直な、鋼鉄のような、愚直な男として描かれている。自らの信念で、側妾をあっさり殺してしまった。まあ、これならまだわかる。
最後の立ち回りもあっさりしている。
やはり原作には無理はなかった。脚色が悪い。
藤沢周平のほかの作品もいろいろ読んでみたが彼はまともな作家だと思う。彼の話では、本来、主人公もヒロインもそんな美男美女ではない。しかし美男美女でなくては映画にならない。派手な殺陣がなければ時代劇にならない。だから脚色と原作の関係に無理が生じる。
『必死剣鳥刺し』を見たのだが、美しい映画だが、おそらくは脚色に問題がある。原作がこんなに間抜けなはずはない、と思うのだ。
まず、お家騒動というものはこのように起こるものではない。家老の帯屋が主君を隠居させて世嗣を立てようとしたとして、いくら帯屋が剣客であろうが、一人で城に日本刀をひっさげて乗り込むはずがない。死ぬ気で諫めるというのならともかく、本気で主君を斬ろうとしているようにしか見えない。あり得ないことだ。
また、お家騒動というものは頻繁に起きたことで、家老レベルならともかく、徒党も組まずに、主人公の兼見三左エ門が義憤で側室を殺害するなどというのはかなり苦しい筋書きだと思う。たとえ妻を亡くして死に所を探していたとしてもだ。側室連子の横暴ぶりが殺害動機のように演出しているのはどうかと思う。いずれにしても、兼美はごくまじめな目立たない武士だという設定では違和感がある。かなり奇矯な性格だった、とするならばまだわかる。
それから、やくざの出入りであっても槍や長刀は使う。まともな考証をしたやくざ映画ならそうする。武士だからといって全員が日本刀で斬り合うということはあり得ないし、大名ならば鉄砲ぐらいもっているだろう。乱心者が出るとわかっているのであれば、鉄砲と槍を用意しておけば足りる話であり、これもまた、日本刀どうしで斬り合いを演出するための間違いだ。
藤沢周平の原作を読んだわけではないので推測するしかないのだが、原作はこんなではなかっただろう。ああいう派手な殺陣のシーンで盛り上げるためにこんなふうになったのに違いない。里尾という亡き妻の姪との交情というのも、たぶん後付けのものだろう(まあ別に入れたけりゃ入れてもいいが)。
たとえば吉良邸討ち入りだって、ほんとに討ちとろうとするならばああいうふうに用意周到にやるものだ。
テレビドラマならともかく、キルビルじゃあるまいし、まっとうな映画なら、日本刀だけの殺陣のシーンなんてものは作らないものだ。
私ならば、帯屋は、少数の手勢をつれて深夜に屋敷に侵入しようとすることにするだろう。帯屋は家老なのだから、一部の内通者が手引きして、主君の寝所まで帯剣のまま入り込めるかもしれない。それを察した兼美と帯屋の間で斬り合いが起きる、という筋立てなら無理がない。
そういう、映画にするため付け足したと思われる部分が気になってしかたない作品だ。たぶん、売れる映画を作るためにそうしたのではない。どうみても売れる映画を作ったようには見えない。おそらく役者と、役者のファンのためにこのようなことをしたのだろう。どうも今の日本映画は、どれもこれもそんなふうに、芸能プロダクションと一部のファンが牛耳っているようなな気がしてならない。
兼美が帯屋を殺すとわかっていて、兼美をいかしておいたという設定も、かなり苦しい。 都合がよすぎる。兼美を用心棒として飼っておいて、たまたま帯屋が乗り込んできて、彼を討ち取らせたあと、兼美の乱心だと見せかけるために、兼美を殺した、という手を思いついたというならまだ良い。お家騒動はかならず幕府の処分を受けるので、隠そうとするのはわかる。
続き: 鳥刺し2
今敏の劇場版アニメ4作を全部見終わったので、感想を書いておく。
今敏監督が原作も書いた『千年女優』と『東京ゴットファーザーズ』はやっぱ雰囲気似てるのよね。『パーフェクトブルー』『パプリカ』はやっぱり原作の骨が残っていて、『パプリカ』はかなり勝手にいじったっぽいが、筒井康隆原作だと言われればなるほどそうかと思わせる。
しかし『パーフェクトブルー』は原作もしくは脚色の原型がかなりそのまんま残っている感じで、監督はもちろんアニメーションの部分はコントロールしてるわけだが、今敏監督以外の要素がかなり濃厚だとみた。いろんな伏線も後でちゃんと説明されている。演劇と現実がちゃんぽんされているのでわかりにくいが、全部見終わってみると、どこがドラマで、どこが現実で、どこが夢か妄想か、というのがわかるようになっている。竹内義和というサイコホラーの作家がきちんとサイコホラーを書いているからだと思う。ごまかしがない。もしかすると原作はもすこしストレートな話で、それをアニメ化するにあたって少し謎解きをひねったのかな。原作は入手困難のようだが、アマゾンの作品解説とか読むと。
『千年女優』もやはり演劇と現実をちゃんぽんにした作品で、単なる劇中劇ではなくて、劇の中に劇を入れ子にしてさらに相互に絡めたりして、『パーフェクトブルー』の延長線上にあるわけだが、かなりファンタジー色が強い。一応最後までみて、ヒロインの回想や妄想がファンタジー仕立てになっている、ってことはわかるんだが、『パーフェクトブルー』みたいに緻密ではない。理屈でちゃんと説明できない要素が多い。かなり迷走している。ヒロインが一目惚れした男を一生追いかけ続けるという設定も少し無理があると思う。
『パーフェクトブルー』と『千年女優』を見た筒井康隆が今敏に『パプリカ』のアニメ化を希望したというのはあり得る話だと思う。『パプリカ』ではこんどは夢と現実が入り交じる。これもストーリーはほとんど破綻しかけている。映像のおもしろさで強引にまとめている。
『東京ゴットファーザーズ』は一種の群像劇なんだけど、ストーリーがご都合主義すぎて、何でもアリな展開で、途中でついていけなくなる。今敏という人が、自分でストーリーまで作ってしまうと、こういう浪花節的なものになってしまうのだろうか。
でまあ、映像的には『パプリカ』がやはり一番すごい。でもまあこれは監督一人の力というよりはマッドハウスのスタッフがすごいんだろうと思う。
『パーフェクトブルー』は映像以外の部分は今敏の作品とは言いがたいが、完成度は一番高いと思う。
『千年女優』はまあまあ。
『東京ゴッドファーザーズ』は映像のおもしろさはもちろんあるのだが、あまり評価できない。
僭主(τυραννος)と王(βασιλεύς)の違いはなんだろうかということをずっと考えていた。
Wikipedia の「僭主」を読んでもよくわからないと思う。英語由来のタイラントだともっとわからない。タイラントには「暴君」という意味しかない。これは一般化するよりは、古代ギリシャ世界における特有の呼び分け方だと思ったほうが理解しやすいと思う。
王というのは、血縁と地縁があって、その族長がなるものである。だから王には血統があって、血筋というものが重視され、才能などはまあどちらでもよいということになる。族長というものはどんな原始社会にもある。王は、歴史に残らぬ古代から現代までずっとある君主の形態である。人の集団は多かれ少なかれ、地縁と血縁、宗教や習俗でできているからであり、それは昔も今も大差ない。
これに対して、僭主はある程度文明が発達した社会にしか生まれ得ないはずである。
たとえば、地縁や血縁が強固なスパルタには僭主は生まれ得ない。王しかうまれない。
いっぽうアテナイやテーバイなどでは、無産階級が生まれ、奴隷や富豪などさまざまな、
地縁とも血縁とも関係のない市民がいた。同じことはペルシャでもいえるのだが、ペルシャのような巨大な国では皇帝独裁というものが発達した。アテナイのようなミニチュアのような国では逆に、市民全員が政治に口出しする直接民主制というものが生まれた。
アテナイでもペルシャでも、一代で財をなしたり、あるいは領主となったり、あるいは領地を相続したり、あるいは武力にうったえて政治権力をもったり、戦争に功績があった将軍が民衆の支持を得て独裁を行ったり、そういう形で僭主が生まれることがあるわけだ。
アテナイでは直接民主制もしくは貴族による寡占政治から逸脱した状態として、僭主が嫌われた。
しかし、ペルシャのように、大昔に支配者と被支配者が完全に分離した社会では、ある日突然、一般人が領主になることがある。それは婚姻によるものであったり、跡取りがない領主が親しい奴隷に領地を相続させたりする。宮廷の官僚や宦官などが王位を簒奪して領主になることもある。
アテナイではペイシストラトスとかテミストクレスが僭主と呼ばれる。ペイシストラトスは貴族の親玉だった。無産階級をたくさん雇って農地や鉱山を開発させて一代で巨富を得た。テミストクレスは戦争の英雄だった。サラミスの海戦でペルシャ艦隊を覆滅させた。
どちらも大衆を扇動して権力を独裁しようとしていると疑われたわけだ。
だけど、同じギリシャ人のポリスでもシチリアあたりだと全然違う。どちらかといえばペルシャ世界と近い。
ギリシャ本土以外では、領主が血縁以外で継承すると僭主と言われる。娘婿でもたぶん僭主扱い。ただそれだけだ。
アテナイでは血縁や地縁が薄れてきたので、王政が貴族政に移行したのだろう。直接民主制に移行したのは直接的にはペリクレスのせいだが、狭いポリスで、アゴラに無産市民が集まって好き勝手いう環境が民主制というものを生み出したのだ。でも同じギリシャ人でも、スパルタではそうはならなかった。無産市民が発生せず、市民はみな農村にはなればなれで暮らしていたせいだろう。
追記: 要するに世襲でない王、一代で成り上がった権力者のことを僭主というのだ。西アジアでは、僭主がその部下や召使い、奴隷に財産と権力を継承することがあった。これは父から子への相続ではないから、僭主から僭主が生まれることになる。実の男子だけでなく、娘婿に継がせる場合は世襲である。ゲルマン法、ローマ法というが、ローマ法(ローマ皇帝の継承法)というのはマケドニア王国の継承法を真似たものであろう。当然、東ローマはマケドニア王国の王制をそのまま引き継いでいる。一方でゲルマン法では不動産(領地)は男子にしか所有権、継承権が無い。
タイラントが暴君か独裁者かなどということは関係ない。単に私有財産制、相続制度の問題なのだ。