メガス・バスィレウス

『エウメネス』の一番初期の草稿を読んでみたのだが、まず、タイトルが『エウメネス』ではなく『メガス・バスィレウス(大王)』になっていて、一人称ではなく三人称になっていて、エウメネスではなくて、アテナイ出身の貴族ニコクラテスという人が主人公になっている。いやそもそもこのニコクラテスなる人物は主人公というほどでもなく、王の次くらいに主要な登場人物というにすぎない。 アマストリーもまだ出てこない。 拙い、5000字足らずの草稿のようなものだが、『エウメネス』のエッセンスはとりあえず最初からここにそろってる。沙漠の話しかしてない。アッリアノスの『東征記』を読んで一番面白かった箇所を抜き出して小説風に脚色しただけ。これを多少膨らまして中編小説としてどこかの新人賞に応募したが、何の反応もなかった。

※追記: 今は全6巻、文字数は、1巻平均10万字として、50万字は軽く超えてるだろう。よくまあ書いたものだ。もはや自分でも読もうと思っても読めないくらい長い。

以下にその最初期の草稿全文を公開する。

メガス・バスィレウス

田中久三

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

「ところどころにオアシスくらいあるだろう。砂漠というところは、要するに、飛び石のように点在するオアシスをたどってゆけば越せるはずだ。」

王は砂漠の案内人らに尋ねた。

「この砂漠には、十日もの間一つの水場もない箇所があります。越えることはできません。」

「なんだ、たったの十日間か。キュロス王であればこの砂漠を越えただろう。」

案内人の一人が遠慮がちに答えた。

「我がペルシャ帝国建国の祖キュロス王とて同じです。」

「ではダレイオス大王ならば越えたであろうか。」

「いいえ。この砂漠は誰一人として生きては返しません。この砂漠を越えられぬことを、我がダレイオス大王自らが立証したのです。」

「ほう。おまえたち、どう思う。」

幕下に参集した指揮官たちは、一様にうつろな眼をしていた。打たれ強い、というよりは、あまりに打たれすぎて惚けてしまったようだ。 ニコクラテスという男がたまらず口を挟んだ。彼はマケドニア人ではない。アテナイ人である。彼はたびたび王に諫言をなした。王もそれを許した。

「おお、我らが王よ、バスィレウスよ!沙漠行は確かに我ら自らが望んだことでありました。一日も早く故郷に西帰するために。しかし今一度お考え直しください。」

かつて王は聖なる川ガンガーの岸辺でマケドニアの将兵らを集めて言った、

「ヘタイロイたちよ。我ら全員が乗れるほどの船を調達し、この川を下ってそのまま東の海へ出でて、アジアの海を一巡りして、カスピ海に戻ってこよう。船旅もまた面白そうではないか」、と。

いつも従順なマケドニア兵たちも、このときばかりは抵抗した、首に縄を付けられ、岐路で嫌いなほうへと導かれる散歩途中の飼い犬のように、身をくねらせ足を踏ん張って。

王は考えた。ニネヴェのアッシュールバニパル図書館で見た世界地図によれば、ガンジス川の河口からシナの海とカスピ海はつながっていた。シナもアフリカの奥地もカザフ平原もきわめて矮小に描かれていた。我らは苦も無くそれら全世界を経巡ることができる、と。しかし、兵卒らの本能は察知していた、「世界がそんなに小さいわけはない。海や大陸はどこまで続いているかもしれない。生きてマケドニアまで戻れる保証はない。」

王は言った。 「よろしい。ではアジアの海を航海するのと、ペルシャの沙漠をよぎって帰還するのでは、どちらがよいか。おまえ達が好きな方を選べ」と。

「我らは皆、東の海よりは西の沙漠の方がましです、後生ですから、沙漠に行かせてください。」

王はニコクラテスに向き直り、栗色の縮れ毛の下に光る、その黒い瞳をみつめて言った。

「私はペルシャのキュロス大王よりも偉大だろうか。」

ニコクラテスは答えた、

「もちろんでございます。王より偉大な王はこの世界にはおりません。」

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

ニコクラテスはめまいがした。王はまったくひるまない。むしろ闘志を燃やしていた。

「ペルセポリスはまさしくこちらの方角か。」

「王よ。その通りです。しかし交易路はずっと北を迂回しております。まっすぐに砂漠を抜けることはできません。」

ニコクラテスの父はアテナイの貴族で書記官だった。王の父フィリッポスはアテナイやテーバイからなるギリシャ連合軍をカイロネイアの戦いでうちやぶり、マケドニアが全ギリシャの盟主となった。アテナイはマケドニアの要請に応じて、ニコクラテスを王の旅団に派遣した。以来彼は、いつ果てるともしれぬその大遠征 に従い、王の記録係を司っていた。立場上、王の相談役となることもあった。しかし、彼の意見が取り入れられることはなかった。王は何事も自ら即決するの だった。この王ほど参謀を必要としない王はあるまい。

王はもちろん気が狂っている、と彼は思う。

「四の五の話していても埒があかぬ。そろそろ行こうではないか。」

王は常々、インド人が乗る象ほども巨大な、スィリア産の白馬プケパラスに乗馬していた。しかし今、みずから鞍を外して荷駄を載せ、自分は徒歩で、プケパラス の手綱を引いて塩の海へと歩みだした。全軍が魔法にかかったように、すっくと立ち上がり、王の後について歩き出す。ニコクラテスはもはや驚かない。ただ、 王だけではない、マケドニア人はみな気が狂っている、そう思った。

分厚い岩塩の下には、ときおりコールタールのように真っ黒で腐った水がたまっていた。馬やらくだが塩を踏み抜いておぼれてはたいへんだ。案内役は注意深く、全軍を安全なルートに導く。

「次のオアシスまで、あと5日の行程です。」

日の出とともに進み、日の入りとともに野営する。それを3回繰り返したら、涸れた塩の湖がついに尽きて、標高が1スタディオンもあるかという、砂丘が現れ た。足が熱砂に膝まで埋もれた。一つ砂丘を上るとそのいただきから次の砂丘が見える。その砂丘に上ってもただまた次の砂丘が見えるだけだ。

「今日の野営地はここだ。」

皆は砂丘の斜面をベッドに寝た。王もまた兵士らとどうように直に砂の上に寝た。

王はバクトリアで敵将オクシュアルテスの娘ロクサナを娶った。王の両脇にロクサナとオクシュアルテスが添い寝する。

「ロクサナ。なんとやわらかな砂地だろう。ペルシャ王宮の絨毯や、フラミンゴの羽布団よりも、この砂漠の寝床の方がここちよいではないか。」

ロクサナは飼い猫がそうするように、無言でじろりと主を見ると、あきれかえって眼をそらした。

「叔父上よ。なんと見事な夜空ではないか。まるで星が鼻の先で光っているようではないか。手でつかめそうだ。地平線まで雲一つなく、空気がどこまでも透き通っている。」

王は水もなく飛ぶ鳥さえない死の沙漠のただ中にいて、恐れるどころか、むしろ楽しんでいる。オクシュアルテスは戦慄した。王は艱難辛苦がお好きなのだ。艱難辛苦によって得られる名声や富ではなく、艱難辛苦そのものがお好きなのだ。炎暑の沙漠に焼かれ、酷寒の雪原に凍え、断崖絶壁をよじり大河を渡河する、そういうこと自体がお好きなのだ。

翌朝また出立し、いくつかの砂丘を越えると、眼下に青々とした、小さな湖が見えた。

「オアシスだ。」

兵卒らは砂丘をわれ先に滑り降り、服を脱ぐのももどかしげに、湖の中に飛び込んだ。後から後から兵士らが飛び込み、多くの家畜らも後を追ったものだから、水面に浮かび上がることができず、少なからぬ兵がおぼれしんだ。また、余りにも一度に大量の水を飲んだために、急死するものまで出た。

「なんというざまだ。」

王は死者を砂に埋めて葬った。王は案内役に言った。

「これからはオアシスに着くより20スタディア手前で宿営することにする。これ以上部下を死なすわけにはいかぬ。」

一行は次第に深い砂漠に沈んでいった。日にちの感覚が失せていき、永遠に砂漠の中を彷徨するのではないか、という錯覚に陥る。

「恐れながら王よ。一つだけお聞かせ願えませんでしょうか。私が常々抱いております疑問について。」

「なんだ、オクシュアルテス。申せ。」

「王は何故に、困難なことと簡単なことの二つを選ぶときに、必ず困難な方を選ぼうとなさるのでしょうか。王都に安住せず、危険な世界を経巡ろうとなさる。ひとときも心休まるときはありますまい。」

「ははは。私はそなたたちとものの考え方が違っているからこのように世界の王になれたのである。極めて自然なことだ。そなたたちに困難と思えることが私にはむしろ簡単であり、簡単と思えることが逆に困難なのだ。楽しいと思えることが私には耐えがたい苦痛であるし、苦痛はむしろ快楽なのだ。

叔父貴よ。これは、そなただけに打ち明けることであるから、他言は無用であるが、私がマケドニアかバビロンの宮廷に戻れば、臣下らは、みな喜び安堵するであろう。しかし、この私にとって宮廷ほど危険なところはない。

今我らは世界征伐の途上にあって、我が旅団も生きるか死ぬかという緊張状態にある。私が真の意味に必要とされている場所は戦場なのだ。私が、このアレクサンドロスが宮廷にいれば、逆に誰も私を必要としなくなってしまう。我が父フィリッポスもまた同じであった。父は戦場で死んだのではない。宮廷の祝宴のさなかに死んだのだ。だから、私もまた祝宴も、宮廷も好きではない。戦場こそが私の安住の地なのだ。我が兵ら、ヘタイロイらもまた、危難の中にあればあるほど私に従順である。宿営地に集めておれば全軍を即座に掌握できる。もし我が故郷へ帰ってめいめいの家の中に入ってしまえば、私の目は届かず、何を企んでいるかもしれないではないか。」

王はそこまで話すとオクシュアルテスの返事を待たずに立ち上がり、尻や腕の砂を払うと、ロクサナの手を取り、砂の中から起こし立たせた。王は娘をバビロンに連れていき、そこで正式に挙式して、王の妃に立てるという。王がそう言うのであるからそうするのであろう。そしてまたどこかの戦場へ旅立つだろう。それまで私も王の軍にいるしかないのである。

王は沙漠の民を案内人として、水場から水場へと行軍した。日の出とともに行軍を開始し、日の入りとともに野営した。翌日も、また翌日も、同じように進軍した。

或いは駱駝や馬を屠ってその生き血をすすり、或いは奴隷のはらわたを割いてのどを潤さねばならぬ。すくなくともロバや羊は沙漠を出る前にみな食われてしまうだろう。

岩陰には夜露がたまっていることがある。夜中のうちに岩に当たって冷えた空気が結露して、わずかな雫が窪地に集まって、人ののどを潤すほどの量になることがある。兵卒らはあらそってそれらの水をすすり岩をなめた。

ある兵士が洞穴を見付け、兜一杯分の水をくんできて、それを王に献上しようとした。

「これだけか。」

「はい。」

「私もまた、マケドニアのヘタイロイの一人にすぎぬ。皆が渇きに苦しんでいるときに、私だけがこれを飲むわけにはいかぬ。おまえが見付けたのだから、おまえが飲めば良い。」

「それはご勘弁ください。」

「我が軍全員の分がないのに私だけ飲んでも意味が無い。捨てるとしよう。」

そう言って、全軍注視の中、兜一杯の水を砂地に撒いた。水はたちまち沙に吸い込まれ、太陽がたちまち乾かしてしまった。兵士らは無言でその信じられない光景を見ていた。まるで、砂が一杯の水を飲み込んだように、全軍が等しく一杯の水を飲んだかのような感覚を共有しつつ。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

オクシュアルテスは言った、「ニコクラテス。おまえは、王があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかしそれは違うのだ。王は用心していたのだ。王は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を分けて食い、兵士らが飲んでいる水を分けて飲む。王は自分のヘタイロイの一人に過ぎぬというつもりでそうしているのではない。毒を盛られるのを怖れているのだ。

また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。」

小説の書き出し

> アマストリーにギリシャ語を教えるよう、王は私にお命じになった。

2013年3月17日にKDPで『エウメネス』を出したときの書き出しはこうなっていた。 ずっと最近までこの出だしのままだった。これを私は

> My Lord charged me to teach her the Hellenic language.

と訳してみた。「命じる」だが、command, order, charge, assign, appoint など、いろいろ候補がある。 ここでは王から私に一方的に仕事を課した、という意味合いで charge にしてみた。 discharge だと任務を解く、兵役を終わらせる、というような意味がある。

Greek という言葉は使いたくなかったので、Hellenic とした。 Hellenistic だとさらに意味が違ってくる。 Greek はラテン語由来であり、ローマから見たギリシャを意味する。 ギリシャ人自身は自分たちを Hellene と呼び、自分たちの国を Hellas と呼んでいた。 ローマが勃興する以前の話なのでラテン語由来の単語をできるだけ使いたくなかった。 日本語だとラテン語を使わず、たとえば漢語で代用するってことは割と容易だが、英語だとそうはいかない。 漢語はギリシャとローマの関係に中立だから良いが、ギリシャのことをローマの用語で書くとローマ史観や西洋史観がそこに混入してくるので嫌なのだ。ギリシャ史観が入ってくるのはある程度仕方ないとして、私としてはこれを西アジア史観で書きたいのである。

逆に日本語だと、「ギリシャ」を「ギリシャ」以外の単語で代用するのはほぼ不可能だ。この問題についてはもう少し時間をかけて検討したい。

「王」をどう訳すかも少し悩んだ。King にしようかと思ったが、あまりに唐突なのでここではやめておいた。あきらかに The King ではない。My King か Our King で良いかもしれないが、無難に My Lord にしておいた。以下作中では King と Lord どちらも使っている。

英訳だと Amastri という固有名詞すら出てこない。 で、この書き出しは、自分としては割と気に入ってるのだが、これだと、宮廷のどこかでお姫様が執事か何かに勉強を習う話のように思えるが、先まで読んでみたら違った、みたいなことを言われた。王様とお姫様が出てくると何かディズニーランドかトランプの絵札かチェスの駒のようなものを思い浮かべるのは日本人の悪い癖、西洋の悪い影響なので、わざとそのように勘違いさせておくのが良いと思い、そもそも私がこの書き出しにしたのは読者にそういう勘違いをさせのちに意外な方向へ話を展開させる、という意図もあったのだが、私としては少し思い改めて、出だしを次のように書き換えることにした。

> カイバル峠を過ぎ、ヒンドュークシュの山嶺から下界に降りると、ようやく春が我らを出迎えてくれた。雪が消え残る岩山は新緑に萌える草原に連なり、トネリコの枝にはそよ風が渡り、クロウタドリが口笛を吹いている。王は進軍を駐め、ここを今日の宿営地に選んだ。
> 兵士らが薪を集め火をおこし、幕舎を建てている合間に、私は木の間に天幕を張って日除けにし、テーブルと椅子を出して文房具を並べる。勉強を教えるにはあまり適していないところだ。さっきからずっと彼女は、岩場の隙間に咲いている黄色いスミレソウや、青い空を飛ぶ白い蝶に気をとられている。

> At last the spring welcomes us who now descend the Kaukasos mountains crossing the Khyber Pass. Snowy rugged scenery turns into green grass fields, warm wind blows and black birds are whistling in ash trees. Our Lord stops marching here to fix today’s camp.
> While soldiers are collecting woods, pitching tents and making fires, I spread a sheet between trees to avoid sun exposure, place a table and chairs under the shadow, prepare for writing. This is not a good place to study something, for the yellow primroses blooming in rocky meadows and white butterflies flying over the blue sky constantly attempt to attract her attention.

一箇所に定住していれば住民が春が来るのを迎えるのだが、逆にここでは、遠征軍が山から下りたので下界で春が出迎えてくれた、というわけで、そこは少しひねった。出だしをひねろというリクエストがあったので。 トネリコやクロウタドリや黄色いサクラソウや白い蝶というのは『フローニ』の使い回しだ。 英文中ではヒンドュークシュを Kaukasos と書いているのだが、これはアッリアノスなどがそう書いているからだ。当時この山がアヴェスター語もしくはサンスクリット語でなんと呼ばれていたのか、よくわからない。

カイバル峠やガンダーラを知ってる人にとってこの序章はある種の旅情を喚起させるのだろうが、知らない人にとってはいきなり未知の地名がわらわら出てきて読む気が失せるのだろう。私がトールキンのファンタジーを読むときのように。これはもうしょうがない、想定する読者ではなかったと諦めるしかないと思う。

企画

世に「歴史エンタメ」と呼ばれている作品の多くは、「サラリーマン金太郎」や、「課長島耕作」と同じで、戦後サラリーマン小説の一種であり、 それを子供向けにすれば「ワンピース」になるのだ。 吉川英治が受けたのは、歴史上の人物や舞台を素材としつつ戦後のサラリーマン社会を描いたからであり、 「のぼうの城」もまた同工異曲といえる。

「のぼうの城」の場合、中小企業を継いだ二代目の世間知らずが大企業に刃向かって、前社長の部下たちが頑張って、そこそこ勝利したという話の焼き直しに過ぎないし、 上田合戦にしろ、あるいは真田丸にしろ、歴史好きだから面白いというよりは、 今の日本のサラリーマンが見て素直に共感できるから受けているだけだ。

NHKの大河ドラマも似たようなもので、日曜日夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけに作られているわけだ。

世の中は、いくら歴史好きのために歴史小説を書いても売れはせず、 「日曜夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけ」に作られた「えせ歴史もの」しか売れない仕組みになっている。

たとえば最近はやった「相棒」とか「倍返し」みたいなサラリーマンものを歴史エンタメに作り替えるのが、 売れる歴史小説、時代小説を書くコツだろうと思う。

村上春樹が売れている理由が私にはずっとわからなかったのだが、 村上春樹は英文学の翻訳などをやっていて、「マス」が読みたがっている小説とは何かということを把握し、 自分でも書いてみたのだろうと思う。 要するに村上春樹の小説というものは官能小説を純文学に仕立てたものだ。 多くの純文学がそういうしかけでできている。 ふわっとしてて、登場人物も少ないし、ストーリーがあるわけでもない。そのままでは「やおい」ものになってしまうのだが、 読者が読み続けるのは官能小説のエッセンスが仕込んであるからだ。 そういう小説は、小説を読むのが苦手な「マス」にも読まれるのだ。 カズオ・イシグロだとそこまで露骨ではなく、彼の場合やはり、日本からイギリスに帰化したという屈折が、 根っこになっている。

新人でいきなり売れっ子になる小説家もいるが、だいたいは文章力というよりは、企画で売れている。 ということは一人で思いついたというよりは誰かヒントをくれて売り出してくれた仕掛け人がいるに違いない。 かならずそういう人たちが生まれてくるコミュニティというものがある。

いろいろ売れている小説を調べていると、最初から企画どおりに書いた小説のほうが売れるに決まっていて、 書きたいものを書いてそれを企画会議に通すために書き直すのではそもそも企画会議に通るかどうかすらわからない。 で、企画会議を通るのは純文学かエンタメ小説を偽装した官能小説かサラリーマン小説しかあり得ない。 それ以外のものにも読んで面白いものはあるし、むしろ、そういう規格から外れた小説のほうが私にとっては面白いが、 しかしそういう規格外れの企画は企画会議を通らないから出版されることはめったになく、 出版されても売れることはないのだ。

隠し砦の三悪人

ルーカスがエピソード4を作る前に見ていたという『隠し砦の三悪人』を見てみた。 確かに似ていると言えば似ている。

のっぽとちびはC-3POとR2-D2で、三船敏郎(真壁六郎太)はオビワン・ケノービで、雪姫はレイア姫。 ダースベーダーは山名家の侍大将・田所兵衛。 最後の大団円も似てなくもない。

ただこの『隠し砦の三悪人』が黒沢作品の中でもあまり知られてないことからもわかるが、今見てそれほど面白いものではない。 スターウォーズとの関連を見ながら見ればなんとか楽しめるかなってとこか。

Homeland + Tom Crancy’s Jack Ryan Amazon Prime Video

プライムビデオのジャックライアンを見たのでホームランドも見始めたのだが、 ジャックライアンのキャラクター設定にけっこうゆらぎがあって誰が善人で誰が悪人かってのがかなりぼかされていて、 たとえばスターウォーズなんかのキャラクター設定と比べると曖昧な感じがする。 スターウォーズだと善人がいて悪人がいて、元善人が悪人になり、改心して善人に戻るとか。 暗黒面なんてものがあるわけだから、どうしてもそういう勧善懲悪的なものになるわね。

それがジャックライアンには希薄で、ホームランドだともっとそうで、主人公も性格的に破綻してて、脇役もみんなどこか壊れてて、 そういうものが、ドラマのシリーズものだからよけいに、だらだらと演じられていくのだが、それでも見続けられるのはどこか面白いところがあるからだろう。 たぶんホームランドはフィクションの形をかりたドキュメンタリーみたいなもので、 CIAの仕事というのも、誰の判断が正しく誰が間違っているかわからない状況で試行錯誤の連続なのだろうし、 それを正義と悪、国家とテロリストという対立軸でドラマに仕立てるのは明らかに嘘なわけだ。 私たちはついこういうものを謎解き物として見てしまうのだが、謎解きや正解などはないのだ。 判断は当たることもあれば外れることもあるし、外れたからといって見る側が作者の意図に負けたということにもならないし、 まして見抜いたからと言って勝ったことにもならない。 だれかが作ったストーリーであることを拒絶しようとしているようにもみえる。現実とはまさにそうしたものだ。 テロリストとの戦いというものの実態、退役軍人の実態、そうした生のものを描こうとしてて、それがストーリーとかキャラクターの魅力以前の、 人気の秘密だろうと思う。

ジャックライアンは同じくCIA分析官とその上司というのがメインキャラで、明らかにホームランドを下敷きにしているけれども、 プライムビデオの新規顧客を獲得しようという意図がもっと前面に出ている。 ホームランドはどちらかといえばドラマとして当てようという考えよりも、作りたいものを作ろうとしたというのが先ではなかろうか。

たぶんプライムビデオのほうは、「トムクランシーのジャックライアン」というタイトルを使うことにまず金をかけているはずだ。 制作にもそうとう金がかかっている。 たとえていえば、ホームランドはタモリ倶楽部でプライムビデオのほうはブラタモリといったところか。

アメリカというのは、アラモの砦にしろパールハーバーにしろ、先に手を出させて反撃するのは正義、みたいなところがあって、 それはもとをたどればイエスの受難に行き着くのだろう。 自国民保護という名目で世界中に海兵隊を送り込み現地人を殺傷するのはイエズス会がやっていることと何も変わらない。 そういうものを反省するゼスチャーを示しつつ同じことをやりつづけている。

天明八年戊申十月御心得之箇条並老中心得之箇条依台命松平越中守定信撰之上ル覚

一 五常五倫の道を体せられ文武兼ね備はらせられ候御事は勿論の御儀、且つ貴賎共各職分御座候ひては職に背き難き候由、恐れ乍ら上には御官位尊くあらせられ候上、征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、源氏長者を御兼職遊ばされ候。征夷将軍に於いては一日も武備を御忘れられ難し。両院別当に於いては又、文道を御離れ難く遊ばされ候御事・御職分に成られ御座候へば、弥(いよいよ)御慎み御勤め遊ばさるべく候事

一 何ゆゑに斯くは御尊くあらせられ候と常々思し召されるべく候。斯くの如く御尊くあらせられ候は、東照宮の御神徳にあらせられ候。東照宮にも斯くの如く御尊くあらせられ候様、神慮にもあらせられず、応仁の頃より天下大いに乱れ、生民、塗炭に落ち候をお救ひなされ、大正・至仁の御徳あらせられ候に付き、天下人民、帰服奉り候ひて天下を御平治遊ばされ候。元より御尊くあらせられ候はでは天下永久に御治め難く遊ばさる御事に付き、再応の勅命に任せられ、遂に御位も御尊く成らせられ、万代無疆・御栄耀には成らせられ至り候。古人も天下は天下の、一人の天下にあらずと申し候ひまして六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候御事に御座候へば、かりそめにも御自身の者に思し召すまじき御事に御座候。将軍と成らせられ、天下を御治め遊ばされ候は御職分に御座候。然る所、上に立たせられ候ひては、おのづから御心も弛ませられ、御政事は残らず下へのみ任せられ、万づ天下の為に御心用ゐさせられ候御儀薄く御慰み事にのみ御心を用ゐさせられ、或いは上にあらせられ候ひては下の御威風に靡き奉り候によりて、自然思し召し付かせられ候事いつも宜事とのみ思し召され仰せ出だされ候儀は御筋合如何の事も其の儘御押し付け遊ばされ、御喜怒の御私情にて御賞罰の御大法を曲げられ、御愛憎の変にも御人の御進退遊ばされ候類ひはあらせられまじき御事惣て軽き輩職分におはせられ候へば御咎の所も亦重く天下の患ひにも相ひ及び候事相ひ記し候如くに御座候。

以下略

国体論と『保建大記』

日本国体の研究 などというものを読んでいたのだが、 国体という言葉はイギリスには無いと英国大使のエリオット氏が言っていた、などと書かれていて、 実際、国体という言葉は江戸時代に入ってから栗山潜鋒が作った言葉なので、中国の古典にも無いし、インドにあるはずもないし、 ヨーロッパにあるはずもないのである。

それでこの著者は、趣意無しで出来た国には国体は無く、 趣意があって出来た国には国体がある、などと言っているのだが、 日本が出来たときに趣意なんかあったはずがない。 日本の建国がどういうものであったかは、神武天皇紀なんかからなんとなくわかるとしか言いようがない。 大陸から稲作文化なんかがわーっと日本に渡ってきて、狩猟採集社会が農耕社会になって、村が出来、国が出来ていった。 そんなふうになんとなく成り行きで出来た国であったはずだ。 世界中の国がそんなふうにしてできたように。 それがなぜかいつの間にか、日本だけが、世界にも稀な、何千年も王朝が途切れなく続く唯一の国になった。 なんでそんなことが日本でだけ起きたのだろう、という疑問から、国体という概念が出来たのだ。 そしてその問題意識を最初に抱いたのが栗山潜鋒だった。

多くの人は、日本は島国だから、たまたまうまいぐあいにそんなふうになったのだ、と思っている。 確かに偶然の要素は大きい。 室町時代なんていつ天皇家が絶えてもおかしくなかったわけだし。 でもその後四百年も天皇家は続いたし、今後もどのくらい続くかわからない。 じゃあなんで続くの?続くべくして続いているの?将来の日本のために私たちはどんなことを考えなきゃいけないの? と現代日本人の私たちにもいろいろな問題ができてくる。

とりあえず栗山潜鋒という人は先駆者だ。 彼は国体という言葉を単に「国内外に対する国の体面、体裁」「独立した一個の国としての尊厳」「主権国家としての独立性」というような意味で国体と言った。 単なる「お国柄」というような意味ではない。 栗山は、山鹿素行のような日本中心主義者ではない。 国と国の関係について言えば相対主義者である。 どの国も自分の国が中国である、というただそれだけの主張だ。

『保建大記』では、 国交のあり方、国としての尊厳、それが国体であり、これをきちんと国内外に示す、そうしないと国体を損ねる、栗山はそういうような言い方をしているに過ぎない。

『保建大記』はしかし、儒教では説明できない「日本独自の政体」がなぜ出来たのか、その独自性について初めて突き詰めて論じた書であったから、 「国体」とは自然と「日本独自の、万世一系の天皇中心の政体」という意味に使われるようになった。 そして『保建大記』そのものはあまりにも深く難しい論文だったので、次第に忘れられて国体という言葉だけが勝手に一人歩きし始めたのだ。

もちろん『神皇正統記』の著者北畠親房も、日本だけ王朝の交替や革命というものがなくて天照大神からずっと皇位継承が連綿と続いているのは不思議だ、ということには気付いていた。 最初にそのことを明確に記したのは親房だ。 だが親房は、摂家に代わって武家が台頭してきたが、再び天皇親政の時代が来るのじゃなかろうか、という楽観的観測を持っていた。

栗山潜鋒の時代には、摂家独裁から武家による幕府ができ、再び幕府ができ、三度幕府が出来た。 こうして完全に武家の世の中になったにも関わらず、なぜか皇統というものは太古から連続している。 つまり、国の政治の実権を握るものは(中国の王朝のように)交替していくが、皇統は連綿と続いている。 どうやら中国と日本では異なる原理に王権は基づいているらしい。 ただの偶然も三回も四回も続けば必然になる。 日本の王権は儒教の論理では説明が付かないのではないか。では日本独自の政体論が必要なのではないか。 こうして生まれたのが国体論なのだから、日本以外に国体という言葉があるはずがないのである。

徳川家康は天皇を大事にしようとか日本の君主は天皇だとか、そんなことは別に考えてもいなかっただろう。 死に物狂いで戦っていてたまたま最後まで勝ち抜いて、頼朝や尊氏にならって幕府を開いたというのにすぎない。 何か趣意があって幕府を開いたはずがない。 家康はいきあたりばったりにそれらしい幕府を作り、天皇にそれらしい待遇を与えたのにすぎない。 家康は足利ご一家の吉良家を高家という旗本の身分で残して珍重した。 家康にとって天皇家も高家も似たようなもんだ。

しかし松平定信くらいまでくると、今更ガチンコ勝負で諸侯を押さえつけて、国を治めようなんて考えているはずがない。 もうあんな実力主義の時代はこりごりだと思ってるはずだ。 天皇の権威を利用したほうが、武力を行使するよりずっと有利だ。 ならば利用しようということになる。 最初に国体という趣旨があったはずがない。 国を治めるのに何か趣旨が必要になったから国体ができた。 だから、松平定信は水戸学や宣長の「みよさし論」などを採り入れ、頼山陽にお墨付きを与えて、大政委任論というものを確立したのだ。 江戸時代の国体論というものはつまり大政委任論のことだ。 天照大神から天皇家に委任された国を治める権限を、天皇からさらに征夷大将軍に委任しているという構図。 大政委任論からは大政奉還論も同時に出てくる。 大政委任・大政奉還論というのはつまり中国の易姓革命理論に相当するのだ。

それでまあ、戦前戦中の国体論は、栗山潜鋒や松平定信や本居宣長や頼山陽の役割というのがよくわかってないので、非常に観念的な国体論になってしまっている。

本居宣長が松平定信に与えた影響は知られている以上に大きいはずだ。 国体論は北畠親房-栗山潜鋒-本居宣長-松平定信-頼山陽-水戸斉昭-吉田松陰というようなラインで出来ている。 その中で一番重要で難解なのが栗山潜鋒なのだが、 驚くべきことに栗山はかの『保建大記』をわずか18才で書いたのだ。 そしてわかったつもりでいた『保建大記』を改めて一字一字読んでいくと、実はまだ何もわかってなかったことに気付く。 それでまあ、『保建大記』をどうにかせんといかんと今は一生懸命読んでいるところだ。

栗山潜鋒という人があまり知られていないのは彼が重要でないからではない。 わかりにくいからだ。ほとんど誰も手を付けられないからだ。 頼山陽ですら普通の人は四苦八苦する。頼山陽は多少漢文に親しんだ人にはなんてことはない。 本居宣長だって別に難しいことは何も言ってない。 山崎闇斎だって荻生徂徠だって一通り読んでみたが別に難しいことは何も言ってない。 だが栗山潜鋒はめちゃくちゃ難しい。 いつまでたっても一般人に知られるはずがない。

詩三百篇 思無邪

景山先生『不尽言』に曰く、天照大神は女体と言ふ事なれども、呉の太伯なるべしと言へる事、さもあるべき事とも思はるるなり。その上に、太伯は元、殷の世の人なれば、殷の世の人は鬼神を尚ぶ風俗なるゆゑ、殷の余風が残りて、日本には髪を尚ぶ事と見えたり。又、呉の字を付けて称する事多く、呉竹、呉服の類ひなど、かたがた符合する事もあるなり。然れどもかく言へる事を、神道者などは、これは儒者の唐贔屓から言ひ出だしたる附会の説とて甚だ嫌ふ事なり。神道者は、只、日本は神国なりとて、神と言ふものを奇怪幻妖なるもののやうに人に思はせ、日本には別に日本の道ありとて、吾が道を神妙不測にせうと拵へたるものなり。神道とて別あるべき事ならず。

しかしながら、神は即ちいにしへの聖神なれば、いかさま天照大神の聖徳、数千年の季まで人心に薫染して得去らぬと言ふは、神妙不測の事なるによって、神国と言はんもことわりと覚ゆるなれば、かの武国と言はんよりは一理ある事なり。

和歌と言ふものも、本は詩と同じ物にて、紀貫之、『古今集』の序に、「人の心を種として万の言の葉となれりけり」と言ひ、「見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる」と言へれば、詩の本意と符号せるものなり。此の万の字、面白し。人情は善悪曲直、千端万緒なるものなれば、人の心の種の内に発生の気の鬱したるが、見るもの聞くものに触れて、案配工夫無しに、思はず知らず、フッと言ひ出せる詞に、すぐにその色を表すものなり。草木の種と言ふもの、内に生えむと思ひ工夫して生ずる物ではあるまじ。発生の気が内に鬱して、自然にズッっと生え出づるものなり。しかれば、其の詞を見るによって、世上人情の酸いも甘いも良く知らるる事なり。されども、人の大事に臨み、自ら警めたしなみ、案配工夫して、心の内にてその善悪を調べ、吟味して詞に発する事は、皆それは作り拵へたるものなれば、中々人の実情は知れぬ事もあるなり。それゆゑに、箪食豆羹などに心の色を表すと言ひて、人の心を許し、うっかりと思はず知らずにふと言ひ出だしたる詞にて、人の実情は良く見ゆるものなり。

俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。

詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。

本居宣長の功績

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。