天皇の系図

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皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、後嵯峨天皇あたりで力尽きた。余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。妃や子供の数が明らかに減っている。たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。その後も天皇家はどんどん衰退していく。天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。源光(845-913)。母は宮人・百済王豊俊の娘。百済からの帰化人の家系。源多(みなもとのまさる)という兄がいた。この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。

宮家

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思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」というのはなんかおかしな感じである。誰がそんなことを言い始めたのだろうか。佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。かといって親王宣下されたわけではない。だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、それを言い出した人はそうとうな山師だ。まったく同じことは後南朝でも起きた。後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。

南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。これは南朝に対抗するために違いない。特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、持明院統と特別に対立しているわけではない。かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。

伏見宮家は北朝から分かれたが、本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。

閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。

ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。

本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、全滅してしまっている。白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、まだ血は近かったのに違いない。

思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、いつ王国が復活するかわからないわけだが、余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。

明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、宮家を創設するようになったから大混乱だ。

江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。それは室町期でも同じだ。皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。

京極派の末裔2

話を整理してみると、鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。

ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、 二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、 つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、 二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。 二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、 冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。 その傾向は、 常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。 つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、 思いついたままを歌にしてみる。 ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、 その両方を楽しんでいた。 後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。ある意味そうかもしれない。 宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。

松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。
人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。
松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。
このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。
正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。
京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。 たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。 そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、 正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、 堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。 彼は逃れようとした。 しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、 彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、 江戸より昔ではなく、江戸初期に起きたことなのである。 江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、 そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。

幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。
ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、 後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、 宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。この見立てはよい。

後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。私にはそうは思えない。なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、彼らから京極為兼が生まれてきたのである。また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。為家は確かに生まれながらの「正風」である。題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。しかし定家はかならずしもそうではない。為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。こういうものを宣長は完全に無視している。

京極派の末裔

中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。 北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。 歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。

北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。

私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。そうではなかったのだ。 為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。為兼によって京極家は途絶えたが、しばらく分家の冷泉家に伝わった。例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。この頃から連歌が流行しだす。源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。金葉集の頃だ。しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、長いものを作るようになった。東常縁の弟子が宗祇。宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。

常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。
宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。

私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。

宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。
保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、その分岐点は定家だった、ということもできる。

柿園

加納諸平だが、『柿園詠草』巻頭

うぐひすの 今朝鳴く声を 糸にして 霞の袖に 花ぞ縫はまし

こういう歌を好む人もいるのだろうが、私にはいかにもあざとく見える。

心して 風の残せる 一葉すら もずの羽吹きに 誘はれにけり

絵はがきの挿絵のような、安っぽさがある。 こういうものを明治の歌人が詠んだならば、まあ仕方ないと思うかもしれんが、 景樹の桂園派と何か無理に張り合っているような感じがする。 江戸時代も安政くらいまでくると和歌もだいぶ雰囲気が変わってくる。 歌というものはある程度きどってて、かっこつけてるものなんだが、加納諸平のはそれが、嫌みに感じるのだ。

夕かけて 小雨こぼるる たかむらの 蚊のほそ声に 夏を知るかな

こういうものであれば好感もてる。

棹ふれし 筏は一瀬 過ぎながら なほ影なびく 山吹の花

おそらくこの歌は、景樹の

山吹の 花ぞひとむら 流れける いかだのさをや 岸に触れけむ

に対抗したものではなかろうか。「柿園」というのも景樹の「桂園」に対抗したもののように思われるし。 加納諸平という人は紀州の加納家の養子となり、 やはり和歌山で紀伊徳川家に仕えていた本居大平(宣長の養子)に入門して国学をまなんだ。 つまり宣長の孫弟子に当たるわけだが、 宣長や大平とはまるで歌風が違う。

『宣長さん』3

p. 45

神童にしてはならない。宣長さんが神様になってしまうとき、学問は、とまる。少なくとも伊勢の青少年の可能性は摘みとられる。

これも面白い言及である。 著者が伊勢の高校国語教師であるから、その視点から宣長はそういうふうに見るべきだということだ。

p. 162

だいたい宣長さんの学問の発想には独創性は少ない、とわたしは見ている。

これも非常に大胆な発言だ。今まで誰も言わなかったことである、という意味で「独創」的でもある。 確かにさまざまな古典を当たって新しい知見を提起するというものが研究であるとするならば、 宣長はしかしたとえば「竜田川」は奈良の地名ではなくて、山崎の水無瀬川のことである、などと言った非常に独創的な指摘がある。 ただそれは丹念に古典を調べて総合した結果たどりついた事実というものであり、 「学問の発想」というものではないのかもしれない。 いわばスーパーコンピューターで総当たりの統計処理を行って得られる結果、のようなものである。 宣長はスーパーコンピューターであって学者ではない、という言い方もできなくはない。同じことは契沖にも言えるかもしれない。 宣長が導き出した結果はみんなにとって有り難く便利なものだった。

確かに宣長の場合には、あらかじめ何かの直感によってこうであろうという仮説を立てて、 それをじっくりと調査・証明しようというような学問ではない。 いろんな本をやたらと乱読してメモしていたらたまたまある事実に気付いた、というような研究の仕方である。 さもなくば、少年の頃から変わらない信念とか執着があるだけで、 それは結局研究とか学問というような形で昇華されることはなかった、と言えるかもしれない。

『宣長さん』2

小林秀雄は宣長の桜に対する異様な愛着に気付いていたが、 中根道幸は、宣長が自らを「神の申し子」と信じ切っていたことによる、と断言する。 つまり、子の授からなかった宣長の父母が、吉野水分の子守明神に願掛けをしたことによって宣長を儲けたことを言う。 水分(みくまり)は「みごもり」、子授け、子育ての神として、 『枕草子』にも「みこもりの神またをかし」と書かれているそうだ。

また、p. 17

サクラも歌も物のあわれもヤマトゴコロも紫式部も、アマテラス男神説をふんがい排撃するのも、

宣長が父を失った「母子家庭」であり、「母性原理」によるのである、というのだ。 これらは小林秀雄よりもはるかに踏み込んだ言及である。

父母の むかし思へば 袖濡れぬ 水分山に 雨は降らねど
みくまりの 神のちはひの なかりせば 生まれ来めやも これの吾が身は
鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを
したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

一方、宣長の桜に対する思いを詠んだ歌として、小林秀雄は次のような歌を挙げている。

めづらしき こまもろこしの 花よりも 飽かぬ色香は さくらなりけり
忘るなよ 我が老いらくの 春までも 若木の桜 植ゑし契りを
我が心 休むまもなく 使はれて 春はさくらの 奴なりけり
此の花に なぞや心の 惑ふらむ 我は桜の 親ならなくに
桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染める 我が心かな

私も、宣長の一番わかりにくい、というかつまらないところはその非常に女性的なところである。 私には『源氏物語』はよくわからない。『和泉式部日記』なら面白いが。

「もののあはれ」というのも俊成や西行の言うようなものならわかる気がするが、『源氏』がどうという気にはならない。 和歌の趣味に至っては、私とは部分的に全然違っている。

宣長の和歌はいわゆる二条派の和歌であって、 彼が二条派固有の古今伝授を批判するのも、 公家と坊さん趣味の二条派の系譜に、戦国時代になって東常縁や細川幽斎などの武将が連なるようになったのが気に入らないだけではなかろうか。 古今伝授がいかんのであれば三条西実隆もダメなはずだが、公家の三条西には非常に同情的なのだ。 また京極派が嫌いなのも、京極為兼がかなり異常な公家であったからかもしれない。 ともかくいわば女々しい公家文化から少しでも外れてしまうと宣長は全然拒絶反応を示してしまう。

宣長の神霊思想についても、『古事記』についても、私はあまり興味がない。 「天地初発之時」を

あめつちはじめてひらけしとき

と訓もうが、

あめつちのはじめのとき

と訓もうが、私にはどちらでも良い気がする。 「天地が開く」という言い方は古文に見えないので「開く」と解釈してはならないというのが宣長の意見で、 まあそうかもしれないとは思うが、私にはそれほど重要だとは思えない。 「あめつちおこりしとき」と訓む人もいるらしい。 宣長は学者として極めて卓越した研究能力を持っていた。 そして仏教系・儒教系、垂加神道や度会神道などもよってたかって宣長の研究成果を自分たちの教義に取り込み、 自分たちに都合良く解釈するためのソースにしてしまった。

『宣長さん』中根道幸

小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。

子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。 どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。 宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、 小林秀雄について言及している点や、 この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、 子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。

村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。 宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。 加納諸平という歌人を教えてもらった。

吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。 しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。

その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。 どれもよくわからないことが書いてある。 たぶん著者がよくわかってないのだろう。

子安氏が主張しているように、 小林秀雄著『本居宣長』と 中根道幸著『宣長さん』 を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。 『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、 著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、 これはすごい本だ。 この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。 早く出会えてよかった。

p. 319

結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。 宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。

中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。 そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。 宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。 宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。 しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、

多く二条派の目で拾われた定家なのである。

私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。 宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、 浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。 宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。 途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。 真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。 宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、 スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。 だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。

宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。 その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、 その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。 『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。 まさに私が読みたい本だった。 宣長が若い頃に誰と会ったか。 どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。 結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、 宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。 この「松坂文芸」は、 京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。 その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。

本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。 最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。 「養子留学」であったというのだ。

なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。

養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。

学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ

実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。
彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。

今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。

御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、
宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。 つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。 そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、 今井田家での学問に限界を見たからだろう。

宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。 そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。 この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。 「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、 宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。 定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、 具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。 特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。 二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。 二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。

二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。 京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。
この宣長の主張には意味が無い。 二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。 実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。 わかっているようでわかってない人がほとんどだ。 中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。

宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。 幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。 たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。 そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。

いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや
憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても
いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を

これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。

正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。 しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。 たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。 正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。

宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。 古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。 しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。 明らかに定家そのものを見ているのではない。 それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。 しかしそれは説明の付かないことではない。 宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。 しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。 若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。 また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、 古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。

中根道幸は宣長に固有な「神秘主義」についても言及している。

p. 15

終生宣長さんの神秘主義とかかわる、この申し子意識はいつごろ確定したものだろうか。

宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、 仏式と神式の墓を別々に作ったこと、 『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、 これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。

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一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。

宣長の初めての歌についての講評。 これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。 他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。 まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。 上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。 つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。 こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。 宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。 本居宣長の漢詩についても、ほぼ同様のことが言える。

宣長の初めての歌

新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。 ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。 普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。「来にけりな」であれば後鳥羽院

昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。 いずれも「秋来にけりな」の形。 いずれにしてもあまり事例は多くない。 「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。 「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。 初出は西行の

うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。 宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。
もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。 これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。 そうだなあ。私なら、もとを活かして

あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。