初出・初版一覧

私が最初に本を出したのは実は1990年で、出版社は工学社だった。共著だった。それから新紀元社とかオーム社から出したが、これらも皆共著だった。出版社からわかるように、当時は技術書しか書かなかった。しかも、いつも私の名前は共著者の中で最後だった。

そんなこともあって私は死ぬまでに単著の一本くらいは書きたいとずっと思っていた。

  1. 『アルプスの少女デーテ』初出2004年9月、某Wiki(匿名)
  2. 『超ヒモ理論: もし俺がヒモになったら』初出2011年4月Puboo(「山崎菜摘」名義、原題『超ヒモ理論』)
  3. 『スース』初出2011年6月Puboo(「山崎菜摘」名義)
  4. 『将軍放浪記』初出2011年8月Puboo
  5. 『西行秘伝』初出2011年8月Puboo(原題『山家物語』)
  6. 『川越素描』初出2011年8月Puboo
  7. 『司書夢譚』初出2011年9月Puboo
  8. 『安藤レイ』初出2011年11月Puboo
  9. 『将軍家の仲人』初出2012年8月Puboo(原題『新井白石』)
  10. 『紫峰軒』初出2013年1月Puboo
  11. 『エウメネス1 ― ゲドロシア紀行 ―』初出2013年3月KDP(原題『エウメネス』)
  12. 『巨鐘を撞く者』初出2013年4月KDP
  13. 『特務内親王遼子』初出2013年7月ブログPDF版
  14. 『古今和歌集の真相』初出2013年9月KDP
  15. 『フローニの墓に一言』初出2014年1月KDP(現在非公開。『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』に再収録)
  16. 『エウドキア: ローマの女王』初出2014年2月KDP
  17. 『江の島合戦』初出2014年4月KDP
  18. 『生命倫理研究会』初出2014年12月KDP
  19. 『虚構の歌人 藤原定家』2015年6月初版(田中紀峰名義、夏目書房新社)
  20. 『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』2016年3月初版(田中紀峰名義、夏目書房新社)
  21. 『エウメネス2 ― グラニコス川の戦い ―』初出2016年7月KDP
  22. 『エウメネス3 ― イッソスの戦い ―』初出2016年7月KDP
  23. 『斎藤さん ― アラカルト ―: 田中久三短編集』初出2016年8月KDP(『小説家になろう』に公開していた短篇などを集めたもの)
  24. 『潜入捜査官マリナ』初出2016年9月KDP
  25. 『妻が僕を選んだ理由』初出2016年11月カクヨム

『アルプスの少女デーテ』を最初に書いたのは2004年で、39歳。小説らしきものを書いたのはこれが初めてということになるが、 高校生くらいに書き殴って今はどうなったかわからないようなものとか、 そういえば小学生のころ書かされたものもあった気がするので、昔からその気はあった。 しかし私は自分で書いたものを読み返してみてやっぱり自分には才能がないと諦めていた。

で、最初に書いたまともな小説は『将軍放浪記』で、これは2009年ころに新人賞に応募したのを2011年にパブーで公開し、 その後も加筆や修正をしてある。 最初の頃は、新人賞に応募する作品は田中久三で、そのままPubooに載せるやつは山崎菜摘名義で書いていたような気がする。 或いは歴史小説は田中、現代小説は山崎、という書き分けだったかもしれない。 2011年頃Pubooにたくさん出てるのはもともと書きためていたものを(紙の本で出版される見込みはないと見切って)ウェブに公開したのだ。 この頃の作品には今では公開してないものがいくつかある。

『アルプスの少女デーテ』は最初はもっと短いものだったが、どんどん肉付けしていって今ではどちらかといえば長編になった。 『西行秘伝』も『巨鐘を撞く者』も、もとはもっと短かった。 この頃はいろいろ試行錯誤してた。

村上春樹が、ジャズのインプロビゼイションのように、同じリズムで同じ繰り返しで毎日欠かさず書くと言っていたが、 確かに村上春樹の作品はジャズの即興演奏に似てて、ただひたすら文章が積み上げられているだけのように私には思える。 私の執筆方法はそれとはまったくことなる。それは『デーテ』のころから同じで、 まずアイディアがあってその骨格を書いて、段々に肉付けしていく。 読書というのものが、ライブハウスでジャズを聴くようなものであれば、それは村上春樹の作品のようなものがふさわしいだろう。 私の作品はおそらくはコンピュータ言語で書かれたプログラムのようなものではなかろうか。 私の場合、こういうキャラクターを書こうというキャラクター設定がある。 それは NPC (non-player character) の AIプログラミングに似ている。 そのキャラクターをある環境(ゲームプログラミングでいうところの map)に置けばキャラクターは勝手に動き出す。 そこに別のキャラクターを置くとインタラクションが生まれて展開していく。 だからストーリーは細かく書けば書くほどに長くなる。 ゲームのプレイ動画の長さは、プレイ時間を長くすればいくらでも長くなる。それと同じ。まあ、あまり長くすると飽きるが。

小説を書く前からゲームプログラミングらしきことはやっていた。 modを作っていた。
その影響は確実にあると思う。 小説はそんなふうに書くものじゃありませんよと言われても困る。 私にはそういう書き方しかできないから。 私が表紙絵に3DCGのキャラを使うのも、もとはといえばmodをやってたからだ。 もともと文章を書こうと思っても、なんかもやっとした、納得いくものが書けなかった私が、 人に読ませるための文章を書き始めたのは、自分が比較的得意とするプログラミングのテクニックを導入したからかもしれない。 それでなんとかこうとか書けるようになった(気がした)。

ともかく私の作品の中ではキャラクターは勝手に喋って勝手に行動しているとしかいいようがない。 キャラクターがなぜ勝手に動くかといえば作者が実在の人物や歴史上の人物をモデルにしていて、 彼らがこういうシチュエーションに置かれたらきっとこう動くだろうと予測しているにすぎない。 少なくとも歴史小説に関して言えば、他の人はどういう書き方をしているかしらないが、 私はそういう書き方しかできない。 私の場合歴史小説の書き方を現代小説や未来小説、SFに応用している、とも言える。

『妻が僕を選んだ理由』は最初『ジオコミューン』という名前にするはずだった。 『ジオコミューン』は核シェルターみたいなものをイメージしていたが、 fallout の影響をうけているからだ。 表紙にゲッコーが描かれているのもそう。 これもサンプルのつもりで気軽に書き始めたのだが、結構な長編になってしまった。 fallout の他にもいろんなものがオマージュに使われている。 『キル・ビル』『バクダッド・カフェ』『僕の村は戦場だった』『ソラリス』『レヴェナント』『007スカイフォール』。 『Marooned with Ed Stafford』とか植村直己にもかなり影響受けてるよな。 わざといろんなものをこてこて付け足していったらこうなってしまった。

セレブな美女と一般男性の恋愛というのは、今までもずいぶん書いてきた。 源懿子と西行、遼子と稗島、アマストリーとエウメネス、喜世と新井白石など、みんな同じといえば同じだ。 全然違うことを書いているようで実は通して見ると、かなりネタがかぶっている。 『安藤レイ』はアンドロイドの話だが、『妻が僕を選んだ理由』はサイボーグと人工知能の話で、私の中では比較的近いテーマなのである。 なぜ私がそういうものを書きたがるのかということはもちろん自分でもわかっている。 村上春樹もまたいつも同じような作品を書くがそれは彼がそういうものをどうしても書いてしまう何か理由があるのだろう。 その根っこの原体験というものが彼と私は根本的に違うし、 村上春樹の作品が好まれるのは彼の原体験が多くの読者の原体験に近いからだろう。 私と同じ原体験を持つ人はたぶんそんなに多くはないと思うので、私の作品がどのくらい読まれるのか、かなり私は悲観している。

村上春樹

まだ1Q84をちらっと読んだだけだが、私の知っている作家の中では、小林秀雄の文章に似てるなと思った。村上春樹と小林秀雄が似てるといってる人はいないかとググってみたが、どうもいない。

小林秀雄は戦前のフランス文芸の影響をうけた人で評論家になった。一方、村上春樹は戦後のアメリカ文芸を受肉化して小説家となった人だが、村上春樹の作品は小説という分類からはかなり外れているように思う。その本質は「やおい」であり、小説という体裁を使って書かれた何かだ。冗長で内容に乏しいが読める。小林秀雄の文章と同じだ。ある種の依存、麻薬中毒なのではないか?けなしているつもりはないがほめているのでもない。小林秀雄の文章も評論という体裁を使って書かれた何かなのだ。それはもう小林秀雄節というしかない。

村上春樹の文章はどこもかしこもことわざめいた言い回しで埋め尽くされていて、もちろん全部違うが全部同じような既視感がある。イスラム建築の回廊をぐるぐる回っているような感じというか。それが私にとって心地よいかといわれれば、はぐらかされているような、おちょくられているような、つまりは車酔いにも似た不快な感じがして、村上春樹が嫌いな人も同じことを感じているのだろう。奇妙な言い回しで同じところをぐるぐる回っている、回らされている感じ。

もちろん何かのストーリーとか落ちとか展開とか伏線というものはあるんだろうが、たぶんそれは小説という体裁を整えるために付け足されたもので、あると落ち着くが無くても済む、日本建築の床の間のようなものではないか。

あ、違うな。読者を登場人物に感情移入させるための何かの仕掛けがしてあるわけだ。そして、明らかに、私にはその辺りの設定が、存在しないくらいに透明で、まったく感情移入できない。心の琴線の固有振動数がまったくあってなくてぴくりとも共鳴しない。だから、ただ美文だけ延々読まされる感じがする。あるいは、絵に例えると南画みたいな朦朧体みたいな感じ。

「やおい」だが「読める」というのは日本文芸のお家芸といってもよく、「やおい」だが美麗なアニメ絵でむりやり作品に仕上げたのが新海誠ではないか。村上春樹と新海誠の雰囲気も似ていると思う。

戦前の日本人が小林秀雄に眩惑されたように、今は村上春樹と新海誠がそうしていて、世の中の磁場が非常にゆがみ始めていることを感じる。その磁場の中心が何かはだいたい想像がつく。やはりそこが日本文芸の核であり、読者のマジョリティなのかと、諦念にも似た気持ちになる。

例えば1Q84を映画化しましょうとか言って、できないよね。映画監督に指名されたらとても困る。タルコフスキーなら喜んで作るかも。ていうか、ある意味タルコフスキーの映画とも似ているよね、村上春樹は。超絶退屈だが、好きな人は好き。それなりにファンもいる。よく女の子が六時間も七時間も長電話してしまいにゃ話しながら寝てしまう。でも話す内容はとくになくて覚えてもいない。そういう需要があるってことは、知識としては知っている。だからそういうものを書いて提供する人がいて、実際に売れている。

桓武天皇

桓武天皇はやはり異常だ。 皇統譜を書いているとよくわかるのだ。

桓武平氏と言っても、四系統ある。 第三皇子葛原親王、第九皇子万多親王、第十皇子賀陽親王、第十二皇子仲野親王。 このうち葛原親王系から将門と貞盛が出て、 貞盛から伊勢平氏が出て、清盛につながる。 古今集に出てくる平貞文などは仲野親王系。

平氏以外に、 第七皇子明日香親王から出た久賀氏、 さらに良岑氏がある。 良岑氏といえば遍昭以外知られてないマイナーな王族だがそれなりに子孫繁栄している。

桓武天皇の皇子から平城、嵯峨、淳和天皇が即位した。 嵯峨天皇にも皇子が多かった。 平城天皇と淳和天皇はさほどでもないが、平城天皇からは在原氏が出た。 嵯峨天皇は桓武天皇よりも極端で、皇子は多いが、仁明天皇以外の直系王族はほとんどがすぐに消えてしまっている。

ともかく桓武天皇時代の親王の数が異常に多いし、 親王以外の皇子はさらに多い。 桓武以前と桓武以後でまったく様相が異なる。 白河院時代に親王を極端に減らし、親王以外の皇子はみんな法親王にしてしまって、 皇室財産を緊縮したのとは大違いなのだ。

そもそも光仁天皇から桓武天皇に譲位した理由も謎だ。 光仁天皇の父・志貴皇子系統の皇族はいくらでもいたのに、 よりによってなぜ百済人の后の皇子が即位せねばならなかったのか。 たしかに志貴皇子は天智・天武系統の中では傍系なので、有力な后がいない。 しかし天武系は途絶えて藤原氏を后とする有力な皇子が無い中でなぜ桓武天皇が即位したのか。

おそらくだが、平安末期に平氏や源氏が擡頭してきたように、 この時代、百済人の勢力が非常に強かったのだ。 藤原氏などの名門貴族もその百済人たちの力を借りないと朝廷を操縦できない。 だから藤原百川など一部の藤原氏が桓武を擁立した。 さらに藤原冬嗣など百済人の血を引く藤原氏がその路線を継承した。

桓武天皇の時代は皇子の時代だったが、 王族の子孫が平氏となり源氏となることによって、 武士の時代となって、皇子は不要になってしまった、ということだろう。 桓武天皇の勢いは皇室には留まらずにその外の社会に波及して増幅していった。 もし桓武天皇と同じ規模で皇室が維持されていれば日本は大陸型の中央集権国家になっていただろう。 しかし皇室はたちまちにしぼんでしまい、無数の支族が枝分かれして繁栄することになった。 だから封建社会になった。

在原元方

だんだん見えてきた。

古今和歌集編纂の主役は、業平・棟梁・元方の在原氏三代と紀貫之。

伊勢物語は業平・紀有常コンビが中心になってできあがったもの。古今集は元方・貫之。
棟梁は中継ぎのようなもの。棟梁と貫之は寛平御時后宮歌合(宇多天皇の母班子女王主催の歌合)で知り合った。

有常と貫之は同じ紀氏だが、家柄は若干遠い(紀有常の祖父・勝長は、貫之の祖父のさらに祖父。勝長-名虎-有常、勝長-興道-本道-望行-貫之。なお、本道-有友-友則)。血筋が一本通っているのが在原氏。貫之が元方に接近していろいろ昔のことを聞き出して伊勢物語の祖型を作った。元方はほわっとした歌を詠む人だよな。

それで、伊勢物語自体は非常にもやっとしたもので、わけがわかってない。紀貫之が素稿を書いたのは間違いないと思うが、それを後撰集や拾遺集時代のもやっとした連中がかなりリライトしている、というあたりが真相だろう。

在原元方は生没年不明だが、おそらく貫之とだいたい同じなのだろう。藤原国経の養子になっているのは、元方の父棟梁がそもそも金が無いのと、国経が棟梁の娘を妻としたからだ。

国経は基経や高子の異母兄妹にあたるわけである。国経や基経は高子のもとに忍んでくる業平の番人になっていたことになっている。国経は当事者だし、棟梁や元方も事情を知らなかったはずがない。だがどう考えても高子の話は変だ。

古今集に出て来る当代歌人の中で当時一番偉かったのは宇多上皇だけど、彼はなぜか古今集には一首も載せてない。いくつか可能性があって、宇多上皇の歌は載っているのだが読み人知らずになっている、という説(自説)。宇多上皇は元方と貫之をたてて自分は表にでなかったという説(これも自説)。

国経にしても時平にしても、摂家ではあるが、宇多上皇の時代にはそれほど権勢はなかった。少なくとも国経と時平は歌人と言えるような人物ではなかった。そうすると一番偉いのは元方だろう。だから彼の歌が巻頭に出て来る。

百済人と冬嗣

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、多くの氏族が桓武に女御を入内させた。同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、桓武天皇から始まる可能性があった。しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、摂家というものを作り出したのではなかろうか。百済人は歴史から姿を消したように見えて、実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、日本の上流社会に生き延びたのである。高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。遍昭も良岑氏なので百済系。源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。彼は仁明天皇に娘種子を、文徳天皇に静子を入内させた。名虎は紀氏中興の祖であったが、結局冬嗣・良房親子に負けた。名虎の子・有常は急速に没落していき、貫之や友則の時代の紀氏は、藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

賊軍の合祀

10月13日の産経新聞に全面広告の意見広告が載っていた。

ご存知ですか?
靖国神社に祀られているのは官軍のみで、賊軍と称された方々が祀られていないことを・・・

これは10月4日の靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上という記事、 10月12日のNHK報道「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら と関連するものであろう。

西郷隆盛、白虎隊、新撰組、江藤新平らは、靖国神社には祀られていない。ただし靖国神社の同じ境内の中にある、鎮霊社には祀られている。

私は、靖国神社の合祀者を増やすのは反対だ。そういうことを言い出すと、東京裁判で有罪判決を受けて死んだ政治家(軍属ではない)や、民間人の挺身隊なども合祀し、戦争に巻き込まれて死んだ、東京空襲の死者や原爆被害者などみな合祀しようという話になり、 さらには日本国民全員が靖国神社の氏子であるなどと解釈する者が出てくる。それは明らかに昭和天皇が望まなかったことだ。昭和天皇によれば明治天皇も、民間人を合祀することには反対であった。

亀井静香が言う、

靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってる

というような、軍人と民間人を際限なく混同するような思想は間違っていると思う。

もし必要ならば、鎮霊社の扱いをもっと大きく丁重にすれば良い。原則を変更すべきではない。

cf. 靖国神社合祀、御衣黄。

十一日の月

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。 目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。
十六日の月は「いざよひ」、
十七日の月は「たちまち」、
十八日の月は「ゐまち」、
十九日の月は「ねまち」、
二十日の月は「ふけまち」、
つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。 月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。 『伊勢物語』82段「渚の院」

・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。
飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ
親王にかはり奉りて、紀有常、
おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、 夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、 もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

又あふ坂の 関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

かくいひやりたりければ、

これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

よろこびにたへで、又、

秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。

ファウスト

ファウストは私も一部訳したのだった。

> 太陽は懐かしいメロディーで

Die Sonne tönt, nach alter Weise, 太陽は鳴り響く、太古からのやり方で、

> 兄弟の星々と歌を奏で合い、

In Brudersphären Wettgesang, 兄弟星らと歌を競いながら、

> 規定の道を

Und ihre vorgeschriebne Reise あらかじめ定められた旅路を

> 雷鳴の轟きで染め上げる

Vollendet sie mit Donnergang. 雷鳴をとどろかせながら邁進する。

> 理由はわからないが

Ihr Anblick gibt den Engeln Stärke, その眺望は天使に力を与える。

> その景色は天使を力強くする。

Wenn keiner sie ergründen mag; 誰も彼を究明できないとしても、

> 不可知の気高い営みは

die unbegreiflich hohen Werke その認識しがたい高尚な作品は

> 天地創造の日と同様に素晴らしい

Sind herrlich wie am ersten Tag. その原初の日から素晴らしい。

すごい韻文だよなあ。Wettgesang、Donnergang、ergründen mag、am ersten Tag
が韻を踏んでおり、Weise、Reise、Stärke、Werkeが韻を踏んでいる。

nach alter Weise は「懐かしいメロディーで」と「太古からのやり方で」。うーむ。Weise は普通「やり方」「方法」だが、確かに音楽用語として「メロディー」という意味もある。alt を「懐かしい」と訳してしまうのはどうだろうか。おそらくこれは後から出てくる am ersten Tag と関連して、単に古いとか昔のという意味ではないか。tönen は「鳴る」だが、次の行を見れば歌を歌うことを言うのは明らかだ。

Wette はお金を賭けて競うこと、英語の bet に同じ。Wettgesang は歌のうまさをお金を賭けて競う、という意味。

「歌を奏で合い」うーむ。どうだろう。歌は奏でるものだろうか?

vollenden は完成させる、である。「邁進する」は意訳。「染め上げる」はどうだろうか。直訳すれば「雷鳴によって完成させる」少し意訳すると「雷鳴で敷き詰める」かなあ。もとのままでいいかな。

まあ、ファウストはいろんな人が訳しているからなあ。

皇室典範草庵談話要録

10月10日の産経新聞の記事に、明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。例えば岩倉具視の意見とは思えない。武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。西郷隆盛は朝敵そのものであった。実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、京都を奪い返し、北朝を建てたのである。この頃京都は東京に対して西京といったが、東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、皇統が分裂していた可能性は高いのである。その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、明治政府としてはたいへん困ることになる。明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。