籤引き将軍

「籤引き将軍足利義教」というのを読んだのだが、四人の候補の詳しいプロフィールとか書かれていて役に立ったが、東大総長がくじ引きで決まったという前書きとか、それから急に時代をさかのぼって堀河天皇践祚が占いできまったとか、そのときの白河上皇が治天の君でどうのこうのとか(うざい)、後鳥羽天皇践祚もそうだとか、世界史的にはどうだこうだとか、そのうえ義教は神裁政治だったとか、とにかくくじ引きのことしか書いてない。

籤引き将軍というあだ名だったのは確かだが、そこにとらわれすぎではないか。足利義教のことをもっと深く掘り下げてほしかったのだが。

中山家

『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。父は孝明天皇、母は中山慶子。典侍というから中宮や女御の次くらい? 生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。 中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。

慶子の父が中山忠能。 忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。

忠能

天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ

綱子

けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば
日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け
七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん

「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。

我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ

とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌

雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら

など、なかなか良い。

全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、その後和歌は忘れられてしまった。

光格天皇

光格天皇は、上皇になってから崩御したので、当時の慣習によれば、光格院と諡号されるはずであったが、天皇号が復活して、光格天皇と諡された。それは公家から武家に強く要望したからだという。公家の中では中山忠能だけが反対したという。

後に明治になると、さかのぼってみな天皇号になった。たとえば後鳥羽天皇は当時は後鳥羽院と諡号されたのだが、今では後鳥羽天皇と呼ぶのが正しい名前。孝明天皇の父の代からそうだった、というのが興味深い。

青蓮院と知恩院

青蓮院のサイトによれば、

徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられました

とあり、地図を見てみるとたしかに知恩院と青蓮院はどちらも円山町にあって、境内が隣り合っている。 知恩院は浄土宗で青蓮院は天台宗のはずだがおかしいなと思い、良く読んでみると、

慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。
青蓮院の由緒

というわけで、青蓮院門跡が慈円のとき、慈円が当時新興宗教であった浄土宗や浄土真宗を保護して、それが縁で現在の知恩院ができた、と思われる。ウィキペディアによれば

浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。
知恩院

とあるから、もともと青蓮院の境内に法然が草庵のようなものを構え、 その寺域を家康が青蓮院から分離して、今のような大伽藍を作った、ということなのだろう。

知恩院のサイトの記述も参考にするに、知恩院が浄土宗総本山としての地位を獲得したのは家康以来ということではなかろうか。

銭Kindle版

KDPじゃなくて、エンターブレインから出ている本なので、何冊売れたのかわかりません(笑)
銭とSS-4

とあるので、比較のために買ってみる。サンプル部分ではよくわからんかったから。紙の本はたぶん全部買った。もう処分したけど。

文字はそのまんまみたいだな。金払ってあるんだろうな。でもあんまり読みやすくない。 文字はきちんと打ち直した方がいいんじゃなかろうか。 スクリーントーンは明らかにグレーに直してるな。 一手間かけてる感じ。

古い漫画の電子化って実はけっこうめんどくさいんじゃね。

架空とは言っても、実は取材してドキュメントで描いている漫画より、本当のことが描けるのがフィクションの強みなんですね。

わかるわかる。特に鈴木みその場合はそうだなー。

限界集落温泉

鈴木みその「限界集落温泉」は第1、2巻をすでに紙媒体で買っていたのだが、全4巻Kindle版で買い直す。

フォントは契約があるので使えないよ。出すなら文字を打ちなおしてね。Amazonで漫画を出版01

などとあるが、特に1巻目の文字組がよろしくない。スペーシングが。縦が空きすぎていて横がつまりすぎている。イラストレータやフォトショップなど通常文字を横組みにしかできないソフトでむりやり改行いれて縦組みしたときによくこうなる。GimpやInkscapeでも同じ。日本語を縦組みにするには専用のソフト使わなきゃダメだよな。アドビならインデザインとか。コミスタなら縦組みくらいできるはずだが。 CLIP Studio とか。 でなきゃ一太郎でepub出力するとか。後書きとか奥付けなどの文字組もなんかもそう。

紙からスキャンの方がずっと楽。文字はイラストレーターかインデザで作ったものを添付。途中からコミックスタジオ。ひらがなを明朝、漢字をゴチックに変換。書きだした文字の行間が伸びるバグが発生。一コマずつ手で調整。ああもう。
Amazonで漫画を出版02

あー、もう、目に浮かぶようだわ。

伊豆下田が鈴木みその生まれ故郷だというのも初めて知った。でなければこれだけ方言を完璧に作品に入れるのは難しいよね。

ニコ動ネットアイドル系から途中でAKB路線に切り替わっているのが面白い。ていうか連載が進むにつれてストーリーが微妙に揺れ動いているのが鈴木みそらしいよね。

スクリーントーンを使っている以上(PC上の擬似トーンを含む)粒状の模様を縮小すると、格子縞の干渉で模様ができる、いわゆるモアレが生じることがあります。ちなみにモアレというのはフランス語で、「模様が荒れる」模荒れ、ではないですがそんなことはどうでもいいです。

結論から言えば、これはどうしようもありません。「コミックスタジオ」は、粒状のトーンをグレーにして出力することができますから、生データからトーン情報を変えて書き出せばオーケーです。

スクリーントーンを使っている以上(PC上の擬似トーンを含む)粒状の模様を縮小すると、格子縞の干渉で模様ができる、いわゆるモアレが生じることがあります。結論から言えば、これはどうしようもありません。「コミックスタジオ」は、粒状のトーンをグレーにして出力することができますから、生データからトーン情報を変えて書き出せばオーケーです。
Amazonで漫画を出版03

モアレはでまくってる。全然ダメ。だが直すのはめんどくさいだろうから仕方ないのかなあ。

私の場合文字だけの小説なので、役にたったようなたたないような情報だった。




神宮式年遷宮

明治聖徳記念学会紀要『式年遷宮を終えて』を読んでいて思ったのだが、確かに式年遷宮が天武天皇から始まったのかどうかということも、疑おうと思えば疑えるわけで、天武天皇は確かに古すぎるし、その起こりから「廿年に一度まさに遷御せしめ奉るべし」などという明確な勅令があったのも不自然で、持統天皇からじわっと自然に始まったというのが、ありそうな気がする。

さらに疑うと、伊勢神宮というのはもともと、天皇一代限りで移築される御所に付属したものであり、恒常的な都が作られるようになって初めて伊勢に移され、移築の伝統が伊勢という一箇所で式年遷宮という形式で繰り返されることになったのかもしれない。

そう考えるのが一番自然ではなかろうか。

つゆのあとさき

永井荷風『つゆのあとさき』だが、文字数を調べてみると150枚程度で、さほど長くもない小説だが、とにかく内容の割に登場人物が無駄に多いというか、だらだらしてて読みにくい。当時のカフェの風俗をそのまま記した体験記もしくは資料としては面白いのかもしれん。そして、ちょっとした落ちも付けてあるようなのだが、受刑者が出獄して遺書を残して自殺するという、まあ、あまり必然性があるとも思えない落ちだ。つまり主人公の君江という女についてだらだらと書いたことと落ちとがほとんど何の脈絡もない。伏線にすらなってない。

清岡の辺りに永井荷風本人が投映されているのだろう。

『墨東綺譚』の作者贅言部分を除いた箇所の約二倍ほどの分量だろうか。『墨東綺譚』が昭和12年、『つゆのあとさき』が昭和6年だからそれほど離れてない。どちらも50歳から60歳頃に書いたものだな。『墨東綺譚』の方が登場人物が少ないのと長さが短いのと、同じことだがストーリーが単純明快なのと、落ちがわりとあっさりして比較的無理が無いので読みやすいし面白いと思う。

ただ、どちらの作品も、落ちに必然性がないというか無理がある感じ、というか他の部分と違って明らかに嘘をついているというか作り話を付け足した感じで、無理矢理小説という体裁をとろうとしている感じがどうしてもしてしまう。たぶん実録でもなんでも良いのではなかろうか。そうすると私小説になってしまってそれが嫌だったのかもしれんが。

菊池寛

菊池寛の作品を読むと面白いものもあればつまらないものもある。面白いのは、まず「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」「俊寛」「藤十郎の恋」「仇討三態」「仇討禁止令」。「父帰る」も面白くなくはない。

「日本合戦譚」。これはつまらない。昭和七(1932)年から九(1934)年にかけて書かれたらしい。田原坂合戦にしろ姉川合戦にしろ、ただ長いだけで面白くない。歴史小説というよりは歴史随筆、というのに近い。つまり、頼山陽の「日本外史」に近いものか。だが、「日本外史」の方がはるかに面白い。「日本合戦譚」は菊池寛ではなくゴーストライターが書いたものだという説があるらしいが、確かに、本人の作かどうかはともかくとして、他の作品と印象がずいぶん違う。松本清張は「日本合戦譚」の愛読者で「私説・日本合戦譚」というものを書いたようだ。

菊池寛の何を面白いと思い何をつまらぬと思うかは人の勝手だが、戦記物が私には特につまらなく感じる。つまり、織田が徳川が小笠原が浅井が朝倉がとかそんな話がただ延々並列に列挙されてしまうと、私にはどうでもよい、としか思えないのだろうなと思う。頼山陽はそんな書き方はしない。

戦国時代の合戦の話が好きになれないのかと思ったが、しかし、田原坂を読んでもつまらないのだから、つまらないものはつまらない、としか言いようがない。ただちょっと面白かったのは、明治天皇が船で神戸に着き、それから京都に居て、橿原に行く途中だった、とか、乃木希典が軍旗を奪われた話とかかな。だが、全体にだらだらしててつまらない、としか言いようがない。だけど、今はwikipediaでも読めるけど、戦前の昭和には、「戦国オタク」向けの、こういう具合にまとまった形の合戦物は無かっただろうから、少年の頃の松本清張が夢中になって読みふけってもおかしくないのかもしれない。

私にはやはり「恩讐の彼方に」のような、巧みに脚色された時代劇、特に仇討ち物が面白いと思う。「俊寛」(初出大正11(1922)年34歳)のおもしろさはまた別だ。ストーリー的にはたわいもない話。これは同じ題材でいろんな人がいろんな視点で書いているのが面白いと思う。

「忠直卿行状記」が大正7(1918)年30歳。やはり、作品に若さがあるわな。忠直が隠居を命ぜられたのが満28歳の時だから、菊池寛にして見れば、すごく面白い素材だったのだろう。

「恩讐の彼方に」が大正8(1919)年31歳。やはり、これが最高傑作だと思う。

「仇討三態」は大正11年。すごく良い。

直木三十五が「仇討十種」というものを大正13年に出しているが、これは明らかに菊池寛の「仇討三態」の影響によるものだろう。

「仇討禁止令」は昭和11年48歳とずいぶん離れている。「仇討禁止令」は菊池寛の郷里、高松の話だから、ある意味もっと早く書いていてもおかしくなかった。遅くに書いたものの中では面白いが、やはり、菊池寛得意の仇討物だったからだろう。「恩讐の彼方に」みたいのをまた書いて下さいよと言われてその気になったのではなかろうか。

調べればちゃんとした年譜があるんだろうが、ネットにはなかなかそういうものが落ちてない。

菊池寛が何故あのように仇討物が好きだったのか、うまかったのか。何かあったのだろうと思うが、よくわからん。

青空文庫では 「日本合戦譚」がばらばらの短編として公開してあって、それは良いのだが、kindleで読もうとするとごちゃごちゃして読みにくい。また元通り「日本合戦譚」のように一冊にまとめて欲しいなと思う。

彷彿

「彷彿」漢和辞典を見ても、「髣」も「髴」も特に意味はないように思われる。「方」と「弗」という音だけに意味があるのだろう。中国語辞典で引くと、「あたかも・・のようだ」、という意味と、主に「相彷彿」の形で「似ている」という意味があるそうだ。

頼山陽の詩に「水天髣髴」とあるが、海と空の境がはっきりとしない(似ている)、という意味だろう。

呉融「端居」

殘蟬彷彿鳴

残った蝉がかすかに鳴いている、という意味だろう。 呉融は晩唐の詩人。

薛濤「江月樓」

秋風彷彿吳江冷

これも秋風がかすかに吹いているという意味であろう。薛濤は唐代の女流詩人。

丁澤「上元日夢王母獻白玉環」

夢中朝上日,闕下拜天顏。彷彿瞻王母,分明獻玉環。

丁澤は誰かよくわからんがこれも唐詩。夢の中で朝日が昇り、宮門の下で天顔を拝する。
おぼろげに王母を見、明らかに玉環を献じる。

魯迅「秋夜」

他彷彿要離開人間而去

それ(夜空)はあたかもこの世から離れ去っていこうとするかに見える。現代中国語的用例。

おそらく昔はかすかにとかおぼろげという意味だっただろう。それが似ているという意味になり、まるで何とかのようだ、という意味になった。

もし主人のような人間が教師として存在しなくなった暁には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人を髣髴すると同程度の労力を費やさねばならぬ。

〈漱石・吾輩は猫である〉

このように何かを想起させる、類推する、という用法はどこから来たか。謎だ。