百人一首への招待

この本には私が疑問に思ったことについてほぼすべてが書いてある。つまり百人一首の成立過程で、現在分かっている事実のほぼすべてが網羅されていると言えると思う。

それで読んでみて、結局確かなことは、

  • 定家の日記『明月記』には、天智天皇から飛鳥井雅経・藤原家隆までの歌を障子色紙に書いた、としか書いてない。それが百首あったかとか、その歌がどんなだったかは不明。
  • 最も古い『百首秀歌』の写本は冷泉家に伝わるもので、鎌倉末期までさかのぼることができるらしい。
  • 小倉色紙は東常縁が伝授したと言っているのだが、東常縁の古今伝授というものがそもそも虚偽である以上は、小倉色紙もまた贋作である可能性が極めて高い。

ということだ。東常縁を含めて、定家の子孫や一派は『明月記』を読んでいたはずであり、定家が選んだ小倉色紙というものが、もし現存していなかったとしたら、その復元もしくは贋作を試みたであろう。それを百首とまとまりの良い形にしたのは、おそらく、鎌倉末期の二条派と京極派が正統をあらそい、不毛な歌学論争を行い、故に棒にもはしにもかからない歌論を大量生産していた頃であろう。

つまりやはり小倉百人一首は定家の選ではないということを疑ってみなくてはならないということだ。

定家が選んだかどうかということは、定家が選んだ私選集と、定家一人で選んだ勅撰集である新勅撰集の選び方と比較してみないとわからんだろうと思う。そうすればかなりの精度で小倉百人一首が定家によるのか、或いは定家の選の原型をある程度とどめているのか、それとも全くの贋作かがわかるはずだ。ものすごく大変な作業だが。

人虎伝

「山月記」はなぜ国民教材となったのかというのを書いたせいで気になって調べてみた。山月記の中で、中島敦は虎に

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

などと言わせているのだが、私はこの台詞がすごく好きなんだが、これが原作の人虎伝にすでにある文句なのか、それとも、中島敦が独自に挿入したものなのか。

人虎伝の原文も現代語訳も、今では簡単にネットでみることができる。当該箇所を読んでみると、それらしきことは書いてなくて、

於南陽郊外、嘗私一孀婦。其家竊知之、常有害我心。孀婦由是不得再合。吾因乘風縱火、一家數人盡焚殺之而去此。爲恨爾。

つまり、女の家に放火して、一家数人をことごとく焼き殺した、などということが書いてある。それでさらに検索してみると、なんと中島敦の本家本元筑摩書房でその箇所について解説しているではないか。

なるほど。「山月記」は国語教科書の定番なので、「人虎伝」までさかのぼって深読みし、指導の助けにしようという教師は少なからずいて、筑摩書房もその要望に応えたというわけだ。

「人虎伝」を読めば明らかなように、人が虎となったのは、密通放火殺人の罪による。中島敦はここをすべて捨て、代わりに、己の詩業に熱中するあまり、妻子を顧みなかったから虎になった、そう読み変えたのだ(家庭をないがしろにする男などいくらでもいる。そういう男がみんな虎になったらたいへんだ。中島敦もだから虎になった理由は明記してない。そんな説得力のある理由じゃない。だから思わせぶりな記述になった)。自分なりにストーリーを書き換えてみたい、あるいは多少のオリジナリティをもたせたいと考えるのは自然で、芥川龍之介もやっていることだ。

この筑摩書房のサイトの解説がなかなかおもしろいのだが、

李徴の詩は、微妙な点において欠けているものがあるから一流になれなかったということなのですが、

李徴の詩が、微妙な点において欠けている、と感じたのは中島敦本人なのである。そう感じたからストーリーを改変した。中島敦はおそらく李徴に自分自身を投影したのだ。しかし中島敦自身は、李徴のような鬼畜な人間ではない。作者は感情移入できない。「妻子とか、生業などに煩わされながら、物書きをしている自分」というものを主人公にしないとそもそも話を物語ることができない。李徴に遭遇した袁傪はただの脇役なのでやはり感情移入しにくいわな。

この微妙な点を生徒の多くは「愛」に求めます。妻子への愛がなかったからいい詩が書けなかったというわけです。私が「では、愛があればいい詩が書けるの?」と問えば、躊躇なく「はい。」と答えてきます。本気で「愛があればなんでもできる。」と信じ込んでいるわけではないのですが、生徒たちは小説・物語はそう読むということに慣れ親しんでいるのだと思います。テレビ・アニメ恐るべしです。

ここで「私」と言っている人が誰なのかと探してみてもよくわからない。署名記事ではなさそうなのだが、いかにも高校国語教師の感想という感じでほほえましい。

妻子への愛があれば良い詩が書けるとは中島敦も考えてなかっただろう。そんな雑な結論を導かれちゃ困るだろう。読者は自分の好き勝手に誤解したがるものだ(そしてそれが当然の権利で正しい行為だと思っている。自分が作者よりもよい解釈をしてやったとすら考えている)。作者の意志などどうでもいいのだ。作者は(と言いながら自分のことを書くが)、そんなありきたりの、誰でも思いつく、誰が書いても同じな、毎日テレビで垂れ流されていてわざわざ自分で書く必要すらない、つまらないストーリーなんか書きたくない。普通の恋愛、普通の推理、普通の歴史小説なんて書きたくない。二重三重に意味を持たせた、トリッキーなストーリーを書きたい。はぐらかしたりだましたりしながら、ちゃんと読めばちゃんとわかるように書いてあるのだ。しかし最初のトリックにつまづいてそこで読了した気持ちになっている読者を見るとがっかりする。

思うに、山月記が説教臭い教材になってしまった理由は、普通の高校生とその教師と親がそういう解釈を好んだためだとしか言いようがないと思う。中島敦が山月記を書いた理由?おそらくは自分の著作活動における自問自答、葛藤のようなものをそのまま書いたのだろう。教科書会社は売れるから載せているだけだ。文科省の役人は特に現状を変更する理由がないから放置しているだけ。「なぜ国民教材となったか」と言われればそれこそ「国民が望んだから」としか言いようがない。文科省の官僚や教科書出版社や指導要領の作成者のせいにするのはよろしくない。

おそらく「人虎伝」で種明かしをされてしまうと怒り出す高校生や国語教師がたくさんいるのではないか。そんなの俺の「山月記」じゃねえ、とか言い出して。アニメとかラノベのファンなんてみんなそうだ。

追記。やや嫌らしいが、教育指導要領の方もみておこう。

李徴が虎になった原因が三点も記されていることについて考える。

それは、中島敦が、本来の理由を削除して、自分なりの解釈に改変したが、その解釈を読者に押し付ける自信がなかったからだわな。

李徴が詩に執着した理由を考える。

詩人が詩に執着して何がいけないのか。

現代小説に特徴的な主題を読み取り、現代小説に親しむ。

ていうか現代小説を書いているつもりの私にも「現代小説の特徴」なんかわからんよ。主題を読み取るというが、この小説に何か明確な主題なんてあるのか。元の伝記小説にはあったかもしれんが。つか小説なんてのは、特に近代や現代の小説てのは(漫画とかアニメとか娯楽物でない限り)、何か具体的な主題に沿って書かれるものじゃないだろ。無理に高校生に主題を読み取らせようとするから筑摩書房のサイトに書かれているような頓珍漢な答えが出てくるんじゃないの(それとも自己流に解釈すればそれはそれで、自分で頭を使ったからよいということか)。

さらに、「山月記」なんか読んで現代小説に親しめるか?

現代小説独特の表現に親しみ、その特性を理解する。

同上。

表現とそのリズムに親しむとともに、表現された心情を考えながら音読・朗読する。

音読、朗読か。なぜわざわざそんなことをさせたいのかよくわからない。それって必要なのか。てか、朗読させたければ詩にすればいいんじゃないか。

運命に対して無抵抗であり、理由の分からないものをただ受け入れざるを得ないという不条理、人間という存在に対する嘆きがあります。人間がこの世界に投げ出された状況とは、まさにこういうことでしょう。理由などないのです。それを人間は、自分たちの物語に理由づけようとして悪戦苦闘しているのです。

いろんな理由を考えさせて、高校生を悩ませておいて、結論はこれなのだろうか。答えは「理由はない」。世の中は不条理だ。人間は苦しんでいる。それが現代小説の特徴なのだろうか。はて。うーん。ニーチェとかサルトルみたいなもん?(笑)

なんか、もっともらしい理由づけではあるが、高校生に読ませる教材なんだよね?もっとほかにふさわしいのがありそうなものだが。いやいくらでもある。やはり、いろいろ生徒に悩ませておいて、最後にこうですと、手の内をあかして、けむに巻いてみせたいだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。

ネット時代の今、そんな手口はもはや高校生には通用しないんじゃないのかなあ。一時期「ポストモダン」な人たちが風靡してたころはそんなわかったようなわからないような禅問答的解釈でよかったかしれんが、今はググればごまかしはすぐばれるよ。

追記あり〼

西行

小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。

小林秀雄は後世のフィクションを取り除いて真実の西行を見極めようとしているのではない。小林の態度はむしろ真逆で、もとの西行はともかくとして、後世作られた二次創作をさらに誇張しようとしている。その虚像をさらに膨らませ、偶像の一人として彼をパンテオンに祀ろうとしているのだ。小林はもともとそうした評論家であった。彼は事実よりもフィクションのほうが好きなのである。少なくともそれを彼は自分の商売とした(より正確に言えば、読者を獲得する必要があった若い頃の小林は、というべきかもしれない)。

小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。

西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。

西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。

詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。

「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。

あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。

勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。

西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。

まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。

追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。

彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。

世の中に未練のあるような歌は他にもある。

はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし

物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな

捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり

数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり

捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。

心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ

世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ

うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる

そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな

世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも

山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ

古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮

ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。

世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ

わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ

花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける

春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり

春と桜の歌。最後のやつは宣長の

待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり

にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。

いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな

こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり

あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき

わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな

はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや

恋の歌。

おそらく偽作と思われるのは

何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

その他、聞書集に載る、

うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし

すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ

たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども

などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。

ポントスとボスポロス

へレースポントスにポントスは固有名詞なんじゃないかと書いたのだが、 昔黒海にはポントス王国というものがあったようだ。 またアゾフ海からクリミア半島あたりにボスポロス王国があった。 イスタンブルの海峡をボスポラスというのだが、どういうつながりがあるのだろうか。

wikipedia

ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

bous βοῦς ‘ox’ + poros πόρος ‘means of passing a river, ford, ferry’, thus meaning ‘ox-ford’,

よくわかんねえ。 英語の ox-ford と同じとか言ってる。

また、ポントスというギリシャ神話の海の神がいるようだ。

クリミアという地名はロシア語で、ギリシャ語ではタウリカというようだ。 またケルソネソスという言い方もある。 c.f. パンティカパイオン、スキュタイ。

本居宣長27回

小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。 業平と紀貫之のことばかり書いてある。 たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。

古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。 古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。 「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、 宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。

小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、 私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。 それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。 小林秀雄はそこに踏み込んでない。 「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、 私の主張とはかなり違う。 六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、 業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。 当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。 そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。 そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。

思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、 宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。 しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、 割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。 彼に特有のむらっけのようなものを感じる。 小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。 もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。

日の神論争2

久しぶりに小林秀雄の本居宣長を読んでみたのだが、なるほど、本居宣長と上田秋成の論争のことは、第40回あたりにちゃんと書いてある。しかし、小林秀雄は「日の神論争」などという言葉は一切使ってない。

「日の神論争」という言葉には「治天の君」と同じような気持ちの悪さを感じる。たぶんこれらの用語を使い始めた仕掛け人は同じ世界にいる。私はそこになにか戦後左翼の悪意のようなものを感じるのだ。私は自分の嗅覚には自信がある。日本戦後民主主義の欺瞞には敏感だと自負する。

本居宣長と上田秋成の論争はつまりは、宣長は天照大神は人格神ではなくて太陽そのものであると言いたいわけである。秋成は、古代の神話は不可知であるから、太陽そのものであるとか実はなにかの人格神を太陽になぞらえたとか、そんなことには言及しないのが良い、と言っている。つまりは、天照大神が人格神か太陽そのものかという論争。秋成には宣長への愛を感じる。宣長はたぶん秋成を好きではなかっただろう。秋成の宣長への片思い。私にはほほえましく思える。

しかし、それに「日の神論争」という名前を与えた誰かがいる。大きなお世話である。宣長も秋成も、愛するものたちが交わした恋文のような、二人の論争にそんなへんてこな名前を付けられるのは嫌だろうと思う。不愉快だろうと思う。秋成にはたしかに「日神」という文字は見える。しかしそれを「日の神論争」という言い方をするのに、少なくとも私は不快を感じる。

私は宣長の原理主義は間違っていると思うし、秋成の方がまともなことを言っていると思うが、しかし、宣長の弁護もしたいと思う。つまり、当時の人たちは、新井白石もそうだが、何かといえば、神話を自分の考え方で解釈しようとする。それは戦後日本においてもそうだし、平成26年の今日でもそうだ。そのときどきの時代の常識で神話を解釈しようとすれば必ず間違う。秋成は、だから、神話は不可知であると言う。いろいろと判断を加えてはならないと。宣長は、神話は神話としてそのまま記紀に書いてある通りに解釈すべきだという。私にはその二つは似ていてどちらも好ましく感じる。宣長は、神話を勝手に解釈するくらいならそのまま書いてある通りに信じる方がましだと言っているだけに思える。

戦後日本が戦前の日本の国学を否定して、源平合戦を治承・寿永の乱とか言い直したりする。治承・寿永の乱、くらいまではまだ許せる。そう言いたければ言えばいい。しかし、治天の君は私にはただ不愉快なだけだし、おそらく仕掛け人は同じところにいると思うと、日の神論争という言い方にも同じ不快感を感じざるを得ない。宣長が反発したのと同じことを今の学者もやっているのだ。昭和や平成の解釈で神話をいじくるくらいなら、宣長のようにそのまま神話を信じる方がましだと言いたい。ずっとましだ。或いは秋成のスタンスも私は好きだ。或いは、小林秀雄のように批評とはアートであり直感だから、好きに言いたいように言えばよい、というアプローチも好きだ。この三つは私には好ましいし似通ってみえる。一番遠いのは、分かったような用語を後付けして、分かったようなカテゴライズをして、分かったような解釈をすることだ。そんな解釈は100年もたない。判断しないこと、そのまま信じること、アートとして鑑賞すること、これらは100年でも1000年でも保つのだ。

池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄の『本居宣長』について今までいろいろ書き散らしてきたのだが(小林秀雄でこのブログを検索してもらったほうが話は早い)、担当編集者池田雅延氏の詳しい講演があり、『本居宣長』がどのように執筆されて成立したかがわかる。130分もあるので、ゆっくり聞くことにする。もともとは茂木健一郎がソニーのサイトにアップしたものらしいが、その大もとのMP3はもはやなく、適当に検索したら見つけたのが上のリンク。

単行本では50章に分かれているが、もともとは『新潮』に64回連載された記事であり、11年半も連載した。と、いうことは、2ヶ月に1回程度の寄稿であったか。それを1/3くらいに縮めて、最後に1章新たに付け足して、単行本にしたのだそうだ。ふーん。すごく削ったな、もったいないな、というより、そんなに削ったのにまだあんなに冗長なんだ、というのが素直な感想なんだが。

追記 wayback machine

Basilis

この写真によれば、ローマノスは ΡΩΜΑΝΟС ΒΑСΙΛΕҰС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれていて、エウドキアは ЕҮΔΟΚΙΑ ΒΑСΙΛΙС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。ローマ字表記すると、それぞれ、ROMANOS BASILEUS ROMAION、 EUDOKIA BASILIS ROMAION となる。 つまり、東ローマの皇帝はバシレウス、女帝はバシリス、というのが当時の正式な呼称であった。また、すでにギリシャ文字が一部キリル文字化しつつあるのが見てとれる。ΣではなくСが使われ、また、ユプシロンに当たる文字がҰとҮの二つあるように見える。オメガが、小文字の形をそのまま大きくして大文字として使っているが、これも珍しい。というかそういう文字がユニコードにあるのだろうか。

エウドキアの表紙は再び描き換えることになると思う。

英語のウィキペディアにはAugustaとして戴冠されたと書かれているが、実際にはBasilisだったわけで、ギリシャ語のウィキペディア見ても、皇帝 (Autokratoras) とかしか書かれてなくて、ほんとうはなんと呼ばれていたのか、当時の彫刻とかモザイク画くらいしか信用できない。しかもこんな鮮明に文字が残されているのは珍しい。他のはもっと読みにくい。

王冠の形だが、ゾーエーのモザイク画に似ているが微妙に違う気もする。

ところで女帝と皇后はほんとうに区別されていたのだろうか。よくわからん。

コンスタンティノス9世モノマコスでは、ゾーエーがΑҰΓΟҰСΤΑ (AUGOUSTA) と書かれていて、コンスタンティノスは単に ΒΑСΙΛΕҰСΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。もしかしてアウグスタというのは単に皇帝の后、皇后という意味だったかもしれん。アウグストゥスの妻がアウグスタと呼ばれたように。てことは、おそらくエウドキアは皇后の頃からアウグスタと呼ばれていて、その後バシリスとして即位したというのが正しいのではないか。

へレースポントス

『エウドキア』に「ヘーレスポントス」と書いていたのは「へレースポントス」の間違いだった。 修正せねばならない(※追記 より正確にはヘッレースポントスだろう)。 へレースポントスは海峡に名付けられた名ではなく、あの細長い海に付けられた名のようである。意味はずばり「ギリシャの海」。ヘラス、ヘレニズム、ヘレニカなどはすべてギリシャ人が自分らの国や言語のことを言う言葉だ。つまりへレースポントスという名は、ギリシャ人にとって非常に重大な意味を持っている。

黒海は単にポントスと呼ばれたらしい。ポントスとへレースポントスの間の海がプロポンティスだが、これはポントスの手前の海と解釈できる。へレースポントスからプロポンティスを経てポントスに入る、というニュアンスがそこにはある。っと細かく言えば、ボスポラス海峡は紛れもなく海峡である。プロポンティス海は海である。そして、へレースポントス海峡は、海峡ではなくて、古代ギリシャ人の感覚では、へレースポントス海と呼ぶべきだろう。

ではエーゲ海はなんと呼ばれていたかというと、この海はエーゲオペラーゴあるいはアルキペラーゴと言って、ポントスではない。ギリシャ語で「海」をペラーゴといったりポントスと言ったりするわけだが、もとは両方とも固有名詞であったか。あるいはポントスだけが固有名詞だったか。どういう使い分けか、よく分からない。ギリシャ人がいつから自分たちのことをヘラスとかヘレニカと言い出したのだろうか。その中心的な部族や土地はどこだったのだろう。

いやはや。しかし、昔書いたものを手直しすることの大変さと言ったら。

国語教科書の闇

ついでに読んでみた。

これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。そこから先は読まない。大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。

おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、それはあまりにも狭い世界で、定番で、既視感で、予定調和で、昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、或いは国内旅行に切り替えるようなもの。

別にね、ハリーポッターとか、シャーロックホームズとか、高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。ラノベは読みやすい。読者も多い。従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。

私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、その外の世界の存在を想定してないからだろう。

それから今回初めて森鴎外の舞姫を読んでみたのだが、なんじゃこりゃという感じ。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。

は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。

たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。なんかかっこよさそう。それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。

「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、その代用品を提供するというところにあるわけ。最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。

さらに、菊池寛とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。

今年のセンター国語、センター試験「国語(古文)」を解いてみる。などにも書いたことだが、今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。だから教材も定番なほうがいいに決まってる。どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。或いは特許とか?曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。