宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。 生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。 『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、 よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、 人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この法幢和尚というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、 つまり最初の師匠ということになる。 どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、 父が商売していた江戸に行ったり、 また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、 という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり
景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。 また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。 宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、 新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。 この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。 森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。 為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、 堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。 霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。 冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、 この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。 古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、 宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。 宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。 蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。 為村は当時まだ存命中だ。 新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。 この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。 つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。 長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。 松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

京極派

引き続き、丸谷才一『新々百人一首』。

庭の虫は なきとまりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな (京極為兼)

為兼を選ぶのはよい。なぜこの歌なのか。他にいくらでも為兼には良い歌があるのに。しかも、「庭の虫は」が字余りで、しかも字余りの例外まで丁寧に解説している。だが、それ以外の説明がまるでない。

京極派の歌には字余りが多い。というより、字余りということを始めたのは京極派なのだ。なぜそのことを言わぬ。丸谷才一は定家が好きで、二条派が好きなのである。京極派は嫌い。だからわざと沈黙しているように思える。

「なきとまりぬる」もおかしい。連体形になっている。「なきとまりぬる雨」か「なきとまりぬる雨の夜」か。そうかもしれぬ。そうとも解釈できなくはない。だとするとそうとう変な歌だ。普通に考えて終止形にしないとおかしい。普通なら、素直に「なきやみにけり」「なきとまりけり」などとするだろう。「なきとまりぬる」という言い方は、異様だ。「なきとまる」などという言い方は普通和歌ではしない。現代語でも「なきやむ」としか言わない。もしかすると当時の口語的な表現かもしれん。それもまた京極派の特徴だが、それもなぜか指摘しない。

それをしないでおいて、王朝和歌では、秋の虫の鳴き声というのは、恋が成就しなかった悲しみの声だ、などということを延々と主張している。京極派は、そういう定型や通念を無視し、感情のままに、印象派のように、歌を詠むものだ。京極派の歌は、新古今や二条派の歌論では説明できないはずなのだ。それをむりやり宮廷文学の尺度にあわせて解釈しようとしている。これでは、京極派とは何か、ということが、読者にはまったくわからないはずだ。

咲きそむる 梅ひとえだの 匂ひより 心によもの 春ぞみちぬる (伏見院)

説明わずか四行。「まさしく国王の歌である。おっとりとしていて、しかも美しい。」などと言っているが、なぜこれを選んだのか、理解に苦しむ。なるほど、そういうものか、とただわけもわからず読まされる読者が気の毒だ。ちなみに伏見院は、為兼に勅撰集を編纂させた京極派の歌人。

うれしとも 一かたにやは ながめらるる 待つ夜にむかふ 夕ぐれの空 (永福門院)

この歌は、確かに優れている。「ながめらるる」は字余り。明らかに京極派特有の、破調の妙をねらったものであろう。しかし、丸谷才一は、これが新古今集より時代が下ったために規則が崩れてきた、と解釈している。それは違う。京極派以外で字余りするのは少なくとも江戸時代までは、ただのへたくそだけだ。「当代随一の女流歌人」が「歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い」などと言っているのは、ほんとうに京極派というものを、丸谷才一が知らなかったのか、と怪しまれる。宣長ですら京極派が異様で異端であることは知っていたのになぜ丸谷才一がそれを知らないのか。仕方なく余ったのではなく、わざと余らせたのだ。それを勅撰集に採ることで、為兼はオーソライズしようとした。永福門院は、京極派で一番有名な女流歌人であり、伏見院の中宮。歌の師は為兼その人だ。

意味は、従って、古今集や新古今集などの通念から離れて、印象派的に解釈しなくてはダメだ。ざっくり意訳すると、今日は来るとあらかじめ知らせがあって、うれしいとは思うが、ほんとうに来るのかどうか、いつごろ来るかと待ちながら、夕暮れの空に向かってながめている気持ちは、ただうれしいというばかりではない、となる。丸谷才一の解釈でだいたいあっているのだが、彼は、当時の通い婚における女性の立場、歌に現れるその形態など、懇切に、王朝の女流和歌とはこういうものだ、こうあるべきだ、という理論で押し通そうとする。それでは、京極派の歌はわからない。パターンに当てはめようとしては楽しめない、それが、京極派の歌なのに。京極派だからこそ、「うれしとも一かたにやはながめらるる」などという屈折した心理を詠めたのだし、「(私が)待つ夜に(私が)むかふ」などというトリッキーな言い回しをしているのだ。

朦朧趣味

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良
朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人
飛鳥井雅経
初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの
慈円
かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、単に貴族趣味という以上のものではない気がする。さらに、

藤原為氏
人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、どちらかと言えば古今調の機知に近い。新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。現代人は、自分で作らず、批評だけする。和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。

和歌でもだいたい同じ。もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。

「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。

それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。価値観が違うのは当たり前だ。しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、定家と後鳥羽院が最高であり、現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、と主張する。

しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、早くても鎌倉時代後期からだろう。南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。最初期で、家定の弟子の家良くらいか。家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

勝海舟の和歌

八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。

一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。

八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。 しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。 薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、 高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力であったということ。与力はよほど忙しい役職なのだろう。千蔭は字はうまかったらしい。樋口一葉の字も千蔭流で、中島歌子から習ったという。ほんとだろうか。これも怪しい。どうも一葉に関しては中島歌子の影響が強調されすぎているように思う。字がうまい、特に和歌を書くときの字がうまいのはみんな千蔭流と言われるのではないか。誰かちゃんと検証した人はいるのだろうか。

千蔭の歌は全然良いとは私には思えないのだが勝海舟は評価していたということか。勝の歌のほうがずっと面白いと思うが。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。こちらのサイトにはその英訳も掲載されている。

Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents. Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る。いくらおにぎりブログ。

阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。

とある。テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

自惚れではなく、これは私の最高傑作。

旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法形篇

勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

衣至骭 袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人 馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

  • 秋水 よく切れる剣。日本刀の美称
  • 健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。
  • 膳羞 ごちそう
  • 属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。弾丸や硝薬、これごちそう。客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児仲間

肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

蕉衫如雪不愛塵
長袖緩帯学都人
怪来健児語音好
一操南音官長瞋
蜂黄落 蝶粉褪
倡優巧 鉄剣鈍
以馬換妾髀生肉
眉斧解剖壮士腹

蕉衫雪の如く塵をとどめず
長袖緩帯都人を学ぶ
怪しみ来る健児語音の好きを
一たび南音を操れば官長瞋る
蜂黄落ち蝶粉褪す
倡優巧みにして鉄剣鈍し
馬を以て妾に換え髀肉を生ず
眉斧解剖す壮士の腹

  • 蕉衫 芭蕉布の服
  • 蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。
  • 倡優 芸能
  • 眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。健児らの言葉遣いも都びていて、薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。馬を妾に換えて股に贅肉が付く。美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。鎌倉宮の謎参照。

五摂家と両統迭立

『日本外史』によれば、いわゆる「五摂家」(近衛・九条・二条・一条・鷹司)というのは北条時頼 (第5代執権1246-1256)が定めたのだという。両統迭立というシステム、つまり持明院統と大覚寺統で、一方に天皇を立てるとき、同時に他方に皇太子を立て、十年おきに交代するというシステムは、この「五摂家」にならって北条貞時 (第9代執権1284-1301)が考案したのだという。実にシステマティックで合理的な考え方だし、また、北条氏が、天皇家は二家、公家は五家で十分で、それらが代わる代わる、天皇を出し、摂政関白をだせば良かろうという程度しか、考えてなかったことがわかる。というかそういう発想が少なくとも江戸時代の武家の間にはあった。北条氏はたぶんものすごいリアリストでどちらかと言えば理系な考え方の人たちだったのではないか。北条氏から見れば、天皇家も摂関家も、国政という実務をほったらかして、統治すべき国家や人民の実情から乖離し、何の原則もなく皇位継承戦争やら権力争いをしているように見えたのではないか。

両統迭立が伊勢神宮の式年遷宮にヒントを得たものではないかということは、このブログでかつて書いた。北条氏はかつて、承久の乱のときに、立てるべき皇太子が居なくてこまったことがあった。だから天皇家は二つに分かれて牽制しあっているくらいでちょうど良いと思ったのだろう。

徳川家の御三家とか御三卿も似たような発想かもしれん。


追記: 五摂家は、血が遠くなり過ぎないように、頻繁に養子縁組していた。血統が絶えたときにはすかさず他の摂家から養子をとり、摂家の数が減らないようにしたわけだ。

しかし、持明院統と大覚寺統のように、或いは足利氏の室町将軍家と鎌倉公方家のように、完全に二つの血筋に分かれてしまい、互いに養子を迎えることもなかった。

これは二つの血筋というのがよろしくないのであろう。二つだと互いに対立してしまい、どちらかが他から養子を迎えようという発想にならず、それぞれが本家と分家を作って血筋を保とうとして、遠からず互いに対立するようになる。

徳川はたぶんその問題を認識していて、しきりに御三家、御三卿の間で養子をとりあっていたのに違いない。

両統迭立は北条氏の立案で北条氏に責任があるのだろうか。それは違うような気がする。五摂家にしても北条氏が決めたんだという説は非常にあやしい。北条氏にも御三家や五摂家に相当する血筋があったのだろうか。得宗家とそれ以外、しかなかったのだろうか。

尊観

尊観という人を、ざっとネットに落ちてる情報だけで調べると、およそ二人いる。

一人は、1239-1316。名越朝時の子で浄土宗の僧侶。

もう一人は、1349-1400。時宗の遊行上人12世。時宗中興の祖。

この二人目の尊観は亀山天皇の孫で、亀山天皇が生前最後に西園寺家の娘に生ませた恒明親王の王子の深勝法親王と同一人物であるという説があるという。Wikipedia もこれに従う。

しかしながら『日本外史』では、尊観は南朝後村上天皇の子であると言っている。つまり、後村上天皇は最初皇子がなかったので、亀山天皇の孫(深勝法親王。外史では誤ってこれを恒明と呼んでいる)を養子としたが、後に実子が生まれたので、養子を僧侶とした。これが尊観であるという。

たぶんいずれも伝説なのだろう。高名な僧侶はこのようにして皇族のご落胤とされている可能性が高いとみなくてはならない。

尊観は、上野国祝人(はふり)村に隠れていた家康の遠い祖先で新田氏の末裔の有親(ありちか)を得阿弥という僧侶とし、連れていた二人の男子のうち長男を長阿弥とし、もう一人はまだ幼かったので僧侶とはならず、徳寿と呼んで、三河に逃れたのだという。徳寿は松平氏に養われてのちに松平泰親となり、これが三河の徳川家の遠祖となったというのだ。また長阿弥は後に親氏と名乗り、その子・広親は徳川譜代の酒井氏となったという。

Wikipedia によれば「徳阿弥」と名乗ったのは有親の長男の親氏の方であって、彼が松平家の祖だとなっている。

これらは、いずれにせよ、松平家と酒井家が清和源氏の血を引いているということをいうために作られた伝説に違いないわけだが。

Wikipedia では、松平泰親は長氏の嫡男であるともし、またやはり弟でもあると書いている。

以前にも似たようなことをうだうだ書いた。

徳川氏の歴史を読んでいると「上野」という地名が出てくる。これは「三河国碧海郡上ノ庄」もしくは明治以後の「三河国碧海郡上野村」のことらしい。紛らわしい。

また、「伊奈」という地名も出てくるがこれも信濃の天竜川の伊奈谷と紛らわしい。豊川市伊奈町(旧宝飯郡小坂井町伊奈)、本多氏の居城・伊奈城というものがあった。