歴史の連鎖

川越素描で、

だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。

どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。

菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》

などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。

平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。

しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。

日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。戦後の日本ではそういう教え方はしない。まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、とまあこのくらいの認識になってしまう。

新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。

昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。

私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。

日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。

俊成2

山桜 散りに光を 和らげて この世に咲ける 花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

つくづくと 濡れそふ袖に おどろけば 降るとも見えで 春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。同語反復がうまく効いている。これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?ましかし、レベルが一様に高い。

山吹

兼明親王

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、 肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、 という部分は書いてない。 著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。 書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。 病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。

小谷野敦 中島敦殺人事件

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

白石詩草

日本古典文学大系に新井白石の詩がのっている。もとは「白石詩草」に収められている。
早稲田大学でJPEGとPDFが公開されている。楷書できちんと書いてあるので読むのは容易だが、意味はわかりにくい。

彼が吉原を詠んだらしい詩がある。吉原だろうと思うが確信できない。「紀使君園中八首」の中の一つ、「芳草原」という詩で、

春入芳原上
青青襯歩鞋
佳人来闘草
応賭鳳凰釵

吉原に春が来る。素足に青々とした草履を履いた美しい女性がきて草合わせで遊ぶ。鳳凰のかんざしを賭けよう。まあ、そんな意味であって、吉原だろうなと思う。題の「芳草原」だが、これは、八首の題を三字にそろえるためであり、意味は「芳原」だろうと思う。 「春入芳原上」だが、「春が吉原の上に入る」というのはわかりにくい。「上」は「ほとり」というような意味かもしれん。「學步鞋」とは「学童のスリッパ」のことらしい。「歩鞋ヲ襯ス」と朱筆で訓点がついてたので、「歩鞋」という単語があるのだろうと思う。「青青歩鞋」だが、新しい若草で編んだ草履、という意味だろうか。だとするといかにも春らしいが。「紀使君園」というのがよくわからん。朱筆が入っていて「紀」「使君」「園中」と切れる。紀州の使君の庭園か。「紀使君」という人が詠んだ詩なのか。あるいは、そういう名前の吉原の店があったのか。

新井白石が吉原で遊んだことがあるとすれば、また彼自身の用例からして「芳洲」が「吉原」を指すと判断できるだろう。たとえば頼山陽は出島のことを「扇洲」と呼んでいる。「富士山」を「富嶽」と言い換えたり、「隅田川」を「墨水」と表現したり、江戸時代の漢詩ではこのように、日本名を漢語風に言い換えるのが当たり前だった。

日本古典文学大系では「芳洲」を謝眺や李白などの中国の詩人の用例から「良い香りのする中洲」と訳している。果たしてそうだろうか。

そもそもこんな楽しげな詩はまったく収められてない。こむつかしい詩ばかりだ。

思うに江戸時代の文人にとって漢文・漢語というのは中国語そのものであり、中国の歴史でもあり、実学だったと思う。だから、学ぶだけの価値があった。遊びではなかった。漢文・漢語は、明治に入ってから語学や中国語会話という役目を失い、戦後もずっとそうだった。しかし、これから中国語を学ぶ必要性や機会が増えると、漢文を学ぶ意味も変わってくる。そして、いったん、たんなる古文古典となってしまった漢文教育を、一から見直す必要に迫られるだろう。

西行の歌

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。

そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。

「西行物語」では

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。

そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。

やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年

宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。『在京日記』(宣長全集:16-128)。


本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の宣長の言葉に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。日記に書かれていないだけかもしれないのだから。宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。同じ京都の同じ門下である。これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。まさに「はたち余り」の頃である。月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

江戸中後期における三都間の歌壇の対立。ドイツの日本研究者が書いたもののようである。少し面白い。

職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、というだけのことだったのではなかろうか。ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

小沢蘆庵の人となり・事績

小沢家は大和宇陀郡松山藩。

享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。

宣長の結婚2

やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。 大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、 さらにネットで検索してだいたいのことはわかったのだけど、ともかく原著にあたってみようと思ったのだ。

まず、『恋と女の日本文学』の方だが、こちらは「恋と女と本居宣長」という文があり、何かの講演のような体裁になっているが、 1995年2月号の「群像」に直接掲載されたもののようだ。 その9の中の「大野晋さんの説を紹介することになるでせう。」(p80)から以降の部分に記述してある。

『日本語について』の方はI語学と文学の間―本居宣長の場合―「美可」と「民」という箇所だ。 こちらの初出は 1976年日本書籍社版『日本語について』らしい。

大野晋は、

外にとりたてた証拠はないのです。

と断っているし、丸谷才一もまた、

小説家らしい想像力の働かせ方と笑はれるかもしれませんが、しかしここからの展開ぶりはちよつと小説的である。

と言い訳めいたことを書いている。 つまり、ふたりとも、是が非でも真実であると主張したいわけではない。 でも、一つの可能性として、仮説として、世に問うに値する、といいたいらしいのだ。 特に大野晋の場合には1994年に再度岩波書店から同じ内容で出しているのだから、自分の説にそれなりの自信があるということだ。

私は子供の頃から丸谷才一も大野晋も大ファンで大きな影響を受けたから、むしろ、 なぜ彼らはそのように判断し、しかし私はそうは思わないのか、という点に非常に関心を持った。 きっと私以外の人たちはふーんそうなの、と考えてそれ以上追求したりしないだろうと思う。

宣長は京都から松坂に帰郷してから三年間結婚しなかった、いかにも不思議だ、何か未練でもあったのだろう、 と彼らは考えているのだが、それはどうでもよいことだ。 宣長は二十二歳と、学問を始めるにはかなり遅い時期から遊学している。 無論彼は松坂でずいぶん早い時期から学問をしていて、その結果意を決して京都に上ったのだろう。 さらにそれから五年間も京都にぐずぐずして、師匠が死んでやっと帰郷していて、しかも三年間も結婚していない。 私が思うに、この二十二歳から八年間の長い長いモラトリアムは、 単に宣長が学問好きだったからとか、独身でいたかったからではなくて、 結婚したかったけどなかなかうまい縁談がみつからなかったからだろうと思う。 京都ではどこか医者の娘のところへ婿入りできないか探していた。 松坂に帰ってからも、一年か二年の間はその運動を続けていた。 それらがすべてうまくいかなかったから、地元の有力者の娘と結婚したが、それもうまくいかなかった。 仕方なく知り合いの妹の後家の女と結婚した。 そう考えるのが一番自然だ。

大野晋は日記の文体のリズムが、最初の妻の美可(旧名ふみ)のときと、二度目の多美のときで違う、などと書いている。 しかし、それにしても、美可のときは初婚で大家との縁談なので緊張していただけかもしれんし、 多美のときは再婚で気負っていただけかもしれん。それだけのことのような気がする。

さらに、大野晋と丸谷才一が言いたいのは、宣長が仏教や儒学からの呪縛から逃れて、 『源氏物語』を読み解く目を持ち得たのは、多美への未練を三年間持ち続けていたからだ、などと言っているのだが、 そんな重大な結論が導かれるには、これだけの状況証拠では足りなすぎる。

宣長が儒教や仏教などの呪縛から自由だったのは、なぜかだが、この問は、 信長がなぜ比叡山を焼き討ちして本願寺を武装解除できたのか、という問と同じだ。 白河天皇が手を焼き、清盛が甘やかした寺社勢力というものを、なぜ突然信長が中世の宗教的桎梏から解き放たれて、 徹底的に弾圧し得たのか。 信長が天才だったからだろう。 そうとしか言いようがない。

宣長の場合、自ら歌を詠み、古今集や新古今集、伊勢物語や源氏物語を「原著」で読んだであろう。 さらに定家や契沖の歌論書など片っ端から読んだ。 その経験が「国学」というものを突然創始させたようにみせた。 少なくとも定家や後鳥羽院の頃までは、日本人は儒教や仏教にとらわれず、自由に歌を詠んだ。 そこから直接学べば、外来思想の影響は受けにくい。 また、国学の祖といわれる契沖は、 定家よりも古く、万葉集や日本書紀、古事記などを研究していたから、 宣長もまた、定家の頃にはすでに忘れられていた古い古典にさかのぼって国学というものをうちたてねばならないと考えていた。 宣長が古事記の研究をライフワークとしたのも、契沖がそのとっかかりを与えてくれたからだろう。 源氏物語を読めるようになったのも、第一には契沖の影響だろう。

蘭学の影響もまったくなくはなかったかもしれない。 医者にとって、少なくとも医者のコミュニティの中では、蘭学の影響は無視できないはずだ。 仏教があり、儒教があり、それとは別にキリスト教というものがある。 学問の世界はすでにいろんな説に分かれて相対化しつつあった。 宣長も京都に上っていろんな学問のうちどれをどのくらい学ぼうかと品定めくらいはしただろう。 そういう雰囲気の中に第四の学問として国学を創始するべき時運が整っていたのだろうと思う。

さらにいえば、戦国時代や江戸初期の歌人、とくに武将などは、わりと自由に歌を詠んだ。 必ずしもイデオロギーに囚われてはいなかった、と思う。 誰も彼もが心を縛られているのではない。 宣長はもともと浄土宗だが、自らそのくびきから逃れている。 ただ、仏教や儒教から逃れて国学に徹したのではなかった。 仏式と国風の二つの墓を作ったくらいだ。彼は宗教というものを相対化していた。

宣長もまったく恋愛を経験しなかったわけではなかろうが、それは草深多美への片思いだった可能性は低い。 一番可能性が高いのは、日記にも記されていない、あるいは記したが後世には残されなかったところにあるかもしれない。 それはたぶん五年間という長い長い京都遊学時代のどこかだと思うが、何も証拠は残ってない。

熱烈な恋愛を経験したから源氏物語が読めるようになるのであれば、そんな人間はいくらでもいるだろう。 しかし当時の多くの日本人は、仏教や儒教に囚われた、曽根崎心中のような浄瑠璃に感情移入したのであり、 当時すでにあまりにも浮世離れした源氏物語に結びつけるには飛躍がありすぎる。