常盤橋

今、八重洲には常盤橋、新常盤橋の他に、昔のままの常盤橋がある。実に紛らわしい。

もともとの常盤橋は、新常盤橋と常盤橋に挟まれていて、西岸には常盤橋公園があり、東岸には日銀本店がある。上を首都高が通り、橋の上には浮浪者の段ボール小屋がある。
ほとんど人通りがない。

外堀は、常盤橋まで来ると日本橋川に折れ曲がり、呉服橋の辺りから南がすべて埋め立てられている。

この、大手町とか八重洲の辺りは、歩いていてもあまり愉快なところじゃないね。黒塗りの車が多すぎる。

夢金

船宿が出てくる落語に、夢金と言うのがあるのだが、吉原の山谷堀にある船宿で、隅田川に出て深川まで行くと言う話。三遊亭円生の話を聞いていると亭主と女将は一階にいて、船頭の熊五郎は二階で寝ている。古い柳橋辺りの写真を見るに、この頃の町屋はほとんどが二階建て。柳橋新誌の記述とも符合する。深川でも妓楼とは言わずに船宿と言っていたらしい。

家に必ず楼あり。楼に内外あり。小なるものは外楼あるのみ。家人皆下に棲止して、客を楼に迎ふ。その舟子を畜ふ、上は四五人を食ふ。下は一二人を食ふ。

思うに、船宿というのは、普通の二階建ての町屋のようなものだったろう。多くの商店のように、間口は狭く、奥に長い。表に面した二階が客に貸す客間、奥の二階には、船頭が待機・休憩していたのではなかろうか。一階は通りに面して玄関と帳場があって、その奥に亭主と女将一家のすまいがあったのだろう。

思うに柳橋というところは、戦後日本の駅前商店街のように、船宿は船宿、料理屋は料理屋、酒楼は酒楼、などというように個別の専門店が立ち並んでいて、相互に補完していた。町全体でいろいろまかなった。船宿の座敷は個別のこじんまりしたレンタルルームのたぐい、酒楼は広間をシェアするようなものであり、密会には船宿の方が都合良いのであろう。一方、吉原などでは、「張り見世」などで大勢の遊女が集められていたのように、妓楼一つ一つが独立したスーパーマーケットのようなものだったに違いない。その建物も巨大で、三階建て、四階建ては当たり前。従って同じ芸者と言っても吉原と柳橋では全くシステムが違っていたのだ。

落語の中ではまた「屋根舟」という言葉が出てくる。これも古い写真などで確認すると、普通の川船に簡易な屋根を設けた程度のものであり、五、六人も乗れば満員、船頭も一人きりで、竿をさして移動するもののようだ。船宿が所有する舟のメインはこれ。これに対して屋形船というのは何十人も乗れて中には畳の座敷のようなものまであるもので、幕府の免許(株)が必要で、柳橋新誌の頃には七隻に減っていたという。つまり、屋形船は大きすぎのろすぎて、洒落と便利を尊ぶ「遊び」には向いておらず、皆屋根船を使うようになったということだろう。

屋根船よりも簡易で船足の速いのはチョキと言い、急に山谷堀まで遊びに行きたくなったときなどに早駕籠代わりに使ったという。

同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。

江戸繁盛記

深川の 流れの末の 浮かれ妻 つひのよるせや いづくなるらむ

船底の 枕並べて 深川の 遊びは客の 舵をこそとれ

まことなしと 人に言はるる 身ぞつらき 客に情けも 深川の里

身揚がりを して呼ぶ客は たをやめの 心のうちも 深川の里

柳橋新誌と併せて江戸繁盛記も読んでいるのだが、吉原と深川の対比が面白い。吉原は北にあるので、里(ほくり)。深川は南東にあるので、辰巳(たつみ)。吉原は幕府公認だから、いわば公娼。深川は民間、私娼。

吉原は芸と色では色の方が重く、それぞれの妓楼が芸者も料理人も幇間も雇っている。ところが深川では芸者は置屋というところにいて、客は酒楼に遊びに行き、料理屋から肴を取り寄せて、置屋から芸者を呼ぶ。また芸者も芸と色では芸の方が重い。

柳橋芸者は、天保の改革で深川はつぶされてから出来たもので、辰巳芸者の流れをくむ。ここでは、酒楼ではなくて船宿が主体となる。船宿と言っても必ず楼(二階)があって、一階は船宿の亭主や女将が住み、客は二階に上がるものらしい。船宿には厨房のようなものも、ないようだ。亭主の他に船頭が居て、つまり亭主というのは実は何もしない。ただばくちを打ったりして遊ぶだけらしい。女将の滑舌によって船宿というものは儲けたり儲からなかったりするのだという。

柳橋芸者は普通、柳橋南詰め、西両国広小路の北の、下柳原同朋町というところに住んだらしい。その母と二人暮らし。他には猫くらい。客が芸者の自宅に来て遊ぶこともあったようだ。

甲子太郎

前田愛『成島柳北』には、

甲子太郎は、柳北の本名で彼が誕生した天保八年(一八三七)二月十六日の干支が、甲子であったことから命名されたという。

と書かれているのだが、これは紛らわしい記述だ。 1837年は大塩平八郎の乱があった年だが、この年の干支は丁酉。柳北の生きていた時代で、甲子は1864年、元治元年に当たる。 たとえば伊東甲子太郎は、上洛の年が1864年だったので、それを記念して甲子太郎と名乗ったとされる。

『濹上隠士伝』冒頭

濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。

「天保丁酉の年」は天保八年という意味。「二月甲子」の「甲子」は、干支紀日法というもので、60日を周期とした日にちの表記法によるものと思われる。和暦で1937年2月の甲子は確かに16日で、西暦に換算すると3月22日になる。ふむ。やっと納得が行った。

主人公

最近だと、物を書き始めてざっくりといったん最後まで書いて、それから後でディテールを肉付けして10倍くらいに嵩を増やすのだが、まず短いうちに人に読んでもらう。あまり長くなると読ませるのに迷惑だし、まあいろいろ差し障りがあるので、すかすかなうちに読んでもらう。そうするといつもだいたい言われるのは、「神の視点で書かれている」「主人公が居ない」「主人公が居ないから感情移入できない」「感情移入できないから、面白いか面白くないか判断できない」「面白い箇所もあるのだが」「最初に主人公についてある程度のボリュームを書いて、読者を引き込んでから展開すべきだ」などだ。いろんな人に読ませてほとんど同じリアクションなので驚く。

しかしまあ、思うのだが、たとえば中国の古典文学、『水滸伝』には主人公がたくさんいて、その中には一応主役が何人かいるわけだが、やはりこれは、主人公がいるとは言えない。『儒林外史』などは次々に主人公が交代していくから、オムニバス型と言えるが、これもやはり、最初に感情移入すべき主人公が居ない。最初に出てくる人は、元末明初の王冕という人だが、この人の話は第一話で完結してしまう。

『紅楼夢』はまだ読んだことはないが、一応主役が三人ほど居るらしいが、ほかに四百人ほど登場人物が居るらしい。何しろ一度読んだだけではわからないが、三度読むと中毒になるらしい。よくわからんが、感情移入しにくい小説であることはたしかだわな。

『金瓶梅』『西遊記』などはだいたい主人公が居るわな。

『平家物語』にも主人公は、居ない。たぶん。あまり通読する人は居ないのかもしれないが、最初から順番に読んでいくと、最初の方はどうも清盛が主人公らしいのだが、あまり関係ないどうでもよいエピソードがどんどん挟まっていて、誰か特定の人に感情移入するようにはできてない。途中から、義仲とか義経とかが主人公になってしまうようにも見えるし。ていうか普通の人は『平家物語』をどういうつもりで読んでいるのだろうか。不思議だ。

いや、つまり何が言いたいかと言えば、主人公が確かに居る小説ばかりではないはずなのに、世間一般では、どうしてこう、主人公が居なければならない的風潮になっているのかというのが、不思議でならないのだ。おそらくだが、それが、少女漫画や少年漫画、ライトノベルなどの王道なのだろう。かつそれを原作としたドラマや映画の影響。たぶん私はそれらのまったく埒外で物を書いているので、なじまないのだ。

それはそうと『紅楼夢』はざっと『儒林外史』の三倍の分量がある。『儒林外史』は一人の作者・呉敬梓によって書かれたことがほぼ特定されているが、二十年近くかけて書いたそうだ。『紅楼夢』はどうなのだろうか。曹雪芹という人が作者となっているが、おそらく、数人がかりで書いたものではなかろうか。

軍記物

調べてみると、センター試験に軍記物が出たのは、今回が初めてではないようだ。平治物語、源平盛衰記が出てるし、平家物語も軍記物のうちだろう。

やはり、保元物語と言えば、為朝とか清盛とかだと思うのだけど、そこをあえてはずして、為義と義朝という当たりが、ひねってあるよね。

ていうか、いろいろ調べてみると、この「為義と義朝」の場面というのは、保元物語の中でも、割と有名人気の箇所、いわゆるクライマックス(の一つ)らしいことがわかる。そうだったのか。

センター試験「国語(古文)」を解いてみる。

センター試験「公民・倫理」を解いてみる。 のまねをして、私も国語の古文を解いてみる。 自己申告すると、ややケアレスミスはあったものの、ほぼ解けた。 問1と問2は、文法の問題とも言えるが、問1はかなりトリッキーな、つまり現代語では解釈不可能で、ひっかかりそうな単語をわざと混ぜている。もしかすると、これは、入試テクニックとして参考書や予備校の授業などで指摘されている、有名なひっかけなのかもしれないが、普通に古文を趣味で読んでいる人には、難解であって、文脈によって判断せざるを得ないから、読解問題に近い、と思う。

たとえば問1(ア)だが、これは「すかす」の意味を知らねば解けぬ。コンテクストでは、「催促する」ともとれるし「なだめる」とも取れる。むしろコンテクストから察すれば「催促」のほうが当たりではないか。(イ)(ウ)は読解で解ける。

問3から後は現国の読解問題にきわめて近い。私は昔、こういう、答えがあるのかないのかわからない問題が苦手だったが、最近やっとこつを覚えてきたようだ。問6なども、「まあ、これを読んで、自分は必ずしも、そんなふうには思わないけど、そういうふうに解釈する人もいるかもしれないな」というのが正解で、残りは「その解釈にはちょっと無理があるのじゃないかなあ。」と疑問を感じさせる文言が、ひとつずつ混ぜられているのだった。

そもそも、私は理系だったから、昔は理系でも古文や漢文もセンター試験でやらされたのだがそれはともかくとして、こういう問題を専門に解く訓練を受けていない。受験テクニックを駆使するともっと楽に解けるのかもしれないが、わからん単語はさっさと辞書を引きながら読む、ただの古文愛好家として言わせてもらえば、こんな文章を高校生が読めるのがおかしいと思う。難しすぎる。ますます、古文の受験者は減るだろうし、古文を嫌いになるに違いない。それが心配だ。出題箇所だが、『保元物語』というのは面白いけど、この義朝と為義の離別の場面は読んだことがなかった。なるほど確かに面白い箇所であって、へえ、こんなエピソードもあったのか、と気づかせてはくれるのだが、ちと、玄人好み過ぎやしないか。『保元物語』にはもっと面白い箇所がいくらでもあるのに。というか、この問題を解いて、古文っておもしろいなあと思う高校生は、皆無だと思うのだが、それで良いのだろうか。

それから、これは、読み解くのにかなり時間を要する問題だった。こんなに時間をかけないと解けない問題で、良いのだろうか。もしかして、普通の受験者は現代文の箇所だけ解いて、古文や漢文を解く受験者というのは、相当マニアックな連中のみ、という設定なのだろうかな。

それで私は、ある人に、この問題の感想を聞いたのだが、その人が言うには 「(源氏物語のような)王朝女流文学だと誰と誰が会話しているのかさっぱりわからないことが多いが、これは、 主人と家来の会話が主だから、誰が誰に話した言葉かわかりやすく、良問だと思う。」 というのだった。 なるほどなあ。そういうものなのかなあ。

「センター試験」「保元物語」などでググると、いろいろ講評が読めて面白い。 軍記物は初めての出題、か。ふーん。ていうか、軍記物ってすげー面白いのに今まで一度も出題されておらず(※追記あり)、その初の出題例が「義朝と為義の離別」なのかよと。なんか、感覚狂ってないか。例年と比べて和歌が一つもないのが良かった、などという意見が多いが、おい、古文で和歌を避けて通るなよ。むしろ、和歌メインでやろうよ、古文なんだからさあ。なんか、和歌って、受験産業界で蛇蝎のように嫌われてるのかな。
悲しい現実だな。

歴史書と歴史小説

私の場合、愛読書が日本外史なので、どうしてもそういう小説を書きたがるのだが、よく考えると、日本外史は、
歴史書であって、軍記物語に極めて近いけれども、一応史実を記述してある。
そこには何百という登場人物が出てきて、そのどれも主人公ではないし、同時に全員が主人公なわけだ。

ところが、歴史小説というやつは、まず主人公が居て、読者を感情移入させるために、
前半部分で延々と、主人公がどんなやつかという説明があって、最後までその主人公は「生きている」。
死ぬ場合にも、だいたいその子孫が主人公として引き継いでいく。
リニアな展開。
しかし、歴史とはそんなものであるはずがない。
歴史書には主人公がいない。

それで、困ったことに気づいてしまったわけだ。私が書きたいものは、実は歴史小説ではないってことだ。
歴史小説の定義をねじ曲げて新しく定義し直すほどの、才覚もない。どうしたらよかろうか。
しかしまあ思うに昔の太平記とかに特に主人公が居たわけでない。平家物語などもそうだ。
明確に主人公が居るのは義経記とかそんなくらい。
今のように、物語が、一人の主人公を主軸に進むというのがそもそも歴史的に普遍性があるわけではない。
また、歴史を物語るとして、百年二百年のスパンで叙述しようとすれば、一人の主人公で完結するわけがない。
しかし今の歴史小説を見るに、そのたぐいのものはほとんどない。
ああ、ローマ人の物語が、それに比較的近いだろうか。しかしあれはもはや歴史書であって歴史小説ではないよな。

ええっと。歴史書と歴史小説の違いは脳科学的(笑)に説明できる。
歴史書を読むには、短期記憶と長期記憶を意識的に使い分ける訓練が必要になる。
つまり、今読んだところの登場人物が次の瞬間一斉に入れ替わるから、脳内でページングを意図的に行って、
またそれらのキャラが出てきたら、長期記憶から短期記憶に移し替えなくてはならない。
これは、つまり、今のコンピュータでやってるスタック領域とヒープ領域という考え方と同じだ。

歴史書を読みこなしていくうちに、これができるようになる。
量をこなすことによって質的な変化が生まれるのだ。
短期記憶と長期記憶の間のデータの入れ替えは本来本能的、無意識的に行うものであるが、
歴史書を読んでいればそれを自分の意思でコントロールできるようになるのだ。
しかし、歴史小説を読んでいるだけでは、これはできるようにはならない。決して。
小説というものは、そんな訓練にはむいてない。
だから、所詮、歴史小説は小説の一種なのだ。

もっと言えば、短期記憶、一次記憶だけで読める小説というのは、どんな長編小説でも、さらっと読めるのだ。
しかし、長期記憶と短期記憶を両方使わないと読めない小説(もしあれば)は、短くても一気には読めないだろう。
通常、脳内でメモリのスワッピングやガベージコレクションが起きた段階で読者は一旦休憩しようとする。
三、四度立て続けに起きた場合に、その内容に興味が持てなくなれば、読書自体を辞めてしまうだろう。
しかし、短期記憶だけでだらだら集中して二、三時間で読めれば、長編でもなんなく読み終えるものであり、
そういう軽い読み物というのは、世の中にたくさんあるのだろうと思う。