ナポレオン打ち切り?

原稿アップ。ありがとうございます。

あれっ。それって今月で連載打ち切りってこと?雑誌は見てなかったけど、単行本はかかさず買ってた俺様の立場は。まだ、皇帝にもなってないよね。確かエジプトに遠征したところくらいでは。あーあ。まあ、日露戦争物語も日清戦争までで打ち切りになったしなあ(笑)

自分的に今年一番のがっかりニュースです。はっ。まてよ。こうなることを予想して、最初にアウステルリッツの三帝会戦を描いたのでは。はうう。

ヴィンランド・サガが終わらないことを祈ります。麗島夢譚は・・・コメントしづらい。

マシュハド

現在、テヘランに次いでイランで人口が多い町はマシュハドといって、NHK のシルクロードものにはメシャドという名前で出てくる。 或いはマシャドとも。 英語表記では Mashhad。
マシュハドから西へ行けばニーシャープールを経てテヘラン。 東へ行くとアフガニスタンの首都カブール。さらに東へいくとハイバル峠を越えて、 インダス川上流のパンジャーブ地方のイスラマバード。 マシュハド北東にはマル、つまりシルクロードに古来から知られるメルヴがあり、ここから先はブハラやサマルカンドなどを経て天山北路または天山南路に入る。
要するにマシュハドは交通の要衝なのだが、 九世紀末までは単なる小村であって、すぐ近くのトゥースの方が栄えていたはずだ。 というか、近代になって呼び名がトゥースからマシュハドに変わったと考えた方があたっている。 トゥースにはアレクサンドロス大王も訪れていて、ギリシャ人にはススィアと呼ばれている。 またアッパース朝カリフのハールーン・アル・ラシッドはこの地で死んでいる。

マシュハドがビーナルード山脈の北麓にあるのに対して、ニーシャープールは南麓に位置する。 要するに、ニーシャープールと同様にかなり古くから栄えた町だということだろう。

パルティア

パルティア (Parthia) は、ペルシャ (Persia) と同語源であり、現在のファールス (Fars) 州のことだと思っていたのだが、 どうも違うようだ。 ファールス州というのはアケメネス朝とサーサーン朝の故地であり、 Fars == Persia であり、 時間軸で言うと、セレウコス朝シリアとサーサーン朝ペルシャの間にパルティア、つまり、アルサケス(アルシャク)朝パルティアがある。 アルサケスはギリシャ語のアルタクセルクセスに相当するらしい。初めて知った。 インド国内のゾロアスター教徒 Parsi も Fars と同語源。

パルティアは、トルクメニスタン、というかホラサーン北西部を故地とするのであるが、イラン人の王朝にしては、あまりにも外れにある。 パルティアの語源はイラン語の地名 Parthava であると言う。 パルティア初代王は、イラン系の古代スキタイ人だと言うが、
はて、スキタイ人はトルコ系ではなかろうか。イラン人がそんなに北に居るだろうか。わからん。 アーリア人の故地は、そんな北ではなくて、アフガニスタン辺りではなかろうか。 そこから東へ行ったのがインドのアーリア人で、イランのファールスへ行ったのがイラン人。 アフガニスタンに残留したのが、パシュトーン人。そんな感じではなかろうかと思うのだが。 印欧祖語の故地がどこかまではまるでわからん。

ていうか、パルティアは、バクトリアの次に来る王朝だから、王族はギリシャ人だった可能性の方が高くなかろうか。 その方がすっきりする。 「アルサケス朝ペルシャ」と言う言い方は間違いなのだろう。実に紛らわしい。

ついでに現在のトルクメニスタン共和国の首都のアシガバードは「アルサケスの町」という意味らしい。ふーん。

大いなる助走

久しぶりに読み直してみたのだが

あなたも小説を一度書いて見られたらおわかりになろうかと思いますが、小説を書いている間というものは小説の世界へのめりこんでしまって現実がどうなろうと知ったことじゃなくなるんです。小説をよくする為には利用可能な現実の出来事をすべてぶちこんでしまって、それが日常生活に及ぼす結果や我が身にはねかえってくる報いなど、たとえ馘首になろうがどうなろうがどうでもよくなってしまうんです。

いやー。無理無理(笑)。絶対無理だからそれ。書けないものは書けないよ。同人誌書いてる学生じゃあるまいし。ビデオ公開しちゃった海上保安官じゃあるまいし。

はっ。まんまと釣られた。

しかし、今でも、20代の、しかも女性作家に、私小説というか暴露小説まがいのものを書かせて、それを持ち上げる傾向はあるよねえ。いかがなものかと思うが。つまり、それ以外に話題性というか、インパクトのある小説が無いのがいけないんでしょうけど。

小谷野敦『私小説のすすめ』も、

多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説

などと言っているということは、作家は一生に一度しか書けないような私小説を(まだろくに人生経験もない若い頃に)書いてデビューして良い、と言っているわけだから、『大いなる助走』に出てくる主人公の市谷みたいな暴露小説を書いてよいと、そそのかしているようなものだ。うーん。どうなのかねそれは。

葡萄野生種

葡萄の野生種には、中央アジア原産の Vitis vinifera sylvestris、アメリカ原産の Vitis californiaと Vitis girdianaがあるらしい。

Vitis vinifera は sylvestris から作られた栽培種。雌雄同体株。sylvestris は雄株と雌株が別なので、昆虫や風によって受粉する。ふーん。

日本古来の葡萄「エビヅル」も雄株と雌株が別々なのだそうだ。そういえばヘチマなども雄花と雌花が別だったような。しかし同じ株からどちらも咲くよな。野生種が栽培種になることで、雌雄異体が雌雄同体になったりするんだろうか。不思議な話だわな。

四行詩

オマル・ハイヤームのルバイヤート。岩波書店の。著作権切れなのな。

Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。 できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。 ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。絶句風に韻も踏んでみたし。元ネタは小川亮作訳、

今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 / 苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。 元ネタは、

さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。 七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、 都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。 しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。 どうしたらよかろうか。

柳橋

柳橋新誌を読んでもよくわからんことが多い。木村荘八 柳橋考 など参考にする。

神田川がお茶の水を開削して隅田川に流れ込むようになったのは第二代将軍秀忠のときだというから、ずいぶん古い。

神田川の万世橋から隅田川の合流地点までかつては「柳原堤」と言う堤防があり、柳並木があったという、その末端にあったので、柳橋という名前になったとか。元禄10年 (1697)、柳橋架橋。

日本橋の魚河岸は今の三越の当たり、日本橋川に沿ってあったものと思われる。柳橋からおよそ 2km くらいか。

東日本橋の日本橋中学から南西方面にかつては薬研堀というものがあって、矢ノ倉という米倉に米を運搬するためのものだった。「旧柳橋」というのはかつてこの、隅田川端の薬研堀に架かっていたもののようだ。ここらを米沢町とも言う。

さて、それで再び柳橋新誌を見ると、柳橋には四区があって、「柳橋表町」「柳橋裏河岸」「米沢表町」「旧柳橋河岸」。「柳橋表町」は柳橋の東側の神田川沿いと、南詰めの辺りを言うようだ。「裏河岸」は西側。「米沢表町」は柳橋の東南の米沢町にあったというが、ちょうど両国橋西詰めの繁華街辺りということだろう。「旧柳橋河岸」はそこからさらに南の薬研堀辺りにあったものと思われる。これを「米沢裏河岸」とも言う。この四区に33件の船宿があり、互いに親戚のようであり、他に柳橋北詰めにも数軒の店があったが、疎遠だったという。

柳橋の船宿の発祥は、渡し船だったというが、両国橋は1660年頃に架かっているから、もしそうだとすれば、ほんの江戸初期から船宿はあったということになろう。

船宿ごとに亭主がいて、その妻が女将となる。

酒家は船宿とは別に描いてある。柳橋の北と南、米沢町などに分散していたようだ。

柳橋の妓は芸を売るものなり。女郎にあらざるなり。而して、往々色を売るものあり。何ぞや。深川の遺風あるをもってしかるか。而して深川は公に売り、此は私に売る。
公なるものは常になしてなしやすく、私なるものは変にしてなしがたし。

凡そ人の女郎を買うや、もってともに寝るべし。芸者を招くや、もってその技を聞くべくして、ともに寝るべからず。而してその寝るべからざる人と寝、そのあへて売らざるの色を売らしむ。これを「転ばす」と言う。

興味深すぐる。

日本橋河岸

柳橋新誌。

およそ酒楼各家、あしたに起き、若い者をして日本橋に赴いて魚を買わしむ。
帰って客を迎ふ。 客知らずして早くに至れば、すなわち辞して曰く、 「河岸がまだ帰りません」と。 故に客の来たる、四つ(午前十時)に始まる。 士あり商あり、豪農あり、良工あり。

なるほど、このころ江戸の魚河岸は、やはり日本橋にあったのだなあ。

夏は、湯殿で汗を流してから酒を飲む。 銭湯のようにやかましく穢れてはいない。 おのおのの店の紋や名を染めた浴衣を着せる、とある。 今のスーパー銭湯のようなものか。

いやあ。面白いわこれは。

遊郭と岡場所

メモ。

遊郭というのは、幕府公許の遊女屋を一箇所に集めたもので、江戸には吉原だけ。 一箇所に集めたのは統制するため。 これに対して、岡場所はそれ以外の私娼窟のこと。 品川・内藤新宿・板橋・千住の宿場町以外、天保の改革で取りつぶしになった。 天保の改革では深川の門前仲町にあった辰巳芸者などが弾圧された。

柳橋は、天保の改革がゆるんだ後に、おそらくはそれ以前からあった船宿街をよりどころとして、 芸者たちが集まってきて、嘉永(1848-)・安政(1854-)以後、次第に岡場所のようになったところのようである。

斗、俵、石

なんかややこしいので、まとめてみる。

まず、石高だが、太閤検地では、1石で5斗が良い田んぼ、1石で3斗が普通の田んぼ、1石で1斗しかとれないのが悪い田んぼ、と決めたそうだ。まあだいたい1石当たり2斗ないし4斗換算か。

本来は1石=10斗なのだろうが。10合が1升、10升で1斗、10斗で1石。なので1000合が1石に相当する。1年365日三食1合ずつ米を食うとだいたい年に1石になる。そこで人間が1年に食う米の量がだいたい1石、と見積もられた。

だいたい3.5升が1俵なので、年に30俵ほど食べることになる。

町奉行所与力は最初のころ知行を与えられてそこから得られる年貢がそのまま俸禄となっていたが、途中から蔵米の支給になった。つまり、最初は領地を持った殿様だったのがサラリーマンに変更になった。そのとき知行地取り200石が蔵米80石に変更になっている。幕府標準のレートでは1俵=0.35石=3斗5升なので、蔵米80石とは、約230俵。知行地で200石取れるということは、その内の0.65が農民の取り分、0.35が支配の取り分になるので、200×0.35=現米70石=200俵となる。まあだいたい同じ。

この石高と現米の換算比率と、石と俵の換算比率がどちらも0.35なのがややこしい。

ようするに知行1石と蔵米1俵はほぼ同じということだな。あと、金1両もだいたい米1俵と同じ。

ここで、町奉行所与力の大塩平八郎と、将軍侍講の成島柳北の俸禄を比べてみると、大塩は200俵で、成島は家格300俵+役料200俵=500俵。おおよそ与力は今の警部のような仕事で年収で言えば1000万円くらいだろうか。とすると成島の年収は2500万円くらい。大企業の取締役くらいの収入はあったことになる。多少家来を養ったりしなくちゃならなかっただろうが、軽く妾の一人二人は囲えたろうな。父子鷹には岡野孫一郎という1500石の旗本が出てくるが、これだと年収7500万円に相当する。家来を養わなくてはならないからすべてが個人収入ではないが、さすがにお殿様だな。