スケープゴートとしてのゲーム

ゲームはマイナスのイメージを持つものとして比較の対照にされやすい。特に報道において。

ある子供がペパクラで遊んでいて、ふだんはゲームをやっているがたまに手を動かして遊ぶと面白いと。なぜそこでわざわざゲームを出してくる必要があるのか。すなおにペパクラは面白いですねではなぜいけないのか。ふだんはプラモ作ってるけどペパクラも面白いねとかいろんなバリエーションがあり得るのに。

ゲームは、こ汚く薄暗い、うさんくさくいかがわしい、工務店だか町工場だかを改造したインベーダーハウスから生まれてきた。小ずるい大人が子供の小遣いをかすめ取って儲けた。今の大人たちはみなその記憶を共有している。だからゲームは叩かれて、新風営法で規制されて、無限の可能性を秘めたアーケードゲームはそのために死んだ。パチンコの景品が未だに公然と換金されているのに、だ。アーケードゲームの死の代償として家庭用ゲーム機が生まれたが、それでも負の運命を担い続けている。

何か犯罪が起きるといつもゲームのせいにされる。弁護士が加害者の責任をゲームに押しつけたいせいではないか。

ゲームばかりやっていると馬鹿になると言われる。昔はテレビばかり見ていると馬鹿になると言ったものだが、そのころはまだマスメディアの主役が新聞や雑誌だったからだ。今じゃテレビをネガティブなイメージに使うことがない。テレビが最大のマスメディアになったからだ。特撮戦隊ものばかり見ていると馬鹿になるとか、刑事ドラマものばかり見ていると馬鹿になるとか、昼メロとかサスペンスばかり見ていると馬鹿になるとか、映画ばかり見ていると馬鹿になるとか、そんなことは絶対言わない。いつも悪者になるのはゲームだ。本質的にゲームというメディアが他より悪いわけではない。単にゲームが叩きやすいというだけの理由だ。

報道というものは、特にテレビの報道というものは、ものすごく偏っている。偏向していても、互いにバランスのよい公平な状態にもっていこうという仕組みがないから、偏れば偏るほど偏って、しまいにはひっくり返るしかなくなる。大東亜戦争当時とどこが違うというのか。

ゲーム産業は、なぜこんなに弱いのか。卑屈すぎやしないか。結局日本のゲームが海外のゲーム産業に抜き去られたのも同じ理由ではないのか。何かがどうしようもなく弱い。ホリエモンやムネオが有罪になったのと同じ理由じゃないのか。

ゲームをやる人間と、ゲームをやらない人間の住んでる世界があまりにも遠いからだろうか。

未と猶と已

「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。

「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。

「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。

いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。

「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。

プロイセン王国

[プロイセン](File:Prussiamap.gif)。
[プロイセンの領土拡張2](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap2.gif)。
[プロイセンの領土拡張3](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap3.gif)。
[ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国](http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Brandenburg-preussen-1701-1806.png)。
[ライン川](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rhein-Karte.png)。

昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。

神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、 ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。一躍大国となる。1862年にはビスマルクが宰相となる。イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。イタリアに続けという気持ちはあっただろう。

1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。ビスマルクすげえ。

[プロイセン部族](http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Prussians)。

[Königreich Preußen](http://de.wikipedia.org/wiki/K%C3%B6nigreich_Preu%C3%9Fen)。

宋の改革

安史の乱が755年、王仙芝・黄巣の乱が874年、907年唐滅亡。53年間の五胡十六国時代を経て、960年には趙匡胤による宋王朝の成立。

唐が貴族主義的血縁的であったのに対して、宋は士大夫による中央集権的な、皇帝と官僚組織によって統治される国家だった。

一方で日本は1068年に後三条天皇即位。おそらく貴族主義の唐が滅んで官僚主義の宋になり、世界最強の帝国となったのを見て、日本もまた藤原氏が滅んでいよいよ天皇中心の中央集権的官僚主義の時代になるのに違いない、と思ったに違いない。或いは貴族の首長であるところの天皇家が、藤原氏らとともに衰えて、大乱の後に武士の王朝に交代するかもしれない、と危惧もしたかもしれない。

後三条天皇による上からの改革は白河天皇・鳥羽天皇の時代には (院政によって一見天皇家の勢力が極大に達したに見えつつ)著しく後退し、ますます貴族や武士や寺社の力が伸張した。後白河天皇と崇徳上皇が帝位を争った保元の乱では、もはや大混乱となる。公家も武家も天皇家も自分が営む荘園に寄生することによって生きながらえている。国家の体をなしていない。これはまさに唐の末期から五胡十六国に類似する。すなわち一種の無政府状態・国を豪族が割拠する状態であり、当然それら貴族や豪族の間で覇権が争われることとなり、趙匡胤という一人の勝者に収束した、というわけだ。

後白河法皇による長すぎる院生時代には、悪左府こと藤原頼長、信西(藤原通憲)、西光(藤原師光)といったリフォーマーたちが続出した。しかし彼らは常に武士勢力によって粛清され、結局日本は長い長い封建時代へ突入する。中央集権的な政府ができるのには明治時代を待たねばならなかった。

頼長、信西、西光らは宋の政治を真似て、時代に逆らったまったく無駄な努力をした。実にかわいそうな人たちだ。もし王朝の交代があったら日本にも中央集権国家が生まれたかもしれない。しかし天皇家も公家も残りそれとは別に武家というものが生まれた。その三者が共存することによって生じた内部応力が中央集権的合理的政体の誕生を妨げた。そして地方分権的な社会が七百年も続いたというわけだ。保元の乱から承久の乱まで続く武士への権力委譲の時代、南北朝、戦国時代となんども戦乱の世が再現したのに、一度も中央集権国家に至らなかったのは、
やはりそのなんというかアモルファスな安定状態に収束してしまうからではなかろうか。

案外ヨーロッパで封建社会が長く続いたのも同じ理由かもしれない。神聖ローマ皇帝とローマ法王と地方領主の三すくみ状態によって中央集権的な国家が生まれてくるのが阻害されたのかもしれん。今のヨーロッパを見てもよくわからんが、かつてのヨーロッパは百以上の諸国の集合体だったのである。なぜこんなにとっちらかっていたのだろうか。同じことは日本にも言える。

新井白石日記

新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。

芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。

改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。

ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。

寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉

正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり

これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。

1両の価値

米は1合で約150g、1升では約1.5kgとなる。1俵は35升なので52.5kg。

今時だいたい10kgの普通の米が4000円も出せば買える。となると1俵で20000円くらいとなる。

新井白石の時代には1俵が37両であった。37両 = 2万円となる。1両がわずかに540円。これは今の感覚で言えばずいぶんと安い。下級の御家人は扶持米が一年に300俵くらいだったらしい。すると年収は600万円となる。これは割とわかりやすい。つまり、新井白石の時代には、金は今よりずっと価値が低かったということか。

いつからか、義賊になった鼠小僧次郎吉 など読んでいると、幕末には1両で約1俵だというから、つまり、金貨の価値が37倍にもなったことになる。理由はよくわからんが、元禄までは金が国内ではめちゃくちゃ取れた。それで金が余った。それから金を輸出するようになり、産出量も減ってきた。そこで金の価値が暴騰した。逆に米の生産量は干拓や埋め立てなどでだいぶ増えていた。

というようなことではなかろうか。同じ江戸時代でも百年経てば物価もだいぶ変わりますわな。

桜田御殿

桜田御殿というのは幕末の江戸の地図にはもはや載ってないが、日比谷門を出た角地にあったというから、尾張屋切絵図や大江戸絵図など参考にすると、松平肥前家、松平大膳家などの敷地を合わせたものに相当するのだろう。

松平肥前とは鍋島氏のことで鍋島は龍造寺の家臣だったので、松平とは直接関係ないと思うのだが、いつの間に親藩扱いになったのだろうか。wikipedia など読んでもさっぱりわからない。

追記。村川浩平「肥前佐賀藩、鍋島氏への松平氏下賜」によれば外様大名に松平氏が下賜された例があるという。鍋島氏には将軍家光の時、鍋島光茂が初めて下賜されたとある。

御家人の給料

折り焚く柴の記を読んでいると、御家人に支払う給料の話が出てきて、御家人は料地をもたないから扶持米をもらうわけだが、実物をもらうのではなくて、その年の上米・中米・下米のうち上米を基準としてその値を金で支払う習慣だったようだ。上米が1俵(3.5斗 = 35升)で37両なので、1俵の米の代わりに38両を支給せよ、などと書いてある。実に興味深い。

wikipedia によれば御家人は30俵から80俵をもらっていたそうだ。30俵だと年収が約千両ということになる。別にそこから所得税や住民税や社会保障費を引かれるわけではなかろうから、手取りが千両、ということであってるだろうか。ただしそれをまるまる自分のために使えるのではない。収入に応じて家来を抱えなくてはならないから、その家来と家族も養わなくてはならない。となると千両は多いのか少ないのか。よくわからん。

同じ記述の箇所に「右筆集」というのが出てくる。これはやはり下級書記官らのことをいうのだろう。

中ノ口、というのは江戸城本丸の事務方の執務室が並ぶところだが、そこに「お給米の張り紙」というのが貼られて、勘定書から草稿が出てそれを右筆が清書して張り紙にする。

上米の値で支給すれば、御家人たちはその金で中下米を買ってしのぐので都合がよかろう、などと書かれている。面白いなあ。中下米はもっとずっと安かったようだ。

加後号

いわゆる加後号というものは、後一条天皇から始まっている。これは系譜を見ると明らかなように、村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、ここで皇統が二つに分かれてしまっている。円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。これはまずいというので、三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、という意味合いが込められているのだろう。それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、きちんと国の経営をしたわけではなく、そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、新井白石はそう考える。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

友人に宛てて送った手紙

彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。
彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っている事でしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

その、「友人に宛てて送った手紙」というのは実在するのだろうか。その友人というのは誰なのか。極めてあやしい。調べてもよくわからん。英語版には何もそれらしき文言がないのは明らかだ。

しかしこれまた使えるネタではある。虚構の「親しい知人に宛てて送った手紙」というものを持ち出せばいくらでもうそが書けるのだから。