田舎教師

マテ茶はうまくもまずくもない.

田山花袋「田舎教師」を読んだ.日露戦争の戦勝で日本中が沸き立つ中,若く無為に病死する田舎教師を描いたもの.戦争の捉え方がけっこう冷静客観的で,かつ哀れで感動的であった.この「田舎教師」を映画化してみるとしよう.江戸から明治に移り変わる帝都東京,日露戦争を CG で再現するのはとてもたいへんそうだが,なかなかおもしろそうだ.

「文科系」が日本を滅ぼす

早稲田の大槻教授が書いた本「「文科系」が日本を滅ぼす」という本を借りて読む.題名に少しわくわくさせられたのだが,中身は陳腐.定量化の尺度として大学の偏差値を持ち出しているところなぞ笑止.なんでもかんでも定量化しようというのは理系人間の宿痾だね.小渕と角栄を同列に扱うなんともおおざっぱな論調で,ああ彼は根っからの理系人間なんだなあと落胆させられた.こういうロジックの振り回し方をするから理系人間は理屈ばかりで説得力がないと言われる.

さて,この本の最後で言っているのは大学教育改革で「希望者全員合格,少数卒業」というもの.日本の私学の場合,授業料は年間百万円以上はざらだから,大量に合格させて大量に退学させると訴訟沙汰になりかねない.大学の事務で煩瑣なのは不良学生の処理である.不良学生を大量に合格させては全体の質が低下し,まじめで良い学生へのサービスがおろそかになる.本末転倒である.今の大学は託児所と化しているのだが,その一因は高すぎる授業料にある.金を受け取る以上,その分の付加価値をつけてやらなくては詐欺である.しかし,この本では,その点授業料を五万円に抑えろ,といっているのは筋が通った話である.その代わり,大量教育なのでテレビやインターネットで在宅授業は当たり前で,四年のゼミだけ大学に来て研究室に所属して指導を受ける,というシステムにするとよい,などと言っている.

よいとも悪いともなんともいえない.まあしかし,最初の一,二年の間は仮入学扱いにして,不良学生はどんどん落とした方がよく,そのためには授業料を最初の年次だけ安くし,入試はそのぶん簡素化しても良いかもしれん.

ともかくも,この手の改革は個別の大学でやろうとしても無理である.何か学校法人そのものを変えてしまうような法改正か強力な指導が必要だろう.でも,法律さえ改正すればすんなりこの手の改革はできてしまうような気がする.学部四年次の定員だけたとえば 200 名と定めておき,一年次は無制限,二年次は 10000 名,三年次は 1000 名,とかにすればよいのだ.今はずんどうみたいに一年次も四年次も定員は同じ.これでは小中学校のような義務教育と同じ内容になっても仕方ないよね.

定員制限をピラミッド型にすると,大学経営者というのは欲張りだから入れるだけ入れようとするだろう.そうするとすべての学生をキャンパスに収容するのは不可能だから,メディアによる教育とか放送大学みたいなことを必然的にやらざるを得なくなる.今のようにメディアによる授業の単位をいくつまで認める,とかいう文部省の改正では,大学側の負担だけが増えてメリットはほとんどないので,どこも動かないね.もっと根本的な改革をやらなきゃだめだろ.

なかなか良いことも書いてある.うちの学生で「大学に入っても勉強するんですか.私の兄/姉は大学では勉強なんかしないと言ってました」と質問したやつが居たそうだ.なんとも嘆かわしいことだ.学生や父兄だけでなく教員もそう思っている.もちろん理系の教員はそんなことは思っていないのだが・・・。

1955 年,私は東京の国立大学の理学部理学科に入学した.大学は文京区にあったが,通学に 40 分以上もかかる埼玉県にある学生寮に無理矢理入り込んだ(注:東大朝霞学生寮,というものがあったのだろうか).
・・・その寮では理工系学生(私と数学科 1 名,生物学科 1 名,それに農学部の学生 1 名の計 4 名)は少数派であった.
寮生は 25 名ほどであったから,多数が文化系学生だったのである.
朝 7 時半,食堂に顔を出すのは,きまってわれら 4 名の理系の学生だけだった.文化系の連中は,このとき決して起きることはなかった.したがって,朝から大学の講義に出席するのも理系の学生だけだった.

大槻教授のこの部分を読んだだけでも,理系が文系とくらべてどれほど時間を拘束されノルマを課されているかわかるだろう.さらに大槻教授は,文化系の学生が,毎月支給される育英会費を一日で吉原で使い果たしたと書いている.育英会費を使ったあとはバイトで生活費を稼ぐのである.しかし,理系の学生は年中バイトをやっているほどヒマではない.

バッドエンド (パーフェクトストーム)

「パーフェクトストーム」はアメリカ映画には珍しいバッドエンドで,軽い衝撃を受けた.
普通のアメリカ娯楽映画なら,たとえば主人公のうちの一人くらいは大波を乗り切って救出される,などの救いが残されているものだが,この映画では乗組員全員が行方不明になるのだ….
ラストシーンはお葬式でみんなが泣いている….
ハリウッド特有のぐいぐい引き込む手法でバッドエンドに持って行かれるとなかなか辛いものがあるかも.
ていうか,どうせハリウッド映画だから,ピンチでも助かるだろうと油断してたところで不意打ちをくらった,というべきか.

追記: パーフェクトストームは事実に基づいているので、ハッピーエンドにしようがなかったということだろう。

伏線がなかったとは言えない.
「オレたちゃ男だ!」とか時代錯誤的で無謀なことを言うやつは,アメリカ映画では死ぬことになっている.
特攻精神をちょっとでも賛美したら,パールハーバートラウマ的に罰せられるのだ.
これはジャンヌダルクにもちと当てはまる.
インディペンデンスデイでも特攻するやつがいるが,アメリカ人が特攻するには何重にも理由付けが必要なのである.
犠牲対効果が極めて大きい,機体が故障した,別に犯した罪をつぐないたい,冷静な自意識によって判断した結果,などなど.
カミカゼとキリスト教的殉教は違うんだ,という冗長で神学的な説明付けが必要なのであり(大した差はないと思うのだが),これによってアメリカのキリスト教的ボランティア精神は少しだけ洗練されたものになったかもしれない.

「アイアンジャイアント」も見たが,これもバッドエンドだったらもう少し切れ味があったかもしれない.
しかし,ハリウッドアニメの性なのか,最後にちょっとだけ救われる.

アメリカ映画でハッピーエンドでないのは珍しい.
ベトナム戦争もの以外では.「ジャンヌダルク」「ジーザスクライストスーパスター」は宗教映画で且つ史実をあらかじめ知っているから,必ずしもバッドエンドとは言えないのかも.
あ,「危険な情事」もバッドエンド?

山居

「釣月耕雲慕古風」に関しては961208, 000306などで考察して来たのだが,インターネットもずいぶん広くなったようで, 明確な出典が見つかった.道元の漢詩だった.思ったよりも古くて大物だったな.

山居(さんご)
西来祖道我伝東 西来の祖道我東に伝ふ
釣月耕雲慕古風 釣月耕雲古風を慕ふ
世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛べども到らず
深山雪夜草菴中 深山雪夜草菴のうち

道元というひと,それからこの漢詩の前後の文脈から,だいぶはっきりしたことがわかる.おそらく「釣月耕雲」というのは,後世の人間どもがこねくりまわした「禅問答」じみた意味ではなくて,俗世間を離れた山奥の静かで質素な勤労生活のことを言っているのだと思う.つまりこの四行の詩は全体に非常に具体的で単純明快なことを言っているのであって,「釣月耕雲」の部分だけになにか深淵な謎がかけられているとは考えにくい.「耕雲」というのはつまり雲が眼下に広がってるような高原の畑を耕している光景が思い浮かぶし,「釣月」というのは夜水面に映った月に釣り糸をたれているような感じがある.しかし,禅宗とか道元というのはかなり保守的な仏教のように思うので,魚を釣って食べたというのは少し考え難い.ここに疑問が残る.が,しかし,鎌倉仏教というものは,肉食はしなくとも川魚くらいは食べたかもしれん.江戸時代までの日本人はだいたいそういうもんだし.「紅塵」というのは繁華な市街の土ぼこり,つまり「俗塵」のこと.山の上には俗世間の塵が飛んでもとどかないということだね.

台湾の高雄にも「曲橋釣月」という名所があるそうだ.しかし台湾の中国の歴史というのはせいぜい清朝からこちらだし,日本の植民地だったこともあるので,日本の禅宗の影響を受けている可能性は非常に高い.であるから,「釣月耕雲」というのは,すでに中国語にあった慣用句というよりは,道元の「独創」であるというので間違いないのではないか.

で,私の爺さんがなぜ「釣月耕雲慕古風」を掛け軸にしていたかということだが,禅はずいぶん好きだったようだし,そのころ京都に本部がある日本剣道連盟と喧嘩別れしたということもあったようだから,世俗の評判や名声などは気にかけず,田舎でひたすら古武道を探求する,というような心境だったのではなかろうか,と推察される.

松尾芭蕉が初めて句集を編んだのが「釣月庵」というそうだ.

追記: 道元 永平広録 巻十 偈頌。

庖丁人味平

「こたつむり伝説」はいまなら「ひきこもり伝説」だな.なんという先見の明.木村千歌偉い.

先週も昨日も見忘れた北条時宗見たけど.喜望峰を見つけたのはバーソロミュー・ディアス 1488 年,インド航路を発見したのはバスコ・ダ・ガマ 1498 年じゃろ.なんでモンケ・ハンの時代(1250 年頃)の世界地図に,アフリカ大陸があんなはっきりと書き込まれてるんかのう.まあ確かにイスラムは当時すでにアフリカ東海岸を含むインド洋全域を航海していたが,しかしインド洋が大西洋につながっててヨーロッパまで行けるかどうかということは知らなかったはずだ.

しかしまあ庖丁人味平は傑作だよなあ.庖丁人味平は今の料理漫画の草分けなんだが,最初の包丁試しとか肉裁きとか荒磯の船の上の料理とかは,ただ手際の良さというか,奇術というか,なんかわけのわからん荒唐無稽なものだった(おそらく当時流行していたスポーツ漫画の強い影響を受けていたのだろう)が,うしお汁当たりからほんとの味勝負になり始めて,このカレー勝負は全編中でも一番「人々の記憶に強く刻み込まれた」インパクトの強いあたりだ.カレー屋を食べ歩いたり,漬け物を食べ比べたり,真の味勝負と言えるのはこのあたりからだ.しかしこの勝負は相手が香辛料に麻薬を混ぜるという反則負けで終わる.結局味と味の真っ向対決で優劣を決したのと違うのが悔やまれる.しかしこれは今日の視点で言ってのことなのだ.今はそんなんばっかりだが.そういう意味では後世の料理勝負モノとはじゃっかんニュアンス違う.うしお汁も味平の汗という不確定要素によって勝ち負けが決した.包丁貴族との戦いはどう決着したんだったっけ.

そういえば「真中華一番」の第一巻を読んだらば,時代設定は清町末期と明記してあった.宮廷調理師とかいう肩書きもあったようだ.だとすれば男子は全員弁髪しなきゃ弁髪.だとすれば女子は全員纏足しなきゃ纏足.だとすれば清朝の領土には外モンゴルが含まれてなくちゃ.ついでに刺身食うなよな中華料理でよ.まあそんなのいまさらどうでもいいか.

袴だれ保輔

吉川英治全集 48「短編集(二)」講談社の中の「袴だれ保輔」というものも読んだ.吉川英治は良く調べたようだ.しかし,自害したとは書いてあるが,どこにも切腹したとは書いてない.検非違使に追いつめられ,やけくそで腹を切って腸を投げつけた,という話は,そうすると「続古事談」だけに見られるのだろうか.この「続古事談」というのはなかなか手に入らず困っているのだが.

「袴だれ保輔」は,昭和 26 年に書かれたものだそうだが,いかにも当時の世相を反映していてわざとらしい.しかしいくつかおもしろいインスピレーションを得もした.「袴垂」というのは没落貴族を言うのだそうだ.おそらく,平安盛期から末期にかけて,世の中がよどんでしまい,貴族と庶民の間の階級格差はとてつもなく広がっただろう.日本の歴史の中でも最もはなはだしかったのではないか.この差別というのは,もしかすると,日本社会に猛烈なストレスを生んでいたかもしれない.ところが日本ではこのころやっと鉄器というものが庶民にも普及してきたころで,庶民はほとんど野蛮人か未開人の状態にあったものと思われる.そうすると,ケルト人もゲルマン人も女真人でもそうだが,彼らはきわめて無分別でかつ剽悍であるから,きちがいに刃物とは言うが,とにかく支配者階級に対して,めったやたらに強盗を働いたり人殺しをしたりしただろう.そうして捕らえられたときに,やけくそ,或いはいやがらせ,或いはせめてもの反抗の表明,としてやった自害の様式,として,切腹は最初は始まったのではないか.それが当時の盗賊集団で,なんかのはずみで(ここが重要),流行になって,「役人に捕まったときは腹を切ってはらわたを投げつけてできるだけ醜く死んでやろうぜ.てやんでい.べらぼうめ」とかなんとかそういうことになったのではないか.

多くの後世の軍記物が創作しているように,武士の頭領らが,自ら率先して,切腹というものを普及させた,というのはいかにも唐突であって,ありえなさそうだ.少なくとも平家はやってないし,また,源氏も(北条氏に取って代わられるまで)実は一度もやってなかったと思う.むしろ酒呑童子などの反乱分子らによって発明されたと考えるのが妥当だろうと思う.

それがいつの間にか,おそらく鎌倉幕府北条氏の頃だと思うが,下級武士全体に広まり,
さらに室町戦国時代を経てどんどん上級の武士にも広まり(というか,もともと身分の高い武士などいないのだが),徳川の時代に武士の正式な自害の仕方として確立されてしまった.しかし,このときにはもはや,反逆とかいやがらせという意味合いはまったくなくなってしまい,はらわたをさらすということも禁じられてしまった.

切腹に先行する,日本古来の,類似の民間習俗があったかどうか,というのはなんとも言えない.しかし,切腹というのは単なる犠牲を捧げる儀式とは思えない.かなりの精神的圧迫と異常心理が作用してないと発生しないと思う.それはやはり平安時代の被支配階級という暗部から生まれたと考えるとつじつまが合わないだろうか.要するに,なぜ日本にだけ切腹という異常な自殺形態が生まれたのか,ということなのだが,当時の世相と,偶発的なきっかけ,ということで説明できないだろうか.たとえば,日本ではやくざものが指を落としたり入れ墨をしたりという一種の自虐行為を,仲間内の特殊な様式としてやるが,このような心理が平安期の強盗集団にもあったとして不思議ではない.

こうしてみると,武士の発生と切腹の発生とはほとんど軌を一にしているようにも思える.つまり源平のやんごとなき辺りはともかくとして,武闘集団としての武士は,このようにして発生した,と思われるからだ.そこで切腹は武士の根本教義として今日まで強い影響を維持してきたのではないか.切腹の意義の変遷はすなわち武士そのものの変遷なのである.

切腹の起源

昔,切腹について調べたことがあったが,また少し調べた. 一番古い記録は「播磨国風土記」で,これはほとんど神話,というか, 何かの象徴的な伝承であって,船に乗っていて嵐に遭い, 女性が腹を切って死んだら海が静まったというもの. 武士の切腹とは何の関係もない. 次にはずっと下って鎌倉初期の説話物語の一つ「続古事談」 1219 年に出たもので, 藤原保輔(やすすけ)という者が982 年に追放処分にあって, 袴垂(はかまだれ)と呼ばれる盗賊或いは 反体制活動(?)のようなものの首領をやっていたのだが, 何故かその後出家し, 仲間のところを尋ねたら検非違使に密告され,985 年に追いつめられて, 腹を切って内臓をつかみだし, 辺りに投げつけた上,翌日死んだ,というもの.

保輔は「宇治拾遺物語」(第125話)にも出てくるので, こちらの方が有名らしい. 宇治拾遺物語の成立は続古事談と前後するくらいで同じ鎌倉初期. 宇治拾遺では保輔は商人をだまくらかして殺して埋めたり, その他盗賊などもやったが,死ぬまで捕まらなかったという. 吉川英治も「袴だれ保輔」という短編を書いているという. 私はこの保輔という人物が本当に実在したのか半信半疑だったが, どうやら本当に居たことは居たような気がしてきた. 保輔の兄に保昌(やすまさ)という人がいることになっている. というか,この保昌という人は保輔よりはるかに有名人であり, どこかで聞き覚えのある名前だと思ったらあの和泉式部の夫だったのだ. 但馬,大和,摂津など,いくつかの国の司をつとめたかなり偉い人, というか,道長の四天王の一人である. もし保輔が保昌の弟であれば,保昌自身がまず相当な権力者だし, また道長の庇護も当然あっただろうから, 検非違使に捕まって自害するなどいうところまで行くだろうか. 保輔が反体制だったというより,兄の権勢を笠に着て暴れていた, という方がわかりやすいのだが.

で,問題は本当に保輔が切腹第1号と認定できるかどうかだ. 985 年のできごとが 1219 年に記されたのであるから, これは同時代の資料とは言い難い. 130 年以上の隔たりがある. かなりあやしい. 当時,保輔は説話として語られるほど有名な, しかし伝説的な大盗賊だったわけだ. であるから,鎌倉時代のもっと小者の盗賊の捕物話がこの伝説的盗賊に投影され, 説話化されたとも考えられる. 今昔物語などを読んでもわかるように, 説話物語というものは噂話や民間伝承のたぐいなのだ.

義経記などの軍記物というか,おとぎ話によれば, 義経も切腹したとされ,また同様に為朝も切腹したことになっているのだが, どうもこれらもうさんくさい. おそらく源平合戦の頃にはまだ切腹というものはなかったのではないかと思うのだが.

切腹が武士の習いとして賛美されるようになったのは, それよりさらに 100 年下り, 村上義光以来だと思うのだ. 彼は,北条高時の元弘の乱で,主君の護良親王を落ち延びさせるために, 親王の姿形をして,吉野宮の二の木戸の高櫓に登り, 「後醍醐天皇第三の皇子,一品兵部卿親王護良,逆臣のために亡ぼされ,うらみを泉下に報ぜんため, ただ今自害する有様を見よ」 と言って腹を切った. そこへ賊兵が集まる隙に,親王はつつがなく逃れた,というもので, これが 1333 年,北条氏滅亡直前,鎌倉幕府の末期のことだ.

上がおそらく史実だと思うのだが, 「太平記」によればこの記述は若干違っていて, 義光は「吉野山蔵王堂山門」の上で, 「汝ら武運たちまち尽きて自害する時の手本にせよ」と叫んで切腹したことになっている.

W. S. モーム著,西川正身訳「世界の十大小説」岩波文庫,を読んだ. その中で紹介される小説の一つが「嵐が丘」なのだが, これは半分だけ読んだことがある. えーと,つまりキャサリンが死ぬところまで. これはまさにおそるべき奇書である. 嵐が丘の著者のエミリーのその姉のシャーロットが書いた, なんか女家庭教師の話などは比べるべくもないのだ. それはそうと,モームの紹介の中に出てくる話なのだが, エミリーの兄のブランウェルという人が,病気になって死ぬのだけど, そのとき

彼は死の近いことを知ると,立ったままで死ぬんだと言い, 寝床から起き出すと言って聞かなかったそうである. 彼が死の床にあったのはわずか一日にすぎなかった. いよいよ死期が近づいた時, シャーロットはすっかり取り乱してしまったので部屋の外へ連れ出さねばならなかったが, 父親とアンとエミリーの三人は,ブランウェルが立ちあがり, 二十分ほど苦しんだあげく,望み通り,立ったままで死んで行くのを見守っていた

のだそうだ. 実に大した強情っぱりだ.

H. G. ウェルズの「タイムマシン」も読んだ. 当時イギリスというところは階級社会で,社会主義思想が流行ってて, それを未来に投影した,という感じだ.

藤原保昌は源頼光の叔父,致忠の子,元方の孫. 元方は菅根の子. 菅根は菅原道真に呪い殺されたのだそうだ. 調べててだんだん嫌になってきた. 保昌は,頼光とともに道長の腹心で,頼光が武人であったことから, 後世特に同じように武人であると考えられているようだが, 果たしてそうだろうか. 今昔物語巻19第7にも出てくるようだ.

保昌は,宇治拾遺物語第 28 話にも出てくることがわかった. その他いろいろ調査中.

Tomb Raider 3

Tomb Raider 3 をこれからやろうという人は、
最後のボスキャラを倒すには、
Desert Eagle の弾をできるだけ集めておいた方が良いぞ、
彼はそう言い残して去った。

しかし、Tomb Raider 3 のラスボス(Willard の mutant)と
Biohazard Veronica のラスボス(アレクシア)
は微妙にキャラかぶってないか。
どちらも怪しげな怪物に突然変異するし。

Tomb Raider 4 (Last Ravation)
のラスボス(セト)はそんな難しくなかったような気が。
そういえば、Tomb Raider 3 には他にも強いボスキャラがいるだよ。
trlr もかなりおもしろいのだが、
Tomb Raider 3 の完成度はすごいね。

モンゴル

宮崎市定によれば、宋の時代というのは、コークスと製鉄の技術革新に基づく産業革命が起きていて(日本の刀鍛冶などは家内制手工業で、優れてはいるが大量生産には向かない。これに対して宋では基本的に今日の近代工業と同じであり、陶磁器や農具、武器の大量生産が可能であった。マルコポーロも、中国人が薪ではなくて石炭を使うのを驚いている)、それが元による世界征服を惹き起こしたというのだ。これは西洋では 17~20 世紀の帝国主義に相当する。また、中東では 7~10 世紀の、アッバース朝ハールーンアルラシッドを絶頂期とする、イスラムによる文芸復興に相当するという。

モンゴル帝国というのは西洋ではたいへん残虐な、破壊的な征服だったように言われている。またはタタールの軛、などと。でもそれは、冷静に考えれば、西洋によるアジアアフリカアメリカの植民地化と大して違わない。モンゴル族が剽悍でかつ組織力に優れ、たまたまあの時代にそれを束ねる偉大な英雄が生まれたから、なのではなく、単に、東洋の技術革新が他を圧した結果だったのだ。

中東やイスラムに関心が薄い日本人の場合、モンゴルの支配というのは、極めて短期間に終わったと思っているが、ムガール帝国やその他の群小のハーン国はともかくとして、イルハン国、キプチャクハン国、ティムール帝国などは1500 年くらいまで続いた。これを宋からの一連の流れとしてとらえれば、およそ 500 年の長きにわたったことになる。

アドニヤ

たとえばダビデの第四子の名はアドニヤというが(サムエル記 3:4、列王記上 1:5, 2:13、歴代誌上 3:2)、これがアドンに由来するのは間違いあるまい。他にもアドニラム、アドニカム、アドニ・ツェデク、アドニ・ベゼクなどの名前もある。ただしアドニ・ツェデク、アドニ・ベゼクは、ヨシュアが滅ぼした王の名であって、ベゼクの主、ツェデクの主、と言う意味にも取れるのだが。