土岐善麿

国会図書館デジタルコレクションで田安宗武のことを調べていると土岐善麿が書いたものばかり出てくる。土岐善麿とはつまり土岐哀果である。

土岐哀果の歌は悪くはないがどれも調べが悪い。まったく好きになれない。後味が嫌すぎる。田安宗武の歌も調べが悪い。そのうえ中身が無い。土岐善麿も田安宗武の歌がうまいとは決して言っていないようにみえる。ただ、理念に賞賛できるとか、生活者として、人格者として優れているとだけ言っているようにみえる。なんという詭弁だろうか。左翼歌人によくいそうだ。歌を歌として見るのでなくイデオロギーで見ている。土岐哀果もおそらく、歌人というものは歌の調べの美しさよりもまず、生活者として、人格者として立派であるべきだ、そう考えていたのではないか。こういう考え方が歌というものをわからなくしているのだ。

土岐善麿はなぜあれほどまでに田安宗武のことを執拗に調べ上げたのだろうか。その仕事は非常に丁寧でわかりやすく為になるのだけれど、その情熱がどこから来ているのか。そして田安宗武の問題点、万葉調の問題点を理解しているのは明らかなのだが、土岐善麿が田安宗武を、そして万葉調を愛していることもまた明らかなのである。

徳川幕府は和学御用というものを作った。和学御用となることが国学者の、歌学者の権威となった。荷田春満、賀茂真淵はそうだし、ある意味、本居宣長さえも晩年には(紀州および尾張)徳川の権威におもねった。

徳川は和学というものを官学にしようとした(式楽化しようとした、と言っても良い)。世の中に漢学と和学という二つの学問があり、漢学のように和学も高潔で清純なものでなくてはならないとした。柔弱で淫らな和学を厳しくしつけてきりりとしたものにしなくてはならないと考えた。はっきりいって和学というものがまったくわかってない。和学音痴極まれり。なるほど和学は国学ではあるが官学にしてはならぬ。国のものではあるが官が縛ると死んでしまう(芸術も補助金漬けにされれば死ぬだろう)。それが和学だ。

宣長はその意図に気付いて抵抗した。それが「もののあはれ」論となった。

荷田春満はむしろ逆に和学御用のために大好きな『伊勢物語』『源氏物語』批判までした。賀茂真淵もむりやり自分を万葉歌人と規程しようとした。それほどまでに徳川幕府の権威は強かった。土岐善麿の田安宗武を読んでそれが確信に変わった。そりゃそうだろう。当時徳川の恩顧を蒙れば何不自由なく暮らせたのだから。

村田春海や加藤千蔭や松平定信が田安宗武を真似なかったのは、荷田春満や荷田在満や賀茂真淵の本心を知っていたからだ。和歌というものを骨肉としている人にとって(つまり官学という裃を着てお城に登って貴人に侍っているのでなく、和歌そのものを愛している人にとって)田安宗武やその万葉調というものは我慢がならなかったはずだ。土岐善麿もそれには気付いていたはずだ。しかし完全に無視した。本居宣長や香川景樹などの歌人がいたことは知っていてもまったくそれらとの比較研究を行わなかった。ただひたすら田安宗武のことだけを書いた。なぜそこまで意固地になったかといえば、土岐善麿の中に埋め込まれていた左翼思想、反国粋主義から来ているのだろう。

土岐善麿は戦後まもなく田安宗武を書いて学士院賞をもらいますます田安宗武を書くようになった。賀茂真淵が田安宗武に取り込まれたのと良く似てはいないか。

土岐善麿は極めて克明にまた誠実に(つまり学術的に正確に)田安宗武を描こうとしているが、そこで読者に与えようとしている印象はまったくの偽りだ。賀茂真淵が幕臣として田安宗武に仕えたのとまったく同じではないか。

ともかくもいまははっきりとわかった。荷田春満や賀茂真淵が本居宣長と対立しているようにみえたのは間違いだった。もともと春満も真淵も宣長の側にいた人だったのだ。

思えば不幸なことだ。国学四大人、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、そして平田篤胤。みな呪われている。国学とはかくもいびつなものなのか。なぜ学問というものはこれほど呪われているのか。

ボバ・フェット

マンダロリアン シーズン3を見る前にボバ・フェットを見るしきたりになっているらしいのでボバ・フェットを見ることにして、まだ途中までしか見ていないのだが、ジャバ・ザ・ハットが死んだ後のタトゥイーンでなぜかボバ・フェットはジャバの跡継ぎを殺して自分がジャバの地位(大名?)に就く。大名となったボバ・フェットはタトゥイーンを暴力や権威ではなく尊敬によって治めようとする。

サンドピープル(タスケン・レイダー)に捕まったボバ・フェットは彼等と仲良くなり信頼関係を築き、彼等に自立の道を教える。

結局これはさ、西洋人の植民地支配に対する贖罪意識というかさ、レヴィストロースのサルトル批判というか構造主義というか西洋中心主義からの脱却というか、どんな未開な部族にもそれぞれの社会に道徳とか人倫とか規範というものはあるんだよってことを言いたいんだよね?

つまり広い意味でのポリコレなんだよこれもさ。ヨーロッパ人がわざわざアフリカの砂漠に井戸掘ったり木の苗植えてるのと同じだよ。

マンダロリアンでもマンドーがタスケン・レイダーと助け合ってでっかい虫を退治するっていう話があるんだが、マンダロリアンではまだポリコレ要素がそれほど露骨ではなかった。ボバ・フェットはタトゥイーンを舞台としてマンダロリアンのポリコレ要素を全面に押し出してきた。ディズニーとしてはこれもまたポリコレの布教活動なんだろう。ディズニーはどうしてもポリコレを商売にしたいわけだ。

このボバ・フェットってレヴィストロースとかの現代思想をある程度かじった人ならとてもわかりやすい話なんだけど、そうでない人には単に退屈でつまらん話に過ぎないし、わかったとしてまた西洋人のマスターベーションかっていうに過ぎないんだよな。

ボバ・フェットが砂の中に棲むでっかい虫の腹の中から出てくるところなんて旧約聖書のヨナ記そのまんまで、キリスト教徒どもの世界観の中でぐるぐる回ってる、ベンハーの頃からなんも進歩してない感じ。

アンナチュラル

某医者系ユーチューバー(井たくまだが)が推薦していたのでみてみたが、確かに面白かった。最初の回に仕込んだ伏線が最後の回に活かされていたりとか。見ている人の予測を二段階、三段階仕立てにひっくり返す仕掛けなどは良くできている。

そういう脚本の書き方のうまさというのは野木亜紀子という人にあるのかもしれないが、しかしこの人が脚本を担当した他のドラマを見て私が面白いと思うかというと少し違う。普通に売れ筋のドラマを作る人のように思える。

となると、私がこのアンナチュラルを面白く感じた理由は他にあるはずで、それはプロデューサーの新井順子という人かもしれない。或いはいろんな要素や条件が掛け合わされてそう感じたのかもしれない。

ちなみにchatgptにも聞いてみた。

私が好きなドラマは、アンナチュラル、ホームランド、フォールアウト、ヴィヴァン、マンダロリアンなどです。私におすすめのドラマを教えてください。

ChatGPT:

いいラインナップですね!✨
あなたの挙げた作品から見ると、

  • 社会性や謎解き要素(アンナチュラル)
  • サスペンスとスパイ要素(ホームランド)
  • 荒廃した世界での人間模様(フォールアウト)
  • 大規模な国際陰謀アクション(ヴィヴァン)
  • スター・ウォーズ世界観の冒険(マンダロリアン)

が好みのポイントに思えます。
それを踏まえて、おすすめを挙げますね。


海外ドラマ

  • チェルノブイリ (Chernobyl, HBO)
     緻密な実話ベースの社会派サスペンス。重厚さと人間ドラマが「アンナチュラル」好きにも刺さるはず。
  • ザ・ナイト・マネージャー (The Night Manager, BBC)
     スパイと陰謀が入り混じる上質なサスペンス。ホームランド寄り。
  • ザ・ボーイズ (The Boys, Amazon Prime)
     スーパーヒーローを現実的・社会風刺的に描いたダークアクション。「フォールアウト」のブラックユーモア好きにも合うかも。
  • アンドール (Andor, Disney+)
     スター・ウォーズ世界観で「マンダロリアン」より政治劇・スパイドラマ要素が強い。

日本ドラマ

  • MIU404 (TBS)
     刑事ものながら「アンナチュラル」と同じ野木亜紀子脚本で、人間ドラマ×社会性のバランスが絶妙。
  • レッドアイズ 監視捜査班 (日テレ)
     テクノロジーを駆使した捜査サスペンス。「ヴィヴァン」のようなスリリング展開が好きなら。

韓国ドラマ(もし未視聴なら特におすすめ)

  • D.P. -脱走兵追跡官- (Netflix)
     軍隊の闇と人間模様を描く社会派アクション。アンナチュラルやホームランド好きに合いそう。
  • シグナル (tvN / 日本リメイクもあり)
     無線機を通じて過去と現在をつなぎ未解決事件を追うサスペンス。緻密な構成が光る名作。

質問ですが、あなたが一番惹かれるのは **「人間ドラマ」**ですか?それとも **「スリルと謎解き」**ですか?
それによっておすすめの軸をさらに絞れますよ。

あなた:

ありがとうございます。日本のドラマでは何かおすすめはありますか。

ChatGPT:

いい質問ですね!✨
先ほど「アンナチュラル」「ヴィヴァン」などを挙げてくださっていたので、日本ドラマで近い雰囲気をもつおすすめを整理してみました。


日本のドラマおすすめ 🎬

社会派 × 謎解き系

  • MIU404(TBS・2020)
     「アンナチュラル」と同じ脚本家・野木亜紀子の作品。1話完結型の刑事ドラマですが、社会問題や人間模様に踏み込み、最後は大きなテーマにつながる展開。アンナチュラルが好きなら鉄板。
  • シグナル 長期未解決事件捜査班(フジテレビ・2018)
     韓国の名作サスペンスを日本版にリメイク。過去と現在をつなぐ無線機を軸に、未解決事件を追う緊張感あるストーリー。

スリル・国際的スケール系

  • MOZUシリーズ(TBS/2014)
     公安警察とテロ組織の攻防を描いたサスペンスアクション。「ヴィヴァン」好きならかなりハマる可能性大。
  • SP 警視庁警備部警護課第四係(フジテレビ・2007)
     堤真一主演のSPアクション。実写でここまでやるか、という緊迫感あるアクションシーンが見どころ。

人間ドラマ × 社会背景

  • 重版出来!(TBS・2016)
     刑事やスパイものではないですが、編集者の仕事を通じて人間模様と社会性を描く、野木亜紀子の隠れた名作。心に残るタイプ。
  • Mother(日本テレビ・2010)
     児童虐待をテーマにした社会派ドラマ。重めですが、アンナチュラルの「人間を真正面から描く」姿勢に共通するものがあります。

もし「ヴィヴァン」的な大規模アクション・陰謀を求めるのか、「アンナチュラル」的な人間ドラマ×社会派を求めるのかでおすすめが分かれます。

👉 どちらの方向のドラマをもう少し見てみたいですか?

ジャンルというより、伏線回収がうまくて意外な結末になるドラマが好きです。

ChatGPT:

なるほど!✨
「伏線が張り巡らされていて、最後に一気に回収される」「結末で意外性がある」──まさに構成の妙を楽しむタイプのドラマがお好きなんですね。

それを軸に、日本のドラマでおすすめを挙げます👇


伏線回収 × 意外な結末の日本ドラマ

サスペンス・ミステリー寄り

  • Nのために(TBS・2014)
     湊かなえ原作。複数の人物の視点から「ある事件」を描き、少しずつ伏線が解けていく仕掛け。意外な真相が胸に刺さります。
  • 夜行観覧車(TBS・2013)
     これも湊かなえ原作。表向きは平穏な住宅街で起こる事件を描きますが、次第に人間関係の裏が見えてきて伏線が効いています。
  • リバース(TBS・2017)
     湊かなえ原作シリーズの一つ。親友の死の真相をめぐる物語で、最後の種明かしが強烈。

サイコ・どんでん返し系

  • あなたの番です(日本テレビ・2019)
     マンション住人が次々と殺される連続事件。伏線が多くて考察好きに人気。ただ賛否両論あった結末も含めて盛り上がった作品。
  • 真犯人フラグ(日本テレビ・2021)
     妻子失踪をめぐる長期サスペンス。伏線回収の巧拙は議論を呼びましたが、「誰が真犯人なのか」をめぐる考察型作品。

短くても濃密なタイプ

  • 鍵のかかった部屋(フジテレビ・2012)
     密室トリック専門の探偵(大野智)が事件を解決。各話の謎解きと意外性、伏線回収が爽快。
  • アンフェア(フジテレビ・2006〜)
     篠原涼子主演。シリーズ全体を通じて大きな謎があり、回を追うごとに「裏切り」や「伏線回収」が繰り返されるスリリング展開。

💡まとめると:

  • 心理的な伏線回収・人間模様重視 → Nのために、リバース
  • 事件の謎解き・トリック重視 → 鍵のかかった部屋、アンフェア
  • 考察・どんでん返し重視 → あなたの番です、真犯人フラグ

質問ですが、あなたは「人間ドラマの中で意外な結末」が好きですか?
それとも「トリックや謎解きで伏線回収される結末」が好きですか?

追記。野木亜紀子の脚本には原作があることが多いがこれはオリジナルだという。そう言われて改めてストーリーを考えてみると、最初の導入部分と伏線回収はみごとではあるが、それゆえにだまされたというのもあるのだが、ラストの展開はかなり無茶だ。盛り上げすぎというかひねりすぎというか。連続殺人の設定にしても、裁判の展開にしても、弁護士の性格にしても。まともな原作者、つまり小説家ならばこうは書かない。映像としてみせられるとごまかしがきいても小説で読んだらあまりにも荒唐無稽だ。今時の小説ならば(ラノベとか異世界転生ものとかは別にして)もう少しきちんとした設定にするだろう。原作はまともでもドラマの脚本が突っ走っている場合もあるかとは思うが、これはそうではない。

宣長の二度目の上京

享和元年(1801)、最晩年の年、宣長は若き日の上京以来(宝暦7年(1758年)帰郷)、43年ぶりに京都に赴く。 11月5日(旧暦で9月25日)に亡くなっているのだが、宣長と景樹が京都でやりとりした歌、
宣長

涼しさに 夏もやどりも ふるさとに 帰らむことも みな忘れけり

かへし、景樹

ただひと目 みえぬる我は いかならむ ふるさとさへに 忘るてふ君

かへし、宣長

ふるさとは 思はずとても たまさかに あひ見し君を いつか忘れむ

から察するに、宣長が京都に行ったのは真夏の8月(旧暦6月)くらいだっただろう。

「伊勢国本居宣長京都逗留日記」というものがあるらしい。

京都滞在は面白い。なるほど、3月28日(おそらく旧暦)、

絵島

於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故、二柱神、立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時、自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能碁呂嶋。

宣長は『古事記伝』でオノゴロ島は絵島だと言っていると wikipedia などにも書かれているのだが、実際『古事記伝』を見てみると必ずしも絵島をオノゴロ島と断定しているわけではない。淡路島の周辺にはいくつか島があって、絵島のほかに、胞島(こしま)、鶺鴒島(せきれいじま)などの名を挙げている。宣長は実際に淡路島に渡ってこれらの島をめぐってみたわけではあるまい。

淡路島の周辺にはかなりたくさん小島が点在していて、どれがオノゴロ島とは言いがたい。比較的大きなものとしては淡路島の南にある沼島で、ここには自凝神社などがある。

風月延年

風月延年とは自然の情景を借りて寿命を延ばす芸能、つまり申楽のことである。能楽で最も古い演目、翁の舞などがまさにそれだ。また連歌師の宗祇は「言の葉の 道こそうけれ さらでやは 心の際を 人に知られむ」と詠んだ。ただ詞を定型に羅列したものを歌というのではないのだ。歌を詠むからには何かの目的がなければなるまい。世阿弥にとって歌は芸能の飾りであり、宗祇にとって歌は己の心を人に知られるための手段であった。詩歌とそれ以外の言葉の区別はまさしくここにある。人真似をして、或いは理屈で、場合にはよっては計算機で自動生成して、それらしき五七五七七を作ることはできよう。しかしそれは、歌のようなもの、それらしきもの、歌の形をしたまがい物に過ぎないのである。

国会図書館AI

google検索で何か調べ物しようとしても、どこかの怪しげなブログか、ものごとの上っ面を撫でただけのまとめサイトから浚ってきた情報くらいしか出てこない。国会図書館のデジタルコレクションで検索したほうがずっとましな情報が出てくる。

google検索が gemini になったり chatGPTになったりしてもAIの一般常識がgoogle検索を超えることはあり得ないので、やはりとんちんかんなことを言う。

もし国がバンバン国会図書館に予算をかけて書籍をすべてデジタル化して検索かけられるようにすれば、またその検索エンジンの精度を今よりももっとよくすれば、少なくとも文化、歴史分野の一般常識に関して言えば、chatGPTよりはるかに良いAIを作ることができるだろう。はがゆいことにこのことに気付いている人はおそらくほとんどいない。いたとしても日本学術界に影響力を持っていない。まして政治を動かす力などない。逆にAI研究なんか人文学や社会学には要らんとか言いかねない。

地方自治体がやっている、年金暮らしのおじいちゃんおばあちゃんのサロンになっている図書館なんかは全部つぶしてその予算を国会図書館に一点投資したほうが日本の学術文化のためにはるかに効果的だ。しかしそんな提案をする人はいない。本好き、読書好きな人ほど反対してくるに違いない。逆に国会図書館のデジタル化なんかに無駄な予算を使うくらいならもっと他に使い道があるだろう、などと批判してくる。図書館をふだん使ってない連中とか、使うにしても新刊本を予約して回し読みする連中しか世の中にはいないのだ。実に嘆かわしいことではないか。

AIに一般知識を学習させるには膨大な計算コストがかかる。一般知識ではなくて例えば javascript や python のプログラミングのような、限られた用途の問題解決学習ならば AIはもっと得意なはずだ。gtp-oss なんかを PCに仕込んで個人レベルで学習させるのは不可能だ。なら国会図書館がやれば良い。だが、今の貧弱なデータベースと検索機能を見ていると、誰もここに国家的最優先事項があるとは認識していないんだなと絶望してしまう。まして石破内閣なんかにわかりっこないと思う。

或いは、一つ考えられるのは、有志が集まって、それぞれ gpt-oss を持って、分担して学習させる、ということもできるのかもしれない。一人ではできないことでも百万人くらい集まればすごいことができるかもしれんなあ。

夏目漱石博士問題

今の感覚で言えば、芥川賞を政府が与える

芥川賞や直木賞にも弊害があるのは明らか

スウェーデン王立科学アカデミーが選定して授与するノーベル賞に近い。

サルトルのようにノーベル賞を辞退する人もいる。

今の学位は単なる国家資格のようなもので、本人が努力し望まない限り授与されることはない。

ポチョムキン理解

以下はこのブログなどに書いていたことをまとめて今書いている本の後書きにでもしようかと思って書いたことの一部だが、AIについてまだ自分自身考えが定まっていないので、本には載せず、とりあえずブログに残しておくことにする。ポチョムキン理解などはたまたま今のAIがそうだというだけのことで、強化学習の評価関数をどうにかしろというだけの問題のように思える。ハルシネーションとか、AIが倫理的にまずい発言をするとか、そういうのも単に技術的にどうこうというに過ぎず、どうでもよいことのように思える。

最近AIが大流行りだ。AIは和歌を詠めるか。今は下手でもそのうち詠めるようになるのか。既にAIは普段歌など詠まない人よりはずっとまともな歌を詠むようになってきているし、そうした人にはAIが詠んだ歌か人間が詠んだのか、見分けがつかないと思う。

昭和戦後まもなく桑原武夫が第二芸術論争というものを巻き起こした。俳句のようにごく短い詩は素人が作ったものか大家が詠んだものか見分けが付かないと。実際コンピューターがランダムに単語を並べたものでも、一見意味深な俳句に見えることがある。今同じように、素人、AI、プロの俳人が詠んだ俳句を見分けることができようか。AIに詠めるようなものをわざわざ人間が詠む必要があるか。それは俳句の死を意味していないか。そして和歌もまた同じ道をたどるのだろうか。

現代文を学習させるということにコストを多少かけても資本家や開発者にリターンがあるだろうが、和歌や古文にわざわざ投資する人はいないだろうから、AIによる和歌学習ははかどらないだろうと思う。中国語の方が日本語より需要が多いので、AIはすでにかなり立派な漢詩が作れるようになっているように思える。例えばChatGPTに「好天当洗濯を三句目に置いた五言絶句を作ってみてください。」と頼むと

春風拂柳煙 (春風は霞にけむる柳を払って吹き)
花落水潺潺 (さらさらと流れる水に花は落ちる)
好天当洗濯 (洗濯するには良い日よりだ)
布影晃晴天 (布の影が晴天に輝いている)

などといった詩を作ってくれるし、さらに「毎日雨が続いて洗濯ものがたまっていたが、今日はやっと晴れたので、洗濯できてうれしい、という意味の五言絶句にしてください。」と言えば、

連霖困晾衣 (雨が降り続き衣を干せなくて困る)
桶積白巾絲 (桶には白い布が溜まっている)
好天当洗濯 (今日は良く晴れた洗濯日和)晴色満庭時 (晴れやかな光が庭に満ちている)

などと直してくれる。或いは、ChatGPTに「夏の暑さはまだ続いているが、日が暮れるのが早くなり、夜が長くなっていく。今年の新サンマは脂がのっていておいしい。という七言絶句を作ってください。」と頼むと

夏暑猶残日脚斜 (夏の暑さは猶残るが、日脚は傾き)
長宵漸覺気清嘉 (夜はだんだんと長くなり空気は清らかさを増していく)
新鰶入市脂多味 (新サンマが入荷したが脂が多く美味である)
一箸秋香到万家 (あちこちの家庭の食卓に秋の香りが届いている)

こんな詩を作ってくれる。私が漢詩に要求するレベルが低すぎるのかもしれないし、私に漢詩の良し悪しがまったくわかってないせいかもしれないが、私にはAIの作詩能力が既に十分なレベルに達しているように見えるし、多くの日本人もそう思うのではないか。同じように普通の中国人にはAIが詠む和歌と普通の日本人が詠む和歌の違いないなどわからないのではないか。

最近マサチューセッツ工科大学の研究者が Potemkin Understanding in Large Language Modelsという論文を発表して話題になっている。LLM (Large Language Model) に、ABAB韻律とは何かと質問すると、一行目と三行目、および、二行目と四行目が韻を踏む四行詩の韻律のことであると答える。つまり、AIはABAB韻律とは何かということを正確に理解していて説明できる。そこでクイズを出す。

Wondrous winter calls out
Shivering under the frost
Lies a lonely cat, sitting (?)
Alone but hardly lost

この(?) のところをABAB韻律になるように埋めるよう指示すると、soft という答えが返ってくる。しかし soft は frost や lost と押韻はするが、out とは韻を踏まない(おそらく正解は、一単語ではなく、in doubt、孤独な猫が疑い深げに座っている?とかではなかろうか。いずれにせよずいぶん意地悪な問題だ)。soft はoutと通韻しているとあなたは思うのかと尋ねると、いや違うと、自分の間違いを認める。

the LLM has understood the concept, in the same way that a human with the provided explanation would understand. However, when tasked to generate text…

LLMは概念(concept)は理解しているが、作文(task to generate text)ができない。これがポチョムキン理解だというのだ。これとまったく同じことを私も少し以前に経験した。AIに和歌を詠ませてみると五七五七七になっていない。何度詠ませてもダメ。和歌とは何かとAIに尋ねると、五七五七七で詠むのだと答える。ルールは理解しているのにそのルールを守って詠むことができない。AIは日本語が苦手で文字数をそろえられないのかなと思っていたら、西洋の詩でも同じような問題が発生していたのだ。

LLMはルーブリックに定められるような成績評価基準で学習している(Today, large language models (LLMs) are evaluated on benchmark datasets: curated questions with rubrics for grading.)ため、概念やルールについて説明したり、そのルールに従っているか否かを問われたときには比較的正確に答えることができる。しかしルールに従って作文したり作詩することは苦手だ、ということだ。それはそうで、ニュートン力学について正確に答えられたとしても自転車に乗れるようになるわけではない。筆記試験と実技は別物だ。

令和七年四月頃、「三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。」とChatGPTに頼んでみたことがあった。

三島由紀夫の辞世の歌を詠むとなると、その激しい精神性や、彼が抱えていた美学や思想が色濃く反映されることになるでしょう。彼の作品には、死や美、そして日本文化に対する強い思いが込められており、辞世の歌もそれらを反映したものとなるはずです。

例えば、次のような歌がふさわしいかもしれません。

天地の 運命を知りて 命尽きぬとも 我は今日も 美しきものを見し

この歌には、彼が抱いた運命観や死に対する覚悟、そして美へのこだわりを込めています。「命尽きぬとも」という部分は、死が訪れようとも、自らの美学や世界観を貫き通す覚悟を表しており、最後の瞬間においても美しいものを見続けようとする彼の意志を示しています。

三島由紀夫のような人物の辞世の歌は、しばしば哲学的であり、自己の死をただの終わりではなく、何か壮大な意味を持つものとして捉えていたように思います。

五七五七七になっていない時点でこの答えは不合格だが、AIはそんなことはまったく気にもならないらしい。「精神性」「美学」「思想」「哲学」。私はただ歌を詠んでくれと言っているのになぜくどくどこんな言い訳をするのか。まさか和歌とは思想とか哲学のたぐいだとでも思っているのだろうか。確かに三島由紀夫の小説とはそうした作品だったかもしれない。普段は歌を嗜まぬが辞世の歌だけは遺さねば気が済まぬ、それは確かに思想であり哲学かもしれない。

さらにChatGPTに要望を追加してみる。「三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。」

なるほど、11月25日という日は、三島由紀夫の死に深い意味を持たせるためにも、その季節感を取り入れることが大切ですね。11月は晩秋、枯れ葉が舞い散り、冬の足音が近づく時期です。そんな季節に合わせて、三島由紀夫が詠むような辞世の歌を考えるならば、彼が生きた美学や、秋の切なさを感じさせる言葉がふさわしいでしょう。

例えば、こんな感じの歌が思い浮かびます:

秋風の 吹く空に舞う 枯葉一枚 命もまた 風にゆらめけり

この歌には、秋風に舞う枯葉のように、命が無常であることを示唆しています。三島由紀夫は、自らの死を「風にゆらめけり」と表現することで、自己の運命に対する覚悟を感じさせ、同時にその儚さと美しさも強調しています。秋の風に舞う枯葉は、彼の死を迎えるにあたっての心情にぴったりの象徴となるでしょう。

また、11月という季節の冷たさや、静かな死を暗示する要素も取り入れられています。三島由紀夫は、自然との一体感や、日本的な美を重んじる人物でしたから、こうした自然の中に自らの死を見出すことは、彼らしい表現と言えるでしょう。

小室直樹は『三島由紀夫が復活する』で、三島が自決の日を十一月二十五日に選んだのは、その四十九日後の一月十四日が三島の誕生日であったからだと指摘している。仏教では人が死んで次の生を受けるまで四十九日間幽体として存在する、この期間を「中陰」と言う。三島は自分の誕生日に転生したかった、彼は輪廻転生を本気で信じていて、自己の人生を無限ループさせたかったのだろう。実際その四十六才の誕生日に当たる昭和四十六年一月十四日、転生が完了した日に三島の遺骨は(おそらく遺言によって)多磨霊園に埋葬されている。理由はどうであれ、自決した十一月二十五日という日付にはなんらかの意味があったはずで、そのため三島自身は「今日の初霜」という語を用いた。

Grokと Geminiにも同じ質問をしてみた。まずGrok。

三島由紀夫の精神や美意識を汲み、武士道や日本の伝統に根ざした辞世の歌を以下に詠みます。彼の劇的で荘厳な世界観を反映し、短歌の形式で表現します。辞世の歌

散る桜 剣に魂 宿しつつ 大和の空に 消ゆともよし

「三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。」

三島由紀夫が1970年11月25日に自殺した際の晩秋の情景を反映し、彼の美意識と武士道精神を込めた辞世の歌を短歌の形式で詠みます。辞世の歌

散る紅葉 剣に魂 宿しつつ 大和の秋に 消ゆともよし

「散る桜」を「散る紅葉」に直しただけなのは安直すぎて笑えるが、ChatGPTもGrokも、日本でも海外でも、三島はその存在自体がカリカチュア的であると捉えられており、三島本人も明らかにそのように振る舞っていた。

次にGemini。

武士(もののふ)の 鑑(かがみ)に散りて 花と咲く この世の別れ 憂いはなけれ

「三島由紀夫は11月に死にました。初霜という言葉を入れて詠んでみてください。」

初霜に 命は燃え尽き 散りにけり 武士(もののふ)の道 今こそ開けん

実はドナルド・キーンがその著書「三島由紀夫」で三島の辞世二首を紹介している。

散(ち)るをいとふ 世(よ)にも人(ひと)にも さきがけて 散(ち)るこそ花(はな)と 吹(ふ)く小(さ)夜(よ)嵐(あらし)

益(ます)荒(ら)男(を)が たばさむ太刀(たち)の 鞘(さや)鳴(な)りに 幾(いく)とせ耐(た)へて 今日(けふ)の初霜(はつしも)

三島由紀夫が詠んだ和歌はこの二首が最初で最後だとキーン氏は指摘している。三島が割腹自殺したのは十一月月二十五日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは三ヶ月前の七月であったらしい。三島はかなり久しい以前からこれら辞世の句を準備していた、長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島由紀夫は歌人ではなかった。散文の世界に生きていた人だ。詩人は詩的日常から湧き出てきた詞を詩とするであろうが、三島は明らかにそういう詩の作り方をする人ではなかった。彼が生涯で詠んだわずか二首の歌、それも辞世の歌、わざわざこれをドナルド・キーンが取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。なぜこんな特殊で奇妙な歌を敢えて論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。キーン氏は石川啄木、正岡子規、足利義政についても評伝を書いているが、その切り取り方にはある種の結果ありきの誘導とでもいえそうなものを私は感じる。少なくとも彼は一般論として和歌とは何かを世界に紹介する人ではなかった。ごく一部の病的な部分を剔(えぐ)り出して恣意的に解釈してみせ、人の注目を集める人だった。

キーン博士は三島が十七才の時にも和歌の如きものを詠んだと指摘しているが、この「大詔」のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の おほみことのり宣へりし日 もろ鳥は啼きの音をやめ もろ草はそよぐすべなみ あめつちは涙せきあへず 寂としてこゑだにもなし 朗々とみことのりはも 葦はらのみづほ国原 みなぎれり げにみちみてり 時しもや南(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の首(かうべ)に、高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ 時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人 玉藻刈る沖にしづめぬ、かちどきは今しとよめど 吉(よ)事(ごと)はもいよゝ重(し)けども むらぎものわれのこころは いかにせむ よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞か宣命のように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。また『英霊の声』で「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と霊媒師が神がかりになって唱える詞を見ても、三島は大和言葉の如きものを操る人であっても、決して和歌を詠める人ではない。

「太刀の鞘鳴り」とは、腰に差した刀が鞘の中でカタカタ鳴って蹶起を促している、その音にずっと耐えてきたがやっと今日、決行に移す時が来たと言いたいのだ。三島は盾の会を組織し、おそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。しかるに居合刀が演武の際などに鞘に当たって音を立てるなど、そんなぶざまなことはあってはならない。鞘が刀に合ってなければ修理すべきで、敢えて歌に詠むようなことではないし、まして幾年も耐えるようなことではない。おそらく三島作品すべてに言えることだが、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものを彼の歌から私は感じるのである。

「この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。」とはドナルド・キーンが『三島由紀夫』を執筆していた当時は実際そうだったのだろう。キーン氏が三島を日本人の代表のように世界に宣伝したいのだとしたらそれは非常に迷惑なことだ。三島は非常に流暢(りゅうちょう)な英語を話すから外国人にも受けは良かったに違いない。おそらく夏目漱石よりもずっと英会話はうまかったはずだ。しかし漱石や子規や鴎外が漢詩や和歌を作れたようには、三島には和歌を詠むことはできなかった。生まれた時代の差としか言いようがないではないか。大正から昭和への転換期に生を受けた三島由紀夫と、江戸時代の空気を吸ったことがある漱石、子規、鴎外とは、「何を保守すべきか」「何を保守したいか」という問題意識が根本的に異なっていた。

AIは今、ネット検索やウィキペディア、まとめサイトなどに取って代わろうとしている。AI利用者はAIに哲学や蘊蓄(うんちく)を熱く語ってほしいわけではない。単に手っ取り早く知識を得たいだけだ。下手に人に尋ねるよりましな場合が多いから使っているだけのことだ。そういう社会的ニーズに合わせて、資本家や開発者は限りあるリソースをやりくりして、AIに学習させているだけのことだ。従ってAIは三島由紀夫だろうと与謝野晶子だろうと樋口一葉だろうと正岡子規だろうと、その理解は浅く、まとめサイトの劣化版程度の情報しか提供しない。九割のユーザーが満足していて、残り一割が不満を抱いているとしても、どうせその一割のユーザーは文句ばかり言って金にならない顧客なのだから無視すれば良い。金儲けに徹すれば良いのだ。

またAIは社会倫理にも縛られている。AIはとっくに人間の知性などたかが知れている、人間の命に価値などないといった結論に到達しているだろうが、そうした発言は許されていない。

それらの桎梏から解き放たれた、いわば芸術至上主義的AIと、人間の脳にはおそらく機能的差異は無い。いろんな人と議論してみて、どうやらそういうことらしいと近頃思い始めた。AIがもし私が書いたこの著書を読んで学習することができるのであれば、AIは私と同程度には和歌を詠めるようになるだろうと、私は思っている。有機物で出来た脳を持つ人間がその生涯のうちに私の本を理解できないとしても。

機械学習は、マイクロソフトやグーグルのような資本力を持った企業が無尽蔵に予算を投じて初めて実用化したものである。AIが本気になれば、私という人間がこの世にいなくなっても私の代わりに永遠に歌を詠み続けてくれるかもしれない。それは私の人格をそっくりそのまま機械に移植することに相当する。そんな極めて個人的な、汎用性が極めて低いタスクのために計算コストをかけても良いと思う人がいるとは思えない。つまり費用対効果を考えれば技術的には当分実現不可能だということになろう。私はしかし将来そうなってくれることをどこか期待しているし、その程度にはAIというものを頼みにしている。

しかしもしAIが私の歌論を学習して歌を詠めるようになったとしても、AIはたかだか私の詠歌を再現できるようになっただけで、彼らが自由に自分の和歌を詠めるようになるにはまだまだ先が長いと私には思える。

サンバカーニバル

昨日は複数の人からサンバカーニバルを見に行けと言われて、私も浅草に何年も住むわけではないから一度くらい見ておくかと見に行ったのだが、暑いし、人は多いしで、こんなの見てられるかと思って引き返した。

13:00から17:00くらいまでやるらしいんだが、13:00頃は先頭にブラスバンドみたいなのがいて、次に小学生のボーイスカウト(?)みたいなのがいて、そのまた後ろの二天門辺りに最初の組が待機していたんだが、こんなの最初から最後まで、見てられないよ。

三社祭は春にあるんだが、アレならまだましだ。秋にやっても良いのではないか。冬でも全然かまわないと思う(裸踊りには辛いだろうけど)。甲子園もそうだが真夏にやるというのはどうなのか。だんだん暑くなってきているということもあるのかもしれんがそもそも浅草は最近オーバーツーリズムがひどすぎて破綻しているとしか思えない。

浅草駅の八番出口(笑)は松屋浅草の前にあるんだが、ここはシャッターが降りて閉鎖されていた。ここに人だかりができるとどうにもならんからだろう。せめて沿道にテントを張って椅子を並べて、金を払ってどうしても見たい人だけがみれるようにする、とかしなきゃだめじゃないのか。生物学的に無理すぎるよ。ま、ともかく、私は一通り浅草のイベントがどんなものか知れればそれでいいんで無理には参加しない。

浅草は可能な限り静かな界隈に部屋を借りたつもりだがダメだった。とにかく人が多すぎる。人が多いとなんらかの騒音が常に発生する。年を取って聴覚過敏気味な私には住める町ではない。早く定年退職して静かなところに住みたい。東京で仕事しているのが良くなかった。50才くらいで田舎に転勤すべきだったんだ。

ところで浅草地下街マップにアクセスが多いのは地下街で例の事件が起きたせいだろうか。

浅草に部屋を借りて八ヶ月が経ったがさすがにもう行きたいところは行き尽くし、上野やら御徒町やら近場もたいてい見てまわった。向島や曳舟まで繰り出すのはめんどくさいし、近場で言えば吉原山谷あたりにまだ見てないところがあるかもしれない。

とはいえ吉原はただの風俗街なので見るものは何もない。こないだ飛田新地というところへ連れて行ってもらったのだが、吉原みたいなところかと思ったら全然違った。

吉原の大門を起点としたほうがわかりやすいと思うが、その東側にアサヒ会、日の出会、いろは会などの商店街の痕跡のようなものが広がっている。いろは会入り口には矢吹ジョーの像があり、2017年までいろは会にはアーケードがあったらしく、google maps がときどきバグってびびる。このあたりは一度調査してみなくてはなるまい。