切腹

腹を切って内臓露出しただけじゃ死ねないんだよ。 一日くらいは絶命しないこともある。
だから、江戸時代に様式化されると、苦しまないよう介錯が始末してくれる。

もともとは苦しんで恨みを残して、周りに迷惑をかけて汚く死ぬための死に方だったわけだし。

だから、今回の切腹は、割と正しいやり方だったと思うよ。 歴史的には自分の死をもって嫌がらせをするために切腹する場合もあり、 きれいに死ぬのが切腹とは限らない。

逆に、ブラックホークダウンみたいに、大動脈が切れれば30秒くらいで出血多量で死んでしまう。 手当が間に合わない。

山居

「釣月耕雲慕古風」に関しては961208000306などで考察して来たのだが,インターネットもずいぶん広くなったようで, 明確な出典が見つかった.道元の漢詩だった.思ったよりも古くて大物だったな.

山居(さんご)
西来祖道我伝東 西来の祖道我東に伝ふ
釣月耕雲慕古風 釣月耕雲古風を慕ふ
世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛べども到らず
深山雪夜草菴中 深山雪夜草菴のうち

道元というひと,それからこの漢詩の前後の文脈から,だいぶはっきりしたことがわかる.おそらく「釣月耕雲」というのは,後世の人間どもがこねくりまわした「禅問答」じみた意味ではなくて,俗世間を離れた山奥の静かで質素な勤労生活のことを言っているのだと思う.つまりこの四行の詩は全体に非常に具体的で単純明快なことを言っているのであって,「釣月耕雲」の部分だけになにか深淵な謎がかけられているとは考えにくい.「耕雲」というのはつまり雲が眼下に広がってるような高原の畑を耕している光景が思い浮かぶし,「釣月」というのは夜水面に映った月に釣り糸をたれているような感じがある.しかし,禅宗とか道元というのはかなり保守的な仏教のように思うので,魚を釣って食べたというのは少し考え難い.ここに疑問が残る.が,しかし,鎌倉仏教というものは,肉食はしなくとも川魚くらいは食べたかもしれん.江戸時代までの日本人はだいたいそういうもんだし.「紅塵」というのは繁華な市街の土ぼこり,つまり「俗塵」のこと.山の上には俗世間の塵が飛んでもとどかないということだね.

台湾の高雄にも「曲橋釣月」という名所があるそうだ.しかし台湾の中国の歴史というのはせいぜい清朝からこちらだし,日本の植民地だったこともあるので,日本の禅宗の影響を受けている可能性は非常に高い.であるから,「釣月耕雲」というのは,すでに中国語にあった慣用句というよりは,道元の「独創」であるというので間違いないのではないか.

で,私の爺さんがなぜ「釣月耕雲慕古風」を掛け軸にしていたかということだが,禅はずいぶん好きだったようだし,そのころ京都に本部がある日本剣道連盟と喧嘩別れしたということもあったようだから,世俗の評判や名声などは気にかけず,田舎でひたすら古武道を探求する,というような心境だったのではなかろうか,と推察される.

松尾芭蕉が初めて句集を編んだのが「釣月庵」というそうだ.

追記: 道元 永平広録 巻十 偈頌

切腹の起源

昔,切腹について調べたことがあったが,また少し調べた. 一番古い記録は「播磨国風土記」で,これはほとんど神話,というか, 何かの象徴的な伝承であって,船に乗っていて嵐に遭い, 女性が腹を切って死んだら海が静まったというもの. 武士の切腹とは何の関係もない. 次にはずっと下って鎌倉初期の説話物語の一つ「続古事談」 1219 年に出たもので, 藤原保輔(やすすけ)という者が982 年に追放処分にあって, 袴垂(はかまだれ)と呼ばれる盗賊或いは 反体制活動(?)のようなものの首領をやっていたのだが, 何故かその後出家し, 仲間のところを尋ねたら検非違使に密告され,985 年に追いつめられて, 腹を切って内臓をつかみだし, 辺りに投げつけた上,翌日死んだ,というもの.

保輔は「宇治拾遺物語」(第125話)にも出てくるので, こちらの方が有名らしい. 宇治拾遺物語の成立は続古事談と前後するくらいで同じ鎌倉初期. 宇治拾遺では保輔は商人をだまくらかして殺して埋めたり, その他盗賊などもやったが,死ぬまで捕まらなかったという. 吉川英治も「袴だれ保輔」という短編を書いているという. 私はこの保輔という人物が本当に実在したのか半信半疑だったが, どうやら本当に居たことは居たような気がしてきた. 保輔の兄に保昌(やすまさ)という人がいることになっている. というか,この保昌という人は保輔よりはるかに有名人であり, どこかで聞き覚えのある名前だと思ったらあの和泉式部の夫だったのだ. 但馬,大和,摂津など,いくつかの国の司をつとめたかなり偉い人, というか,道長の四天王の一人である. もし保輔が保昌の弟であれば,保昌自身がまず相当な権力者だし, また道長の庇護も当然あっただろうから, 検非違使に捕まって自害するなどいうところまで行くだろうか. 保輔が反体制だったというより,兄の権勢を笠に着て暴れていた, という方がわかりやすいのだが.

で,問題は本当に保輔が切腹第1号と認定できるかどうかだ. 985 年のできごとが 1219 年に記されたのであるから, これは同時代の資料とは言い難い. 130 年以上の隔たりがある. かなりあやしい. 当時,保輔は説話として語られるほど有名な, しかし伝説的な大盗賊だったわけだ. であるから,鎌倉時代のもっと小者の盗賊の捕物話がこの伝説的盗賊に投影され, 説話化されたとも考えられる. 今昔物語などを読んでもわかるように, 説話物語というものは噂話や民間伝承のたぐいなのだ.

義経記などの軍記物というか,おとぎ話によれば, 義経も切腹したとされ,また同様に為朝も切腹したことになっているのだが, どうもこれらもうさんくさい. おそらく源平合戦の頃にはまだ切腹というものはなかったのではないかと思うのだが.

切腹が武士の習いとして賛美されるようになったのは, それよりさらに 100 年下り, 村上義光以来だと思うのだ. 彼は,北条高時の元弘の乱で,主君の護良親王を落ち延びさせるために, 親王の姿形をして,吉野宮の二の木戸の高櫓に登り, 「後醍醐天皇第三の皇子,一品兵部卿親王護良,逆臣のために亡ぼされ,うらみを泉下に報ぜんため, ただ今自害する有様を見よ」 と言って腹を切った. そこへ賊兵が集まる隙に,親王はつつがなく逃れた,というもので, これが 1333 年,北条氏滅亡直前,鎌倉幕府の末期のことだ.

上がおそらく史実だと思うのだが, 「太平記」によればこの記述は若干違っていて, 義光は「吉野山蔵王堂山門」の上で, 「汝ら武運たちまち尽きて自害する時の手本にせよ」と叫んで切腹したことになっている.

W. S. モーム著,西川正身訳「世界の十大小説」岩波文庫,を読んだ. その中で紹介される小説の一つが「嵐が丘」なのだが, これは半分だけ読んだことがある. えーと,つまりキャサリンが死ぬところまで. これはまさにおそるべき奇書である. 嵐が丘の著者のエミリーのその姉のシャーロットが書いた, なんか女家庭教師の話などは比べるべくもないのだ. それはそうと,モームの紹介の中に出てくる話なのだが, エミリーの兄のブランウェルという人が,病気になって死ぬのだけど, そのとき

彼は死の近いことを知ると,立ったままで死ぬんだと言い, 寝床から起き出すと言って聞かなかったそうである. 彼が死の床にあったのはわずか一日にすぎなかった. いよいよ死期が近づいた時, シャーロットはすっかり取り乱してしまったので部屋の外へ連れ出さねばならなかったが, 父親とアンとエミリーの三人は,ブランウェルが立ちあがり, 二十分ほど苦しんだあげく,望み通り,立ったままで死んで行くのを見守っていた

のだそうだ. 実に大した強情っぱりだ.

H. G. ウェルズの「タイムマシン」も読んだ. 当時イギリスというところは階級社会で,社会主義思想が流行ってて, それを未来に投影した,という感じだ.

藤原保昌は源頼光の叔父,致忠の子,元方の孫. 元方は菅根の子. 菅根は菅原道真に呪い殺されたのだそうだ. 調べててだんだん嫌になってきた. 保昌は,頼光とともに道長の腹心で,頼光が武人であったことから, 後世特に同じように武人であると考えられているようだが, 果たしてそうだろうか. 今昔物語巻19第7にも出てくるようだ.

保昌は,宇治拾遺物語第 28 話にも出てくることがわかった. その他いろいろ調査中.

切腹の起源 2

いろいろ調べ始めたがさっぱりわからん.とりあえず岩波新書「武家の歴史」を借りた.わかったことといえば,平安時代の武家の源氏とか平氏とか藤原氏とか言うのは,かなりいい加減だということだ.あと岩波文庫の日本外史も借りる.頼山陽は,最初に切腹した人が誰か知っていただろうか.そういえば,靖国神社で「日本外史を読む」とか言う講座をやってたような気がする.

ちょっと検索してたら徳川慶喜所有の日本外史の版木で作った火鉢と言うのが出て来た.うーむ.たとえば ここ には「尊皇攘夷運動のバイブル「日本外史」」とか書いてあって,まさにそうなのだが,倒幕された側の慶喜がその版木で火鉢を作って使っていたとは.どういう心境だったんだろうなあ.慶喜が駿府に移って住んだ寺にあったものだというから,ほんとに使ってたんだろうな.昭和 15 年に失火したときに,住職が庭に放り投げて守ったとか書いてある.

ところで上の二つの頁はどちらも ntt.co.jp なのだが,NTT って郷土の歴史に力いれてるのかなあ.

切腹の起源

切腹は日本固有の風習だと言われている. 日本人以外に切腹という自殺方法を発明した民族はいないのである. 十八史略などを読むと, 武人はたいてい喉に刃物を当てて, 前に倒れて自分の重みで自決している. これは西武劇で拳銃で自殺するのと意味的には大した違いはない. 作法として形は決まっているが,極めて合理的な死に方である.

で,誰が切腹を発明したか. 誰が最初に切腹して死んだのだろうか. という疑問が沸いて来た. おそらく戦国時代に何かのきっかけで急に普及したんじゃないかと想像したが, goo で調べても大したことはわからない. 図書館に行って調べてみると, なんと平安時代からあり, 源平合戦のころには既に一般化した, とものの本に書いてある. 1000 年の長きに渡って日本人は切腹して来たのである. 明治政府によって非合法化されたが….

平安時代から,ということは, 日本に源氏,平氏という武家が登場したと同時に切腹も生まれたということだろう. じゃあ最初に切腹した人は? 源氏か平氏か. その原初的形態はどのようなものであったのか. どのような経緯で普及したのか. いつから介錯人が付くようになったのか. まだ何もわからない. もしかすると,もっともっと大昔からあったのだが, 武家が正式の自殺方法として採用しただけなのかもしれん. もともとは宗教的な意味があったかもしれんなあ. 江戸時代の作法については詳しく書いたものがあるようだが, 起源がわからん.

ところで最後に切腹した人は三島由紀夫(の介錯人?)だろうか.