迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。

筋違

筋違はスジカイと読むらしい。中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、わからんことだらけだ。

川越素描にも同じ地図を掲載したが、小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。しかし、あまり見かけない地図である。

* [goo江戸切り絵図](http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html)
* [goo明治東京地図](http://map.goo.ne.jp/map.php?st=8)
* [”超検索”大江戸八百八町](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)
* [貴重資料画像データベース](http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html)
* [1590年頃の江戸](http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/edo1590.html)
* [東京の川と橋](http://hix05.com/rivers/river03/river032.html)
* [江戸城本丸図](http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)

などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、上野へ向かう道である。浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。また、西の丸の辺りもややこしい。今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。今東京では新橋は固有名詞のようになっている。日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。
江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、通常の考え方で言えば落ちない。少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。案外黒船とも戦えたのではないかと思う。しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。たぶん台場を築き始めて、考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。土木技術の発達のたまものだ。また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。紫禁城には城壁はあっても濠がない。たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。


通貨吹き替え

新井白石 をパブーに公開する。某新人賞選考漏れ確定のため。今更読み返すと確かに娯楽的要素が足りない気もする。いろいろ書き換えたくなるのでいじる。もともとは「将軍家の仲人」というタイトルだが、ネットに公開するにあたって検索にひっかかりやすいようにタイトルを「新井白石」とし、「将軍家の仲人」をサブタイトルにする。いつもやっていること。

新井白石といえば生類憐れみの令を廃止したとか、朝鮮通信使の扱いを変えたとか、通貨改革をやったとか、子供の頃ガリ勉だったとか、そういう話が多いかと思うのだが、そういうのはさくっと省略した。みんなが書いているようなことを書くのはつまらん。

大石慎三郎「徳川吉宗と江戸の改革」を読む。新井白石の通貨吹替えによって世の中に流通する通貨が半減してしまい、デフレになったのだという。よくわからん。インフレであれば通貨供給量を減らす。デフレであれば通貨供給量を増やす。金本位制であれば、通貨供給量を増やすには金の含有量を減らせばよく、通貨供給量を減らしたければ金の含有量を増やせばよろしい。わかるようなわからんような理由だ。

江戸初期には商業経済が発達していなかった。しかし金は新しい金山がたくさん見つかって非常に増えた。日本では金がとても豊富で安くなった。逆に言えば米の値段などは非常に高くなってしまう。つまり物価上昇、インフレだ。幕末だと、米の値段は非常に安い。逆に言えば金の値段がとても高くなった。日本の経済が発達して、流通しなければならない金貨がたくさん必要な上に、日本の金が海外の相場より安いからどんどん海外に流出する。金が減ってしまう。つまり通貨が減る。凶作で無い限り農業技術の革新やら治水工事やらで米は増産。米が多くて金が少ないから、米の値段は下がる。そうするとデフレになる。

思うに、江戸時代の日本のように、金が非常に豊富で安価な社会において、金貨の品質を維持しようとするのは、特に間違ってないと思う。日本ですら金が足りないということならば、もっと金が少ない国ではどうするのか。金は少なくてよくて、問題は通貨の供給ということだろう。通貨をどんどん流通させる必要があるなら、たとえば銀貨を主要通貨にするとか(ギリシャとか中国とかだけでなく大阪でもそうだったようだ)、銅貨とか紙幣とかを流通させるとか。或いは為替のような信用取引を発達させるとか。いろいろやり方はあるんじゃないの。金貨の品質を上げて金貨の流通量を少なくしたのがただちに良くないことだとは思えない。

デフレもインフレもどちらもよろしくない。どうも、江戸時代には、そういう経済をコントロールする方法があまりにも未熟だった、としか言いようがないのではなかろうか。根本的な問題は、商品経済が発達しているのにそれをコントロールする方法論が未発達だったことであり、金貨や銀貨の質の問題なのではないのではなかろうか。まあ、経済の話はよくわからん。

赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日なのだが、西暦だと1703年1月30日。年をまたいでしまっている。元禄15年 (1702) とすべきか、元禄15年 (1703) とすべきか、非常に迷う。私は 1702 の方がまだましだと思うが。

魯迅

魯迅を読んでいる。 割と面白い。 電車の中にいて周りにたくさん人間がいるのが不思議な感じになる。 人間がいるのが当たり前なのだが、小説によって完全に異世界に連れて行かれてしまうのだろう。

阿Q正伝、故郷、孔子己などは読んだ記憶がある。 たぶん、教科書に載っていたのではなかろうか。 少し調べてみるとわかるがこれらは、魯迅の一番初期の作品(38才頃。ただし、32才のときに『懐旧』という小説を発表しているようだ)で、 社会的な影響力も大きかったようだが、 必ずしも、すごく面白くはない。 やはり初期の作品で狂人日記も今回読んでみたが、さほどでもない。 たぶんまだ書き慣れてなかったのではないか。 こういうのを高校の教科書に載せても生徒はおもしろがらないと思うよ。 他にもっといいのがあるのに、と思う。

四十代半ば頃、1925年とか1926年頃に書いたものがすごく面白いと感じた。 孤独者、眉間尺、祝福、藤野先生など。 藤野先生は、やはり読んだ記憶がある。これも教科書か。 必ず文末に日付が記してあるから、何歳の頃書いたかわかって便利だ。 結構短い期間に集中して書いている。

眉間尺(または「鋳剣」)は中国の昔の伝奇小説干将・莫耶を題材にしたものであり、 中島敦の「山月記」のようなものか。まあふつうこんなへんてこりんなストーリー、現代人は思いつかんわな。 途中になんか変な歌が出てくる(原文)。

哈哈愛兮愛乎愛乎!
愛青劍兮一個仇人自屠。
夥頤連翩兮多少一夫。
一夫愛青劍兮嗚呼不孤。
頭換頭兮兩個仇人自屠。
一夫則無兮愛乎嗚呼!
愛乎嗚呼兮嗚呼阿呼,
阿呼嗚呼兮嗚呼嗚呼!

「奔月」は嫦娥奔月のことで、 たまたまこないだ調べた[碧海青天夜夜心](/?p=10880)の元ネタ。 こちらは大して面白くもない。解説を読んでもピンとこないし。 ただ書きたかったから書いた、のだろうか。

体重が一時期よりも15kgも減ってこれからも減る傾向にある。 ビールが苦くてまずく感じるようになった。 日本酒はとてもうまく感じるのだが、 日本酒を飲んでしまうと、体重が少なくなったせいか、 一気に良いが回って自制心を失ってしまうようだ。 ビールかウーロン割りみたいなものをちびちび飲んでいればそんなことにはならないが、 今度は酔えなくて発散できない。 体の脂肪というものが、血中アルコール濃度というものの変動を抑えていてくれてたのだと思う。 痩せるというのも実にめんどうだ。

窩窩頭。 何かほかの小説で読んだことがあるのだが思い出せない。

高家の真相

『上野介の忠臣蔵』を読み進めてみたのだが、 吉良義央が畳の縁の模様が有職故実と違うから取り替えろと命じたとか、 そんな細かな家元みたいな指導を浅野長矩にしたのだろうか、 それが遺恨なのか、 非常に疑問だ。

古来天皇家と武家の間には遠い身分の隔たりがあった。 武家というものがないときには天皇と庶民の仲介をするのは公家などの貴族の仕事。 北条氏が頼朝を必要としたのは頼朝が貴種であって、 天皇と武家の間の仲介役として貴重な存在であったからだ。

足利氏もまた天皇家と武家の間を仲介する貴種として地方の下級武士らに重宝だったのである。だから御輿に担がれ幕府の将軍となったのである。

それは、時代が下って徳川の世になっても同じであって、足利宗家は絶えてしまったが、 分家がいくらも残っていた。一色、今川、吉良などがそうである。 徳川氏は天皇家と武家の間を直接仲介するほど身分は高くない。 官位官職はもらえたかもしれんが出自が怪しすぎる。 というか官位官職をもらうために仲介役が必要で、 そのために足利氏の正統な血を引いている吉良氏などが必要になったのである。 つまり天皇家と徳川氏の間の仲介をするために足利将軍家の血統を保っている吉良氏などのいわゆる高家が必要になったのである。 徳川氏が足利氏を実力で排除してとって代わった、という発想になりがちだがそれはまったく当たってない。徳川氏はもし足利宗家が残っていたら、やはり彼を幕臣として重く用いたのに違いない。信長が義昭を利用したように。

高家は堂上公家的に単に有職故実に詳しいからというので徳川氏の旗本になったのではない。重要なのはその知識ではない。知識などは身分の低いものでも学べばいくらでも身につけることができる。吉良氏が重要なのはその血筋によるものであり、 誰も吉良氏の代わりにはなれないのだ。

だから、義央が長矩にいちいち畳の縁の模様まで口出ししたなどというのはなんか違和感がある。義央は高家、長矩は五万石の大名である。畳のことでいちいち諍いしたりするだろうか。 遺恨があるにしても全然違うことだったように思う。遺恨と言っているが義央はいちいち身に覚えがないと言っている。もしかして恥辱を受けたのは長矩本人ではなく長矩の父であったかもしれん。そっちの方がずっと筋が通りそうな気がする。 遺恨というのは普通は親の仇とか積年の恨みというものであろう。 たまたま勅使応接の仕事を任されて、その上司が吉良で、上司に腹を立ててカッとなったというのが遺恨であろうか。あまりに戦後日本的な解釈ではないか。

いずれにせよ、足利将軍家の血を引くものがいきなり江戸城本丸中奥辺りの廊下で、無抵抗の幕臣に切りつけ、重傷を負わせたのだから、いくら大名とはいえ、長矩が切腹になるのは仕方の無いことだと思う。また、忠臣蔵はあまりにも有名な事件だから、もうこれ以上、遺恨とはなんであったかなど調べても何も出てこないのだろうなと思う。

ただ、義央が何かごちゃごちゃと古今伝授のようなことにこだわっていたというのは、まあ間違いなく誤解なんじゃないかなと思う。

マイエンフェルト駅は無かった?

ハイディのドイツ語原文を検索しても、Bahnhof Maienfeld というものは出てこない。
Bahnhof という単語は一箇所だけ出てくる。ドイツ語の Wikipedia を調べていると、どうもマイエンフェルト駅とかラガーツ温泉駅などというものは当時はなかったらしく、最寄り駅としては Bahnhof Landquart というものがあるのみ。この Landquart というのはマイエンフェルトからライン川をさかのぼって支流がドムレシュクとプレッティガウに分かれる分岐点にある。ていうかマイエンフェルトというよりはプレッティガウという方が近いと思う。思うのだが、Maienfeld と Landquart の間に Malans とか Jenins という小さな集落がある。これらがデルフリのモデルなのだろう。そして、山小屋からデルフリを抜けてLandquart駅に向かったとすれば、Malans が一番デルフリの場所としてはふさわしいように思われる。

Landquart駅が出来たのは1858年だが、このときグラウビュンデン州の州都Churからサンクトガーレン州までライン川沿いに鉄道が延びただけであり、途中 Sargans からチューリッヒまで鉄道が延び、これによってフランクフルトとマイエンフェルトの間が鉄道で結ばれたのは 1875年のことらしい。

ラガーツ温泉ができたのは 1870年のことである。フランクフルトからお金持ちがラガーツ温泉まで保養にきたというのは鉄道できたのに違いなく、それは1875年から後となる。となるとハイディがアルムおじさんに預けられたのは1876年以降となり、このときハイディが8才であるから、ハイディの生まれた年はやはり1868年くらい、ということになる。

まあともかくクララのおばあさんは開通したばかりの鉄道でラガーツまで遊びに来ていたというわけだ。観光客はたぶん、Landquart駅ではなくて Sargans駅からラガーツに馬車か何かで移動したのだろうと思う。


追記: Bahnhof Maienfeld ができたのは 1858年である。ハイジの発行は1880年と1881年。

吉良氏と上杉氏

清水義範は名古屋の出身なので吉良氏にはかなりシンパシーを感じているようだが、その「上野介の忠臣蔵」を読んでみると、彼でさえ、吉良氏がなぜ武家の中で家格が異様に高いのか、ということをうまく説明できていないように思われるのである。

吉良氏が清和源氏であり、八幡太郎義家の子孫であり、足利氏から分かれたから家格が高い、というところまではわかっているようだ。でもそれだけじゃほとんどすべての日本人ははあそれがどうしたで終わってしまうだろう。

吉良氏は足利幕府時代には足利御一家ということで対等扱いだった。武力も広い領地ももってないが、とにかく足利氏と同じ扱いを受けた。足利将軍家は断絶したが、吉良家は残った。

それに比べると上杉氏は尊氏の家臣というにすぎない。関東管領どまりだ。毛利や島津は頼朝の家臣というに過ぎない。つまりは源氏の家臣であり、吉良氏はまっとうな源氏だから全然格上ということになる。

しかも徳川氏は源氏を自称しているが、それが大嘘であることは公然の秘密である。本家本元の源氏は吉良氏なのである。実力ならともかく家格であれば頭が上がるはずがない。その上、徳川氏は足利氏の子孫、つまりこの場合は吉良氏から、室町時代の幕府制度をあまさず継承したくて仕方なかった。教えを請う立場である。だからますます低姿勢にならざるを得ない。この、江戸幕府が室町幕府の徹底的な真似(武威という意味ではない。特に天皇家からもらう官位官職やら公家との意思疎通やら)で出来ていることを認識しておらねば、なぜ徳川氏が吉良氏を厚く遇するかわかりようがない。ただ、赤穂浪士の頃にはもうほとんど徳川幕府は足利幕府の引き継ぎを終えていただろうから、そろそろ高家などというものは要らなくなりつつあっただろう。

清水義範は

家の格では吉良家は上杉家にいささかもひけをとるものではないのだ。

などと言っているが、これは間違っている。家格ということで言えば吉良氏は上杉氏よりも圧倒的に上だ。吉良氏が上杉氏を乗っ取ろうとか、そんなことをするはずもない。したければ室町時代だろうと戦国時代だろうととっくにやっているはずだ。吉良氏はずっと昔に公家化してしまったので、そんな武家みたいな発想はないのである。

吉良家はいわゆる正式の武門ではない。将軍家が京の朝廷とつきあう時の折衝役であり、そういう場面でも正式の作法の指導役であった。だから武家というよりはむしろ公家に近い感覚なのである。

嘘ではないが非常にわかりにくい説明だ。頼朝は本来公家であり、足利氏も公家である。清和源氏という王族であるから公家である。しかも武家の棟梁だから武家でもある。徳川将軍家と朝廷の折衝役というのはつまり高家に足利幕府の伝統が伝わっているからであり、それは足利氏の子孫だからなのだ。清水義範ですらきちんと認識してないのだから普通の日本人がわかるはずがない。

足利嫡流に比較的近いのは一色、渋川、斯波、石堂、今川。少し遠くて細川、仁木。

(足利)将軍家に次ぐ家柄といわれ、権勢並ぶもののがないほどだった。

それはどうだろうか。たぶん吉良、今川、一色はいずれも高家だ。足利氏だからだ。
さほどの優劣はなかっただろう。実力や権力ならば細川氏や今川氏の方がずっと上だっただろう。つまり、吉良氏というのはすでに室町時代から異様に家格は高いが権力を持たない、武家の中の公家のような存在だった、というあたりが当たっているのではないか。

なぜそうなったはわからないが、おそらくは、足利氏の分家の中で比較的所帯の小さなところが本卦還りして公家に戻った、ということではなかろうか。

西遊記とインド映画

のんびり西遊記など読んでいたのだが、なぜかインドのめちゃくちゃなストーリーのCG映画を思い出した。思うにこれらは根っこは同じなのかもしれない。西遊記はどう考えてもこれは道教、というよりヒンドゥー教かなんかの影響が濃い。こんな無茶なストーリーは中国土着のモノではなかろう。中国の大地から自然に沸いてくるような物語というのはやはり三国志演義とか水滸伝みたいなものではなかろうか。西遊記はかなり毛色が違う。天竺にお経をとりにいく、というのとか閻魔大王とか、こういうのはインドの影響で中国に生まれた文学ではなかろうか。そしてインドでは、手が何千本何万本に分かれて戦い合うみたいな。毛を吹くとその化身が何千体何万体もできるみたいな。千手観音的なおとぎ話がいくらでもあるのではなかろうか。それを3DCGで忠実に再現すると今のインド映画みたいになるのではなかろうか。