赤染衛門

赤染衛門集を一通り読んだ。実に不思議な歌を詠む人だ。普通、歌とは、花鳥風月や春夏秋冬、恋や別れなどの、浮き世離れしたことを詠むものである。ある意味やんごとなき、高尚なものであるという認識がある。西行も「花鳥風月に感じて三十一文字をなす」というような言い方をしている。紀貫之が屏風歌職人であったように、古今集の時代から歌は「文芸」であると考えられていた。当たり前のようだが、当たり前ではない。万葉時代には歌は芸能、芸事というよりは、娯楽とか、余興に近かったはずだ。今で言えば歌謡曲に近い。江戸時代の都々逸には近いだろう。狂歌と言ってしまうとまた違う。ある意味漫才や落語にも近かったと思う。

彼女の時代、歌と話し言葉にはほとんど違いが無い。

赤染衛門が「発掘」されたのは後拾遺集であるが、彼女の時代はそれより少し前の、藤原道長や紫式部の時代である。この時代までは、こういう素朴で野卑な歌を詠む人はざらにいたのだろう。しかし身分が低すぎて、自分で歌集を遺したりしない。そういう歌をわざわざ蒐集する人もいない。だけど、赤染衛門は大江匡衡の妻だったから歌を記録してもらえた。さらに後拾遺集の選者は変わり者だったから、和泉式部や相模などの、普通の勅撰集の選者ならば選ばないような歌を選んだ。或いは白河天皇がそういう趣味の人だったかもしれない。祇園女御と出会う前からそういう人だったのかもしれない。いくつかの偶然が重なって赤染衛門の歌は奇跡的に後世に残った。

やまとごころにも書いたが、後拾遺集

乳母せんとて、まうで来たりける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける
大江匡衡
はかなくも 思ひけるかな ちもなくて 博士の家の 乳母せむとは
かへし
赤染衛門
さもあらばあれ 大和心し かしこくば ほそぢにつけて あらすばかりぞ

有名な話である。匡衡は学者である。博士である。一方赤染衛門はおそらく浪速の肝っ玉おばちゃんみたいな、地頭(じあたま、ね)はすごいが、教養はもともとない人だっただろう。だから上のようなやりとりが生まれた。漫才のようなものだ。現代人がそのニュアンスを感じとることは絶望的に不可能だろう。つまり、当時の雅語は現代人でもある程度理解できる。しかし当時の自然な話しぶり語り口で赤染衛門のような歌を詠むのは、現代人にとっては自然どころではない。超絶技巧である。後世、歌語が口語から遊離してしまうと、歌語は人々にもはや教養としてしか理解できなくなってしまう。教養であるから技巧によって、理屈によって歌を詠むことになる。理屈抜きで自然に歌を詠むなんてことはできない。それは技巧ではない。超技巧である。理屈が理屈でなくなるまで技巧をこらし技巧を極めて初めて到達できる、天衣無縫の境地。

「やまとごころ」という言葉が大鏡や源氏物語に出てくるように、そして赤染衛門以外の人がほとんど歌に使ってないように、「やまとごころ」は雅語ではない。たぶん庶民が使う話し言葉だった。学問をして身に付ける漢才とか、花鳥風月をもてあそぶ雅びな教養とは違う。それこそ「浪速の肝っ玉」それが「やまとごころ」だったはずだ。

江戸後期になると小沢蘆庵が「ただごと歌」というのを始める。良寛もそれに近い歌を詠む。小沢蘆庵に影響を受けた香川景樹も、地下らしい素朴だが力強い歌を詠む。庶民が歌を詠み始めた証拠であろう。庶民の歌が復活するまでに、赤染衛門から七百年もかかったのだ。

赤染衛門が珍しいのではない。現代人にはそう見えるだけなのだ。彼女の時代には彼女のような庶民の歌の方が圧倒的に多かった。しかし後世に遺されたのは一部の貴族が詠んだ歌だったのだ。

踏めば惜し 踏まではゆかむ 方もなし 心づくしの 山桜かな

千載集に載った、ぎょっとするほど美しい歌だが、勅撰集には何千という赤染衛門の歌の中でもこういう特に歌らしい歌しか採られていない。つまり、浪速のおばちゃんがごくまれにがらにもなく上品な言葉をぽろっと言ったりする。それをわざわざ拾い上げて勅撰集に入れた。俊成はもちろんわかった上でそうした。しかし俊成より後の人はもうわからない。在野の、庶民的な歌人はまもなく絶滅してしまうからだ(俊成や西行は赤染衛門にかなり近いタイプの歌人だったと思う。感覚的直感的に歌を詠む人、ただし洗練された教養を身に付けているが)。赤染衛門というのは、とても雅びな女流歌人のように思ってしまう。たぶんそれは赤染衛門の実態ではない。

やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

後拾遺集に採られ、百人一首にも採られたこの有名な歌。風流きわまりない。しかしそれは赤染衛門の実像ではない。なんという大誤解!真淵は「やまとごころ」という言葉を国学的に読みかえた。近世や現代の人はこれほど古代や中世のことがわからんのだ。

恋の歌をみると良くわかるとおもうのだが、彼女の場合剽軽な詠み口に味があるので、よくよくみると深みがない。ひねりがない、とも言える。

この世より 後の世までと 契りつる 契りは先の 世にもしてけり

この歌など、ただの頓知だ。ぞんざいに言い放っている。歌という感じがあまりしない。と、考えると他の、百人一首の歌なども同じような調子に思えてしまうのだ。和泉式部の

あかざりし 君を忘れむ ものなれや ありなれ川の 石は尽くとも

あるいは実朝の

かもめゐる 荒磯の州崎 潮満ちて 隠ろひゆけば まさる我が恋

のような気の利いた比喩や暗喩表現は、赤染衛門には見られない。情景描写も見事だが、ただ見たままをうまく歌ったとも言える。和泉式部もあんまりもって回った表現はしないが、赤染衛門に比べれば多少の技巧はある。

都にて あひ見ざりしを つらしとは とほき別れの 後ぞ知りける
忘れじと かたみに言ひし 言の葉を たがそら言に なして良からむ
つらしとも 思はぬ人や 忘るらむ 忘れぬ我は なほつらきかな
忘れなば 我も忘るる わざもがな 我が心さへ つらくもあるかな
起きて伏し 伏しては起きぞ 明かしつる あはれやすぐや 人は寝つらむ
飛鳥川 淵こそ瀬には なると聞け こひさへふなに なりにけるかな

飛鳥川は淵が瀬になるほど流れが激しくて変わりやすいが、ならば鯉(恋)も鮒になるだろうと。 単なるだじゃれである。

我が歎く 心のうちを 記しても 見すべき人の なきぞかなしき

とりよろふ

「とりよろふ」は万葉集に「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山」という形でしかでてこない。岩波古語辞典はあっさり「不詳。気持ちや生活のよりどころとする意か」とある。「とりより」から派生したのは明らかであり、こちらは用例が多い。原義は「手づるをつかんで近くに添うこと」、らしい。「うつり」に反復・継続の接尾語「ひ」がついて「うつろひ」となるように、「とりより」に「ひ」がついて「とりよろひ」。

そうしてみると、大和にはいろんな山があるが、それらの山々がとりよろふ天の香具山、つまり、大和の山々の中でも、中心的な位置、存在、代表であるところの天の香具山、となるだろうか。天の香具山自体は、高くもなく、平凡な山であるが、その名の通りに何か特別な意味を持つ山である、ということだろう。

忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな

はて、これは誰の歌であったか。あれ? わからんぞ。あ、わかった。やはり自分で詠んだのだ。

とりよろふ 天の香具山 よろづよに 見るとも飽かめや 天の香具山

宣長の歌だが、単なる枕詞のように使ってあるな。

日の本や こまもろこしと とりよろふ よろづの酒を 飲みてしやまむ

これは私の歌なのだが。こんな使い方していいのだろうか。

うーん。不適切な気がしてきた。

秋成

秋成の擬古文は、宣長のような堅苦しさもなく、なめらかですばらしい。

みかどに立てば、世をまつりごち、庵のどかに住みなしては、あまねく病に験ある薬を舐めわきて、惻隠とかの心をいたせしとや。

「まつりごち」は「まつりごと」を活用させた語だが、源氏物語に出る。「あまねく病にしるしある薬」とは酒のことであるらしい。なんかしびれるな、こういうのを美文というのだろう。やはり秋成はちゃんと読まねばならぬ。馬琴とか春水とか京伝とかは差し置いてまず読まねばならぬ。秋成は文法とか仮名遣いなどがやや乱調なのだが、そこもまた彼の味か。秋成と宣長の長所を合わせれば完璧な擬古文ができあがるだろう。源氏物語の文体を現代にそのまま復活させることはできない。秋成や宣長の文体は近世なので、なんとか現代風にアレンジすれば、今でも使い物になるんじゃないか。そのうちこのブログでも実践してみるか(笑)

それはそうと、しばらく酒を飲まずにいると低血圧になるようだ。血圧計で測ってみてもそうだし、朝寝起きが悪くなるし、立ちくらみもする。おそらくついでにコレステロール値も下がるのではないか。毎日何キロも歩いてみたり、断食まがいのことをしてみても、あまり効果がなく、結局酒をやめれば体調が良くなるということか。

血圧高い方が寝覚めも良いし活発に動けるが早死にする。低血圧なくらいな方が長生きする。

まあこれまで人の何倍も酒を飲んできたから、そろそろ週に一度たしなむ程度にするのもよかろうか。このへんで酒池肉林とか言ってるのを見るとうらやましくもあるが。

真白嶺と芝山

最近また和歌を詠もうと思いリハビリしてる。

しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の真しらね

と

しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の芝山

のどちらがよいか悩んでいる。「真しらね」は「真白嶺」だが、どうも不思議と用例が少ない。秋成の歌に

箱根路の 雪踏み分けて 真しらねの ふじの高嶺を 空にみるかな

というのがあるが「富士の真白嶺」とやった人はまだいないらしい。かたや、「富士の芝山」というのは万葉集に出て、便利とみえて、その後もいろんな人が使っている。加藤千蔭

あづま路に まづくる春の 日の影を 雪に待ちとる 富士の芝山
うらうらと 富士の芝山 霞む日に 田子の浦舟 ゆたに漕ぐみゆ

明治天皇の歌にも

あづまにと いそぐ船路の 波の上に うれしく見ゆる ふじの芝山

とあり、昭憲皇太后の歌にもあったはず。どっちがいいかね。

中島敦の日記と書簡

中島敦の旧宅は今の世田谷区世田谷の世田谷中央病院の辺りだが、 私はこの界隈に二度ほど住んだことがある。 最寄り駅は世田谷線世田谷駅。 松陰神社や代官屋敷も近い。 ボロ市も何度も見たし、豪徳寺を散歩したりもした。 彼の昭和十七年七月十三日の書簡に

これからは役人をやめて、原稿を書いて生活していくことになるでしょう。今も盛んに書いています。 但し、僕の書く物は、女の子の雑誌には向かないから、君たちの目にはなかなか触れないでしょう。 時々清書してくれる人が欲しくなりますよ。

八月六日には

南洋庁へは辞表を出しました。作品を書きたいからではなく、身体が(また南洋へ行くのでは)もたないからです。

十月二十八日には

小生、まだ南洋庁からお暇が出ません。 今度またあちらへやらせられれば身体のもたないことは判りきっていますので、これだけはどうあっても頑張ってやめさせて貰おうと思っております。

などとも書いている。 ざっと読んだだけだが、小説を書こうなどと言い出したのは、南洋から帰ったあとであり、 南洋から帰るということは役人を辞めて小説を書こうと考えたからだろうと思われる。 彼は役人という仕事が嫌いだった。 病気のためもあるかもしれないが、中島敦は役人を辞めて物書きになろうとしているのであり、 「山月記」の李徴の境遇に近いのではないか。

「山月記」の主題とは何かということを改めて考えさせられたのだが (「山月記」はなぜ国民教材となったのか、および人虎伝)、 「大して裕福でもなく、病気で死にかけているのに、役人を辞めて物書きになろうとしている、妻子持ちの自分」というものをどうしても書きたかった、 というより、 どうしてもそちらのほうへ話が引きずられてしまった、というあたりが真実ではなかろうか。 彼はおそらくパラオで役人をやっていたら世田谷で死なずに済んだはずだ。 パラオから帰ろうと思ったのは著作活動には東京の方が何かと便利だと思ったからだろう。 しかし、病状が進んで南洋に帰ることもできず、東京では養生もできずに死んでしまった。 「山月記」に主題があるかどうか知らんが、もし主題というのならそのあたりではなかろうか。

人生の無常とか世の中の不条理とかが現代小説の主題ですとか言う必要はないと思うんだ。 いやていうかね。 高校国語で「現代小説の特徴」とかいう雑駁なことを教えようとするからいけないと思うんだ。 (コモンセンスとしての)「現代小説の特徴」などというものは存在しないのだから。

ちなみに私も昔役人だったが辞めた。 辞めた年齢も、ちょうど中島敦と同じくらいだった。 独身だから気楽に辞められたが、妻子がいたら思いとどまったかもしれない。 中島敦は役人(仕事)が嫌いだった。 私と同じ理由かどうかはわからんが、 辞めたときの私の気分は「巨鐘を撞く者」の中で大塩平八郎に代弁させてある。 今度当該箇所を読んだらにやりとしてほしい。

世田谷にいた頃に書いた日記を探してみたがろくなのがない。

百人一首への招待2

「百人一首への招待」の後の方を読んでいると、定家と為家の合作説というものも提示されていて、まあそうかもしれんしそうでないかもしれん。

定家が天智天皇の凡庸な歌を好きなのは、確かに、天智天皇が藤原氏に非常に関係が深いからかもしれないし、その歌が、ある意味不自然なまでに牧歌的で、おおらかなのも、政治的意図(理想の君主像とか)がそこにあるのかもしれない。いずれにせよ、定家が藤原氏でなければ天智天皇を最初にもってくることはなかった。「秋の田の」が天智天皇自身が詠んだ歌でないことは明白であって、従って聖武天皇とか文武天皇とか桓武天皇が詠んだことにしたってよかったわけである。定家は「秋の田の」が天智天皇の真作だということにしたかった。そう信じ込みたかった。

陽成院が定家に評価されてないってことも指摘してある。

相棒

今水谷豊主演の「相棒」という刑事ドラマがばんばん流れているので自然と目に入るのだが、割と見れる作品だ。税金でまかなわれている警察という組織、そして警察官という公務員が、法律の範囲内で、事件にどこまで踏み込めるか、そもそも「刑事事件」とは何かということを、きちんとわきまえた上で作られているからだ。単なる娯楽番組ではない、教養番組になっている。

かつて踊る大捜査線に感じたような不愉快さがない、ということだ。むろん、わかっているつもりだ、制作側は。悪いのはそれを流行らせた一般視聴者だ。

その昔の西部警察なんてのは日本の警察官がショットガンやスナイパーライフルぶっぱなしたりして、あれだとまああきらかに虚構だとわかるからまだ害はないのかもしれない。

まともかく世の中は少しずつまともな方向へと進化しているんだと思う。

酒のほそ道

風邪引いてだるいので気を紛らすため、例によって駄文を書くことにする。私はこの、『酒のほそ道』の主人公の岩間宗達のキャラ設定が不思議で仕方なかった。居酒屋や寿司屋を食べ歩き、飲み歩くばかりではなく、一人で家で晩酌したり、山登りして景色を眺めながら飲んだりする。年は29歳、独身。恋人未満の女友達がいる。

自分もそうだったが、普通に仕事していて独身の男で飲み歩きが好きならば、自宅で一人で晩酌するなどもったいない、一軒でも多くの店を開拓したいと思うのではなかろうか。 またたった一人で旅行して酒を飲んだりするというのが解せない。

でまあ今回この第三巻を読んでみて思ったのだが、作者のラズウェル細木という人は、すでに嫁がいて子供がいる人なのである。妻子持ちならば、一人で酒を飲みたくなることは十分ある。つまみは缶詰でたった一人の晩酌でもいいから飲みたいというのは人間関係から逃れたいから。とにかく家庭や仕事、妻子から逃げ出して一人きりになりたいのだ。その自分を独身男性に投影するからキャラがなんか不思議なことになっているんじゃないか。

ラズウェル細木自身はメタボでもなくハンサムな男だそうで (追記。つか、youtubeに露出してるじゃんか。ハンサムかどうかはともかく、痩せてるな)、だからこそ彼は、メタボで独身でどちらかと言えば三枚目で、独り飲みが好きな架空の男を作り出したのだろう、という結論に達した。彼はアシスタントの女性と結婚して離婚している。育児マンガも描いている。離婚した妻は今もアシスタントとして働いているという。独りで飲み歩きたい気持ちが伝わってくるよなあ。

というかもともと自分とはまったく別のキャラを描こうとしたのだが、キャラというのは自然と自分に似てきてしまうので、連載しているうちにあんなふうになってしまったのかもしれん。

元妻のブログというものもある。

デブ・読書

popular posts 見てるとかなり変なところを読まれている。

デブ。

食べじとて 耐へ忍べども 朝ごとに 計りて増ゆる 我が重さかな

いつごろ詠んだのだろう。和歌というのはすぐ詠めと言われても詠めないですよ。
毎日詠んでないと詠めなくなる。読書。これは宣長の歌ね。

書読めば 昔の人は なかりけり みな今もある 我が友にして

ドゥカス王朝の皇帝交替問題

[ドゥカス王朝の皇帝交替問題 という論文を見つけたのだが、なかなか興味ぶかい。ま、エウドキアはフィクションなんで脚色してて別にかまわないわけだが、この論文を読んでもらえば、だいたい史実に沿ってる、ってことはわかってもらえるだろう(めんどくさいから誰も読まないと思うが)。

ローマノスとヨハネスの間のマラズギルト敗戦後の関係が少し違うといえば違う。確かにWikipedia英語版読むとそう書いてある。だが結局これらの話はすべてはミカエル・プセロスという人の伝記がソースであり、おそらく相当正確ではあろうが、ただ彼がそう書いているというだけであり、彼は単にエウドキアに比較的近かった学者というだけで、政治の駆け引きというものが実際にはどうだったかなんてことは結局はわからない、と思う。 だからこそ状況証拠という名の補助線が必要になってくるわけだが。

ミカエル・プセロスの原典を当たってみないとわからんことではあるが(それはたぶん私には無理)、上掲論文ではイスタンブルのことをコンスタンティノープルではなくコンスタンティノーポリでもなく、ちゃんとコンスタンティノポリスと呼んでいる。

おんなじようなところに疑問を持ってるわな。なぜイサキオスはコンスタンティノスを後継者に指名したか。なぜ帝位は再びコムネノス家のアレクシオスに戻ったか。なぜエウドキアはローマノスと再婚したのか。伝記だけではわからんのよね。論文は仮定以上のことは書けない。小説だから大胆に創作して書ける。

ヨハネスとは実際どんな人物であったか、兄コンスタンティノスとの関係はどうだったか、ってとこが難しい。状況証拠的にはそうとう仲が悪かった。仲の悪い理由は不明なのでそこは推測して創作するしかなかった。