スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

なるほどと思ったので貼っておく。

スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

スター・ウォーズの続三部作(シークエル・トリロジー、エピソード7・8・9)は、ファンの間でも特に熱い議論を巻き起こした作品群です。だからこそ、これらの作品を高く評価している人々が、具体的にどういった点に魅力を感じているのかを知ることは、作品の多面的な価値を理解する上で非常に興味深い視点です。

肯定派の意見を、特にお尋ねのあった『エピソード8/最後のジェダイ』にスポットを当てながら、要素ごとに分解してみていきましょう。

1. 『エピソード8/最後のジェダイ』が絶賛される理由

シークエルの中でも、最も評価が真っ二つに割れたのがライアン・ジョンソン監督による『エピソード8』です。しかし、この作品を「シリーズ最高傑作の一つ」と推す声も少なくありません。彼らが熱狂したポイントは主に以下の3点です。

  • 「何者でもない者」への視点とジェダイの民主化
    • 旧作が「スカイウォーカー家という特別な血筋の物語」だったのに対し、本作では主人公レイの親が「ただの一般人(名もなき人々)」だったと明かされます。また、ラストシーンの「箒を持つ少年」に象徴されるように、「血統に関係なく、誰もがフォースの希望になり得る」というメッセージは、スター・ウォーズの排他性を壊し、真の意味で世界を広げたと高く評価されています。
  • 神格化されたルーク・スカイウォーカーの「人間らしい苦悩」
    • かつての英雄ルークが、失敗に打ちのめされ、引きこもっている姿にショックを受けたファンもいましたが、肯定派はこれを「非常に人間的で深いドラマ」と捉えました。完璧な聖人ではなく、過ちを犯し、それを乗り越えて最後に「伝説(レジェンド)」としてレジスタンスを救う姿(クレイトでの幻影の対決)は、彼の物語の最高の締めくくりだったという意見です。
  • 圧倒的な映像美と様式美
    • 赤い塩の惑星クレイトでのバトル、ホルド提督による光速特攻の静寂(ハイパースペース・トラッキング)、スノークの玉座の間でのレイとカイロ・レンの共闘など、視覚的な美しさと構図の完璧さはシリーズ随一と言われています。

2. シークエル・トリロジー(7・8・9)全体の肯定的な意見

三部作全体を通してみた場合、以下のようなポイントが評価されています。

① 「ライトとダークの境界」の深化(レイとカイロ・レンのダイナミズム)

血筋に縛られず光を求めるレイと、偉大な血筋(スカイウォーカー家)に縛られて闇に落ちようとするカイロ・レン。この2人の対照的なキャラクター造形と、フォースを通じて精神的に繋がる描写(ダイアド)は、従来の「絶対的な善 vs 絶対的な悪」という構図よりも心理描写がモダンで、現代の映画として非常に引き込まれるという声が多いです。アダム・ドライバーとデイジー・リドリーの演技力も絶賛されています。

② 新旧の世代交代というテーマ

エピソード7では「過去へのノスタルジー」から始まり、8で「過去の呪縛からの脱却(過去を葬れ)」を突きつけ、9で「過去を受け入れて未来へ進む」という、三部作を通したメタ的なテーマ設定が評価されています。単なる懐古趣味に終わらせず、新しい世代が自分たちの力で立ち上がる物語としての意義を見出す意見です。

③ 映画としての純粋なクオリティの高さ

J.J.エイブラムスが監督した7と9は、テンポの良い古典的なスペースオペラの興奮を現代の最新VFXと実物セット(アニマトロニクス)の融合で再現しました。ジョン・ウィリアムズによる音楽も健在で、「映画館で体験するエンターテインメント」としての純粋な楽しさは圧倒的であるという評価です。

肯定派の視点のまとめ シークエルを支持する人々は、この三部作を「過去の焼き直し」としてではなく、「スター・ウォーズという巨大な神話を、21世紀の新しい世代のためにどうアップデートし、着地させるか」という大胆な挑戦として捉え、その作家性やテーマの深さを愛しています。

ハリー・ポッターでも血筋は重要ですよね。そこを否定するとハリー・ポッターの世界観が崩れてファンは怒るのではないですか。

非常に鋭いご指摘です。まさにその「血筋や伝統の扱い方」へのスタンスの違いこそが、スター・ウォーズのシークエル(特にエピソード8)でファンが激しく対立した決定的なポイントでした。

ハリー・ポッターとスター・ウォーズを比較してみると、両者が持つ「世界観の構造」と「ファンが求めたもの」の違いがよく見えてきます。

1. 『ハリー・ポッター』における血筋の構造

ご指摘の通り、ハリー・ポッターにおいて「血筋(血統)」は物語の根幹をなす絶対に外せない要素です。

  • 血筋が「設定」と「テーマ」の双方に直結している
    • ハリーがヴォルデモートの攻撃を生き延びたのは「母親の血の保護」のおかげですし、ヴォルデモートとの因縁も「スリザリンの血筋」や予言が絡んでいます。
    • 同時に、作中では「純血主義(マグル生まれを差別する悪)」vs「能力や選択の自由(ハーマイオニーのような優秀なマグル生まれの肯定)」という形で、血筋の特権性を否定するテーマが描かれます。
  • もしハリー・ポッターでこれを全否定したら?
    • もし続編で「実はハリーの母親の愛なんて関係なくて、ただの偶然だった」「ヴォルデモートの血筋も嘘だった」となったら、ファンが怒るのも当然です。なぜなら、それは原作者が築き上げた魔法界のルールや、物語の前提そのものを破壊してしまうからです。

2. なぜスター・ウォーズのエピソード8でファンは怒ったのか?

翻ってスター・ウォーズを考えてみると、エピソード8でファンが激怒した理由は、まさにハリー・ポッターで懸念されるような「これまでの前提(ルール)がひっくり返された」と感じたからです。

スター・ウォーズの世界(特に旧三部作や前日譚)は、良くも悪くも「スカイウォーカー家」という、フォースの意志によって生み出された特別な血筋を中心に回っていました。

  • ファンの期待: 「エピソード7であれだけ引っ張ったんだから、レイもオビ=ワンの孫か、ルークの娘か、何かしら特別な血筋に違いない」
  • エピソード8の回答: 「彼女の親は、酒代のために娘を売った、何者でもない一般人(クズ)だった」

伝統的なファンからすれば、これは「神話の否定」であり、「これまでの伏線や歴史への裏切り」だと映りました。だからこそ、今でも許せないというファンが多く存在するのです。

3. では、なぜ肯定派はそれを「素晴らしい」と評価したのか?

ここが一番面白いポイントです。肯定派がエピソード8を支持したのは、ハリー・ポッターのように「血筋の設定を壊したから」ではなく、むしろ「スター・ウォーズの初期の精神(原点)に立ち返ったから」という理由からでした。

実は、初期のスター・ウォーズにおいて、フォースは「特定の血筋だけのもの」ではありませんでした。

  • ヨーダの教え: フォースはあらゆる生き物の間に流れるエネルギーであり、血統書付きのエリートだけのものではない。
  • オビ=ワンや他のジェダイたち: そもそもジェダイは結婚を禁止されていたため、過去の何千、何万というジェダイのほとんどは「普通の家庭から生まれた、名もなき子どもたち」だった。

肯定派の視点では、アナキンとルークという「スカイウォーカー家の物語」があまりにも強大になりすぎた結果、いつの間にかスター・ウォーズの世界が「偉大な王家の血統劇(貴族主義)」のようになってしまっていた、と捉えられています。

そのため、エピソード8が提示した「レイは何者でもない」という展開は、世界観の破壊ではなく、むしろ「フォースを一部の特権階級から、世界中のすべての人々(ファン自身を含む)の手へと取り戻した(民主化した)」という、非常に熱く、神話として正しいアップデートだったと受け止められたのです。

結論として 『ハリー・ポッター』における血筋の否定は、その魔法界の理(ことわり)自体を壊す行為になり得ます。 一方で『スター・ウォーズ』における血筋の否定は、「スカイウォーカー家という一族の物語」としては裏切りに見えますが、「フォースという宇宙の普遍的な力の物語」としては原点回帰に見える。このどちらの側面を重視するかで、評価が180度変わってしまったと言えます。

不良老人の文学論

筒井康隆『不良老人の文学論』というのを読んだのだが、書き下ろしでもなんでもなくて雑誌に書いた短いエッセイを束ねたようなもの。筒井康隆にとって文学とは近代小説のことなのだなと思った。普通の人にとってもそうなのだろう。文学という言葉にもつ私の違和感というか嫌悪感はそこにある。Literature を文学と訳すことも嫌いだが、文学というからには、私にとって記紀万葉から今日にいたる日本文芸や日本芸能全部のことだ。さらには論語や韓非子などの漢籍も含まれてくる。重心の位置がまったく違う。だからといってどうしようもないのだけれど。

あと、『群像』の定期購読者でもないのに群像の新人賞に応募しても無駄なんだなと思った。群像に載っているような小説が好きならすでに群像を読んでいるはずだし、そういう小説が好きではないというか読みたくないというか、さんざん読み尽くして読み飽きて、そういうのでは飽き足らなくなったから自分で小説を書こうと思うわけで、そうすると読者層がまったく違うわけだから、そういうタイプの小説をそういう文芸誌に投稿しても無駄だということになる。

では私が読みたい文芸誌があるかっていうとないのだからこれはもうしょうがない。あればこの情報過多な時代、とっくに見つけて読んでいるはずだ。読んでないってことはそんな雑誌はないのだろう。私が読みたい小説はこの世には存在しないし、私が書いた小説を読みたい読者もこの世には存在しない。それが現実なのだ。

三島由紀夫が復活する

そういえば小室直樹の『三島由紀夫が復活する』が新書で再版されていたので買ってみた。私が大学生の時に買ったときはなんか見た目が自費出版みたいなどんくさい本だった。内容も難しいというかわかりにくいというか。編集者のチェックが入っていない、小室直樹が一人で勝手に書いた文章のようだというか。今読んでみるとけっこう読み応えがある。カッパ・ブックスの書き散らした中身がスカスカなやつよりは良い。むしろ読みやすさすら感じる。小室らしくなく、自分の言いたいことは控えめにしてわざわざ取材までして、インタビューまで載せているのだから非常に真面目に書いている。大学生の頃の私にはこの執筆態度の違いがわからなかった。

やはり三島由紀夫は人気があってある程度売れるとみたのだろう。表紙の写真もかっこいい。

三島由紀夫の本を書くやつは三島由紀夫人気にあやかって売れる本が書きたいのだろう。あるいはほんとに三島由紀夫が好きな人か。いずれにせよ、三島由紀夫と伊東静雄、三島由紀夫と藤原定家について書いた人がほとんどまったくいないのにはあきれかえる。三島由紀夫が好きな人は藤原定家も伊東静雄も知らぬのだ。この二人がどれほど三島由紀夫と関係が深かったかもしらんということだ。それでよくもまあ三島由紀夫を語れるものだと思う。

追記。最初の本も新書版だった。最初に買った本はどこかになくしてしまったので古本で書い直したのだった。

新しいことはやらない

定年退職まであと五年なのでもう新しいことを探索して、未来の自分のために仕込むのはやめようと思っている。もう未来の自分のためのことなんて気にする必要はない。去年仕込んだネタをできるだけそのまま使い回して新しいことはしない。

去年までは少しヒマがあれば浅草に泊まりに行き、上野をぶらつき、博物館を見て回ったりしたのだが今はそれもしない。何もすることがなければ何もしない。今までは何かしなければならないという強迫観念があったように思う。まずそれを消す。それが最優先。

年金を頼りに、あとは株やったりブログ書いたりして死ぬまでの時間を適当に潰す。ほかに何かすることがあろうか。実は何もない。何も無いのに何かをしようとするのがよくない。今までそれを認めることを拒絶してただけで、それを素直に認めることにする。

外で飯を食ってももうほとんど何の感動もない。うまいものを食ったとして、確かにうまいが、別に大してうまくないものを食ったのとどう違うというのか。

戦後昭和史観

荻生徂徠について調べているんだけどいろいろヤバイ。

徂徠については昔からいろんな人がいろんなことを書いているのだが、戦後は吉川幸次郎という人が戦後昭和史観(笑)でちょっと新しいことを言ってそこで止まっていて、まったくアップデートされていない。石川淳もなぜか徂徠好きらしくていろいろ徂徠のことを書いているのだが、結局何が言いたいのかよくわからん。小林秀雄も石川淳と似たりよったり。

たいていの伝記は徂徠が生まれてからどうやって綱吉に謁見したかまでの経緯を書いて、それに『弁道』と『弁名』の解説みたいなもんをつけて終わり。ウィキペディアもそれに毛が生えた程度で、徂徠豆腐の話と赤穂義士の話がついているだけ。

これで徂徠がわかったら奇跡だと思う。

徂徠の詩についても、東洋文庫から徂徠全詩という画期的な本が令和になって出てこれが決定版かと思っていたが、よくよく読んでみるとこれは徂徠の詩業のやっと入り口までたどり着いたに過ぎない。徂徠の詩と漱石の詩の関連についてもまだほとんど研究は進展していないと思う。

たとえば吉川幸次郎が徂徠学案というもので徂徠について論じているのだけど、『徂徠集』というものから引用していて、『徂徠集』を国会図書館で調べるとだいたいが抜粋だ。完全なものは明治初期に出版された木版本(笑)みたいなものしかないらしい。『徂徠集』というのはだいたいが書簡なのだけど、これをちゃんと現代語訳したり解説したものはない。『弁道』と『弁名』、『学則』、『太平策』、あとは『徂徠先生問答集』あたりまでしかちゃんとしたものはなく、それ以外は放置されている。『徂徠全集』というのを見れば載っているのかもしれないが。『弁道』『弁名』にしてもこれらが徂徠の代表作だと言われればそうなのかもしれないけど、これだけでは徂徠はただの儒者と大差ないという結論にしかなるまい。徂徠はただの儒者ではないところが偉大で面白いのにその差がわからんというのではどうしようもない。徂徠に儒者の典型を見たいだけの人には十分なのかもしれんが。

先行研究も無しに『徂徠集』をガチンコで読むのは不可能に近いし、吉川幸次郎の解釈などを見てもほんとに正しいのかどうかわからん(吉川以外の人の解釈が無いから比べようもない)。戦前までは儒者の生き残りの中国学者みたいなのがいくらでもいたんだろうが今はほぼ絶滅したよな。

じゃあお前は徂徠をどうしたいんだ、おまえが徂徠の本を書けよといわれても困る。私はたぶんそんなに徂徠が好きなわけじゃない。もすこしちゃんとした解説書や全集があってよさそうなものなのにそれがなくて、もう徂徠は全部終わったことになっているのがヤバイとしかいいようがない。

こんな状況で誰かが徂徠のことを調べて書いたとしてもそれはAIがスクレイピングしたのと同じで何も徂徠についてはわからんということになるだろう。とても気持ち悪い。

そう、私が気持ち悪いとか恐怖に思ってるのはたぶん、近代文学史観とか戦後昭和史観とでもいうしかないものが、永遠にアップデートされないまま、それが当然の事実として世の中に受け入れられて固定してしまうんじゃないかということだ。

「徂徠」という号は、おそらくだが、自称として使われることはまずなかったのではなかろうか。「徂徠先生」のように弟子や他人が呼ぶ名だったのではないか。少なくとも綱吉時代にはまだ使われていなかったのではないか。コトバンクにも「物徂徠と自称」などと書かれているけれども、どうもあやしい。自称は通常公式には「物茂卿」、私的には「荻生惣右衛門」などではなかったか。「徂徠」の初出を調べようと思っても皆目わからん。

たぶん太宰春台や安積澹泊などは敬意をこめて「物徂徠」と号で呼んでいただろう。「物茂卿」と字(あざな)で呼ぶことは失礼に当たったからではなかろうか(号を自称として用いる人がいないと言いたいわけではない。紀峰は私の号のつもりだ)。

「蘐園随筆」というものは徂徠の手紙の中で自分が昔書いたなどと書いているので本人が書いたに違いないが(蘐園というからには綱吉が死んで茅場町に私塾を開いた後に書いたものだろう)、「蘐園雑話」などはほんとうに本人が書いたのか疑わしい。こういった「蘐園なんとか」という本がかなりある。どこからどこまでがほんとうなのか全然わからない。『弁道』『弁名』なども実は徂徠が死んだ後に太宰春台などが校正して出版しているらしくて、もう何を信じてよいのかわからん。

それと比較すると宣長なんかは出版物に関しては生前に本人が出版しているし、死後発見された手稿なんかはそのままの形で全集に収録されているから、宣長本人が書いたものであることはほぼ疑いようがない。