国を救った数学少女

まあまあ面白い。 特に出だしのノンベコの話は面白いが、突然スウェーデン人の話に切り替わり、交互にストーリーが進展していく。まあそれも最初のうちは我慢して読んでいたが、だんだんに話が拡散して行く。鄧小平やブレジネフやカーターが出てくるあたりで飽きる。なんだ何でもアリのどたばたものかと。それが面白いと思える人には良いのかしれんが。私としては南アフリカ共和国の話で完結しててネルソン・マンデラが大統領になるあたりで終わってれば(そしてそういう歴史的経緯がきちんと描かれていれば)良かった。いろんなことつまみ食いなんかしたくなかった。

著者はスウェーデン人のようだがスウェーデンの話が特につまらない。中国人とかその他もろもろの話も一応最後で伏線回収されるのだが、いろんなことを書きすぎて、だんだんにネタバレしてきて、西洋人視点の支離滅裂なごたくが並べてあるだけに見えてくる。西洋人は帝国主義やら植民地支配やら人種差別を今は反省していると必死に言いつくろっているようで、逆にそれが嫌みに感じる。

まあともかく悪い本ではない。世の中の本がどれもこれくらい面白ければ退屈しのぎに困ることはないのにと思う。「火星の人」もそれなりに楽しめたし。こういうエンタメ系の小説で面白いのが、日本の作品にはまるでない。まるで思いつかない。

カーリルで検索してみても、所蔵館の多さにしても何にしても、比較的最近の本であるせいもあるのか、貸し出し中ばかりですべてにおいてすごい。

The Girl Who Saved the King of Sweden は普通に訳せば「スウェーデン王を救った少女」となるはずだが「国を救った数学少女」と訳したのはどうだろうか。どちらにしてもあまり話の内容を反映してないが、余計わからなくしているように思える。

ついでだが、「サハラ」という映画が少し面白かった。これまたタイトルからはまったく予想の付かない内容だった。雰囲気は「国を救った数学少女」に似ている。こういうのが流行っているのだろうか。いや、そんなはずはないが。

Aus dem Leben と Verirrt und Gefunden と Ein Blatt auf Vrony’s Grab

[Aus dem Leben (Projekt Gutenberg)](http://gutenberg.spiegel.de/buch/aus-dem-leben-670/1) (1900)
はテキストデータ化されているのだが、元の書籍の写真(PDF版)は見つからない。

[Verirrt und Gefunden](http://www.e-rara.ch/sikjmc/id/5316201)
は初版は1872年だが、このPDF版は1882年の第2版。

[Ein Blatt auf Vrony’s Grab](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5287470)
は初版は1871年だが、このPDF版は1883年の第4版である。

細かく差分を見て行くとこの三つの版は少しずつ、微妙に異なっている。
それでどれが一番古い形なのか、
まあ普通に考えれば 1882版なのだろうが、1883版のほうが古いような気がする箇所もある。
1900版では明らかに標準ドイツ語への書き換えが行われている。
Fluth を Flut と綴ったり、thut を tut としたり。
treulich Hülfe を treuliche Hilfe としたりしている。
また zum ersten Mal を zum erstenmal としたり、
大文字や小文字を変えたり、
コンマやコロン、セミコロンの打ち方を細かく変えたりしている。
ただしこの辺りのことはヨハンナ自身ではなく編集や校正がやった可能性が高い。

1882版と1900版では

> Wir waren nahe Freunde.

となっているところが、1883版では

> Wir waren nahe befreuendet.

となっている。
どちらも「私たちは仲良くなった。」と訳せば良いわけだが。
また 1882、1883版では

> Warte nur, balde, balde /
Schläfst auch Du!

となっているところが 1900版では

> Warte nur, balde /
Ruhest du auch!

になっている。
1900 のほうはゲーテの詩のままであるが、
昔のは少し改変してある。
それをヨハンナは気にして、
後から[ゲーテのオリジナル](https://de.wikipedia.org/wiki/Wandrers_Nachtlied#Ein_Gleiches)
に戻しているらしいのである。
しかし子供の頃のフローニが口ずさんだ歌としては 1883 のままのほうがそれっぽくみえる。
実は私がこのゲーテのオリジナルを見つけたのはまったくの偶然だった。
たまたまゲーテの詩集を読んでておやっと思ったわけだが、それくらいこの詩は有名だということになる。

* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1883](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1883.txt)
* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1900](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1900.txt)

引用符は » と «、または › と ‹ に揃えてある。
実は原作は引用符がきちんと閉じてないところがあって、それは 1900版でも直ってない。
訳すときに割と困った。
仕方ないのでそこだけは私が直した。

クララ

びびりなのでときどきドイツ語原文を読み直したりしているのだが、

> »Ja,« erwiderte sie, »sehr lange und tief krank war ich an Leib und Seele.«

> 「ええ、」彼女は答えた、「とても長く深く、私は体も心も病んでいた。」

この部分、本の中では

> 「ええ、とても長い間、とても重い、体と心の病気を患ってた。」

と訳している。
会話中に erwiederte sie とか sagte sie(彼女は言った)のような短い言葉が挿入されることが非常に多いのだが、
これはヨハンナの癖というよりは、
ドイツ文にはよくあることのように思える。
現代日本文としてはやや違和感あるし、文脈上書かなくてもわかるので、全部省くことにした。
しかし、

> »Klara,« sagte ich nun, »hast Du die Krankheit durchmachen müssen, an der wir Marie damals so elend sahen?«

の nun ような語が付加されている場合には、省かずに

> 「クララ、」私はまた言った、「あなたはもしかしてマリーが苦しんでた頃からもう心身を病んでいたの?」

などと訳した。
ところでこのクララという女性なのだが、
もちろん「ハイディ」に出てくるクララとは名前が同じだけなのだが、
どうもヨハンナの友人というよりはヨハンナ自身がモデルなのだろうと、
私にはますます思えてきた。

数年間、心も体も病んでいて、音信不通で、しかもある詩人に失恋していた。
何千もの「知性の泉」の水を汲んで飲んでみたが、何の役にも立たなかった。
友人に聖書を薦められても納得がいかなかった。

ヨハンナが結婚してチューリヒで暮らしはじめ、
子供が生まれるまでの間、ヨハンナ自身がそういう状態だったのだろうと思えるのだ。
親しい女友達の「私」とは、
コンラート・フェルディナント・マイヤーの妹、ベッツィー・マイヤーであったかもしれない。
ベッツィーのほうがむしろ、ヨハンナよりは信心深かったかもしれない。


追記: 会話が続いたときどっちの発言かわかりにくくなってしまう場合には、むしろ積極的に入れたほうが良いのではないかと思えてきた。

ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集

「ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集」をある種の義務感で読破してみようとしたのだが、余りにも退屈で挫折した。
この全集があっという間にその存在を忘れ去られてしまったのは、やはり単につまらないからなのだろう。
簡単な解説、あらすじくらいは付けて欲しかった。
この膨大な文書を読み通す人がはたしているだろうか。

例えば、Arthur und Squirell という話では、工場の経営者の子供に兄と妹がいて、兄は会社を継ぐのが嫌で失踪、社長は妹に婿をとって仕事を継がせようとしたが、妹にはすでに好きな男(牧師の息子)がいて、結局工場は売ってしまい、妹は牧師の息子と結婚した。
二人には男の子が出来たが(この子が主人公 Arthur)、Arthurが小さいうちに両親は他界してしまい、親戚に引き取られて、寄宿学校に入れられてしまうが、そこですったもんだあって、Arthurはある女の子(Squirell)と親しくなる(ボーイミーツガール!)。
そこへ失踪した兄(つまりAuthurの叔父)が大学教授となって戻ってきて(予定調和的な伏線の回収!)、甥Arthurとついでにその彼女Squirellを引き取って楽しく暮らす、という話なのだが、こんな話を延々と読まされたら気絶しそうだ。
あらすじだけで十分な気がする。
主人公が孤児で親戚に引き取られて知らない土地に連れて行かれる、という辺りがなんとなく「ハイディ」っぽい。

なぜ「ハイディ」だけがある程度読むにたえうる作品になり得たか(アニメの「ハイジ」はとりあえずよけといて)という考察は、もう少ししたほうが良いのではないか。
やはりストーリーというよりは、ハイディやアルムおじさんやデーテやロッテンマイヤーなどのキャラの濃さだと思うのだよね。
キャラの濃さという意味では「フローニ」もそれなりのもんだと思うよ。

そんで余りにも頭が疲れたのでヨハンナ・シュピリはやめにして佐佐木信綱を読み始めたのだが、これも恐ろしく退屈だ。この人は、少なくとも初期はちゃんと大和言葉だけで和歌を詠んでいた。江戸時代の和歌や、明治期の桂園派の和歌と大差ない。だが次第に漢語やそのほかの外来語が混じり始める。明らかに明星派やアララギ派の影響をうけているのである。佐佐木信綱の代表作である

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

あるいは正岡子規の代表作といわれている

くれないの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

これらは長く伸びた俳句、或いは漢詩の翻案とでもいうべきものだ。漢語を交えて叙景、もしくは叙事だけでできあがっている。確かに古く武士にもこのような直截な叙景の歌はあったかもしれないが、叙景や叙事が心象風景に転調するところが和歌の骨頂であって、
叙景に仮託した心象の微妙な表現というものはやはり大和言葉、和歌でなくてはならない。

佐佐木信綱は明治の歌を詠みたかった。新しい時代の和歌は変わらねばならないと思った。だから明治以後の話題を歌に取り入れなくてはならない、という義務感のようなもので、いろんな概念、例えば「サタン」のような言葉を取り入れた。

敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるがごと雲走りゆく

これは単に雨雲がサタンの軍勢のように見える、ということが言いたかったのだが、こういうものが世間にもてはやされることによって佐佐木信綱という歌人自体が変容していく。

佐佐木信綱の崩れ方というのは昭和天皇の崩れ方と良く似ている。おそらく昭和天皇も佐佐木信綱の影響をうけたのだろうと思う。そして今の現代短歌というものは、もはや何でもありのカオスになってしまった。ましかし、短歌は短歌で勝手にやれば良い。問題は和歌を詠む人がほとんどいなくなり下手をすると私で断絶するかもしれないってことなのだ。

私には、明治の歌人たちは、明治という一過性の時代に和歌を適合させようとして和歌を破壊した(あるいは和歌から逸脱していった)だけのように見える(柳田国男などの桂園派の歌人は抵抗した。明治天皇も最後まで大和言葉だけで歌を詠んだ)。明治は過ぎ去っても和歌は残らねばならない。和歌は時代の影響をうけるとしても、和歌自体は「永遠の過去」に属するものでなくてはならない。能や歌舞伎ではそれが当たり前なのに和歌はそのことが軽んじられているのは残念ではないか。

『ハイディ』原作者に見るドイツ精神世界の深淵

「アルプスの少女ハイジ」の深層が垣間見えるファン必読の小説集

と書いてあるので(言っておくがこれは私の文章ではない。編集者が考えた煽り文句である)、何も知らないハイジファンがうっかり買ってしまうのではないかという不安が、どんどんつのっている。ふつうの「アルプスの少女ハイジ」ファンが読んだら激怒するんじゃなかろうか。しかし私は嘘は何も書いてない。私は(解説と前書き以外)単なる訳者であって、原著はまぎれもなく作者のヨハンナ・シュピリが書いている。

ちなみに私が当初予定していた副題は

『ハイディ』原作者に見るドイツ精神世界の深淵

というものだった。いかにも売れなさそうだ(笑)後書きの一部をここに自ら引用するくらいはかまわないだろう。

今回ヨハンナの作品を読んで、スイスの自然や風俗というよりも、ドイツの文学、特にゲーテの詩や、宗教詩についてずいぶんと学ばせてもらった。聖書についても改めて勉強させてもらった。ヨハンナの視点で、非常に効率良くドイツの古典文学を概観させてもらった。ヨハンナは私たちをドイツ文学の森の入り口まで招待してくれる。そこはかつてヨハンナが生まれながらに住んでいた場所だ。少なからぬ人が『ハイディ』をきっかけにその作家の世界をも知ろうと願う。そうしてさらにその森の奥へ足を踏み入れようとして、その深淵をのぞき見て、ぎょっとすくんでしまう。ヨハンナの童話以外の作品が未だに英訳すらされてないのはそのせいなのだろう。

こういう内容の本だという心づもりで読んでもらえば、びっくりすることはないと思う。


この、amazonに辛辣なレビューを書いた人のサイトを後になって発見した。というよりそのサイトは前から知っていたが、そのサイトを作っている人がレビューも書いたのだということが最近になって記事が追加されていたので判明したわけである。

フローニ他

知り合いに
『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』を読んでもらい、いろいろ感想を聞いたので書いてみる。

私はこの本ではできるだけふりがなをふらないつもりでいた。
というのは『定家』ではふりがなのおかげで校正でひどい目にあったからだ。
『定家』は illustrator で版組されていて、ふりがなもすべて手作業で(しかも書き終えた後で追加で)ふってたので間違いが半端なかった。
『シュピリ』は in Design で組み版されているのでそういう間違いはまったくなかったのだが。

また、もともと原作が若者向けのわかりやすい話であったはずだから、わざわざルビをふらなきゃならないような難しい単語や言い回しは(少なくとも本文中は)使わないようにしようと思った(しかし童話のような文体にする気はなかった)。

難しくて読めない単語があったというから聞いてみるとそれは「敬虔」だった。
なるほどこれは確かに子供には読めない。
調べて見るともとの単語は fromm であったり religiös であったりする。
「信心深い」とか「信仰心の厚い」などと訳するべきだったかもしれない。
ただ「敬虔」のほうがドイツの敬虔主義的なキリスト教の信仰を表すにはふさわしい気もする。

いずれにしても、『定家』では最初の数ページでギブアップした人も、今回「シュピリ」は、本文は最後まで読めてくれたようで、多少堅苦しい言い回しはあったようだが、誰でも読める本になってると思う。
普通の翻訳ものに比べて解説が異様に長くてこ難しいのは訳者の趣味なので勘弁してもらいたい。
ドイツ語の引用が多いのはドイツ語をひけらかしたいとか厳密を期したというより、むしろ訳者が自分の訳に自信がないからだ。
私にしてみれば、ゲーテの詩集が原文の引用なしであんなに出ていることの方が不思議だ。
小説ならそんな必要はないかもしれんが。
確かに私もドイツ語なら原文が多少気になるが、アラブ語やロシア語の原文をいちいち引用されては迷惑な気もする。
普通翻訳というのはそんなものだろう。

「フローニの墓に一言」をkindleで出版したのは2014年1月のことだった。
ここでは、ハインリヒ・ロイトホルトがアルムおじさんのモデルである、などと書いているがこれは間違いだ。
「若い頃」に出てくるヨハネスがハインリヒ・ロイトホルトをモデルにしたものであるとすれば、ロイトホルトは「怖い大工」ではなく、少年の頃からふにゃっとした詩人タイプであったはずだ。

「ハイディ」は処女作「フローニ」を土台として構築されたメルヒェンであると考えてほぼ間違いなかろうと私は今も考えている。その考えは2014年以降、他の初期作品も訳し終えてみて変わってない。
「ハイディ」はヨハンナの他の子供向け作品と比べると宗教色が濃厚である。
初期作品よりはずっと薄められているが、例えば1878年に出た Am Silser- und am Gardasee 《小さなバイオリンひき》(ジルス湖とガルダ湖のほとりで)、Wie Wiseli’s Weg gefunden wird 《ヴィーゼリの幸福》(ヴィーゼリの道はどうやって見つかるか)などの作品が完全な童話として構成されている(ただし主人公は片親だったり孤児だったり、家が貧乏だったりして不幸な子供のことが多い)のに対して、ハイディには暗い死の影が落ちている。
それはやはり、生涯童話作家になりきれなかったヨハンナが、フローニを下敷きにハイディを書いたからだと思われるのだ。
「ハイディ」を書いた動機は、ハイディという少女を描きたかったというよりも、フローニを不幸に死なせてしまったアルムおじさんの魂を救済するため、またフローニという不幸な娘の霊を慰めるために、ハイディという、ある意味聖なる少女をアルムおじさんのもとに遣わしたいという衝動であったのに違いない(というより、書いているうちどうしてもそっちのほうに話がひっぱられていった)。
つまりフローニの夫を悔い改めさせることによってフローニの物語を完結させたかったのだと思えるのである。ここでハイディは牧師役でもあるし、天使役でもある。
フローニを弔うという意味でやはりハイディはフローニの続編とみなしてよいと思うのだ。
ヨハンナは単に宗教的な作品を書きたかったのではない。おそらくは実在のモデルに基づくフローニという人を哀れんだゆえに宗教的になってしまった。
しかしフローニの話から書き始めるともう話が複雑でかつ暗くなってしまって児童文学にはならない。ハイディを児童文学として書きたかったヨハンナは、その代わりに、ハイディの母アーデルハイトや父トビアス、そしてアルムおじさんについてのなにやら思わせぶりな噂話をデーテに語らせている。
そして読む人が読めばわかるような仕掛けがしてあるのではなかろうか。
ハイディの続編、クララが山に来て立つという部分は明らかに当初の執筆動機から逸脱している。しかしながらクララが立たないことにはハイディは成り立たないことになってしまった。
ハイディが世界に通じる一個の仮想物語(メルヒェン)になり得たのは、そうしたいという出版社の意図と助言があったからだろう。ヨハンナ自身の意志もあったかもしれないが。

「フローニ」を読まねば「ハイディ」はわからんよということに多くの人がだんだんに気付くに違いない。

「彼らの誰も忘れない」に出てくるロベルトとザラの関係は、アルムおじさんとハイディの関係に近いかもしれない。

ある人は頭からどんどん読んでしまったが、またある人は、時代背景が難しくてなかなか読めないといって進まない、らしい。
確かに、たとえばグリム童話で、継母に森に捨てられた兄妹が魔女に騙されるという話、これなどは時代背景などいらない。
そういう(現実世界とは切り離された架空の)世界観の中にさっくりと読者を連れ込めれば良い。
アニメの「ハイジ」もまた同様な手法を採っている。
19世紀末のスイスの時代背景やドイツ文芸事情なんてものをいちいちアニメを見る子供にわからせてはいられない。
ヨハンナはゲーテファンだったからゲーテの話から始めます、という悠長なことは言ってられない。

ズイヨーはハリウッドやディズニーの手法を取り入れたのだと私は思う。
アメリカは歴史が短く文化が貧困な国だから、ヨーロッパから盛んに原作を輸入して、アメリカンにアレンジして、実写化し、アニメ化した。
ヨーロッパの歴史的伝統的でドリーミーな要素をよりこってりと濃縮し、一方ヨーロッパ固有の暗くて重い宗教観をそぎ落とすという脚色手法を取り入れた。
キリスト教を絡めるとイスラム諸国に売れなくなるなどとズイヨーの会長は言っているようだが
高橋茂人,日本におけるテレビCMとTVアニメの草創期を語る(TCJからズイヨーへの歴史)、

> イデオロギーは,みなそれぞれ違う。それを出すべきではないと思う。「ハイジ」には深層に流れているものがある。それはキリスト教思想なんだ。しかしそれを正面きっては出せない。世界に広く作品を売ろうとするなら,キリスト教のほかイスラム教の国もあり,例えば中近東では売れなくなってしまう。

高橋茂人が当初からそこまでワールドワイドにアニメを売ろうとしていたとは考えにくい。
ヨーロッパの市場はそれなりに大きいから、ヨーロッパ人に受けるようにキリスト教的な要素を盛り込もう、という戦略もあり得たはずだ。

ハイディをヨハンナの作品群の中の一つに戻す。
ヨハンナを当時のドイツ文学界の中の作者の一人に戻す。
そして当時のスイス、ドイツ文芸界、ドイツ語圏の社会情勢の中で、では、ヨハンナとは、ハイディとは何だったのかということを示してみせたことになっただろうか。
いろんな本を効率良く読もうという忙しい人は、本をいちいち頭から読んだりしない。
その概略だけさらっと知りたいと思うだろう。
解説から読み始めるかもしれない。
ところがそういう読み方をする人にはこの本は時代背景が難しすぎてなかなか読めない、ということになる。そりゃそうかもしれない。
私もそんなに簡単に読める本を書いたつもりはない。
しかしできるだけいろんな人に読んでもらいたい。
だからこんな本になった。

ロッテンマイヤーはスイスの少女に聖なる幻想を持つ人だった。
一方デーテやハイディは生の、野生のスイス娘だった。
デーテ対ロッテンマイヤー、あるいはハイディ対ロッテンマイヤーのやりとりは、もしかするとヨハンナと編集者の間のものであったかもしれない。
つまりロッテンマイヤーみたいな潔癖でかつスイスに幻想を抱いているドイツ女がいて、編集者として、もっとこんな風なストーリーにしましょうよ、などとヨハンナに提言する。
ヨハンナはそれに対して半信半疑に従ったり抵抗したりする。
もしかすると、ヨハンナの多くのかなり退屈な童話群というのは、Gotha Friedrich Andreas Perthes にいたロッテンマイヤー女史みたいな人の要望に沿ったもので、ハイディはそんな編集者への反発を反映したものかもしれない。
などと空想するのは楽しい。

天皇の血を引いた徳川将軍

tenno8
  1. 徳川家康 の母は「大」と言い、皇族ではない。
  2. 秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。
  3. 家光 の母「江」も皇族ではない。正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。
  4. 家綱 の母「楽」も普通の農民の娘。正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。家綱に実子はない。
  5. 綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。
  6. 家宣の母「保良」も一般人。正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。
  7. 家継の母「喜代」も一般人。霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。
  8. 吉宗の母「由利」も一般人。ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。
  9. 家重の母「須磨」も一般人。ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。
  10. 家治の母「幸」も一般人。ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。
  11. 家斉の母「富」は幕臣の娘。
  12. 家慶の母「照」も一般人。ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。
  13. 家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。
  14. 家茂の母「美佐」は紀州松平。ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。
  15. 慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。母は松室敦子。霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。

家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかった。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。

天皇の系図

tenno8

皇女、皇子、主要な関係者などほぼ書き込んだ、と思う。 ただし明治以降の皇女は一部の例外をのぞいて記してない。 幼年で死んだ人は略していることが多いが、書いている場合もある。 これからは微妙な訂正などしていこうと思う。

後西天皇の皇子・有栖川宮幸仁親王とか、家康の孫・松平忠直の孫娘に当たる明子内親王、 霊元天皇の后・松室敦子やその娘・八十宮(吉子内親王)については「将軍家の仲人」にも書いたので、 特に感慨ぶかい。 その他にもいろんなことをいろいろ書き散らしてきたわけだが。

景行天皇はすごいな、とか、 彦坐王とか何者なんだろうとか、 手白香皇女ってほんとは女帝だったんじゃないの、とかいろんな妄想が沸いてくる。

図が横に広がっているときには、やはり、天皇家を巻き込んだ、なんか歴史的にたいへんなことが起きているんだよね。

掛け軸かなんかにして売れば需要があるんじゃなかろうか。

天皇の系図

tenno7

皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、後嵯峨天皇あたりで力尽きた。余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。妃や子供の数が明らかに減っている。たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。その後も天皇家はどんどん衰退していく。天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。源光(845-913)。母は宮人・百済王豊俊の娘。百済からの帰化人の家系。源多(みなもとのまさる)という兄がいた。この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。

宮家

tenno4

思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」というのはなんかおかしな感じである。誰がそんなことを言い始めたのだろうか。佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。かといって親王宣下されたわけではない。だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、それを言い出した人はそうとうな山師だ。まったく同じことは後南朝でも起きた。後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。

南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。これは南朝に対抗するために違いない。特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、持明院統と特別に対立しているわけではない。かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。

伏見宮家は北朝から分かれたが、本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。

閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。

ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。

本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、全滅してしまっている。白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、まだ血は近かったのに違いない。

思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、いつ王国が復活するかわからないわけだが、余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。

明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、宮家を創設するようになったから大混乱だ。

江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。それは室町期でも同じだ。皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。