しまった。ついぽちった。『だんどりくん』とかはすでに買って読んでるのだが、カスタマーレビューの否定的なコメントと、良いと悪いの評価が分かれていたのが面白そうなんで買ってみた。これから読む。
追記:悪くはない。買ってよかった。しかし完全に予想通りの内容だった。一般女子が買うと裏切られるのだろう。
しまった。ついぽちった。『だんどりくん』とかはすでに買って読んでるのだが、カスタマーレビューの否定的なコメントと、良いと悪いの評価が分かれていたのが面白そうなんで買ってみた。これから読む。
追記:悪くはない。買ってよかった。しかし完全に予想通りの内容だった。一般女子が買うと裏切られるのだろう。
半七捕物帳 三河万歳 に屋敷万歳や町万歳、出入り万歳、乞食万歳、 などという言葉が出てくるが、 普通の国語辞典や古語辞典を見ても意味が通じない。 ネットを検索してみると、 正月に武家屋敷や町屋などを回って、悪鬼を祓い福をもたらす芸のようなもの、 千秋万歳というのが正式らしい。
まんざい【万歳】
民俗芸能。祝福芸,門付芸の一つ。正月に家々の座敷や門口で予祝の祝言を述べたてるもので,〈千秋万歳(せんずまんざい)〉の末流と考えられる。平安時代後期成立の《新猿楽記》には〈千秋万歳之酒禱〉と見え,千秋万歳はこのころすでに職能として存在していたと思われる。鎌倉時代以降には宮中をはじめ寺社,武家などの権門を訪れるようになり,室町時代の中ごろには一般の民家にも門付してまわるようになった(《臥雲日件録》)。
せんずまんざい【千秋万歳】
〈せんじゅまんざい〉とも読む。正月の祝福芸能の一つ。また,それを業とする者をさす場合もある。鎌倉期では《明月記》《勘仲記》などにその参入の記事がみえる。《名語記》によると散所法師が初子の日に家々を訪ねて行う祝言芸で,それによって禄物を得たという。室町期に入ると,声聞師が正月に禁裏(5日),公方邸(7日)をはじめ,諸家に赴いて,千秋万歳を演じ,曲舞を舞った記録が多い。
岩波古語辞典
年の初め、家々を訪れて、家門・寿命の長久を祝い、歌舞を演じて回った下級の法師・陰陽師。
今日万歳参啓、祝言、退出。
一種の乞食輩、歳首に人家に到り祝言を歌ふ、世に之を万歳と号す
万歳はマンザイとも読み、漫才に通じるという。 もともと漫才は正月にやるおめでたい芸能だったのかもしれず、 今の正月三ヶ日のテレビ番組にその痕跡があるといえるのかもしれない。
尾張万歳というものもあるらしく、三河万歳とか、もともとあの辺りから回ってくる渡り芸人的なもの、 もしかすると熱田神宮や伊勢神宮なんかに属する祝(はふり)や巫女(かむなぎ)などの渡りの神職とか、山伏などと関係するものなのかもしれない。
『半七捕物帳』は関東大震災以前に書かれた時代小説なので(※連載後半は違う)、東京にも江戸の町並みがほぼそのまま残っていただろうし、 作者の岡本綺堂も、江戸時代の生き証人から直接話を聞くことができたのだろう。 江戸時代のことをうだうだ書いている私にとっては、当時の江戸の雰囲気が感じられる、非常に貴重なものだ。 明治維新からまだ50年弱しかたってない。 彼にとっての江戸は、私にとっての昭和30年代みたいなものなわけだ。
野村胡堂は、文藝春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、『銭形平次』を書いたという。 昭和の戦前戦後に渡って書かれたものだ。 『新選組始末記』は昭和の初め。 『鬼平犯科帳』ともなると完全に戦後だ。 このへんになるともうあまり役に立たない。 永井荷風の作も、役に立つような立たないような。
もっと江戸や明治の小説をきちんと読まねばな。
「どうだ、半七。けさの行き倒れは、何者だと思う。あんな因果者を抱えているのをみると、香具師やしの仲間かな」と、弥兵衛は云った。
「さあ、手のひらの硬い工合ぐあいがどうも才蔵じゃねえかと思いますが……」
「むう。おれもそう思わねえでもなかったが、香具師ならば理窟が付く。やあぽんぽんの才蔵じゃあ、どうも平仄が合わねえじゃあねえか」
「ごもっともです」と、半七も考えていた。「しかし旦那の前ですが、その平仄の合わねえところに何か旨味があるんじゃありますまいか。ともかくもちっと洗いあげてみましょう」
「平仄が合わない」こんな使い方するんだな。
才蔵。
雑芸人の名称。千秋万歳や万歳はふつう2人一組で演じられ,一方を太夫,一方を才蔵と称する。
万歳は太夫と才蔵の掛合が基本で,太夫は烏帽子,直垂(または素襖)姿,才蔵は投頭巾(大黒頭巾)に裁着姿が一般的である。シテ役の太夫は扇子を持って千代万歳の祝言を言い立て,才蔵はワキ役で太夫の語りの間をぬって相槌を打ち,鼓を打ち鳴らし,囃したり,歌ったりしながらモドキの役割と滑稽な三枚目を演じる。正月の万歳に小鼓を打ちながら大夫の相手をして人を笑わせる役
才蔵は飲みかねまじき面っ付
「やあぽんぽんの才蔵」とは、よくわからんが、要するに太鼓叩きの芸人、とでもいう意味か。
悪質な香具師に因果者師というのがいて、身障者を見世物にして、 「親の因果が子に報い」などとやったらしい。 なので、香具師が子供を抱えて行き倒れしたなら平仄が合う、太鼓持ちだとちとおかしい、そう言いたいわけだ。 で実際この子供は生まれつき犬歯が生えた鬼っ子で・・・。 なんかむずいな。
甲府藩藩主は家綱・綱吉時代には松平綱重と、その息子の綱豊であったが、 綱豊が綱吉の跡継ぎ家宣となったために甲府は没収されて綱吉の寵臣柳沢に与えられた。 家宣が将軍になり、柳沢吉保は失脚したが、そのまんま甲府藩主だったが、 吉宗の代、というより、吉保の子供の代に転封され、甲府藩十五万石は幕府直轄に戻された。 長男吉里は大和国郡山藩十五万石に移され、その弟らにも一万石が与えられたというから、 懲罰的な転封ではなく実質加増だった、とも言える。
いずれにしても江戸周辺は幕府直轄か旗本の料地になって、たいていは代官が治めていた。 司馬遼太郎『燃えよ剣』では、農民が武装して剣法の修業も勝手し放題だったために、 近藤勇や土方歳三のような農民上がりの武士が出てきた、と言っているが、 ともかく関東近辺は、国定忠治みたいな、武士階級ではないが長脇差しを指した、 農民なんだか無宿人なんだか渡世人なんだかのような連中の温床になっていた。 江戸後期の旗本というのは根っからの怠け者で、無為無能で事なかれ主義なので、ろくに取り締まりもしなかった、と思われる。
ウィキペディアの「甲府勤番」に「甲府勝手小普請」というのが出てくる。
老中松平定信が主導した寛政の改革においては不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される。慶応2年(1868年)8月5日には甲府勤番支配の上位に甲府城代が設置され、同年12月15日には甲府町奉行が再び設置され、甲府勤番の機能は城代、小普請組、町奉行に分割された。
甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている。
勤番士の綱紀粛正のため半年に一度は武芸見分が実施されており、寛政8年(1796年)には勤番支配近藤政明(淡路守)、永見為貞(伊予守)により甲府学問所が創設され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名され昌平坂学問所の分校となった。
でまあ、「山ながし」とか「勝手小普請」というのが「窓際族」とか「左遷」とかのイメージに結びついて、 一生懸命出世街道を目指して頑張ったのに田舎に左遷されたとか閑職に回されたとか、 そんな戦後日本のサラリーマン社会をそのまんま江戸時代の武家社会に投映したような時代小説(気持ち悪くてあまり好きなジャンルではない)に使われることが多いように思われるが、 事実はもっとやばいものだっただろう。
博打や借金踏み倒しでとうとう懲戒処分を受け、飼い殺しにされた不良浪人、という表現が当たっていよう。
江戸で手に負えない乱暴者を甲府なんてところに追いやったのだから、虎を野に放つ、という言い方の方が近かろう。
源為朝を九州に追放するようなもんだ。
甲府の治安はそうとう悪かったに違いない。
だからこそ「甲斐一国一揆(天保騒動)」のようなことが起きたのではないか。
関東の無宿人、渡世人らと、勝手小普請が主犯。
いわゆる百姓一揆とか、飢饉による打ち壊しというのとはかなり違ったんじゃないかと思う。
吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(130人あまりが無宿人)以上のが捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となり、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。
もし不良浪人が主犯であればそれは幕府の恥であるから、あまり表には出さず、無宿人のせいにする、 もしくは小普請であったがすでに処分されていたから無宿人か浪人だった、ということにしたのではなかろうか。
多摩地域では天保騒動を契機として、豪農層を中心に自衛手段としての農村剣術が活発化している。
これはねえ、順序が多少入れ違っているんじゃないのかなあ。
「勝手小普請」「無法地帯」「農村剣術」というものが流行していたので、 そいつらが臨界点に達して暴走し、 甲斐一国一揆が起き、甲斐一国一揆を参考にして大塩平八郎の乱が起きたんだよ。
幕府とか旗本が弛緩し腐敗してたのが根本的な原因だと思うな。
坊門信清は後鳥羽院の外祖父。息子忠信は後鳥羽院の寵臣。実朝の妻は坊門信子、忠信の妹。つまり、実朝は信清の婿、忠信の義理の弟。後鳥羽天皇の女房・坊門局は後鳥羽院の女房。ともに隠岐に渡り、院の死後、京都に戻る。坊門局は道助入道親王、頼仁親王、嘉陽門院礼子内親王を産む。道助入道親王は後鳥羽院と礼子内親王の戒師。礼子内親王は歴代最後の賀茂斎院。式子内親王の四代後。
実朝と後鳥羽院、つまり、実朝と朝廷の間にいたのが坊門ということか。ふーむ。
南朝の都は吉野城、つまり吉野山の金峯山寺にあったかと漠然と思っていたが、実はもっと南の奥吉野、天川村の天川弁財天社あたりなのだった。飛鳥時代の吉野宮というのは東の方、吉野川をさかのぼって菜摘とか宮滝とか言われる所にあった。
思うに、金峯山寺というところは確かに修験者の拠点ではあったかもしれないが、城とするにさほど適した場所ではないように思う。千早城や赤坂城にしても同じ。天川村というのはものすごい山奥だ。こんなところに入り込まれたらとても攻めがたかっただろうと思う。
それはまあそうと義持は、子の義量が死んでも次期征夷大将軍を決めず、空位のままほっといて、自分が死ぬときにも後継者の指命を拒否した、というのは、普通に考えれば、もう足利宗家から将軍ださなくてもいいじゃん、事実今も幕府は問題なく動いてるし、すでに幕府は守護連合みたいなもんで、将軍とか飾りだからいらないんじゃね、とか、守護が衆議して決めればいいんじゃね、とか、そんなことを考えていたんじゃないかと思う。江戸時代の徳川宗家みたいに是が非でも将軍職は世襲しますよみたいな気分はなかったのではなかろうか。
江戸時代の幕臣とか譜代大名らはみんな徳川幕府によりかかって、運命共同体みたいになっていたが、室町時代は守護の連合体みたいなもんで独立性が高いから、必ずしもみんなで一生懸命足利家をもり立てようという感じではない。日野とかの一部の公家が足利宗家に執着してただけなんじゃないかと思える。江戸時代の感覚で室町時代を見ても雰囲気わからんと思う。
で、三宝院門跡の満済というのが義持の護持僧で一番の側近、籤引きで定めることを決めたのは畠山満家であって、この二人が仕組んだいかさま籤ではなかろうかということについて、「籤引き将軍足利義教」に若干詳しい考察があるのだが、思うに、黒幕は義持の正室で義量の生母である、日野栄子。そしてその日野家当主義資であったろう、と考えるのが自然だ。日野家は義満の正室と継室を出している。足利将軍家の内情に一番詳しくかつ親密な関係だったはずだ。四人の候補を見るに、一番の年長は義円(義教)。出自も比較的まっとうだ。他の三人は母親の得体がしれない。また、日野義資はおそらく義円が青蓮院門跡であったころの世話役であったと思われる (いやそもそも、義円にあたりをつけていたからこそ世話役を買ってでたのだろう)。義資は義円に、自分の妹・宗子を正室にするならば将軍にしてやろうと義円にもちかける。籤で義円が選ばれるとすかさず彼を日野邸に連れ込み(1428)、元服が済むと宗子を正室に送り込む。こうして、義量の血統が絶えても、日野家は足利家の外戚のまま存続することを得た。
ところが、将軍となった義教は日野がじゃまで仕方ないから、正親町三条家の尹子という女を正室にすると勝手に宣言(1431)、宗子は離縁され、その代償に宗子の妹の重子が側室になる。重子は義勝(1434)、義政(1436)、義視(1439)を産む。十分男子が生まれ、もはや義教が不要になった日野家は、正室正親町三条氏が嫡男を生まないうちに、赤松満祐をそそのかして (或いは、義教が次に粛清するのはおまえだ、とか脅しをかけて)義教を討たせ(1441)、義勝に将軍を継がせる(1442)。義勝は早世してしまったので、義政を跡継ぎにして(1449)、日野富子を正室にすえる(1455)。
という具合だったと考えるとすんなりいくではないか。まさに仁義なき戦い室町編(笑)。
足利家が日野家にがんじがらめにされていくのが目に見えるようだ。
つまり、籤引きなんて単なるいかさま、嘘っぱちだ、と言いたいわけなのだが。
義教が足利宗家を継いでもすぐには将軍宣下がなされなかったというのは、義量が死んで長いこと空位だったから、別に義教が将軍にならなくてもいいんじゃね、くらいの雰囲気だったのではなかろうか。鎌倉公方の足利持氏が代わりに将軍宣下されるんじゃないか、
という可能性があったとは思えないなあ。日野家としては義教くんが将軍になってくれないとただの守護の中の一人みたいになって困るから、いろいろ運動したんだろうなあ。そんくらいじゃないのか。
予想したのと全然違ってドロドロした話で、 江戸時代の幕臣ってすげー腐敗してたんだなあとか、 まあ、勝海舟とか大塩平八郎とか子母沢寛とかの話をさらに生々しくした感じで、 興味深く読んだ。 しかし怖いのでたぶん自分はネタにはしないと思う。
時の風評をそのまま書きて虚実区々なれば取るべからず
まあまさにそうだろう。 ゴシップというかスキャンダルというかなあ。 悪代官とか悪徳商人とかそういう時代小説に使い回されてるようなネタだなあ。
「非役の小普請」、または「禄ある浪人」、つまり、無役で最下層の御家人の話とか。
なんか素性のわからん浪人がどこかで本でを儲けて、 金貸しをしながら「与力」株を買う。 美人局などしていて与力をクビになり再び浪人に。 しかし今度は金を返せない旗本の弟が出奔していなくなってたので、 その弟になりすまし、 別の旗本の養子となって、 その養父を隠居させて自ら押しも押されもせぬ旗本直参となる、 とか実におどろおどろしい話。 それが松平定信が部下に調べされた事件簿「よしの冊子」というのに書かれているというのが、なかなかよく出来た話である。
ところがこういう偽の実子、 「入れ子」というのは旗本ではよくある話でいちいち摘発しないというのがまたすごい。大丈夫か徳川幕府。 鳥羽伏見の戦いで負けるはずだ。
「甲州は葡萄(武道)の成り下がり」(笑) 幕府の直轄領なのに甲斐一国一揆とかあったしな。
勝海舟の父子吉の『夢酔独言』の読者ならご記憶のむきもあると思う。
とあるが、実際勝子吉の『夢酔独言』くらいは読んでないと、こむつかしいだけでおもしろさのわからぬ本だと思う。
「籤引き将軍足利義教」というのを読んだのだが、四人の候補の詳しいプロフィールとか書かれていて役に立ったが、東大総長がくじ引きで決まったという前書きとか、それから急に時代をさかのぼって堀河天皇践祚が占いできまったとか、そのときの白河上皇が治天の君でどうのこうのとか(うざい)、後鳥羽天皇践祚もそうだとか、世界史的にはどうだこうだとか、そのうえ義教は神裁政治だったとか、とにかくくじ引きのことしか書いてない。
籤引き将軍というあだ名だったのは確かだが、そこにとらわれすぎではないか。足利義教のことをもっと深く掘り下げてほしかったのだが。
『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。父は孝明天皇、母は中山慶子。典侍というから中宮や女御の次くらい? 生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。 中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。
慶子の父が中山忠能。 忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。
忠能
天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ
綱子
けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば
日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け
七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん
「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。
我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ
とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌
雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら
など、なかなか良い。
全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、その後和歌は忘れられてしまった。
光格天皇は、上皇になってから崩御したので、当時の慣習によれば、光格院と諡号されるはずであったが、天皇号が復活して、光格天皇と諡された。それは公家から武家に強く要望したからだという。公家の中では中山忠能だけが反対したという。
後に明治になると、さかのぼってみな天皇号になった。たとえば後鳥羽天皇は当時は後鳥羽院と諡号されたのだが、今では後鳥羽天皇と呼ぶのが正しい名前。孝明天皇の父の代からそうだった、というのが興味深い。