最近は adobe も microsoft も認証方法が難しくて、ライセンスを買ってメディアを持っているだけではインストールできない。実に困ったことだ。microsoft office も最近は実に洗練されてきていて、継続は力と言うしかない。openoffice.org と違うのはこれだけの長きに渡って開発され、多くのユーザを抱え、そして多くのお金と人が関わって、洗練されてきたということで、もうこれは簡単に挽回しようがない。すべてソフトウェアというものはそんなものだろう。
それはそうとおもしろくていまだに小林秀雄の「本居宣長」を読んでいるのだが、ネットをざっと検索してみた限りでは、では小林秀雄という人が世間一般でどのような評価をされているのか、具体的に彼の評論のどこが優れているのかということがさっぱりわからない。もしかするとみんな漠然となんだか偉い人だみたいな評価をしているのだろうか。
つまり、何が言いたいかと言えば、だいたいみな本を読んだらブログなどにその感想を書くではないか、たとえばこのブログのように。あるいはゲームで遊んだり、映像作品を見たりしたらブログに書くではないか。そのような他人が小林秀雄について書いた文章を読んでみたいのだが、案外、これがまたほとんどまったく見あたらない。実に不思議な光景だ。まさか私だけがそんな無謀なことをやっているのだろうか。
小林秀雄は手っ取り早く文芸批評の方法論とか、あるいは本居宣長について講演で話すよう頻繁に頼まれていたようで、それはもっともな話であって、私だってまずは小林秀雄とはどんな人か、本居宣長とはどんな人か、できるだけかいつまんで知りたいと思う。だいたい本居宣長について書かれた著書がまた長いし、10年以上に渡って書かれている。多少要約して話してくれても良いではないかと普通なら思う。しかし小林秀雄はそれを拒否し、また怒る。本居宣長もまたそのように弟子たちに性急に頼まれて仕方なしに「うひ山ぶみ」を書いたが、ところが誰もその最後に添えられた歌「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」を読んでない。
この歌の意味とはつまり、広い山裾から山頂までははるかに遠いがその一番最初の浅いすそ野の道しるべ代わりに「うひ山ぶみ」を書いたのであって、残りは全部自分らで少しずつたゆまず時間をかけて勉強しなさい、一度に山頂を目指すな、低いすそ野をまず固めてから徐々に登りなさい、この広いすそ野を怠らず学んでおいてこそ山頂にはたどり着けるのであって、低いところをおろそかにすれば高いところはなおさら身に付かず、結局何もならないということだろう。いろんなところを読んで総合すればそういう意味になる。
「いったい宣長の文章ってものは無駄なんてものは一つもないんです」とは自分の長大な著作についても言っているに違いない。自分の文章には無駄はない。だらだらと長くて無駄なように見えるがかいつまんで要約できるような箇所などない。それなのにみなは自分の文書をとばしとばし読んで、学問の方法論だけを知りたがる。と言っているようにみえる。実におかしい。
正直なところ小林秀雄や吉本隆明などの文章は読んでもほとんどわからん。吉本隆明に至ってはちんぷんかんぷんだ。江藤淳はある程度わかる。丸谷才一はほぼ言いたいことはわかるつもり。小林秀雄の「本居宣長」は良くわかるつもり。で、世間一般の人たちは結局正直なところ小林秀雄という人をどういう風に見ているのか。さっぱりわからない。
思うに、小林秀雄というひとは、短文で要約した文章を書くとちんぷんかんぷんで良くわからん文章になってしまうのではないか。だから、10年以上かけてだらだら書かれた「本居宣長」などの方が、実はわかりやすいのではないか。短く書こうとすると批評文に特有のよくわからん専門用語や外来語を使ってしまいよけいにわからんようになるのではないか。
だんだん気になって来たので小林秀雄の「実朝」をもう一度読み直してみるか。
できるだけ見ないように見ないようにしているのだが新聞など読んでいるとときどき現代短歌が載っているのが目に入ってしまう。それを読むとほんとうに暗澹たる気持ちになる。