『宣長さん』中根道幸

小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。

子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。 どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。 宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、 小林秀雄について言及している点や、 この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、 子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。

村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。 宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。 加納諸平という歌人を教えてもらった。

吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。 しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。

その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。 どれもよくわからないことが書いてある。 たぶん著者がよくわかってないのだろう。

子安氏が主張しているように、 小林秀雄著『本居宣長』と 中根道幸著『宣長さん』 を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。 『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、 著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、 これはすごい本だ。 この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。 早く出会えてよかった。

p. 319

結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。 宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。

中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。 そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。 宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。 宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。 しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、

多く二条派の目で拾われた定家なのである。

私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。 宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、 浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。 宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。 途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。 真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。 宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、 スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。 だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。

宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。 その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、 その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。 『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。 まさに私が読みたい本だった。 宣長が若い頃に誰と会ったか。 どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。 結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、 宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。 この「松坂文芸」は、 京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。 その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。

本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。 最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。 「養子留学」であったというのだ。

なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。

養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。

学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ

実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。
彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。

今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。

御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、
宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。 つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。 そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、 今井田家での学問に限界を見たからだろう。

宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。 そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。 この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。 「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、 宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。 定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、 具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。 特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。 二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。 二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。

二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。 京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。
この宣長の主張には意味が無い。 二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。 実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。 わかっているようでわかってない人がほとんどだ。 中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。

宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。 幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。 たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。 そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。

いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや
憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても
いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を

これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。

正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。 しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。 たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。 正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。

宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。 古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。 しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。 明らかに定家そのものを見ているのではない。 それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。 しかしそれは説明の付かないことではない。 宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。 しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。 若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。 また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、 古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。

中根道幸は宣長に固有な「神秘主義」についても言及している。

p. 15

終生宣長さんの神秘主義とかかわる、この申し子意識はいつごろ確定したものだろうか。

宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、 仏式と神式の墓を別々に作ったこと、 『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、 これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。

p. 75

一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。

宣長の初めての歌についての講評。 これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。 他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。 まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。 上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。 つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。 こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。 宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。 本居宣長の漢詩についても、ほぼ同様のことが言える。

宣長の初めての歌

新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。 ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。 普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。「来にけりな」であれば後鳥羽院

昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。 いずれも「秋来にけりな」の形。 いずれにしてもあまり事例は多くない。 「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。 「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。 初出は西行の

うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。 宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。
もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。 これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。 そうだなあ。私なら、もとを活かして

あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

竜田川と神奈備の杜

万葉集には「たつたがは」が一つも詠まれていないという宣長の指摘は大発見であった。
古今集ですでに竜田川が奈良の龍田山に流れる川であるという誤解が生まれていたのにもかかわらず。 その歌はもともと読み人知らずだったはずだが、 柿本人麻呂や平城天皇の歌であろうと推定されたのである。

題しらず 読人不知 この歌は、ある人、ならのみかとの御歌なりとなむ申す
竜田河 もみちみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ
題しらず 又は、あすかかはもみちはなかる
読人不知 此歌右注人丸歌、他本同
たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

ある人の説によれば、とこの頃はかなり消極的である。業平の歌

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
ちはやふる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

ただし、『伊勢物語』106番

むかし、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

こちらがおそらく古い形だろう。男とは業平、親王たちとは惟喬親王らと考えれば、
ぴったりくるのである。

神なひの山をすきて竜田河をわたりける時に、もみちのなかれけるをよめる
深養父
神なびの 山をすぎ行く秋なれば たつた河にぞ ぬさはたむくる

私はずっと、竜田山こと神奈備山は、京都と大和の往還の途中にあるのだと思っていた。 しかし、奈良であればともかくとして、京都から大和へ行く用事がそれほどあるとは思えない。 京都から奈良に行くには竜田山を通るはずもない。 それに対して京都から西国へ下っていく途中で必ず山崎は通るのである。 山崎はずばり地峡という意味である。 巨椋池から淀川が大阪平野に流れ出す地峡であり、 おそらくかつてはここに急流があった。

竜田川は今の水無瀬川だということを先に書いた。 そして神奈備山はその川の上流であったろうし、 神奈備の杜はこの川の流域の森であったはずだ。

秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる
貫之
年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ

これを見るに竜田川には港があったことになる。『土佐日記』

九日、心もとなさに明けぬから船をひきつつのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。
(中略)かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つつ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。ここに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて桜のさかざらば春のこころはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。(中略)こよひ宇土野といふ所にとまる。

十日、さはることありてのぼらず。

十一日、雨いささか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに相應寺のほとりに、しばし船をとどめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。

十二日、山崎にとまれり。

十三日、なほ山崎に。

十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。

十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。

というわけで、山崎から先は都から車を取り寄せて、車に乗り換えて移動したらしい。

山崎橋は桓武帝即位三年に作られたという。 八幡の宮とは男山の石清水八幡宮のこと。 相應寺というのは石清水八幡宮の対岸に位置した寺で今の離宮八幡宮。 男山八幡宮こと石清水八幡宮は清和天皇の御代に宇佐八幡宮を勧進したものであるという。 清和天皇は惟喬親王と同様に文徳天皇の皇子だから、渚の院も同じ頃に作られたということか。 平安遷都があってからこの山崎、男山、そして渚の院などは西国旅行の要衝となり、 竜田川の歌も詠まれ始めた。 ところが嵯峨天皇の御代にはすっかり和歌は宮廷から遠ざけられていて、 初期の竜田川の歌は誰が詠んだのかわからなくなってしまった。 それで奈良時代の歌と勘違いされたのだろう。

思うに竜田川(水無瀬川)が淀川に合流するあたりに山崎宿があり、 また山崎港などと呼ばれた港があり、 渚の院はそのすぐ側にあったのだが、惟喬親王が没落して、 貫之の時代にはすでに廃れていたのだろう。

後撰集

御春有助(みはるのありすけ)
あやなくて まだきなきなの たつた河 わたらでやまむ 物ならなくに

西国に派遣されるのに通る場所だったということだ。

しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すな言へりければ
藤原元方
竜田河 たちなば君が 名を惜しみ いはせのもりの いはじとぞ思ふ

岩瀬の杜は奈良にあるという。 ただ、このころにはすでに竜田川が大和にあることになっていたから、 単に詠み合わせただけかもしれない。

拾遺集

奈良のみかど竜田河に紅葉御覧しに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて
柿本人麿
竜田河 もみち葉ながる 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

これは古今集の歌の再録である。 かなり附会が進んだ形だと言える。

源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める
しろめ
いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし
山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにして、わかれ惜しみけるに詠める
源さね
人やりの 道ならなくに おほかたは 生き憂しと言ひて いざ帰りなむ
今はこれより帰へりねと、さねが言ひけるをりに詠みける
藤原兼茂
したはれて きにし心の 身にしあれば 帰るさまには 道も知られず

これらは古今集に出てくる、
京都から筑紫へ旅立つ人を見送りに、山崎から神奈備の杜で別れを惜しんだという一連の歌。

源実(みなもとのさね)は嵯峨天皇の曾孫。昌泰三(900)年没。 嵯峨天皇第六皇子・源明(あきら) – 長男・源舒(のぼる)– 三男・源実。 宇多天皇から醍醐天皇に代替わりする頃に死んでいるから、 おそらく古今集が編纂されている最中に収録された歌なのだろう。

「しろめ」は謎だが、山崎宿あたりにいた遊女ではなかろうか。

語釈は緊要にあらず

小林秀雄『本居宣長』二十三

契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持つてゐたから、決して辞書的な語釈に安んじてゐたわけではなかつたが、語義を分析して、本義正義を定めるといふ事は、彼らの学問では、まだ大事な方法であつた。ところが宣長になると、そんな事はどうでもよい事だと言ひ出す。

「語釈は緊要にあらず、(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし。」(「うひ山ぶみ」)

これと殆ど同じ文が「玉勝間」(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教へではなく、余程彼の言ひたかつた意見と思はれる。古学に携る学者が誘はれる、語源学的な語釈を、彼は信用してゐない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、といふ彼のはつきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵を受けて「語釈は緊要にあらず」と言ふ宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭にあつたと言つてよい。

ここで玉勝間八の巻というのは、

言の然(シカ)いふ本の意をしらまほしくする事

物まなびするともがら、古言の、しかいふもとの意を、しらまほしくして、人にもまづとふこと、常なり。然いふ本のこころとは、たとへば天(アメ)といふは、いかなる意ぞ、地(ツチ)といふは、いかなる意ぞ、といふたぐひ也。これも学びの一ツにて、さもあるべきことにはあれども、さしあたりて、むねとすべきわざにはあらず。大かたいにしへの言は、然いふ本の意をしらむよりは、古人の用ひたる意を、よく明らめしるべき也。用ひたる意をだに、よくあきらめなば、然いふ本の意は、しらでもあるべき也。そもそも万ヅの事、まづその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論なけれど、然のみにもあらぬわざにて、事のさまによりては、末よりまづ物して、後に本へはさかのぼるべきもあるぞかし。大かた言の本の意は、しりがたきわざにて、われ考へえたりと思ふも、あたれりやあらずや、さだめがたく、多くはあたりがたきわざ也。されば言のはのがくもんは、その本の意をしることをば、のどめおきて、かへすがへすも、いにしへひとのつかひたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざ也。たとひ其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなるところにつかひたりといふことをしらでは、何のかひもなく、おのが歌文に用ふるにも、ひがことの有也、今の世古学をするともがらなど殊に、すこしとほき言といへば、まづ然いふ本の意をしらむとのみして、用ひたる意をば、考へむともせざる故に、おのがつかふに、いみしきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、しかいふ本の意と、用ひたる意とは、多くはひとしからぬもの也。たとへばなかなかにといふ言はもと、こなたへのかなたへもつかず、中間(ナカラ)なる意の言なれども、用ひたる意はただ、なまじひにといふ意、又うつりては、かへりてといふ意にも用ひたり。然るを言の本によりて、うちまかせて、中間(ナカラ)なる意に用ひては、たがふ也。又こころぐるしといふ言は、今の俗言(ヨノコト)に、気毒(キノドク)なるといふ意に用ひたるを、言のままに、心の苦きことに用ひては、たがへり。さればこれらにて、万の言をも、なずらへ心得て、まづいにしへに用ひたるやうをさきとして、明らめしるべし。言の本にのみよりては、中々にいにしへにたがふことおほかるへしかし。

ここでもまず宣長の頭にあるのは詠歌のことだ。なぜあれほど宣長がつまらない歌を大量に詠んだのかといえば、それは詠歌すること自体が詠歌の訓練だからだ。正確に、即興で、優れた歌を詠むために、常日頃から歌を詠む訓練をしていた。歌を正確に詠もうと思えばその正しい語義を知らねばならぬ。しかし語義というものは時代や文脈によって変わっていくものだから、まずその用例をしらねばならぬ。そういう用例というものをはなれて言葉の本義などというものを知ろうとしても無駄だと言っているのである。

もちろん宣長は語義なんてどうでもよくて用例さえ調べりゃ良いと言っているわけではない。むしろ宣長ほど根掘り葉掘り語義を調べる人はいない。しかしそんな宣長だからこそ、語義というものは往々にして知り難いものであるから、たくさん用例を見ろよと言っている。宣長が古学を好んだのは詠歌が好きだったからだ。詠歌のために古文を学び、或いは源氏物語を読み、とうとう古事記を解き明かしたのである。宣長がどれほど和歌が好きかということを知らずに宣長を理解することは不可能だ。

そして小林秀雄はそんな宣長をきわめて正確に理解している。

つまり筒井康隆は宣長だけでなく小林秀雄をも誤解していたということになる。

小林秀雄の『本居宣長』がつまらないとかわからないという人は、要するに、宣長に興味がないか、宣長がわかってないのだ。ただ小林秀雄のファンであるだけで宣長がわかるはずがない。

雲居に紛ふ沖つ白波2

雲居に紛ふ沖つ白波再説

高橋睦郎「百人一首」p.152

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通。

詞花集「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」

保延元(1135)年4月の内裏歌合で詠まれたものであるらしい。 新院とはここでは詞花集の勅撰を命じた崇徳院で、位におはしましし時とは在位中(1123-1142)という意味。 ま、ともかく 1135年のことと考えてよいだろう。

忠通は藤原忠実の長男。 忠実の次男が頼長。 この三人と、 本院(白河)、新院(鳥羽)、天皇(崇徳)が絡んだ複雑な政争を詠んだものだと高橋睦郎は言う。 はてそうだろうか。

1135年当時、白河院はすでに崩御(1129)している。 なので、崇徳天皇が在位中で、鳥羽院が院政を敷いていた状態。 崇徳天皇が鳥羽院によって近衛天皇に譲位させられるのは1142年のこと。 しかし近衛天皇が生まれるのは1139年だし、 頼長は1120年生まれ、1135年でまだ15才にすぎない。

でまあ、1135年当時どのような政争があったかといえば、 鳥羽院は(祖父の白河院から押し付けられた中宮待賢門院藤原璋子を嫌っていて?) 1133年に忠実の要望をいれて忠実の娘(つまり忠通と頼長の姉)高陽院藤原泰子を入内させる。 泰子は当時すでに39歳でのちに皇后になっている。 まあこういう例は珍しくない。 皇子を産んでもらうというのでなしにただ形だけ有力者の家から皇后を立てる。

また1134年から美福門院藤原得子(近衛天皇の生母)が鳥羽院の寵愛を受けるようになっているが、 この時点で美福門院の影響は考えなくてよかろう(得子の父・長実は生前は正三位・権中納言だから大した公家ではない。藤原定家くらい)。

つまり、この時期は鳥羽院と忠実の全盛期であって、 忠通が崇徳天皇になにやら怪しげな、諫言めいた歌を奉るなどということに、 ほとんど何の意味もない。

のちに頼長と崇徳院が組み、忠通が後白河天皇と組んで保元の乱が起きたが、 それは1156年、21年後のことなのである。 その保元の乱のイメージでこの歌を鑑賞するというのは、 後代の人にありがちなこじつけというしかない。

同著の中で、

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

の「来ぬ人」は後鳥羽院、待つ海女は定家だとみなしているのだが、 これもひどいこじつけだ。 また

待賢門院璋子と北面武士佐藤義清(西行)の十七歳違いの例もあり、

式子内親王の忍ぶ恋の相手は定家ということも、「考えられないことではない」とする。

そのほかあげればきりがない。 また高橋睦郎という人がそういう人だから仕方ないのかもしれないが、 ギリシャやローマやそのほか西洋の話にいちいち絡めてくるのが邪魔というよりない。 またこの人も「王朝を埋葬」したい人らしい。 確かに定家は朝廷から幕府に実権が移った時代に生きた人だから、 定家や百人一首を王朝の鎮魂歌とみなしたい気持ちはわからんでもないし、 実際そのように後世考えられるようになった。 後鳥羽院と順徳院の歌が末尾に付加されたのはその意味にちがいない。 しかしそれは定家とは直接関係ないことだ。

父の歌など

柳田国男『故郷七十年』「父の歌など」

はかなくも 今日落ちそむる ひとはより 我が身の秋を 知るぞかなしき

ここで父とは柳田国男の父・松岡操のこと。彼もまた桂園派の歌人であった。

「ひとは」とは普通に考えれば「一葉」なのだがこれには「一歯」がかけてあり、
秋の葉が落ちるように自分の歯も抜け始めたということが言いたいのである。

奥山は 住み良きものを 世に出でて 立ち舞ふ猿や 何の人まね

これらはどちらかと言えば狂歌に近いけれども、こういう皮肉で自虐的な、人を馬鹿にしたような歌というのも香川景樹と桂園派の歌の特徴といえる。

夜光る 白玉姫を 見てしより 心そらなり つちは踏めども

山なしと 聞く武蔵野の 夏の夜に 吹くやいづこの 峰の松風

これらは景樹が京都から江戸に下って浅草に私塾を開いた頃の歌であるという。

私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の残り火に肌ふれることができたのであつた。

ついでながら近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

後になつて落合直文や与謝野鉄幹らが出て来て盛んになつたのは、時代の機運に乗じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。関東においても千蔭が力を揮つた時代よりも、歌は良くなつてゐる。

加藤千蔭や村田春海というのは賀茂真淵の影響下にあった(つまり万葉風の)江戸歌壇の歌人らであり、景樹はわざわざ本拠地京都から江戸に下って彼らに勝負を挑んだのだが、結局京都に戻り天保年間に亡くなった。柳田国男が真淵よりも景樹のほうが歌はましだったと擁護しているのがおかしい。落合直文や与謝野鉄幹、そして続く正岡子規らもあきらかに真淵のますらをぶりを継承している。柳田国男が正しく江戸文化、とりわけ桂園派を理解し、その擁護者であったことを示す文であるといえる。

柳田国男はある意味私に良く似た人である。彼に関する誤解は、彼自身というよりも、彼の言葉を引用して、それを自説に都合良く解釈する人たちのせいのようだ。

故郷七十年

大塚英志『キャラクター小説の作り方』の続きなのだが、 この中に「柳田国男による古典文学批判」として出てくるのは、 「頓阿の草庵集」というごく短い文であり、 『定本 柳田国男集 別巻3』に載っている。 この『別巻3』は『故郷七十年』『故郷七十年拾遺』からなっていて、 柳田国男が神戸新聞の求めに応じて、口承で残した自伝であるという。 序に昭和三十四年とあるから、1959年、柳田国男84歳、死去する3年前に出版されたことになる。

明治20年というから、柳田国男が12歳の時に、 彼は故郷の播州を、兄・井上通泰とともに離れる。

私は早熟で子供ながらに歌をやつてゐた。私の家に鈴木重胤の「和歌初学」といふのがあり、四季四冊のほかに恋、雑の上・下など七冊になつてゐた

などとあり、香川景樹の

しきたへの 枕の下に 太刀はあれど 鋭(と)き心なし いもと寝たれば

が引用されている。 12歳にして景樹のこの歌を暗唱していたとは確かに早熟である。 鈴木重胤は江戸時代の国学者というか、平田篤胤系の神道家のようである。

世襲の効用

社会システムというものが何もなかった中世においては、 政治にしても社会保障にしても芸事にしても、 何か世襲という形にしなくては持続性を持たなかった。 世襲でない、皆に機会が与えられて競争ができる状態のほうが優れているというのは、 社会システムが完備している現代だから言えることなのだ。 天皇家にしても将軍家にしても歌道の家にしても、みな家というものを作って「実体化」 しなくてはならなかった。 「血統」というもので相伝を守って行かねばならなかった。 一旦、「家」「血統」というものが確立したら、それをさらにいろんな伝説で理論武装し、 身内で結束しなくてはならなかった。 個人崇拝が、秘伝の教義がそこに生まれる。

それが、勅撰選者を世襲した定家の運命だったのだ。 定家個人の業績というものももちろんあるのだが、定家がなした一番大きな業績は選者を世襲したということだ。

世襲は今の時代にも案外効用がある。社会システムがいまだに不完全だから、古き良き「血」というものが補うのである。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。