新撰和歌 巻第一 荓序

> 玄番頭従五位上 紀朝臣貫之上

> 昔延喜御宇、属世之無為、因人之有慶、令撰萬葉集外、古今和歌一千篇。
更降勅命、抽其勝矣。
伝勅者執金吾藤納言、奉詔者草莽臣紀貫之 云云。
未及抽撰、分憂赴任、政務餘景、漸以撰定。
抑夫上代之篇、義尤幽而文猶質、下流之作、文偏巧而義漸疎。
故抽下始自弘仁、至于延長、詞人之作、花實相兼而已、今之所撰、玄之又玄也。
非唯春霞秋月、潤艷流於言泉、花色鳥聲、鮮浮藻於詞露、皆是以動天地感神祇、厚人倫成孝敬、上以風化下、下以諷刺上、雖誠假名於綺靡之下、然復取義於教戒之中者也。
爰以春篇配秋篇、以夏什敵冬什。
各各相鬪文、両両雙書焉、慶賀哀傷、離別羈旅、戀歌雜歌之流、各又對偶、惣三百六十首、分爲四軸、蓋取三百六十日、關於四時耳。
貫之秩罷歸日、將以上獻之、橋山晚松、秋雲之影已結、湘濱秋竹、悲風之聲忽幽。
傳勅納言亦已薨去。
空貯妙辭於箱中、獨屑落淚于襟上。
若貫之逝去、歌亦散逸、恨使絶艷之草、復混鄙野之篇。
故聊記本源、以傳来代云爾。

「始自弘仁、至于延長」

弘仁(810 – 824)、嵯峨・淳和天皇の時代。
延長(923 – 931)、醍醐・朱雀天皇の時代。

以下は他人による註釈か?

> 中納言兼右衛門督藤兼輔 承平三二十八薨五十七

中納言兼右衛門督 藤原兼輔 承平三(933)年二月十八日薨去、五十七歳。

> 醍醐帝 延長八九十九崩四十六

醍醐天皇、延長八(930)年九月十九日崩御、四十六歳。

紀貫之、承平五(935)年、土佐より帰洛。
天慶三(940)年、玄蕃頭。
天慶六(943)年、従五位上。
天慶八(945)年、木工権頭。
ということはこの序は943年から945年までの間に書かれたことになる。

> 黄帝崩葬橋山

黄帝、崩じて、橋山に葬る。『史記』「五帝本紀 黄帝」に見える。
「序」中に出る「橋山」の解説か?

> 舜崩蒼橋之野於江南九疑是為零陵

これも『史記』「五帝本紀 舜帝」に見える。
正確には「崩於蒼梧之野。葬於江南九疑。是為零陵。」

新撰和歌 巻第二 夏・冬 荓四十首

> 121 我がやどの 池のふぢなみ さきにけり 山郭公 いまやきなかむ

> 122 たつた山 にしきおりかく 神なづき いぐれのあめを 立ぬきにして

> 123 時鳥 花たちばなに うちはぶき いまもなかなむ こぞのふるごゑ

異本歌、ほととぎす花橘に香をとめて鳴くはむかしの人や恋しき

> 124 神な月 しぐれはいまだ ふらなくに まだきうつろふ かみなびのもり

> 125 五月には なきもふりなむ 郭公 まだしきほどの こゑをきかばや

> 126 かみな月 しぐれの雨は はひなれや きぎのこのはを 色にそめたる

> 127 さ月まつ はな立花の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

> 128 みやまには あられふるらし とやまなる まさきのかづら 色付きにけり

> 129 卯のはなも いまだちらぬに 郭公 さほのかはらに きなきとよます

> 130 神無月 時雨とともに かみなびの もりの木の葉は ふりにこそふれ

> 131 いそのかみ ふるきみやこの 時鳥 こゑばかりこそ むかしなりけれ

> 132 故郷は ならのみやこの ちかければ ひとひもみゆき ふらぬひぞなき

> 133 おもひいづる ときはの山の 郭公 からくれなゐの ふりいでてぞなく

> 134 ふゆさむみ こほらぬ夜半は なけれども よし野のたきは たゆるよぞなき

> 135 足引の 山郭公 けふとてや あやめの草の ねにたててなく

> 136 梅のはな 雪にまじりて みえずとも かをだににほへ 人のしるべく

> 137 なつの夜は ふすかとすれば 郭公 なく一こゑに あくるしののめ

> 138 ゆきふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれをむめと わきてをらまし

> 139 めづらしき 声ならなくに 時鳥 そこらのとしを あかずもあるかな

> 140 ゆふされば さほの川瀬の かはぎりに ともまどはせる ちどりなくなり

> 141 なつ衣 たちきるものを あふ坂の せきのしみづの さむくも有るかな

> 142 浦ちかく ふりしく雪を しらなみの すゑのまつ山 こすかとぞ見る

> 143 ほととぎす まつに夜ふけぬ このくれの しぐれにおほみ 道や行くらむ

> 144 冬くれば あやしとのみぞ まどはるる かれたるえだに 花のさければ

> 145 つれもなき なつの草葉に おく露は 命とたのむ せみのはかなさ

異本歌、くれがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞかなしき

> 146 ふる雪は 枝にもしばし とまらなむ 花も紅葉も たえてなきまは

> 147 つれづれと ながめせしまに 夏草は あれたるやどに しげくおひにける

> 148 くらぶ山 こずゑも見えで ふる雪に 夜半にこえくる 人やだれぞも

> 149 なつの夜を あまぐもしばし かくさなむ 見るほどもなく あくる夜にせむ

> 150 しら雪の ふりてつもれる 故郷に すむ人さへや おもひきゆらむ

> 151 夏の夜に しもやふれると みるまでに あれたる宿を てらす月かげ

> 152 雪のうちに 見ゆるときはは みわの山 道のしるべの すぎにやあるらむ

> 153 せみのこゑ きけばかなしな なつごろも うすくや人の ならむと思へば

> 154 けぬがうへに またもふりしけ 春霞 たちなばみゆき まれにこそ見め

> 155 いまさらに みやまにかへる 郭公 こゑのかぎりは わがやどになけ

> 156 冬ごもり はるまだとほき 鴬の すのうちのねの きかまほしきを

> 157 とこなつの はなをしみれば うちはへて すぐす月日の ときもしられず

> 158 昨日といひ けふとくらして あすか河 ながれてはやき 月日なりけり

> 159 夏の夜は まだよひながら 明ぬるを くものいづくに 月かくるらむ

> 160 ゆくとしの をしくも有るかな ますかがみ 見るわれさへに くれぬと思へば

新撰和歌

紀貫之は割とアバウトな人だった。『土佐日記』に

世の中に 絶えて桜の 咲かざらば 春の心は のどけからまし

青海原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

などと記しているが『古今集』では「咲かざらば」は「なかりせば」だし、「青海原」は「天の原」である。

「新撰和歌」でも勅撰集とはかなりの異同がある。 もしかすると貫之が正しくて、勅撰集が間違っているのかもしれない。

「序」には『古今集』の中から良い歌を選抜せよと醍醐天皇の勅命があったことになっているが、歌はかならずしも『古今集』に限っていない。

新撰和歌 巻第一 春・秋 荓百二十首

> 1 袖ひちて むすびしみづの こほれるを 春たつけふの 風やとくらむ

古今2 「はるたちける日よめる」貫之

> 2 秋きぬと めにはさやかに みえねども かぜの音にぞ おどろかれぬる

古今169「秋立つ日よめる」敏行

> 3 春がすみ たたるやいづこ みよしのの よし野の山に 雪はふりつつ

古今3 題知らず、読み人知らず

> 4 わぎも子が ころものすそを ふきかへし うらめづらしき 秋の初かぜ

古今171 題知らず、読み人知らず。「わぎもこ」→「わがせこ」

> 5 春ごとに かずへこしまに ひとともに おいぞしにける みねの若松

素性集、春とのみかぞへこしまにひとともにおいぞしにけるきしのひめまつ

> 6 きのふこそ さなへとりしか いつのまに いなばもそよと 秋かぜのふく

古今172 「いなばもそよと」→「いなばそよぎて」

> 7 とふ人も なきやどなれど くる春は 八重むぐらにも さはらざりけり

新勅撰8、古今和歌六帖1306、貫之集207

> 8 萩の葉の そよぐおとこそ 秋かぜの 人に知らるる はじめなりけれ

拾遺集139「延喜御時御屏風に」、古今和歌六帖3716、また3717 凡河内躬恒 をぎのはにふきくるかぜぞ秋きぬと人にしらるるしるしなりけれ

> 9 梅の花 にほふはるべは くらぶ山 やみにこゆれど しるくぞ有りける

古今39「くらぶ山にてよめる」貫之

> 10 いづれとも 時はわかねど 秋の夜ぞ 物思ふことの かぎりなりける

古今189「これさだのみこの家の歌合のうた」読人不知、小町集、宗于集

> 11 ときはなる まつのみどりも 春くれば 今ひとしほの 色まさりけり

古今24「寛平御時きさいの宮の歌合によめる」源宗于

> 12 紅葉せぬ ときはの山は ふくかぜの おとにや秋を ききわたるらむ

古今251 「秋の歌合しける時によめる」紀淑望

> 13 春やとき 花やおそきと ききわかむ 鴬だにも なかずも有るかな

> 14 こひこひて あふ夜はこよひ あまの川 きり立ちわたり あけずもあらなむ

> 15 花の香を かぜのたよりに たぐへてぞ 鴬さそふ しるべにはやる

> 16 こよひこむ 人にはあはじ たなばたの ひさしきほどに あへもこそすれ

> 17 雪のうちに 春はきにけり 鴬の こほれるなみだ いまやとくらむ

> 18 あきかぜに 夜のふけゆけば 天の川 かはせになみの たちゐこそまて

> 19 梅がえに きゐる鴬 はるかけて なけどもいまだ 雪はふりつつ

> 20 ちぎりけむ 心ぞつらき 七夕の としにひとたび あふはあふかは

> 21 春の夜の やみはあやなし むめの花 色こそみえね 香やはかくるる

> 22 としごとに あふとはすれど 七夕の ぬる夜のかずぞ すくなかりける

> 23 春たてば わかなつまむと しめし野に きのふもけふも 雪はふりつつ

> 24 木のまより おちくる月の 影みれば 心づくしの 秋はきにけり

> 25 かすが野の とぶひののもり いでて見よ いまいくかありて わかなつみてむ

> 26 うつろはむ ことだにをしき 秋はぎに をれぬばかりも おける白露

> 27 あづさ弓 おしてはるさめ けふふりぬ あすさへふらば わかなつみてむ

> 28 夜をさむみ ころもかりがね なくなへに はぎの下葉も 色づきにけり

> 29 君がため 春の野にいでて わかなつむ 我が衣手に 雪はふりつつ

> 30 わがために くるあきにしも あらなくに 虫の音きけば まづぞかなしき

> 31 春日野の わかなつみにや しろたへの 袖ふりはへて 人の行くらむ

> 32 秋の野に みちもまどひぬ 松むしの こゑするかたに やどやからまし

> 33 わがせこが ころも春雨 ふるごとに 野辺のみどりや 色まさりける

> 34 日ぐらしの なくやまざとの 夕ぐれは かぜよりほかに とふ人もなし

> 35 春がすみ たつをみすてて 行くかりは はななきさとに すみやならへる

> 36 春がすみ かすみていにし かりがねは いまぞなくなる 秋ぎりのうへに

> 37 ことしより 春しりそむる さくら花 ちるといふことは ならはざらなむ

> 38 秋はぎの 下葉いろづく けふよりや ひとりある人の いねがてにする

> 39 さくらばな さきにけらしな 足引の 山のかひより 見ゆる白雲

> 40 あきの露 うつしなればや みづ鳥の あをばのやまの うつろひぬらむ

> 41 みよし野の やまべにたてる さくら花 白雲とのみ あやまたれつつ

> 42 白雲の なかにまぎれて 行く雁の こゑはとほくも かくれざりけり

> 43 山たかみ くもゐに見ゆる さくら花 こころのゆきて をらぬ日ぞなき

> 44 白雲に はねうちかはし とぶかりの かげさへ見ゆる 秋の夜の月

> 45 山ざくら わが見にくれば はるがすみ みねにも尾にも たちかくしつつ

> 46 たがために にしきなればか 秋ぎりの さほの山辺を たちかくすらむ

> 47 見てのみや 人にかたらむ 山ざくら 手ごとにをりて いへづとにせむ

> 48 やまのはに おれるにしきを たちながら 見てゆきすぎむ ことぞくやしき

> 49 見る人も なき山里の さくら花 ほかのちりなむ のちぞさかまし

> 50 玉かづら かづらき山の もみぢ葉は おもかげにこそ みえわたりけれ

> 51 見わたせば やなぎさくらを こきまぜて みやこぞ春の にしきなりける

> 52 おなじえに わきてこの葉の うつろふは にしこそ秋の はじめなりけれ

> 53 さくら花 しづくにわが身 いざぬれむ かごめにさそふ かぜのこぬまに

> 54 ちはやぶる かみなび山の もみぢ葉は 思ひはかけじ うつろふものを

> 55 花の色は かすみにこめて 見せずとも 香をだにぬすめ 春の山かぜ

> 56 こひしくは 見てもしのばむ もみぢ葉を ふきなちらしそ 山おろしのかぜ

> 57 いざけふは はるの山辺に まじりなむ くれなばなげの 花のかげかは

> 58 かみなびの みむろの山を 秋ゆけば にしきたちきる ここちこそすれ

> 59 あさみどり いとよりかけて しら露を たまにもぬける 春のやなぎか

> 60 さをしかの あさたつをのの 秋はぎに たまと見るまで おける白露

> 61 青柳の いとよりかくる はるしもぞ みだれてはなの ほころびにける

> 62 いもがひも とくとむすぶと たつた山 いまぞもみぢの 色まさりける

> 63 古郷と なりにしならの みやこにも いろはかはらで 花ぞさきける

> 64 久かたの 月のかつらも あきはなほ もみぢすればや てりまさるらむ

> 65 さくら色に ころもはふかく そめてきむ はなのちりなむ のちのかたみに

> 66 あめふれば かさとり山の もみぢ葉は ゆきかふ人の そでさへぞてる

> 67 桜いろに まさるいろなき 花なれば あたらくさ木も ものならなくに

> 68 しら露の 色はひとつを いかなれば あきの木の葉を ちぢにそむらむ

> 69 世の中に たえてさくらの なかりせば 春のこころは のどけからまし

> 70 さほやまの ははそのもみぢ ちりぬべみ 夜さへ見よと てらす月かげ

> 71 さくら花 ちらばちらなむ ちらずとて 古郷人の きても見なくに

> 72 をみなへし おほかる野辺に やどりせば あやなくあだの 名をやたちなむ

> 73 春のきる かすみのころも ぬきをうすみ やまかぜにこそ みだるべらなれ

> 74 しものたて 露のぬきこそ もろからし やまのにしきの おればかつちる

> 75 をしと思ふ 心はいとに よられなむ ちるはなごとに ぬきてとどめむ

> 76 秋の野に おくしら露は たまなれや つらぬきかくる 雲の糸すぢ

> 77 ちる花の なくにしとまる ものならば われ鴬に おとらざらまし

> 78 たつた川 もみぢ葉ながす かみなびの みむろの山に あられふるなり

> 79 こまなめて いざ見にゆかむ 古郷は ゆきとのみこそ 花はちるらめ

> 80 秋ならで あふことかたき 女郎花 あまのかはらに たたぬものゆゑ

> 81 さくらちる 木のしたかぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞふりける

> 82 見る人も なくてちりぬる おく山の もみぢは夜の にしきなりけり

> 83 ゆく水に みだれてちれる さくら花 きえずながるる 雪とみえつつ

> 84 浪かけて 見るよしもがな わたつうみの 沖のたまもも 紅葉ちるやと

> 85 桜花 ちりぬるかぜの なごりには みづなきそらに なみぞたちける

> 86 我がきつる かたもしられず くらぶ山 きぎの木のはの 散るとまがふに

> 87 さくら花 みかさの山の かげしあらば ゆきとふるとも いかにぬれめや

> 88 なきわたる かりのなみだや おちつらむ ものおもふやどの うへの白雲

> 89 春ごとに ながるる川を 花とみて をられぬ水に 袖やぬれけむ

> 90 山川に 風のかけたる しがらみは ながれもやらぬ もみぢなりけり

> 91 としふれば よはひはおひぬ しかはあれど 花をしみれば もの思ひなし

> 92 をり人の こすのまにまふ 藤ばかま むべもいろこく ほころびにけり

> 93 かはづなく かみなび山に かげみえて いまやさくらむ やまぶきの花

> 94 ぬれてほす 山路の菊の 露のまに いつかちとせを 我はきにけむ

> 95 はるさめに にほへるいろも あかなくに 香さへなつかし 山吹の花

> 96 露ながら をりてかざさむ 菊の花 おいせぬ秋の ひさしかるべく

> 97 をりても見 をらずてもみむ みなせ河 みなそこかけて さける山吹

> 98 あきかぜの ふきあげにたてる 白菊は 花かなみだか 色こそわかね

> 99 かはづなく 井手の山ぶき さきにけり あはましものを 花のさかりに

> 100 心あてに をらばやをらむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

> 101 よし野がは きしの山ぶき 吹くかぜに そこのかげさへ うつろひにけり

> 102 秋をおきて ときこそ有りけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされる

> 103 わがやどに さけるふぢなみ たちかへり すぎがてにのみ 人の見るらむ

> 104 さきそめし やどしわかねば 菊の花 たびながらこそ にほふべらなれ

異本歌、咲きそめし時より後はうちはへて世は春なれや色の常なる

> 105 よそに見て かへらむ人に ふぢのはな はひまとはれよ えだをはるとも

> 106 きても見む 人のためにと おもはずは たれかからまし 我が宿のくさ

> 107 みどりなる まつにかけたる 藤なれど おのがこころと 花はさきける

> 108 一もとと おもひしものを ひろ沢の 池のそこにも たれかうゑけむ

> 109 花のちる ことやかなしき 春がすみ 立田の山の うぐひすのこゑ

> 110 色かはる 秋のくるをば ひととせに ふたたびにほふ 花かとぞ見る

> 111 さくがうへに ちりもまがふか 桜花 かくてぞこぞも 春は暮れにし

> 112 もみぢ葉を そでにこきいれて もてでなむ 秋をかぎりと 見む人のため

> 113 さくらちる はるの心は はるながら 雪ぞふりつつ きえがてにする

> 114 紅葉ばの ながれてとまる みなとには くれなゐふかき 浪やたつらむ

> 115 花もみな ちりぬるのちは ゆくはるの 古郷とこそ なりぬべらなれ

> 116 みちしらば たづねもいなむ 紅葉ばを ぬさとたむけて 秋はいにけり

> 117 年ごとに なきてもなにぞ よぶこ鳥 よぶにとまれる 花ならなくに

> 118 立田川 もみぢながれて ながるめり わたらばにしき なかやたえなむ

> 119 声たえで なけや鴬 ひととせに ふたたびとだに くべき春かは

> 120 ゆふづく夜 をぐらの山に なくしかの こゑのうちにや 秋はくるらむ

源満仲

源満仲にも一つだけ和歌が残っている。『拾遺集』

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲朝臣
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

清原元輔を源満仲が送った歌。

どうも、清和源氏初代、源経基は一応平将門の乱に関わり鎮守府将軍となったが、大したことはしていない。同じく将門の乱で征東大将軍となった藤原忠文のような役回りだろう。

経基の子・満仲も摂津に武士団を形成し鎮守府将軍となったというが、ほんとに武将と言える人か不明。

満仲の子・頼光も、どうも武士らしくない。しかし同じ満仲の子・頼信、頼信の子・頼義、頼義の子・義家は明らかに武士(武将、武人)である。だが、頼信、頼義、義家には和歌が残ってない。こうして見たとき、頼光の末裔である頼政も、どちらかといえば、武士らしからぬ武士だったということになる。

源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

後三条院御製

『後拾遺集』をながめていたら、後三条天皇の御製が三つあることに気付いた。

皇后宮みこのみやの女御ときこえけるときさとへまかりいでたまひにければ、そのつとめてさかぬきくにつけて御消息ありけるに
後三条院御製
まださかぬ まがきのきくも あるものを いかなるやどに うつろひにけむ

少し難しい。 まず皇后宮が、後三条の中宮・馨子内親王なのか。それとも白河の中宮・藤原賢子を言っているのか。 賢子は贈皇太后とは呼ばれたが皇后と呼ばれたことは無いらしい。 いっぽう馨子は後三条の死後、皇后宮と呼ばれ、『後拾遺集』完成時にも存命だった(賢子はすでに死去していた)。 だから、「皇后宮」というのは馨子であろう。 馨子は後三条が皇太子尊仁親王のころに入内している。 それが「皇后宮、皇子の宮の女御ときこえける時」であろう。 その皇太子妃が里に出ていたときに、尊仁がまだ花の咲いていない菊に添えて和歌を馨子に送った。菊もまだ咲いてないのに、どんな宿に行ってしまったのだろうか、と。

延久五年三月に住吉にまゐらせたまひてかへさによませたまひける
後三条院御製
すみよしの かみはあはれと おもふらむ むなしきふねを さしてきたれば

わかりにくいが、これは後三条が白河に譲位した後に、住吉大社に参拝して、その帰りに船上で詠んだ歌であるという。 譲位は延久四年十二月、崩御は延久五年五月であって、退位して半年あまりで死んでいるし、その死のわずか二ヶ月前に詠まれているのだから、おそらく死の病のために譲位したのではないか。「むなしきふね」とはその死ぬ間際の後三条のことを言い、神も「あはれ」と思うだろう、そう言っているのではなかろうか。

七月ばかりにわかき女房月みにあそびありきけるに蔵人公俊新少納言がつぼねにいりにけりと人人いひあひてわらひ侍りけるを、九月のつごもりにうへきこしめして御たたうがみにかきつけさせたまひける
後三条院御製
あきかぜに あふことのはや ちりにけむ そのよの月の もりにけるかな

蔵人公俊新少納言というのは藤原輔子の外祖父藤原公俊らしいが、どんな人かはよくわからない。七月頃に後三条のある若い女房が月を見にあちこち遊び歩いて、藤原公俊の局に入った(駆け落ちした?)ということを、人々が笑い合っているのを九月になって後三条が聞いて、秋に会おうという約束は果たされなかったのか、その夜の話は漏れてしまった、とでも言う意味であろうか。

ともかくこれらの歌を後三条が自分で詠んだのはほぼ間違いなさそうだし、それなりの知性をそなえた人であっただろうと思われる。

後三条天皇。

うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

  • 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
  • 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、
なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

あるいは

我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを

または

安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集

「ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集」をある種の義務感で読破してみようとしたのだが、余りにも退屈で挫折した。
この全集があっという間にその存在を忘れ去られてしまったのは、やはり単につまらないからなのだろう。
簡単な解説、あらすじくらいは付けて欲しかった。
この膨大な文書を読み通す人がはたしているだろうか。

例えば、Arthur und Squirell という話では、工場の経営者の子供に兄と妹がいて、兄は会社を継ぐのが嫌で失踪、社長は妹に婿をとって仕事を継がせようとしたが、妹にはすでに好きな男(牧師の息子)がいて、結局工場は売ってしまい、妹は牧師の息子と結婚した。
二人には男の子が出来たが(この子が主人公 Arthur)、Arthurが小さいうちに両親は他界してしまい、親戚に引き取られて、寄宿学校に入れられてしまうが、そこですったもんだあって、Arthurはある女の子(Squirell)と親しくなる(ボーイミーツガール!)。
そこへ失踪した兄(つまりAuthurの叔父)が大学教授となって戻ってきて(予定調和的な伏線の回収!)、甥Arthurとついでにその彼女Squirellを引き取って楽しく暮らす、という話なのだが、こんな話を延々と読まされたら気絶しそうだ。
あらすじだけで十分な気がする。
主人公が孤児で親戚に引き取られて知らない土地に連れて行かれる、という辺りがなんとなく「ハイディ」っぽい。

なぜ「ハイディ」だけがある程度読むにたえうる作品になり得たか(アニメの「ハイジ」はとりあえずよけといて)という考察は、もう少ししたほうが良いのではないか。
やはりストーリーというよりは、ハイディやアルムおじさんやデーテやロッテンマイヤーなどのキャラの濃さだと思うのだよね。
キャラの濃さという意味では「フローニ」もそれなりのもんだと思うよ。

そんで余りにも頭が疲れたのでヨハンナ・シュピリはやめにして佐佐木信綱を読み始めたのだが、これも恐ろしく退屈だ。この人は、少なくとも初期はちゃんと大和言葉だけで和歌を詠んでいた。江戸時代の和歌や、明治期の桂園派の和歌と大差ない。だが次第に漢語やそのほかの外来語が混じり始める。明らかに明星派やアララギ派の影響をうけているのである。佐佐木信綱の代表作である

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

あるいは正岡子規の代表作といわれている

くれないの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

これらは長く伸びた俳句、或いは漢詩の翻案とでもいうべきものだ。漢語を交えて叙景、もしくは叙事だけでできあがっている。確かに古く武士にもこのような直截な叙景の歌はあったかもしれないが、叙景や叙事が心象風景に転調するところが和歌の骨頂であって、
叙景に仮託した心象の微妙な表現というものはやはり大和言葉、和歌でなくてはならない。

佐佐木信綱は明治の歌を詠みたかった。新しい時代の和歌は変わらねばならないと思った。だから明治以後の話題を歌に取り入れなくてはならない、という義務感のようなもので、いろんな概念、例えば「サタン」のような言葉を取り入れた。

敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるがごと雲走りゆく

これは単に雨雲がサタンの軍勢のように見える、ということが言いたかったのだが、こういうものが世間にもてはやされることによって佐佐木信綱という歌人自体が変容していく。

佐佐木信綱の崩れ方というのは昭和天皇の崩れ方と良く似ている。おそらく昭和天皇も佐佐木信綱の影響をうけたのだろうと思う。そして今の現代短歌というものは、もはや何でもありのカオスになってしまった。ましかし、短歌は短歌で勝手にやれば良い。問題は和歌を詠む人がほとんどいなくなり下手をすると私で断絶するかもしれないってことなのだ。

私には、明治の歌人たちは、明治という一過性の時代に和歌を適合させようとして和歌を破壊した(あるいは和歌から逸脱していった)だけのように見える(柳田国男などの桂園派の歌人は抵抗した。明治天皇も最後まで大和言葉だけで歌を詠んだ)。明治は過ぎ去っても和歌は残らねばならない。和歌は時代の影響をうけるとしても、和歌自体は「永遠の過去」に属するものでなくてはならない。能や歌舞伎ではそれが当たり前なのに和歌はそのことが軽んじられているのは残念ではないか。

天皇の血を引いた徳川将軍

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  1. 徳川家康 の母は「大」と言い、皇族ではない。
  2. 秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。
  3. 家光 の母「江」も皇族ではない。正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。
  4. 家綱 の母「楽」も普通の農民の娘。正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。家綱に実子はない。
  5. 綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。
  6. 家宣の母「保良」も一般人。正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。
  7. 家継の母「喜代」も一般人。霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。
  8. 吉宗の母「由利」も一般人。ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。
  9. 家重の母「須磨」も一般人。ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。
  10. 家治の母「幸」も一般人。ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。
  11. 家斉の母「富」は幕臣の娘。
  12. 家慶の母「照」も一般人。ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。
  13. 家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。
  14. 家茂の母「美佐」は紀州松平。ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。
  15. 慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。母は松室敦子。霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。

家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかった。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。