ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集

「ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集」をある種の義務感で読破してみようとしたのだが、余りにも退屈で挫折した。
この全集があっという間にその存在を忘れ去られてしまったのは、やはり単につまらないからなのだろう。
簡単な解説、あらすじくらいは付けて欲しかった。
この膨大な文書を読み通す人がはたしているだろうか。

例えば、Arthur und Squirell という話では、工場の経営者の子供に兄と妹がいて、兄は会社を継ぐのが嫌で失踪、社長は妹に婿をとって仕事を継がせようとしたが、妹にはすでに好きな男(牧師の息子)がいて、結局工場は売ってしまい、妹は牧師の息子と結婚した。
二人には男の子が出来たが(この子が主人公 Arthur)、Arthurが小さいうちに両親は他界してしまい、親戚に引き取られて、寄宿学校に入れられてしまうが、そこですったもんだあって、Arthurはある女の子(Squirell)と親しくなる(ボーイミーツガール!)。
そこへ失踪した兄(つまりAuthurの叔父)が大学教授となって戻ってきて(予定調和的な伏線の回収!)、甥Arthurとついでにその彼女Squirellを引き取って楽しく暮らす、という話なのだが、こんな話を延々と読まされたら気絶しそうだ。
あらすじだけで十分な気がする。
主人公が孤児で親戚に引き取られて知らない土地に連れて行かれる、という辺りがなんとなく「ハイディ」っぽい。

なぜ「ハイディ」だけがある程度読むにたえうる作品になり得たか(アニメの「ハイジ」はとりあえずよけといて)という考察は、もう少ししたほうが良いのではないか。
やはりストーリーというよりは、ハイディやアルムおじさんやデーテやロッテンマイヤーなどのキャラの濃さだと思うのだよね。
キャラの濃さという意味では「フローニ」もそれなりのもんだと思うよ。

そんで余りにも頭が疲れたのでヨハンナ・シュピリはやめにして佐佐木信綱を読み始めたのだが、これも恐ろしく退屈だ。この人は、少なくとも初期はちゃんと大和言葉だけで和歌を詠んでいた。江戸時代の和歌や、明治期の桂園派の和歌と大差ない。だが次第に漢語やそのほかの外来語が混じり始める。明らかに明星派やアララギ派の影響をうけているのである。佐佐木信綱の代表作である

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

あるいは正岡子規の代表作といわれている

くれないの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

これらは長く伸びた俳句、或いは漢詩の翻案とでもいうべきものだ。漢語を交えて叙景、もしくは叙事だけでできあがっている。確かに古く武士にもこのような直截な叙景の歌はあったかもしれないが、叙景や叙事が心象風景に転調するところが和歌の骨頂であって、
叙景に仮託した心象の微妙な表現というものはやはり大和言葉、和歌でなくてはならない。

佐佐木信綱は明治の歌を詠みたかった。新しい時代の和歌は変わらねばならないと思った。だから明治以後の話題を歌に取り入れなくてはならない、という義務感のようなもので、いろんな概念、例えば「サタン」のような言葉を取り入れた。

敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるがごと雲走りゆく

これは単に雨雲がサタンの軍勢のように見える、ということが言いたかったのだが、こういうものが世間にもてはやされることによって佐佐木信綱という歌人自体が変容していく。

佐佐木信綱の崩れ方というのは昭和天皇の崩れ方と良く似ている。おそらく昭和天皇も佐佐木信綱の影響をうけたのだろうと思う。そして今の現代短歌というものは、もはや何でもありのカオスになってしまった。ましかし、短歌は短歌で勝手にやれば良い。問題は和歌を詠む人がほとんどいなくなり下手をすると私で断絶するかもしれないってことなのだ。

私には、明治の歌人たちは、明治という一過性の時代に和歌を適合させようとして和歌を破壊した(あるいは和歌から逸脱していった)だけのように見える(柳田国男などの桂園派の歌人は抵抗した。明治天皇も最後まで大和言葉だけで歌を詠んだ)。明治は過ぎ去っても和歌は残らねばならない。和歌は時代の影響をうけるとしても、和歌自体は「永遠の過去」に属するものでなくてはならない。能や歌舞伎ではそれが当たり前なのに和歌はそのことが軽んじられているのは残念ではないか。

天皇の血を引いた徳川将軍

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  1. 徳川家康 の母は「大」と言い、皇族ではない。
  2. 秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。
  3. 家光 の母「江」も皇族ではない。正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。
  4. 家綱 の母「楽」も普通の農民の娘。正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。家綱に実子はない。
  5. 綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。
  6. 家宣の母「保良」も一般人。正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。
  7. 家継の母「喜代」も一般人。霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。
  8. 吉宗の母「由利」も一般人。ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。
  9. 家重の母「須磨」も一般人。ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。
  10. 家治の母「幸」も一般人。ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。
  11. 家斉の母「富」は幕臣の娘。
  12. 家慶の母「照」も一般人。ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。
  13. 家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。
  14. 家茂の母「美佐」は紀州松平。ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。
  15. 慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。母は松室敦子。霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。

家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかった。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。

天皇の系図

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皇女、皇子、主要な関係者などほぼ書き込んだ、と思う。 ただし明治以降の皇女は一部の例外をのぞいて記してない。 幼年で死んだ人は略していることが多いが、書いている場合もある。 これからは微妙な訂正などしていこうと思う。

後西天皇の皇子・有栖川宮幸仁親王とか、家康の孫・松平忠直の孫娘に当たる明子内親王、 霊元天皇の后・松室敦子やその娘・八十宮(吉子内親王)については「将軍家の仲人」にも書いたので、 特に感慨ぶかい。 その他にもいろんなことをいろいろ書き散らしてきたわけだが。

景行天皇はすごいな、とか、 彦坐王とか何者なんだろうとか、 手白香皇女ってほんとは女帝だったんじゃないの、とかいろんな妄想が沸いてくる。

図が横に広がっているときには、やはり、天皇家を巻き込んだ、なんか歴史的にたいへんなことが起きているんだよね。

掛け軸かなんかにして売れば需要があるんじゃなかろうか。

天皇の系図

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皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、後嵯峨天皇あたりで力尽きた。余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。妃や子供の数が明らかに減っている。たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。その後も天皇家はどんどん衰退していく。天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。源光(845-913)。母は宮人・百済王豊俊の娘。百済からの帰化人の家系。源多(みなもとのまさる)という兄がいた。この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。

宮家

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思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」というのはなんかおかしな感じである。誰がそんなことを言い始めたのだろうか。佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。かといって親王宣下されたわけではない。だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、それを言い出した人はそうとうな山師だ。まったく同じことは後南朝でも起きた。後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。

南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。これは南朝に対抗するために違いない。特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、持明院統と特別に対立しているわけではない。かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。

伏見宮家は北朝から分かれたが、本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。

閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。

ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。

本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、全滅してしまっている。白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、まだ血は近かったのに違いない。

思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、いつ王国が復活するかわからないわけだが、余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。

明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、宮家を創設するようになったから大混乱だ。

江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。それは室町期でも同じだ。皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。

京極派の末裔2

話を整理してみると、鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。

ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、 二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、 つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、 二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。 二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、 冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。 その傾向は、 常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。 つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、 思いついたままを歌にしてみる。 ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、 その両方を楽しんでいた。 後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。ある意味そうかもしれない。 宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。

松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。
人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。
松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。
このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。
正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。
京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。 たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。 そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、 正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、 堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。 彼は逃れようとした。 しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、 彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、 江戸より昔ではなく、江戸初期に起きたことなのである。 江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、 そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。

幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。
ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、 後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、 宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。この見立てはよい。

後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。私にはそうは思えない。なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、彼らから京極為兼が生まれてきたのである。また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。為家は確かに生まれながらの「正風」である。題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。しかし定家はかならずしもそうではない。為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。こういうものを宣長は完全に無視している。

京極派の末裔

中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。 北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。 歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。

北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。

私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。そうではなかったのだ。 為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。為兼によって京極家は途絶えたが、しばらく分家の冷泉家に伝わった。例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。この頃から連歌が流行しだす。源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。金葉集の頃だ。しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、長いものを作るようになった。東常縁の弟子が宗祇。宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。

常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。
宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。

私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。

宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。
保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、その分岐点は定家だった、ということもできる。

柿園

加納諸平だが、『柿園詠草』巻頭

うぐひすの 今朝鳴く声を 糸にして 霞の袖に 花ぞ縫はまし

こういう歌を好む人もいるのだろうが、私にはいかにもあざとく見える。

心して 風の残せる 一葉すら もずの羽吹きに 誘はれにけり

絵はがきの挿絵のような、安っぽさがある。 こういうものを明治の歌人が詠んだならば、まあ仕方ないと思うかもしれんが、 景樹の桂園派と何か無理に張り合っているような感じがする。 江戸時代も安政くらいまでくると和歌もだいぶ雰囲気が変わってくる。 歌というものはある程度きどってて、かっこつけてるものなんだが、加納諸平のはそれが、嫌みに感じるのだ。

夕かけて 小雨こぼるる たかむらの 蚊のほそ声に 夏を知るかな

こういうものであれば好感もてる。

棹ふれし 筏は一瀬 過ぎながら なほ影なびく 山吹の花

おそらくこの歌は、景樹の

山吹の 花ぞひとむら 流れける いかだのさをや 岸に触れけむ

に対抗したものではなかろうか。「柿園」というのも景樹の「桂園」に対抗したもののように思われるし。 加納諸平という人は紀州の加納家の養子となり、 やはり和歌山で紀伊徳川家に仕えていた本居大平(宣長の養子)に入門して国学をまなんだ。 つまり宣長の孫弟子に当たるわけだが、 宣長や大平とはまるで歌風が違う。

『宣長さん』3

p. 45

神童にしてはならない。宣長さんが神様になってしまうとき、学問は、とまる。少なくとも伊勢の青少年の可能性は摘みとられる。

これも面白い言及である。 著者が伊勢の高校国語教師であるから、その視点から宣長はそういうふうに見るべきだということだ。

p. 162

だいたい宣長さんの学問の発想には独創性は少ない、とわたしは見ている。

これも非常に大胆な発言だ。今まで誰も言わなかったことである、という意味で「独創」的でもある。 確かにさまざまな古典を当たって新しい知見を提起するというものが研究であるとするならば、 宣長はしかしたとえば「竜田川」は奈良の地名ではなくて、山崎の水無瀬川のことである、などと言った非常に独創的な指摘がある。 ただそれは丹念に古典を調べて総合した結果たどりついた事実というものであり、 「学問の発想」というものではないのかもしれない。 いわばスーパーコンピューターで総当たりの統計処理を行って得られる結果、のようなものである。 宣長はスーパーコンピューターであって学者ではない、という言い方もできなくはない。同じことは契沖にも言えるかもしれない。 宣長が導き出した結果はみんなにとって有り難く便利なものだった。

確かに宣長の場合には、あらかじめ何かの直感によってこうであろうという仮説を立てて、 それをじっくりと調査・証明しようというような学問ではない。 いろんな本をやたらと乱読してメモしていたらたまたまある事実に気付いた、というような研究の仕方である。 さもなくば、少年の頃から変わらない信念とか執着があるだけで、 それは結局研究とか学問というような形で昇華されることはなかった、と言えるかもしれない。

『宣長さん』2

小林秀雄は宣長の桜に対する異様な愛着に気付いていたが、 中根道幸は、宣長が自らを「神の申し子」と信じ切っていたことによる、と断言する。 つまり、子の授からなかった宣長の父母が、吉野水分の子守明神に願掛けをしたことによって宣長を儲けたことを言う。 水分(みくまり)は「みごもり」、子授け、子育ての神として、 『枕草子』にも「みこもりの神またをかし」と書かれているそうだ。

また、p. 17

サクラも歌も物のあわれもヤマトゴコロも紫式部も、アマテラス男神説をふんがい排撃するのも、

宣長が父を失った「母子家庭」であり、「母性原理」によるのである、というのだ。 これらは小林秀雄よりもはるかに踏み込んだ言及である。

父母の むかし思へば 袖濡れぬ 水分山に 雨は降らねど
みくまりの 神のちはひの なかりせば 生まれ来めやも これの吾が身は
鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを
したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

一方、宣長の桜に対する思いを詠んだ歌として、小林秀雄は次のような歌を挙げている。

めづらしき こまもろこしの 花よりも 飽かぬ色香は さくらなりけり
忘るなよ 我が老いらくの 春までも 若木の桜 植ゑし契りを
我が心 休むまもなく 使はれて 春はさくらの 奴なりけり
此の花に なぞや心の 惑ふらむ 我は桜の 親ならなくに
桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染める 我が心かな

私も、宣長の一番わかりにくい、というかつまらないところはその非常に女性的なところである。 私には『源氏物語』はよくわからない。『和泉式部日記』なら面白いが。

「もののあはれ」というのも俊成や西行の言うようなものならわかる気がするが、『源氏』がどうという気にはならない。 和歌の趣味に至っては、私とは部分的に全然違っている。

宣長の和歌はいわゆる二条派の和歌であって、 彼が二条派固有の古今伝授を批判するのも、 公家と坊さん趣味の二条派の系譜に、戦国時代になって東常縁や細川幽斎などの武将が連なるようになったのが気に入らないだけではなかろうか。 古今伝授がいかんのであれば三条西実隆もダメなはずだが、公家の三条西には非常に同情的なのだ。 また京極派が嫌いなのも、京極為兼がかなり異常な公家であったからかもしれない。 ともかくいわば女々しい公家文化から少しでも外れてしまうと宣長は全然拒絶反応を示してしまう。

宣長の神霊思想についても、『古事記』についても、私はあまり興味がない。 「天地初発之時」を

あめつちはじめてひらけしとき

と訓もうが、

あめつちのはじめのとき

と訓もうが、私にはどちらでも良い気がする。 「天地が開く」という言い方は古文に見えないので「開く」と解釈してはならないというのが宣長の意見で、 まあそうかもしれないとは思うが、私にはそれほど重要だとは思えない。 「あめつちおこりしとき」と訓む人もいるらしい。 宣長は学者として極めて卓越した研究能力を持っていた。 そして仏教系・儒教系、垂加神道や度会神道などもよってたかって宣長の研究成果を自分たちの教義に取り込み、 自分たちに都合良く解釈するためのソースにしてしまった。