光格天皇

光格天皇は、上皇になってから崩御したので、当時の慣習によれば、光格院と諡号されるはずであったが、天皇号が復活して、光格天皇と諡された。それは公家から武家に強く要望したからだという。公家の中では中山忠能だけが反対したという。

後に明治になると、さかのぼってみな天皇号になった。たとえば後鳥羽天皇は当時は後鳥羽院と諡号されたのだが、今では後鳥羽天皇と呼ぶのが正しい名前。孝明天皇の父の代からそうだった、というのが興味深い。

青蓮院と知恩院

青蓮院のサイトによれば、

徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられました

とあり、地図を見てみるとたしかに知恩院と青蓮院はどちらも円山町にあって、境内が隣り合っている。 知恩院は浄土宗で青蓮院は天台宗のはずだがおかしいなと思い、良く読んでみると、

慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。
青蓮院の由緒

というわけで、青蓮院門跡が慈円のとき、慈円が当時新興宗教であった浄土宗や浄土真宗を保護して、それが縁で現在の知恩院ができた、と思われる。ウィキペディアによれば

浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。
知恩院

とあるから、もともと青蓮院の境内に法然が草庵のようなものを構え、 その寺域を家康が青蓮院から分離して、今のような大伽藍を作った、ということなのだろう。

知恩院のサイトの記述も参考にするに、知恩院が浄土宗総本山としての地位を獲得したのは家康以来ということではなかろうか。

神宮式年遷宮

明治聖徳記念学会紀要『式年遷宮を終えて』を読んでいて思ったのだが、確かに式年遷宮が天武天皇から始まったのかどうかということも、疑おうと思えば疑えるわけで、天武天皇は確かに古すぎるし、その起こりから「廿年に一度まさに遷御せしめ奉るべし」などという明確な勅令があったのも不自然で、持統天皇からじわっと自然に始まったというのが、ありそうな気がする。

さらに疑うと、伊勢神宮というのはもともと、天皇一代限りで移築される御所に付属したものであり、恒常的な都が作られるようになって初めて伊勢に移され、移築の伝統が伊勢という一箇所で式年遷宮という形式で繰り返されることになったのかもしれない。

そう考えるのが一番自然ではなかろうか。

古典

思うに、江戸時代の儒者や文人にとって、古文と漢文と日本史というものは、渾然一体としたものであり、どこかに切れ目があったのではない。今それらは三つの全く異なる「教科」になった。

日本史の知識がなくて古文が読めるわけもなく、読んでおもしろいわけもない。古文をおもしろいと思うのも、それを文芸作品とか歴史小説とかとして読むからである。センター試験の問題はそういうコンテクストをまったく無視している。高校生に嫌われるのは当然だ。

日本史の方もそうだ。日本史なんてものは、古文という古典文芸作品の集成がなければ、この地球上において単なる極東のローカルな歴史に過ぎない。おもしろいはずがない。

戦前はまだ日本史と古文は密接に連携していたが、戦後は無残に切り刻まれた。平家物語や太平記は死んだ。今更蘇生させるのはほとんど不可能だ。特に問題なのは太平記を読まなくなって南北朝・室町・応仁の乱までの流れがまるで見えなくなってしまったことだ。ほとんどの日本人は室町音痴だ。その最たる例は司馬遼太郎。

後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。 『新古今集』

みこの宮と申しける時、太宰大弐実政学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
後三条院御歌
思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。思うに、初出は伊勢物語であろう。意味も一番素直でわかりやすい。後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。『玉葉集』

御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
と申して侍りければ、後三条院
色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

「星」と「欲し」をかけている。星のように美しい菊を欲しいと天皇に請うたがもらえなかった。後三条の歌はおそらく、欲しいと言ってくれたらやったのに、後からほしかったことを人から聞いた、というような意味だろう。

後三条の御製集というものがあったのだろうか。

二条天皇

二条天皇はわずか23歳で崩御したのだが、 優れた和歌を残している。独創的で斬新。白河天皇の凡々とした歌とはまるで違う。 崇徳院や後鳥羽院に通じるものもある、といえようか。 二代后など世間を騒がすこともあったようだが、 若々しく聡明で、 優れた君主であったようだ。

われもまた春とともにやかへらましあすばかりをばここに暮らして
雪つもるみねにふぶきやわたるらむ越のみそらにまよふしら雲
などやかくさも暮れがたき大空ぞわが待つことはありと知らずや
ことのねにかよひそめぬる心かな松ふく風にあらぬ身なれど
しるらめやおつる涙の露ともにわかれのとこにきえてこふとは
たれもよもまたききそめし鴬の君にのみこそおとしはしむれ
しら雲にはねうちつけてとぶたづのはるかに千代のおもほゆるかな

清輔に続詞花和歌集の編纂を命じたそうだが、完成しなかったのが実に惜しい。 その歌の多くは俊成が編んだ(後白河院勅撰の)千載和歌集に採られたのだが、その俊成

二条院の御とき、四代まで侍臣なることをおもひてよみ侍りける
いかなればしづみながらにとしをへてよよの雲ゐの月をみつらむ

という恨み節も面白い(四代とは崇徳、近衛、後白河、二条をいう)。 清輔と俊成はほぼ同い年だったと思われるので、清輔に対して俊成が重く用いられなかったことを言っているのだろうと思う。

風雅・玉葉集に採られている次の歌もなかなか良い。 たしかに、京極風の走りと言うこともできよう。 千載和歌集に漏れた(今日に伝わらない)多くの秀歌があるのに違いない。

いかでわれ人を忘れむ忘れゆく人こそかくは恋しかりけれ
空はれし豊のみそぎに思ひ知れなほ日の本のくもりなしとは

次の法印澄憲という人の歌もなかなかしみじみしている。

二条院かくれさせ給うて御わさの夜、よみ侍りける
つねにみし君がみゆきをけふとへばかへらぬたびときくぞかなしき

後白河院はあまりにも無能だったので(鳥羽院も、表向き平穏だっただけでものすごく無能だったと思う。崇徳はたぶん有能だった。しかし何もさせてもらえず、近衛は早逝した。頭が良いかどうかは和歌を見ればわかる。二条と崇徳は歌がうまかった。白河と後白河は平凡。鳥羽には歌が一つもない。まともな言語能力があったかどうかも不明)二条天皇によって強制隠居させられていたのだが、二条天皇が崩御して、後白河院が朝廷に復帰し、清盛を重用、 源平の争乱の原因となった。 二条天皇は後三条天皇の再来であり、また白河院のように聡明であった。 もし二条天皇が白河院や鳥羽院のように長寿であったら、日本の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれん。

勅撰集に載ってない御製を掘り起こすのはとても難しい。 後鳥羽院や順徳院のように御製集が残っていれば良いが、 そうでないと我々素人にはどうしようもない。

白河天皇

白河天皇が和歌が大好きだったのは間違いない。 本人の和歌は、それにしてはあまり知られてない。 どちらかといえば凡庸な歌、下手の横好き的なものだったようだ。

風吹けば柳の糸のかたよりに靡くにつけて過ぐる春かな
春霞立ちかへるべき空ぞなき花のにほひに心とまりて
おしなべてこずゑ青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり
ほととぎす松にかかりて明かすかな藤の花とや人は見つらむ
池水にこよひの月を映しても心のままに我が物と見る

ある意味、後白河院の歌に良く似ている。 こういう歌は、だいたいにおいて、退屈な叙景もしくは心象の歌であり、 天皇で、そうとうたくさん詠んだから、今日まで残っているにすぎないのではなかろうか。 おそらくは後世に伝わらなかった平凡な歌が大量にあるのではないか。

鳥羽天皇

鳥羽天皇という人は、よくわからん人だ。 まず、和歌が残っていない。 二十八年間も院政を敷いて、この当時の天皇としては異例だ。 普通、天皇の和歌というものは、何かしら残るものだ。 成人して院政までやっていれば、少なからぬ和歌、もしくは今様などそれに相当するものが残るのが当たり前だろう。 勅撰集も編ませていない。 その上、上皇になった後の妃・得子に皇室の財産の多くを相続させている。 普通皇室の財産は子孫の天皇に相続するものだろう。 白河院の時代から世の中は中央集権から地方分権に転換し、天皇家は日本最大の領主、 以上の存在ではなくなっていた。 その所領を無造作に妻に相続させてしまう。

得子の専制はそれまでの藤原氏外戚というのとも、少し違うような気がする。 鳥羽天皇の死後、保元の乱、平治の乱と、得子を原因とする大乱が二度も起こり、 源平の争乱、鎌倉幕府へと続いていく。

鳥羽天皇や得子のサロンには文化の匂いがまったくない。異様だ。 もしかすると、鳥羽天皇は、相当に暗愚だったのかもしれん。 得子も貪欲ではあっても聡明ではなかったろう。 少なくとも無気力であったのは間違いなかろう。

白河天皇も、崇徳天皇も、後白河天皇も非常に個性的なのに比べて際立っている。 非常に不幸なことだと思う。 日本の黒歴史の始まり、とも言える。 崇徳天皇が挙兵したのも、実は相当深刻な問題をはらんでいたからではなかろうか。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。 いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

ひとりもる しづが千代田の 岡におふる まつてふ心 君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。 他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。 たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、これ。 今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。四月四日、訓導にも動員令が下ったと、祖父は「応招前記」という日記に書いている。面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった (もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

きのふまで 人ごととのみ 思ひしに 今日より我も いくさ人なり

悪くない。明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや
菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ
粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを
沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり
動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため
今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら
メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける
我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ
皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな
いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ
みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。