南朝の都は吉野城、つまり吉野山の金峯山寺にあったかと漠然と思っていたが、実はもっと南の奥吉野、天川村の天川弁財天社あたりなのだった。飛鳥時代の吉野宮というのは東の方、吉野川をさかのぼって菜摘とか宮滝とか言われる所にあった。
思うに、金峯山寺というところは確かに修験者の拠点ではあったかもしれないが、城とするにさほど適した場所ではないように思う。千早城や赤坂城にしても同じ。天川村というのはものすごい山奥だ。こんなところに入り込まれたらとても攻めがたかっただろうと思う。
南朝の都は吉野城、つまり吉野山の金峯山寺にあったかと漠然と思っていたが、実はもっと南の奥吉野、天川村の天川弁財天社あたりなのだった。飛鳥時代の吉野宮というのは東の方、吉野川をさかのぼって菜摘とか宮滝とか言われる所にあった。
思うに、金峯山寺というところは確かに修験者の拠点ではあったかもしれないが、城とするにさほど適した場所ではないように思う。千早城や赤坂城にしても同じ。天川村というのはものすごい山奥だ。こんなところに入り込まれたらとても攻めがたかっただろうと思う。
それはまあそうと義持は、子の義量が死んでも次期征夷大将軍を決めず、空位のままほっといて、自分が死ぬときにも後継者の指命を拒否した、というのは、普通に考えれば、もう足利宗家から将軍ださなくてもいいじゃん、事実今も幕府は問題なく動いてるし、すでに幕府は守護連合みたいなもんで、将軍とか飾りだからいらないんじゃね、とか、守護が衆議して決めればいいんじゃね、とか、そんなことを考えていたんじゃないかと思う。江戸時代の徳川宗家みたいに是が非でも将軍職は世襲しますよみたいな気分はなかったのではなかろうか。
江戸時代の幕臣とか譜代大名らはみんな徳川幕府によりかかって、運命共同体みたいになっていたが、室町時代は守護の連合体みたいなもんで独立性が高いから、必ずしもみんなで一生懸命足利家をもり立てようという感じではない。日野とかの一部の公家が足利宗家に執着してただけなんじゃないかと思える。江戸時代の感覚で室町時代を見ても雰囲気わからんと思う。
で、三宝院門跡の満済というのが義持の護持僧で一番の側近、籤引きで定めることを決めたのは畠山満家であって、この二人が仕組んだいかさま籤ではなかろうかということについて、「籤引き将軍足利義教」に若干詳しい考察があるのだが、思うに、黒幕は義持の正室で義量の生母である、日野栄子。そしてその日野家当主義資であったろう、と考えるのが自然だ。日野家は義満の正室と継室を出している。足利将軍家の内情に一番詳しくかつ親密な関係だったはずだ。四人の候補を見るに、一番の年長は義円(義教)。出自も比較的まっとうだ。他の三人は母親の得体がしれない。また、日野義資はおそらく義円が青蓮院門跡であったころの世話役であったと思われる (いやそもそも、義円にあたりをつけていたからこそ世話役を買ってでたのだろう)。義資は義円に、自分の妹・宗子を正室にするならば将軍にしてやろうと義円にもちかける。籤で義円が選ばれるとすかさず彼を日野邸に連れ込み(1428)、元服が済むと宗子を正室に送り込む。こうして、義量の血統が絶えても、日野家は足利家の外戚のまま存続することを得た。
ところが、将軍となった義教は日野がじゃまで仕方ないから、正親町三条家の尹子という女を正室にすると勝手に宣言(1431)、宗子は離縁され、その代償に宗子の妹の重子が側室になる。重子は義勝(1434)、義政(1436)、義視(1439)を産む。十分男子が生まれ、もはや義教が不要になった日野家は、正室正親町三条氏が嫡男を生まないうちに、赤松満祐をそそのかして (或いは、義教が次に粛清するのはおまえだ、とか脅しをかけて)義教を討たせ(1441)、義勝に将軍を継がせる(1442)。義勝は早世してしまったので、義政を跡継ぎにして(1449)、日野富子を正室にすえる(1455)。
という具合だったと考えるとすんなりいくではないか。まさに仁義なき戦い室町編(笑)。
足利家が日野家にがんじがらめにされていくのが目に見えるようだ。
つまり、籤引きなんて単なるいかさま、嘘っぱちだ、と言いたいわけなのだが。
義教が足利宗家を継いでもすぐには将軍宣下がなされなかったというのは、義量が死んで長いこと空位だったから、別に義教が将軍にならなくてもいいんじゃね、くらいの雰囲気だったのではなかろうか。鎌倉公方の足利持氏が代わりに将軍宣下されるんじゃないか、
という可能性があったとは思えないなあ。日野家としては義教くんが将軍になってくれないとただの守護の中の一人みたいになって困るから、いろいろ運動したんだろうなあ。そんくらいじゃないのか。
「よも」は昔は普通に使われていた言葉で、たぶん、「四(よ)」と「面(おも)」がつながった言葉だ。岩波古語辞典には「も」は方向を現す、ともあるが、「おも」の「お」が欠落した形、とも。「お」が欠落したというより、「田の面(たのも)」とかも、「たのおも」が母音連続で一母音になっただけだろうと思われる。
「四面八面(よもやも)」とも言い、そこから「四方山(よもやま)」となった、らしい。
四方の海、四方の浦、四方の山、四方の山風、四方の山河、四方の山の端、四方の紅葉、四方の梢、四方の山辺、四方の木の葉、四方の木枯らし、四方の花、四方の桜、四方の草木、四方の木下、四方の空、四方の嵐、四方の国、四方の諸人、などなど。
まれに四方のあはれ、とか。これはひねりすぎでは。
『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。父は孝明天皇、母は中山慶子。典侍というから中宮や女御の次くらい? 生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。 中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。
慶子の父が中山忠能。 忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。
忠能
天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ
綱子
けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば
日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け
七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん
「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。
我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ
とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌
雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら
など、なかなか良い。
全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、その後和歌は忘れられてしまった。
光格天皇は、上皇になってから崩御したので、当時の慣習によれば、光格院と諡号されるはずであったが、天皇号が復活して、光格天皇と諡された。それは公家から武家に強く要望したからだという。公家の中では中山忠能だけが反対したという。
後に明治になると、さかのぼってみな天皇号になった。たとえば後鳥羽天皇は当時は後鳥羽院と諡号されたのだが、今では後鳥羽天皇と呼ぶのが正しい名前。孝明天皇の父の代からそうだった、というのが興味深い。
青蓮院のサイトによれば、
徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられました
とあり、地図を見てみるとたしかに知恩院と青蓮院はどちらも円山町にあって、境内が隣り合っている。 知恩院は浄土宗で青蓮院は天台宗のはずだがおかしいなと思い、良く読んでみると、
慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。
青蓮院の由緒
というわけで、青蓮院門跡が慈円のとき、慈円が当時新興宗教であった浄土宗や浄土真宗を保護して、それが縁で現在の知恩院ができた、と思われる。ウィキペディアによれば
浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。
知恩院
とあるから、もともと青蓮院の境内に法然が草庵のようなものを構え、 その寺域を家康が青蓮院から分離して、今のような大伽藍を作った、ということなのだろう。
知恩院のサイトの記述も参考にするに、知恩院が浄土宗総本山としての地位を獲得したのは家康以来ということではなかろうか。
明治聖徳記念学会紀要『式年遷宮を終えて』を読んでいて思ったのだが、確かに式年遷宮が天武天皇から始まったのかどうかということも、疑おうと思えば疑えるわけで、天武天皇は確かに古すぎるし、その起こりから「廿年に一度まさに遷御せしめ奉るべし」などという明確な勅令があったのも不自然で、持統天皇からじわっと自然に始まったというのが、ありそうな気がする。
さらに疑うと、伊勢神宮というのはもともと、天皇一代限りで移築される御所に付属したものであり、恒常的な都が作られるようになって初めて伊勢に移され、移築の伝統が伊勢という一箇所で式年遷宮という形式で繰り返されることになったのかもしれない。
そう考えるのが一番自然ではなかろうか。
思うに、江戸時代の儒者や文人にとって、古文と漢文と日本史というものは、渾然一体としたものであり、どこかに切れ目があったのではない。今それらは三つの全く異なる「教科」になった。
日本史の知識がなくて古文が読めるわけもなく、読んでおもしろいわけもない。古文をおもしろいと思うのも、それを文芸作品とか歴史小説とかとして読むからである。センター試験の問題はそういうコンテクストをまったく無視している。高校生に嫌われるのは当然だ。
日本史の方もそうだ。日本史なんてものは、古文という古典文芸作品の集成がなければ、この地球上において単なる極東のローカルな歴史に過ぎない。おもしろいはずがない。
戦前はまだ日本史と古文は密接に連携していたが、戦後は無残に切り刻まれた。平家物語や太平記は死んだ。今更蘇生させるのはほとんど不可能だ。特に問題なのは太平記を読まなくなって南北朝・室町・応仁の乱までの流れがまるで見えなくなってしまったことだ。ほとんどの日本人は室町音痴だ。その最たる例は司馬遼太郎。
後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。 『新古今集』
みこの宮と申しける時、太宰大弐実政学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
後三条院御歌
思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで
しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。
橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで
『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。
むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで
『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として
忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで
とある。思うに、初出は伊勢物語であろう。意味も一番素直でわかりやすい。後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。『玉葉集』
御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
と申して侍りければ、後三条院
色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ
「星」と「欲し」をかけている。星のように美しい菊を欲しいと天皇に請うたがもらえなかった。後三条の歌はおそらく、欲しいと言ってくれたらやったのに、後からほしかったことを人から聞いた、というような意味だろう。
後三条の御製集というものがあったのだろうか。
二条天皇はわずか23歳で崩御したのだが、 優れた和歌を残している。独創的で斬新。白河天皇の凡々とした歌とはまるで違う。 崇徳院や後鳥羽院に通じるものもある、といえようか。 二代后など世間を騒がすこともあったようだが、 若々しく聡明で、 優れた君主であったようだ。
われもまた春とともにやかへらましあすばかりをばここに暮らして
雪つもるみねにふぶきやわたるらむ越のみそらにまよふしら雲
などやかくさも暮れがたき大空ぞわが待つことはありと知らずや
ことのねにかよひそめぬる心かな松ふく風にあらぬ身なれど
しるらめやおつる涙の露ともにわかれのとこにきえてこふとは
たれもよもまたききそめし鴬の君にのみこそおとしはしむれ
しら雲にはねうちつけてとぶたづのはるかに千代のおもほゆるかな
清輔に続詞花和歌集の編纂を命じたそうだが、完成しなかったのが実に惜しい。 その歌の多くは俊成が編んだ(後白河院勅撰の)千載和歌集に採られたのだが、その俊成
二条院の御とき、四代まで侍臣なることをおもひてよみ侍りける
いかなればしづみながらにとしをへてよよの雲ゐの月をみつらむ
という恨み節も面白い(四代とは崇徳、近衛、後白河、二条をいう)。 清輔と俊成はほぼ同い年だったと思われるので、清輔に対して俊成が重く用いられなかったことを言っているのだろうと思う。
風雅・玉葉集に採られている次の歌もなかなか良い。 たしかに、京極風の走りと言うこともできよう。 千載和歌集に漏れた(今日に伝わらない)多くの秀歌があるのに違いない。
いかでわれ人を忘れむ忘れゆく人こそかくは恋しかりけれ
空はれし豊のみそぎに思ひ知れなほ日の本のくもりなしとは
次の法印澄憲という人の歌もなかなかしみじみしている。
二条院かくれさせ給うて御わさの夜、よみ侍りける
つねにみし君がみゆきをけふとへばかへらぬたびときくぞかなしき
後白河院はあまりにも無能だったので(鳥羽院も、表向き平穏だっただけでものすごく無能だったと思う。崇徳はたぶん有能だった。しかし何もさせてもらえず、近衛は早逝した。頭が良いかどうかは和歌を見ればわかる。二条と崇徳は歌がうまかった。白河と後白河は平凡。鳥羽には歌が一つもない。まともな言語能力があったかどうかも不明)二条天皇によって強制隠居させられていたのだが、二条天皇が崩御して、後白河院が朝廷に復帰し、清盛を重用、 源平の争乱の原因となった。 二条天皇は後三条天皇の再来であり、また白河院のように聡明であった。 もし二条天皇が白河院や鳥羽院のように長寿であったら、日本の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれん。
勅撰集に載ってない御製を掘り起こすのはとても難しい。 後鳥羽院や順徳院のように御製集が残っていれば良いが、 そうでないと我々素人にはどうしようもない。