後拾遺和歌集

そんでまあ、 たいへんありがたいことに、 後拾遺和歌集 はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、 それで序文を読んでみたが、 言ってることはごくまともで、 古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、 その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。 だから最近の歌というものに注目するのは難しい。 だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、 などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。 重鎮たちは面白くないわな。

世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、 実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、 要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。 その言い訳だわな。 そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、
勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。 偉大なる先駆者。パイオニア。 これまたカチンとくるわな。 勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、
たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。 それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

後拾遺集の序文にファピョった連中が、 なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、 そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、 元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。 この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、 どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。 古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。 そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。 誰だか知らないが。 『難後拾遺』を書いた源経信かね?
それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。
ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。 「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。 新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。 そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

後拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。 まだ序文しか読んでないけど(笑)。 つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。 この人たち多分身分低いわな。 ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。

古今和歌集の真相

古今和歌集 は醍醐天皇の勅令によって、 延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。 普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。 宇多上皇ならばあり得るだろう。 宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。 仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。 なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、 そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

亭子院歌合 というのから古今集に採られているのだが、 これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、 古今集成立のずっと後である。 これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。 後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。 でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

桜ちる 木の下かぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞ散ける

とあって、その次に

延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

こと夏は いかが聞けん 時鳥 こよひばかりは あらじとぞ思ふ

とある。 延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、 このときもやはり宇多上皇だったのではないか。 そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、 この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、 と解釈は可能なんだが、 貫之集の中の歌の並びからいけば、 この宇多天皇からの院旨は、 亭子院歌合の後だったんじゃないか、 延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、 と思われるのである。 というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは元永本古今和歌集 という写本で、 恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。 時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。 つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、 古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。 それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、 そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、仮名序はひどい。支離滅裂だ。あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。 なるほど日記文学風の序がついている。 伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。 こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、 ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。 しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、 おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。 白河天皇の関与というものも。 しかし実際には非常に重要なものであり、 もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、 良房や基経の歌がいくつも出てくる。 しかも詞書きが異様に丁寧。 宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。 このことはすなわち、 古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。 それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。 それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、 亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。 だから、 「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下にいた。 「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。 だが、 「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」 の時には明らかに昇殿しているのである。 このときは正式な勅命を受けていると思われる。 それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。

恋と女の日本文学

丸谷才一『恋と女の日本文学』は、簡単に言えば本居宣長を攻撃するのが大好きな丸谷才一が宣長を攻撃するために書いた本である。丸谷才一という人は、戦後民主主義のホルマリン漬けみたいな人であって、思想的には大江健三郎や井上ひさしなんかに近い。國學院大學にいて国文学にものすごい影響を受けているくせに左翼だからものすごく屈折している。

で、本人は本居宣長を攻撃しているつもりなんだが、誰も怒ってくれない、放置プレイ状態だからますます彼の論説は過激になっていく。

宣長はただ一般論として儒学を攻撃しているのではない。彼は実際に講義を受けた堀景山を批判しているのだと思う。彼は凡百の儒者に過ぎなかった。その講義があまりにもつまらなかった。堀景山は反面教師としてそうとう宣長に影響を与えたのだろうなと思う。

中国人は偽善者で嘘つきだ。それが中国文学の原理である。
p.72

ここで「中国人」を「堀景山」に読み替えると意味がすんなり通ると思う。当時の儒学者、武家というものは、多かれ少なかれ偽善者で嘘つきだった。「蘆わけ小舟」は景山に学んだ宣長の卒業論文のようなものだった。普通は恩師のことを褒めなくてはならないのだが、宣長は景山の人柄はともかくとして学問や思想に決して共感できないところがあり、
それを批判したのだろうと思う。もちろん、宣長は景山なくして契沖に出会うことはなかった。ただそれだけでも、宣長が景山を尊敬していたことは間違いない。

丸谷才一は、儒教文化と日本文化を対比させて話をしたがるのだが、日本はインドからも大量の説話を輸入していて、そこには男女の愛憎や肉欲なんてものは、いやというほど描写されている。日本文学は中国と比べれば退廃的かもしれんがインドと比べれば全然清楚なほうだ。日本はただその両極端を知識として知っていただけだろう。

宣長の歌がからつ下手で
(p.63)
宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学び続けた人なのに、本当に才がなかつた。才のなさが凡庸ではなかつた。しかもさういふ人の歌のなかでもとりわけひどいのが人口に膾炙することになつた。言ふまでもなく山桜の歌だが、
(p.86)

などと書いているのだが、思うに、定家全集なんか読んでいると定家もそうとう大量の退屈な歌を詠んでいる。実際定家の歌で面白い歌なんてのはめったになく、たまたまあっても奇をてらった嫌みなやつか、本歌取りのきどったやつ。見えてくるイメージは学者の家に生まれ育った秀才、というのみ。父親の俊成のほうがずっと歌はうまいと思うのだが。で、

『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたい

などとは宣長は思ってない。京極黄門藤原定家のような歌が詠みたい、と思っていただけであり、後鳥羽院や西行みたいなぶっとんだ歌が詠みたいと思っていたわけではない。これらの天才肌の感覚派の歌は後世の京極派に通じるところがあって、むしろ宣長は嫌っていた。霊感によって自由自在に詠む歌というものを宣長は否定している。

定家の地名百首みたいなつまらん屏風歌みたいのを大量生産するのが宣長の好みであった。宣長はかなり忠実な定家の追随者だと思う。

俊成や後鳥羽院や西行の歌を、普通の歌人は真似ることはできない。方法論がない。天才の歌を凡人が真似ることは不可能だ。しかし、定家の歌を真似ることはできる(追記。下手くそな歌詠みのために定家が作ってやったテンプレをみながありがたく使うという意味)。ピアノで言えばバイエルみたいなもん。だから定家は家元になり得たし、信者を大量に獲得できたのである。その一人が宣長だったのにすぎない。それは宣長自身が言っている。京極派を毛嫌いするのもそこだろう。京極派を学んでも凡人は京極派の歌を詠むことはできない。しかし二条派の歌なら詠める。

本居宣長

wikipedia 本居宣長 を読んでいると非常に腹ただしくもあり、いろいろいじりたくもなるのだが、 いじり始めるときりがないからやめておく。

まず不満なのは17歳の時に和歌に目覚めたこと、 その後も和歌の修行に執心したこと、がまったく書かれてないこと。 京都遊学中に小沢蘆庵と出会ったことも書かれてない。 手落ちだ。

医学を堀景山以外の人に習ったように書かれているが、 堀景山は儒学者というよりは医者であって、 宣長は医者になるために堀景山に学び、ついでに儒学も学んだのである。 ニュアンスが異なる。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

これは大野晋の妄想なのだが(彼の妄想癖は有名。日本語なんとか起源説、とか)、これを読んだ人は鵜呑みにするだろう。

紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

これのどこがそんなに重要なんだ。

当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。

いやおまえ、そんな些細なことはどうでもいいからさ。 そんなことまでいちいち書いてたらほかにもいろんなことかかなきゃならなくなるよ。

要するにこれを読んで宣長のことは半分もわからん、むしろおかしなステレオタイプを覚えてしまう、ということだ。 なんだろね。 日本史の教科書の記述ってしょせんこんなもんなの?

たぶん書かねばならないことは、宣長が松坂の木綿商の次男に生まれ、
11歳の時に父が死んだということ。
15歳で1年ほど江戸の叔父の店で修行したこと。
17歳で和歌を学びはじめ、
18歳で紙商の養子になった(次男だからだろう)こと。
20歳で養子を離縁されたこと。
21歳で兄が死んで家督を継いだこと。
22歳で医者になるために京都に遊学。
堀景山に医学の他、四書五経や漢詩などを学ぶ間、契沖を知り、和歌を学び、小沢蘆庵と知遇を得て、 日本文化に心酔して仏教や儒学から距離を置くようになる。
京都で医者になろうとした(医者の娘と結婚して養子になろうとした)がかなわず、 堀景山が死去すると、27歳で帰郷して医者を開業する。
30歳の時に商家の娘と一旦結婚するが離婚。
32歳で京都時代の学友の娘と再婚。

まあ、こんなところではあるまいか。

彼は武家とははなはだ相性が悪かったが、商家とも悪かった。 どのへんが気に入らなかったかというところが非常に気になる。

いやね、 本居宣長は、 自分で、契沖に影響を受けました、ということは書いているんだが、 堀景山や荻生徂徠に影響を受けました、なんてことは書いてないと思うんだ。 荻生徂徠や伊藤仁斎に影響を受けただろう、ということは小林秀雄がそう書いてるだけでね。 しかも本論とあんま関係ない薀蓄たれてるだけなんでね。

宣長の学問の形というのは徂徠がどうのこうのと言わなくても契沖だけでほぼ完全に説明できると思うんだ、 その古文辞学的なところとか。 宣長学というのはつまるところ契沖学の延長なんだよね。 もし他に影響を与えた人をあげるなら藤原定家とか紫式部とかだろ。

宣長は真淵を師と呼んでいて、別に影響を受けなかったというつもりはないが、 宣長は真淵に会う以前にすでに完成していたのだから、その影響を完全に除外しても宣長は宣長なんだよなあ。

なんでそういうふうに宣長を説明したがるのかね、みんな。

だいたい小林秀雄という人は、雑な性格の人で、良く言えば芸術家肌なんだが、仕事にむらがある。 くだらん老人の蘊蓄を垂れている箇所と、鋭い指摘をしてるところが混在している。 伊藤仁斎の箇所なんて頼まれ仕事で仕方なく文字数埋めるためにわざと脱線してなんの関係もない蘊蓄を垂れているだけなんだが、 わかる人はそういうところはよけて読んで、面白いところだけ拾い読みすれば良い。 中国のお土産は必ず良いものと不良品を抱き合わせにして売っている。そんなもので、 不良品を捨てて良品だけ拾えばよい。 小林秀雄自身もここは脱線してるから本論とは関係なしに雑談として読んでね、っていうヒントはちゃんと出してるのに、 わからんやつにはわからん。よけいなんかありがたがっちゃう。
ああ、宣長の本を読んでてついでに仁斎の話まで読めちゃうなんて。なんてお得、とか思っちゃう。 小林秀雄著『本居宣長』を読んでる側にしてみれば、 本居宣長が伊藤仁斎から何かすごく影響を受けたように読んでしまう。 読者というものは、だいたい誤読するものである。

本居宣長を誤読しさらに小林秀雄も誤読するからもはや宣長の原型を留めていない。 自分で勝手に宣長ってこんな感じとか思っちゃう。

平田篤胤なんかも本人の許可無く勝手に誤読して自分が一番の弟子とか言い出す。

ガンダムやマクロスの二次創作もそうだが、 ともかく読者というものは業が深い。 私も自分の小説をいつも誤読されるので、よく知ってる。

たぶん小林秀雄は出版社から借金の穴埋めかなんかに原稿料を前借りして (或いは一晩で遊蕩して)、宣長について五十話書く約束をしちゃったんだが、 宣長だけでそんなたくさん書けないし書く気もない。 仕方なしに松坂に取材に行った。 それから徂徠や仁斎の話で煙にまいといて、 ほんのちょっぴり、きらっとしたことを書いたら、 もう全然書くことがなくなってしまって、 後半は古事記伝の解釈をいやいやだらだら書いて埋めた、 そういう本だと思うよ、『本居宣長』は。

本居宣長の漢詩

在京時代の本居宣長の漢詩が二十数編残されているが、 凝り性な宣長君らしく、平仄は完璧。

春日早朝
鶏鳴九陌報清晨
初日纔昇映紫宸
金殿出霞花気暖
玉楼経雨柳條新
群臣集奏千秋寿
蛮客貢陳四海珍
且識天杯元承露
聖明恩沢更含春

新年の御所の様子を詠んだものと思われる。 悪くはないが、装飾過多、という印象。宝暦6年1月11日か。この漢詩を作ってみて宣長はよけいに漢学では日本文化の良さを表現できない、と悟ったのではなかろうか。

読書
独坐間窓下
読書欲暁星
孜々何須睡
一任酔群経

独り窓下の間に坐し、読書、暁星を欲す、孜々として、なんすれぞすべからく睡るべし、もっぱら群経に酔ふに任せん、 と訓めば良いか。

夜独りで窓の下に坐って読書していると、すでに夜が明けようとしている。 一心不乱、どうして眠れようか。 ただ膨大な量の経典に酔うのに任せよう。

いやー。 宣長らしい詩ではある。「群経に酔ふ」がいかにも宣長だ。

宣長、普通の江戸時代の文人並みには漢詩が作れたようだ(乃木希典レベル。中島敦よりはずっとうまい)。 そのまま励めばわりかし良い線いったんじゃないか。 でも、和歌のほうが好きだったんだよなあ。 どんな違いがあったのだろう。知りたい。

上巳
元巳春風暖
桃花照錦筵
麗人更勧酔
流水羽觴前

上巳は桃の節句であるから今の暦では四月中旬、元巳はその別名。 春風は暖かく、桃の花が錦のむしろに映える。麗人、更に酔いを勧め、羽觴(さかづき)の前には水が流れている。 明らかに曲水の宴で作った詩であろう。

甲府勝手小普請

甲府藩藩主は家綱・綱吉時代には松平綱重と、その息子の綱豊であったが、 綱豊が綱吉の跡継ぎ家宣となったために甲府は没収されて綱吉の寵臣柳沢に与えられた。 家宣が将軍になり、柳沢吉保は失脚したが、そのまんま甲府藩主だったが、 吉宗の代、というより、吉保の子供の代に転封され、甲府藩十五万石は幕府直轄に戻された。 長男吉里は大和国郡山藩十五万石に移され、その弟らにも一万石が与えられたというから、 懲罰的な転封ではなく実質加増だった、とも言える。

いずれにしても江戸周辺は幕府直轄か旗本の料地になって、たいていは代官が治めていた。 司馬遼太郎『燃えよ剣』では、農民が武装して剣法の修業も勝手し放題だったために、 近藤勇や土方歳三のような農民上がりの武士が出てきた、と言っているが、 ともかく関東近辺は、国定忠治みたいな、武士階級ではないが長脇差しを指した、 農民なんだか無宿人なんだか渡世人なんだかのような連中の温床になっていた。 江戸後期の旗本というのは根っからの怠け者で、無為無能で事なかれ主義なので、ろくに取り締まりもしなかった、と思われる。

ウィキペディアの「甲府勤番」に「甲府勝手小普請」というのが出てくる。

老中松平定信が主導した寛政の改革においては不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される。慶応2年(1868年)8月5日には甲府勤番支配の上位に甲府城代が設置され、同年12月15日には甲府町奉行が再び設置され、甲府勤番の機能は城代、小普請組、町奉行に分割された。
甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている。
勤番士の綱紀粛正のため半年に一度は武芸見分が実施されており、寛政8年(1796年)には勤番支配近藤政明(淡路守)、永見為貞(伊予守)により甲府学問所が創設され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名され昌平坂学問所の分校となった。

でまあ、「山ながし」とか「勝手小普請」というのが「窓際族」とか「左遷」とかのイメージに結びついて、 一生懸命出世街道を目指して頑張ったのに田舎に左遷されたとか閑職に回されたとか、 そんな戦後日本のサラリーマン社会をそのまんま江戸時代の武家社会に投映したような時代小説(気持ち悪くてあまり好きなジャンルではない)に使われることが多いように思われるが、 事実はもっとやばいものだっただろう。
博打や借金踏み倒しでとうとう懲戒処分を受け、飼い殺しにされた不良浪人、という表現が当たっていよう。
江戸で手に負えない乱暴者を甲府なんてところに追いやったのだから、虎を野に放つ、という言い方の方が近かろう。
源為朝を九州に追放するようなもんだ。
甲府の治安はそうとう悪かったに違いない。
だからこそ「甲斐一国一揆(天保騒動)」のようなことが起きたのではないか。
関東の無宿人、渡世人らと、勝手小普請が主犯。
いわゆる百姓一揆とか、飢饉による打ち壊しというのとはかなり違ったんじゃないかと思う。

吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(130人あまりが無宿人)以上のが捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となり、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。

もし不良浪人が主犯であればそれは幕府の恥であるから、あまり表には出さず、無宿人のせいにする、 もしくは小普請であったがすでに処分されていたから無宿人か浪人だった、ということにしたのではなかろうか。

多摩地域では天保騒動を契機として、豪農層を中心に自衛手段としての農村剣術が活発化している。

これはねえ、順序が多少入れ違っているんじゃないのかなあ。
「勝手小普請」「無法地帯」「農村剣術」というものが流行していたので、 そいつらが臨界点に達して暴走し、 甲斐一国一揆が起き、甲斐一国一揆を参考にして大塩平八郎の乱が起きたんだよ。
幕府とか旗本が弛緩し腐敗してたのが根本的な原因だと思うな。

坊門

坊門信清は後鳥羽院の外祖父。息子忠信は後鳥羽院の寵臣。実朝の妻は坊門信子、忠信の妹。つまり、実朝は信清の婿、忠信の義理の弟。後鳥羽天皇の女房・坊門局は後鳥羽院の女房。ともに隠岐に渡り、院の死後、京都に戻る。坊門局は道助入道親王、頼仁親王、嘉陽門院礼子内親王を産む。道助入道親王は後鳥羽院と礼子内親王の戒師。礼子内親王は歴代最後の賀茂斎院。式子内親王の四代後。

実朝と後鳥羽院、つまり、実朝と朝廷の間にいたのが坊門ということか。ふーむ。

吉野南朝

南朝の都は吉野城、つまり吉野山の金峯山寺にあったかと漠然と思っていたが、実はもっと南の奥吉野、天川村の天川弁財天社あたりなのだった。飛鳥時代の吉野宮というのは東の方、吉野川をさかのぼって菜摘とか宮滝とか言われる所にあった。

思うに、金峯山寺というところは確かに修験者の拠点ではあったかもしれないが、城とするにさほど適した場所ではないように思う。千早城や赤坂城にしても同じ。天川村というのはものすごい山奥だ。こんなところに入り込まれたらとても攻めがたかっただろうと思う。

籤引きの真相

それはまあそうと義持は、子の義量が死んでも次期征夷大将軍を決めず、空位のままほっといて、自分が死ぬときにも後継者の指命を拒否した、というのは、普通に考えれば、もう足利宗家から将軍ださなくてもいいじゃん、事実今も幕府は問題なく動いてるし、すでに幕府は守護連合みたいなもんで、将軍とか飾りだからいらないんじゃね、とか、守護が衆議して決めればいいんじゃね、とか、そんなことを考えていたんじゃないかと思う。江戸時代の徳川宗家みたいに是が非でも将軍職は世襲しますよみたいな気分はなかったのではなかろうか。

江戸時代の幕臣とか譜代大名らはみんな徳川幕府によりかかって、運命共同体みたいになっていたが、室町時代は守護の連合体みたいなもんで独立性が高いから、必ずしもみんなで一生懸命足利家をもり立てようという感じではない。日野とかの一部の公家が足利宗家に執着してただけなんじゃないかと思える。江戸時代の感覚で室町時代を見ても雰囲気わからんと思う。

で、三宝院門跡の満済というのが義持の護持僧で一番の側近、籤引きで定めることを決めたのは畠山満家であって、この二人が仕組んだいかさま籤ではなかろうかということについて、「籤引き将軍足利義教」に若干詳しい考察があるのだが、思うに、黒幕は義持の正室で義量の生母である、日野栄子。そしてその日野家当主義資であったろう、と考えるのが自然だ。日野家は義満の正室と継室を出している。足利将軍家の内情に一番詳しくかつ親密な関係だったはずだ。四人の候補を見るに、一番の年長は義円(義教)。出自も比較的まっとうだ。他の三人は母親の得体がしれない。また、日野義資はおそらく義円が青蓮院門跡であったころの世話役であったと思われる (いやそもそも、義円にあたりをつけていたからこそ世話役を買ってでたのだろう)。義資は義円に、自分の妹・宗子を正室にするならば将軍にしてやろうと義円にもちかける。籤で義円が選ばれるとすかさず彼を日野邸に連れ込み(1428)、元服が済むと宗子を正室に送り込む。こうして、義量の血統が絶えても、日野家は足利家の外戚のまま存続することを得た。

ところが、将軍となった義教は日野がじゃまで仕方ないから、正親町三条家の尹子という女を正室にすると勝手に宣言(1431)、宗子は離縁され、その代償に宗子の妹の重子が側室になる。重子は義勝(1434)、義政(1436)、義視(1439)を産む。十分男子が生まれ、もはや義教が不要になった日野家は、正室正親町三条氏が嫡男を生まないうちに、赤松満祐をそそのかして (或いは、義教が次に粛清するのはおまえだ、とか脅しをかけて)義教を討たせ(1441)、義勝に将軍を継がせる(1442)。義勝は早世してしまったので、義政を跡継ぎにして(1449)、日野富子を正室にすえる(1455)。

という具合だったと考えるとすんなりいくではないか。まさに仁義なき戦い室町編(笑)。
足利家が日野家にがんじがらめにされていくのが目に見えるようだ。

つまり、籤引きなんて単なるいかさま、嘘っぱちだ、と言いたいわけなのだが。

義教が足利宗家を継いでもすぐには将軍宣下がなされなかったというのは、義量が死んで長いこと空位だったから、別に義教が将軍にならなくてもいいんじゃね、くらいの雰囲気だったのではなかろうか。鎌倉公方の足利持氏が代わりに将軍宣下されるんじゃないか、
という可能性があったとは思えないなあ。日野家としては義教くんが将軍になってくれないとただの守護の中の一人みたいになって困るから、いろいろ運動したんだろうなあ。そんくらいじゃないのか。

中山家

『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。父は孝明天皇、母は中山慶子。典侍というから中宮や女御の次くらい? 生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。 中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。

慶子の父が中山忠能。 忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。

忠能

天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ

綱子

けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば
日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け
七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん

「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。

我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ

とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌

雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら

など、なかなか良い。

全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、その後和歌は忘れられてしまった。