白河天皇

白河天皇が和歌が大好きだったのは間違いない。 本人の和歌は、それにしてはあまり知られてない。 どちらかといえば凡庸な歌、下手の横好き的なものだったようだ。

風吹けば柳の糸のかたよりに靡くにつけて過ぐる春かな
春霞立ちかへるべき空ぞなき花のにほひに心とまりて
おしなべてこずゑ青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり
ほととぎす松にかかりて明かすかな藤の花とや人は見つらむ
池水にこよひの月を映しても心のままに我が物と見る

ある意味、後白河院の歌に良く似ている。 こういう歌は、だいたいにおいて、退屈な叙景もしくは心象の歌であり、 天皇で、そうとうたくさん詠んだから、今日まで残っているにすぎないのではなかろうか。 おそらくは後世に伝わらなかった平凡な歌が大量にあるのではないか。

鳥羽天皇

鳥羽天皇という人は、よくわからん人だ。 まず、和歌が残っていない。 二十八年間も院政を敷いて、この当時の天皇としては異例だ。 普通、天皇の和歌というものは、何かしら残るものだ。 成人して院政までやっていれば、少なからぬ和歌、もしくは今様などそれに相当するものが残るのが当たり前だろう。 勅撰集も編ませていない。 その上、上皇になった後の妃・得子に皇室の財産の多くを相続させている。 普通皇室の財産は子孫の天皇に相続するものだろう。 白河院の時代から世の中は中央集権から地方分権に転換し、天皇家は日本最大の領主、 以上の存在ではなくなっていた。 その所領を無造作に妻に相続させてしまう。

得子の専制はそれまでの藤原氏外戚というのとも、少し違うような気がする。 鳥羽天皇の死後、保元の乱、平治の乱と、得子を原因とする大乱が二度も起こり、 源平の争乱、鎌倉幕府へと続いていく。

鳥羽天皇や得子のサロンには文化の匂いがまったくない。異様だ。 もしかすると、鳥羽天皇は、相当に暗愚だったのかもしれん。 得子も貪欲ではあっても聡明ではなかったろう。 少なくとも無気力であったのは間違いなかろう。

白河天皇も、崇徳天皇も、後白河天皇も非常に個性的なのに比べて際立っている。 非常に不幸なことだと思う。 日本の黒歴史の始まり、とも言える。 崇徳天皇が挙兵したのも、実は相当深刻な問題をはらんでいたからではなかろうか。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。 いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

ひとりもる しづが千代田の 岡におふる まつてふ心 君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。 他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。 たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、これ。 今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。四月四日、訓導にも動員令が下ったと、祖父は「応招前記」という日記に書いている。面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった (もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

きのふまで 人ごととのみ 思ひしに 今日より我も いくさ人なり

悪くない。明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや
菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ
粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを
沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり
動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため
今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら
メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける
我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ
皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな
いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ
みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。

後鳥羽上皇

例によって wikipedia の「後鳥羽天皇」を読んでいたのだが、

伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。

本気で言っているのか。

[1]はただの個人の感想ではないのか。

[2]は藤原定家ならそのくらいの悪口は言うだろう。ていうか定家が後鳥羽院に対してかなりネガティブなイメージを持っていた証拠にはなるだろう。それに定家が言いたいことは、即位のときに神器がなかった、という正統性の問題ではなく、神器のうちの宝剣が失われて戻ってこなかった、ということだけだ。三種の神器がそろってないから蹴鞠ばかりする、とまあその程度の意味だろう。

[3]だが、承久の乱の原因が、三種の神器を欠いて即位したコンプレックスによるものだとする、まあ、そんな意見もあるかもしれん、だが、戦前戦後のすべての学説を並べた中にこれがあるならともかく、こういう書き方は公平性を欠いているのではないか。かなり歪んだ記述だ。

丸谷才一は後鳥羽院が大好きだからたくさん書いている。そのことは良い。ただの作家の一個人としての感想だからだ。しかしおかげで丸谷才一史観みたいなものができてきて、それがまるでオーソリティのようになりつつあるのではないか。極めて危険だ。司馬遼太郎くらいに危険だ。

後鳥羽院はものすごくたくさん和歌を詠んだ人だ。そしてすごく優れた歌人だ。ほんとうはもっとたくさん勅撰集に採られていてもおかしくない。しかし承久の乱を起こしたので、のちの北条氏や足利氏には嫌がられただろう。ごく一部の歌だけが知られている。戦後はやはり、後鳥羽院の歌は半ば封じられた。特に承久の乱の後、隠岐に流されたころの歌とか。順徳院の歌も。

承久の乱がなんであったのかは今も良く理解されていないと思う。

白河院はものすごく勅撰集にコミットした。万葉集、古今集は必ずしも天皇の関心事ではなかった。勅撰集というものは白河院が創始したと言っても良い。だが、後鳥羽院という天才歌人天皇がいなければ、勅撰集は応仁の乱までもたず、従って今日でははるかむかしに存在した文芸、ということになっていたはずだ。

コンプレックスだけで良い歌は詠めない。後鳥羽院はほんとうの天才だった。むしろ何のコンプレックスもなく、王者としての万能感だけがあったのではないか。だからつい承久の乱を起こしてしまったのだと思う。

筋違

筋違はスジカイと読むらしい。中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、わからんことだらけだ。

川越素描にも同じ地図を掲載したが、小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。しかし、あまり見かけない地図である。

* [goo江戸切り絵図](http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html)
* [goo明治東京地図](http://map.goo.ne.jp/map.php?st=8)
* [”超検索”大江戸八百八町](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)
* [貴重資料画像データベース](http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html)
* [1590年頃の江戸](http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/edo1590.html)
* [東京の川と橋](http://hix05.com/rivers/river03/river032.html)
* [江戸城本丸図](http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)

などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、上野へ向かう道である。浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。また、西の丸の辺りもややこしい。今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。今東京では新橋は固有名詞のようになっている。日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。
江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、通常の考え方で言えば落ちない。少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。案外黒船とも戦えたのではないかと思う。しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。たぶん台場を築き始めて、考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。土木技術の発達のたまものだ。また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。紫禁城には城壁はあっても濠がない。たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。


通貨吹き替え

新井白石 をパブーに公開する。某新人賞選考漏れ確定のため。今更読み返すと確かに娯楽的要素が足りない気もする。いろいろ書き換えたくなるのでいじる。もともとは「将軍家の仲人」というタイトルだが、ネットに公開するにあたって検索にひっかかりやすいようにタイトルを「新井白石」とし、「将軍家の仲人」をサブタイトルにする。いつもやっていること。

新井白石といえば生類憐れみの令を廃止したとか、朝鮮通信使の扱いを変えたとか、通貨改革をやったとか、子供の頃ガリ勉だったとか、そういう話が多いかと思うのだが、そういうのはさくっと省略した。みんなが書いているようなことを書くのはつまらん。

大石慎三郎「徳川吉宗と江戸の改革」を読む。新井白石の通貨吹替えによって世の中に流通する通貨が半減してしまい、デフレになったのだという。よくわからん。インフレであれば通貨供給量を減らす。デフレであれば通貨供給量を増やす。金本位制であれば、通貨供給量を増やすには金の含有量を減らせばよく、通貨供給量を減らしたければ金の含有量を増やせばよろしい。わかるようなわからんような理由だ。

江戸初期には商業経済が発達していなかった。しかし金は新しい金山がたくさん見つかって非常に増えた。日本では金がとても豊富で安くなった。逆に言えば米の値段などは非常に高くなってしまう。つまり物価上昇、インフレだ。幕末だと、米の値段は非常に安い。逆に言えば金の値段がとても高くなった。日本の経済が発達して、流通しなければならない金貨がたくさん必要な上に、日本の金が海外の相場より安いからどんどん海外に流出する。金が減ってしまう。つまり通貨が減る。凶作で無い限り農業技術の革新やら治水工事やらで米は増産。米が多くて金が少ないから、米の値段は下がる。そうするとデフレになる。

思うに、江戸時代の日本のように、金が非常に豊富で安価な社会において、金貨の品質を維持しようとするのは、特に間違ってないと思う。日本ですら金が足りないということならば、もっと金が少ない国ではどうするのか。金は少なくてよくて、問題は通貨の供給ということだろう。通貨をどんどん流通させる必要があるなら、たとえば銀貨を主要通貨にするとか(ギリシャとか中国とかだけでなく大阪でもそうだったようだ)、銅貨とか紙幣とかを流通させるとか。或いは為替のような信用取引を発達させるとか。いろいろやり方はあるんじゃないの。金貨の品質を上げて金貨の流通量を少なくしたのがただちに良くないことだとは思えない。

デフレもインフレもどちらもよろしくない。どうも、江戸時代には、そういう経済をコントロールする方法があまりにも未熟だった、としか言いようがないのではなかろうか。根本的な問題は、商品経済が発達しているのにそれをコントロールする方法論が未発達だったことであり、金貨や銀貨の質の問題なのではないのではなかろうか。まあ、経済の話はよくわからん。

赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日なのだが、西暦だと1703年1月30日。年をまたいでしまっている。元禄15年 (1702) とすべきか、元禄15年 (1703) とすべきか、非常に迷う。私は 1702 の方がまだましだと思うが。

吉良氏と上杉氏

清水義範は名古屋の出身なので吉良氏にはかなりシンパシーを感じているようだが、その「上野介の忠臣蔵」を読んでみると、彼でさえ、吉良氏がなぜ武家の中で家格が異様に高いのか、ということをうまく説明できていないように思われるのである。

吉良氏が清和源氏であり、八幡太郎義家の子孫であり、足利氏から分かれたから家格が高い、というところまではわかっているようだ。でもそれだけじゃほとんどすべての日本人ははあそれがどうしたで終わってしまうだろう。

吉良氏は足利幕府時代には足利御一家ということで対等扱いだった。武力も広い領地ももってないが、とにかく足利氏と同じ扱いを受けた。足利将軍家は断絶したが、吉良家は残った。

それに比べると上杉氏は尊氏の家臣というにすぎない。関東管領どまりだ。毛利や島津は頼朝の家臣というに過ぎない。つまりは源氏の家臣であり、吉良氏はまっとうな源氏だから全然格上ということになる。

しかも徳川氏は源氏を自称しているが、それが大嘘であることは公然の秘密である。本家本元の源氏は吉良氏なのである。実力ならともかく家格であれば頭が上がるはずがない。その上、徳川氏は足利氏の子孫、つまりこの場合は吉良氏から、室町時代の幕府制度をあまさず継承したくて仕方なかった。教えを請う立場である。だからますます低姿勢にならざるを得ない。この、江戸幕府が室町幕府の徹底的な真似(武威という意味ではない。特に天皇家からもらう官位官職やら公家との意思疎通やら)で出来ていることを認識しておらねば、なぜ徳川氏が吉良氏を厚く遇するかわかりようがない。ただ、赤穂浪士の頃にはもうほとんど徳川幕府は足利幕府の引き継ぎを終えていただろうから、そろそろ高家などというものは要らなくなりつつあっただろう。

清水義範は

家の格では吉良家は上杉家にいささかもひけをとるものではないのだ。

などと言っているが、これは間違っている。家格ということで言えば吉良氏は上杉氏よりも圧倒的に上だ。吉良氏が上杉氏を乗っ取ろうとか、そんなことをするはずもない。したければ室町時代だろうと戦国時代だろうととっくにやっているはずだ。吉良氏はずっと昔に公家化してしまったので、そんな武家みたいな発想はないのである。

吉良家はいわゆる正式の武門ではない。将軍家が京の朝廷とつきあう時の折衝役であり、そういう場面でも正式の作法の指導役であった。だから武家というよりはむしろ公家に近い感覚なのである。

嘘ではないが非常にわかりにくい説明だ。頼朝は本来公家であり、足利氏も公家である。清和源氏という王族であるから公家である。しかも武家の棟梁だから武家でもある。徳川将軍家と朝廷の折衝役というのはつまり高家に足利幕府の伝統が伝わっているからであり、それは足利氏の子孫だからなのだ。清水義範ですらきちんと認識してないのだから普通の日本人がわかるはずがない。

足利嫡流に比較的近いのは一色、渋川、斯波、石堂、今川。少し遠くて細川、仁木。

(足利)将軍家に次ぐ家柄といわれ、権勢並ぶもののがないほどだった。

それはどうだろうか。たぶん吉良、今川、一色はいずれも高家だ。足利氏だからだ。
さほどの優劣はなかっただろう。実力や権力ならば細川氏や今川氏の方がずっと上だっただろう。つまり、吉良氏というのはすでに室町時代から異様に家格は高いが権力を持たない、武家の中の公家のような存在だった、というあたりが当たっているのではないか。

なぜそうなったはわからないが、おそらくは、足利氏の分家の中で比較的所帯の小さなところが本卦還りして公家に戻った、ということではなかろうか。

未と猶と已

「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。

「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。

「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。

いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。

「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。

新井白石日記

新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。

芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。

改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。

ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。

寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉

正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり

これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。