源氏の長者

Wikipedia には「村上源氏」の所に

源氏といえば武家として活躍した清和源氏を想起する人が多いが、公家社会では村上源氏が最高とされていた。

などと書かれ、また、「源氏長者」の項目には、

源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。

などと書かれている。にわかに信じがたい。いったい誰が「公家社会では村上源氏が最高とされていた」と言っているのか。もし、北畠親房が『神皇正統記』などで主張していた、というのであれば、それは単に、自分自身を「源氏の長者」なるものに祭り上げるための自画自賛に過ぎない。北畠親房は、清和源氏の八幡太郎義家の流れに対するはげしいライバル意識があった。

「源氏長者」とは「治天の君」などと同様に近世、というより戦後になって作られた概念なのではなかろうか。「源氏」というのは、たまたま賜姓が「源」だったもと皇族というだけであって、何か具体的な横のつながりがあったというのは考えにくい。

また、「源氏長者」というものを清和源氏、つまり武家の頼朝、足利氏や徳川氏と切り離して考えること自体、無意味に思える。そんなことをして、いったい何の意味があるのか。誰が得をするのか。

東京女子高等師範学校

相変わらず、関東大震災のことを調べているのだが、東京女子高等師範学校とは今のお茶の水女子大学のことだが、1923年に震災でほとんど焼失しているはずなのだが、大塚への移転は1932年となっている。その間、女高師はいったいどういう状況だったのだろうか。移転先、つまり現地は、もともと震災当時は東京陸軍兵器支廠というものだった。これが女高師と陸軍憲兵大塚分遣隊という二つの敷地に分かれたのであると言う。

netでもいろいろ調べてみるがよくわからん。お茶の水女子大学生活科学部本館によれば、

1923年(大正12年)の関東大震災により校舎が焼失したため、 1928年(昭和3年)に現在地への移転を決定し、1936年(昭和11年)に移転を完了しました。

などと書かれているから、お茶の水から大塚へ移転するのが決まったのが 1928年、移転は徐々に進んで 1936年に完了したことになる。その間、たとえば1923年から1928年までの5年間はいったいどういう状態だったのだろうか。1932年とは、移転が始まった年、ということか。不思議すぎる。

市岡鶴子

知りたいのは、清朝末期の、科挙制度の改革、変法と科挙の関係、特に、康有為、梁啓超らの上奏文など。特に八股文の是非について。つまり、清朝末期の学制改革について。宮崎市定『科挙』も久しぶりに読んでみたが、これは、唐代から明清までの科挙の移り変わりについて、おおまかに書いてあるだけ。八股文については、「四書題」とあるのが、それに相当するか。その内容・形式には一切触れてない。まあ、あまり興味なっかたんだろうな。清朝については、『儒林外史』が少々、第三回辺りに出てくる、范進という万年浪人の話がおもしろおかしく引用してあるだけだ。『儒林外史』は清朝の前半、せいぜい雍正・乾隆帝の頃の話が反映しているだけで、清朝末期の光緒帝の頃のことがよくわからない。しかし、資料としては、光緒帝のころのものがもっとも豊富に残っているはずだが。

康有為、梁啓超らの論文だが、あちこちの図書館でも、断片的にしか手に入らない。ネットの情報も。彼らは、科挙や八股文が不要だと主張したのではなく、官吏や政治家を登用する制度が科挙に限られていること、近代的な学校制度がないこと、などを批判しているのだと思う。梁啓超の文章など読んでみると、科挙と平行して学校を作りましょうと言っているに過ぎない。北京大学の前身である京師大学堂が創設されたのは1898年というから、戊戌の政変で行われた改革の一つだったのだろう。この、戊戌政変から辛亥革命までの資料というのは、探せばいくらでもあるはずなのだが。

康有為の四番目の妻(妾)となった日本人、市岡鶴子というのを調べているのだが、詳しいことは何一つわからん。

中国名人為什麼願意迎娶日本女人? 2010年04月01日  来源:新華網

康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。

1911年6月7日に康有為は梁啓超に招かれてシンガポールから来日。牛込区早稲田、明夷閣。
1912年春、神戸の須磨の「奮豫園」に移り住み、16歳の少女、市岡鶴子を女中として雇う。
1898年に梁啓超は日本に亡命して横浜に住み、神戸と横浜を行き来していたが、1906年から神戸に住むようになっていた。1912年帰国。
康有為は1898年、香港経由で日本に亡命、1899年カナダで「保皇会」結成、以後、アメリカ、イギリス、シンガポール、インドなど、主にイギリスの植民地などを転々として、三回ほど来日したらしいが、詳しいことはもっと調べてみないとわからん。
1913年には市岡鶴子とともに上海へ。愚園路192号。辛家花園の遊存廬で正式に鶴子と結婚。鶴子17才、康有為55才。
1917年、復辟事件。
1923年、青島に定住。青島は、1914年に日本が占領してドイツから奪い、1922年に中国に返還し、特別行政区となった。中国領となった直後ということだな。
1925年秋、鶴子は日本に戻り、凌子を出産。鶴子29才、康有為67才。
1927年、康有為死去、69才。
1929年、梁啓超死去、56才。

魯迅『孔乙己』も、ごく短いものなので、さらっと読んでみた。

追記: notebook LM

吉野城軍事

『太平記』に

天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。

という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。


※追記あり

阿

『柳橋新誌』に芸妓の名前として列挙してあって、多いのは「阿長」などと「阿」が付く名前だが、 為永春水『春色梅暦』など見ると、「阿長さん」とかいて「おちょうさん」と呼んでいる。 つまり、「阿」は「あ」ではなく「お」と読むのであろう。

三種の神器 3

「三種の神器」の初出が『平家物語』ではないかという根拠は、簡易な手法ではあるが、
新潮国語辞典の用例を調べたのである。この辞典は用例に「もっとも頻繁なもの」ではなく「初出」つまり「もっとも古い例」を載せるのが方針である。教科書等に載っているような、無視できない典型例は「初出」と併記されるから、「初出」が漏れることはないのだ。

それで、『平家物語』の成立は、鎌倉幕府の成立からどう見ても半世紀は後だろう。1240年くらい。つまり、1221年に起きた「承久の乱よりも後」なのである。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

後鳥羽院の御時、つまり承久の乱の直前に、すでに原型が出来ていた可能性もあるのだが、承久の乱によって、宣旨も院旨もなしに、「三種の神器」の権威だけで、後堀川天皇は即位したのであり、それによって「三種の神器」という概念が初めて確立し、それが『平家物語』の中に、リアルタイムで盛り込まれたのではないか。偶然の一致とは思えぬ。

つまり、安徳天皇都落ちのときには、「三種の神器」というものが皇位継承の印として、重要視されてはいなかった可能性もあるということだ。もし「三種の神器」が承久の乱以前から皇位継承の証であったなら、公卿の日記などにも、前々から用例がなくてはなるまい。どうかな。

三種の神器 2

「三種の神器」の初出はどうやら平家物語らしい。「十善帝王、三種の神器」という言い回しが二度、後は「主上、並びに三種の神器」、等。

「十善帝王」というのは、「天子に父母なし。吾十善の戒功によて、万乗の宝位をたもつ。」とあってすなわち殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を犯さないことを「十善戒」といって、この戒を守ればその功徳によって人間界の王になるという。「三種の神器」という言い回しも、なんとなく仏教説話から由来しているような気になるな。

雨乞い小町

筒井康隆の「雨乞い小町」を久しぶりに読んだのだが、その中で、ずっと気になっていたのだが、

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは
ちはやぶる 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ

の二首があって、「ことわりや」の出来が悪くて「ちはやぶる」の方が良いと言っているところだ。なぜ筒井康隆は、そう判断したのだろうか。いろいろ調べてみると面白いのだが、まず、「ちはやぶる」の方は『小町集』『小大君集』に採られており、小野小町か小大君かはわからぬが、ともかく、平安中期にはもうあった歌なのだ。ところが「ことわりや」の方がどちらかと言えば有名であって、初出は江戸初期のいろんな説話集、元はといえば、『雨乞小町』という謡曲(能)の演目の一つだったようだ。『雨乞小町』は七小町というものの中の一つで、浮世絵の題材には良く採られるが、テキストなど失われて久しいようだ。

弘法大師が京都の神泉苑で雨乞い勝負をしたという伝説があって、和泉式部もここで同じように勅命で雨乞いをして、そのときに「ことわりや」の歌を詠んだ、

日の本の 名に負ふとてや 照らすらむ 降らざらばまた 天が下かは
ことわりや 日の本ならば 照りもしつ 天が下とは 人もいはずや

などといったバリエーションもあるらしい。いずれにしても女性が詠んだということになっている。弘法大師も、竜王という女性に雨乞いをさせたらしい。雨乞いは女という定説でもあるのだろう。そういえば、雨女とは言うが、雨男とはあまり言わない。

そうだなあ。どれもできばえは大して違わないように思えるのだが。いずれにしても、民間の雨乞いの歌だよな、きっと。

加門七海『くぐつ小町』という小説にも「ちはやぶる」の歌が出てくるようだ。こちらは比較的新しい1996年に単行本になった作品。筒井康隆の『雨乞い小町』の単行本初収録は『ホンキィ・トンク』1973年。

伊勢物語25段。

むかしをとこありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢はで寝る夜ぞ ひぢまさりける
色ごのみの女 返し
見るめなき わが身をうらと 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る

これらを業平と小町の間でやりとりした歌として解釈している。筒井康隆が和歌を論じてるのが珍しいので、少し考察してみたいのだが、これは伊勢物語にも古今集にも採られている有名な歌なので、筒井康隆が特に和歌に関心を持ったというより、たまたま目について取り上げたにすぎないだろう。

小町の歌は、業平の歌の返歌の形には、まったくなってない。返歌なら返歌らしく元歌を何か参照するなりしなくちゃならないが、まったく別々の歌という印象だよな。ああ、たまたま古今集で隣り合った歌なのか。

筒井康隆の解釈では、これは二人が美男美女の似合いのカップルだと言われて、その気になって詠んでみて、あまりにも大向こう受けの嫌らしい歌だったので二人とも破って捨てた、実は二人は恋愛感情よりも友情の方が強くてうんぬん、という設定。はて、どうだろうか、そんな解釈ができるだろうか。

常盤橋

今、八重洲には常盤橋、新常盤橋の他に、昔のままの常盤橋がある。実に紛らわしい。

もともとの常盤橋は、新常盤橋と常盤橋に挟まれていて、西岸には常盤橋公園があり、東岸には日銀本店がある。上を首都高が通り、橋の上には浮浪者の段ボール小屋がある。
ほとんど人通りがない。

外堀は、常盤橋まで来ると日本橋川に折れ曲がり、呉服橋の辺りから南がすべて埋め立てられている。

この、大手町とか八重洲の辺りは、歩いていてもあまり愉快なところじゃないね。黒塗りの車が多すぎる。

江戸繁盛記

深川の 流れの末の 浮かれ妻 つひのよるせや いづくなるらむ

船底の 枕並べて 深川の 遊びは客の 舵をこそとれ

まことなしと 人に言はるる 身ぞつらき 客に情けも 深川の里

身揚がりを して呼ぶ客は たをやめの 心のうちも 深川の里

柳橋新誌と併せて江戸繁盛記も読んでいるのだが、吉原と深川の対比が面白い。吉原は北にあるので、里(ほくり)。深川は南東にあるので、辰巳(たつみ)。吉原は幕府公認だから、いわば公娼。深川は民間、私娼。

吉原は芸と色では色の方が重く、それぞれの妓楼が芸者も料理人も幇間も雇っている。ところが深川では芸者は置屋というところにいて、客は酒楼に遊びに行き、料理屋から肴を取り寄せて、置屋から芸者を呼ぶ。また芸者も芸と色では芸の方が重い。

柳橋芸者は、天保の改革で深川はつぶされてから出来たもので、辰巳芸者の流れをくむ。ここでは、酒楼ではなくて船宿が主体となる。船宿と言っても必ず楼(二階)があって、一階は船宿の亭主や女将が住み、客は二階に上がるものらしい。船宿には厨房のようなものも、ないようだ。亭主の他に船頭が居て、つまり亭主というのは実は何もしない。ただばくちを打ったりして遊ぶだけらしい。女将の滑舌によって船宿というものは儲けたり儲からなかったりするのだという。

柳橋芸者は普通、柳橋南詰め、西両国広小路の北の、下柳原同朋町というところに住んだらしい。その母と二人暮らし。他には猫くらい。客が芸者の自宅に来て遊ぶこともあったようだ。