甲子太郎

前田愛『成島柳北』には、

甲子太郎は、柳北の本名で彼が誕生した天保八年(一八三七)二月十六日の干支が、甲子であったことから命名されたという。

と書かれているのだが、これは紛らわしい記述だ。 1837年は大塩平八郎の乱があった年だが、この年の干支は丁酉。柳北の生きていた時代で、甲子は1864年、元治元年に当たる。 たとえば伊東甲子太郎は、上洛の年が1864年だったので、それを記念して甲子太郎と名乗ったとされる。

『濹上隠士伝』冒頭

濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。

「天保丁酉の年」は天保八年という意味。「二月甲子」の「甲子」は、干支紀日法というもので、60日を周期とした日にちの表記法によるものと思われる。和暦で1937年2月の甲子は確かに16日で、西暦に換算すると3月22日になる。ふむ。やっと納得が行った。

軍記物

調べてみると、センター試験に軍記物が出たのは、今回が初めてではないようだ。平治物語、源平盛衰記が出てるし、平家物語も軍記物のうちだろう。

やはり、保元物語と言えば、為朝とか清盛とかだと思うのだけど、そこをあえてはずして、為義と義朝という当たりが、ひねってあるよね。

ていうか、いろいろ調べてみると、この「為義と義朝」の場面というのは、保元物語の中でも、割と有名人気の箇所、いわゆるクライマックス(の一つ)らしいことがわかる。そうだったのか。

センター試験「国語(古文)」を解いてみる。

センター試験「公民・倫理」を解いてみる。 のまねをして、私も国語の古文を解いてみる。 自己申告すると、ややケアレスミスはあったものの、ほぼ解けた。 問1と問2は、文法の問題とも言えるが、問1はかなりトリッキーな、つまり現代語では解釈不可能で、ひっかかりそうな単語をわざと混ぜている。もしかすると、これは、入試テクニックとして参考書や予備校の授業などで指摘されている、有名なひっかけなのかもしれないが、普通に古文を趣味で読んでいる人には、難解であって、文脈によって判断せざるを得ないから、読解問題に近い、と思う。

たとえば問1(ア)だが、これは「すかす」の意味を知らねば解けぬ。コンテクストでは、「催促する」ともとれるし「なだめる」とも取れる。むしろコンテクストから察すれば「催促」のほうが当たりではないか。(イ)(ウ)は読解で解ける。

問3から後は現国の読解問題にきわめて近い。私は昔、こういう、答えがあるのかないのかわからない問題が苦手だったが、最近やっとこつを覚えてきたようだ。問6なども、「まあ、これを読んで、自分は必ずしも、そんなふうには思わないけど、そういうふうに解釈する人もいるかもしれないな」というのが正解で、残りは「その解釈にはちょっと無理があるのじゃないかなあ。」と疑問を感じさせる文言が、ひとつずつ混ぜられているのだった。

そもそも、私は理系だったから、昔は理系でも古文や漢文もセンター試験でやらされたのだがそれはともかくとして、こういう問題を専門に解く訓練を受けていない。受験テクニックを駆使するともっと楽に解けるのかもしれないが、わからん単語はさっさと辞書を引きながら読む、ただの古文愛好家として言わせてもらえば、こんな文章を高校生が読めるのがおかしいと思う。難しすぎる。ますます、古文の受験者は減るだろうし、古文を嫌いになるに違いない。それが心配だ。出題箇所だが、『保元物語』というのは面白いけど、この義朝と為義の離別の場面は読んだことがなかった。なるほど確かに面白い箇所であって、へえ、こんなエピソードもあったのか、と気づかせてはくれるのだが、ちと、玄人好み過ぎやしないか。『保元物語』にはもっと面白い箇所がいくらでもあるのに。というか、この問題を解いて、古文っておもしろいなあと思う高校生は、皆無だと思うのだが、それで良いのだろうか。

それから、これは、読み解くのにかなり時間を要する問題だった。こんなに時間をかけないと解けない問題で、良いのだろうか。もしかして、普通の受験者は現代文の箇所だけ解いて、古文や漢文を解く受験者というのは、相当マニアックな連中のみ、という設定なのだろうかな。

それで私は、ある人に、この問題の感想を聞いたのだが、その人が言うには 「(源氏物語のような)王朝女流文学だと誰と誰が会話しているのかさっぱりわからないことが多いが、これは、 主人と家来の会話が主だから、誰が誰に話した言葉かわかりやすく、良問だと思う。」 というのだった。 なるほどなあ。そういうものなのかなあ。

「センター試験」「保元物語」などでググると、いろいろ講評が読めて面白い。 軍記物は初めての出題、か。ふーん。ていうか、軍記物ってすげー面白いのに今まで一度も出題されておらず(※追記あり)、その初の出題例が「義朝と為義の離別」なのかよと。なんか、感覚狂ってないか。例年と比べて和歌が一つもないのが良かった、などという意見が多いが、おい、古文で和歌を避けて通るなよ。むしろ、和歌メインでやろうよ、古文なんだからさあ。なんか、和歌って、受験産業界で蛇蝎のように嫌われてるのかな。
悲しい現実だな。

四行詩

オマル・ハイヤームのルバイヤート。岩波書店の。著作権切れなのな。

Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。 できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。 ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。絶句風に韻も踏んでみたし。元ネタは小川亮作訳、

今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 / 苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。 元ネタは、

さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。 七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、 都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。 しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。 どうしたらよかろうか。

柳橋

柳橋新誌を読んでもよくわからんことが多い。木村荘八 柳橋考 など参考にする。

神田川がお茶の水を開削して隅田川に流れ込むようになったのは第二代将軍秀忠のときだというから、ずいぶん古い。

神田川の万世橋から隅田川の合流地点までかつては「柳原堤」と言う堤防があり、柳並木があったという、その末端にあったので、柳橋という名前になったとか。元禄10年 (1697)、柳橋架橋。

日本橋の魚河岸は今の三越の当たり、日本橋川に沿ってあったものと思われる。柳橋からおよそ 2km くらいか。

東日本橋の日本橋中学から南西方面にかつては薬研堀というものがあって、矢ノ倉という米倉に米を運搬するためのものだった。「旧柳橋」というのはかつてこの、隅田川端の薬研堀に架かっていたもののようだ。ここらを米沢町とも言う。

さて、それで再び柳橋新誌を見ると、柳橋には四区があって、「柳橋表町」「柳橋裏河岸」「米沢表町」「旧柳橋河岸」。「柳橋表町」は柳橋の東側の神田川沿いと、南詰めの辺りを言うようだ。「裏河岸」は西側。「米沢表町」は柳橋の東南の米沢町にあったというが、ちょうど両国橋西詰めの繁華街辺りということだろう。「旧柳橋河岸」はそこからさらに南の薬研堀辺りにあったものと思われる。これを「米沢裏河岸」とも言う。この四区に33件の船宿があり、互いに親戚のようであり、他に柳橋北詰めにも数軒の店があったが、疎遠だったという。

柳橋の船宿の発祥は、渡し船だったというが、両国橋は1660年頃に架かっているから、もしそうだとすれば、ほんの江戸初期から船宿はあったということになろう。

船宿ごとに亭主がいて、その妻が女将となる。

酒家は船宿とは別に描いてある。柳橋の北と南、米沢町などに分散していたようだ。

柳橋の妓は芸を売るものなり。女郎にあらざるなり。而して、往々色を売るものあり。何ぞや。深川の遺風あるをもってしかるか。而して深川は公に売り、此は私に売る。
公なるものは常になしてなしやすく、私なるものは変にしてなしがたし。

凡そ人の女郎を買うや、もってともに寝るべし。芸者を招くや、もってその技を聞くべくして、ともに寝るべからず。而してその寝るべからざる人と寝、そのあへて売らざるの色を売らしむ。これを「転ばす」と言う。

興味深すぐる。

日本橋河岸

柳橋新誌。

およそ酒楼各家、あしたに起き、若い者をして日本橋に赴いて魚を買わしむ。
帰って客を迎ふ。 客知らずして早くに至れば、すなわち辞して曰く、 「河岸がまだ帰りません」と。 故に客の来たる、四つ(午前十時)に始まる。 士あり商あり、豪農あり、良工あり。

なるほど、このころ江戸の魚河岸は、やはり日本橋にあったのだなあ。

夏は、湯殿で汗を流してから酒を飲む。 銭湯のようにやかましく穢れてはいない。 おのおのの店の紋や名を染めた浴衣を着せる、とある。 今のスーパー銭湯のようなものか。

いやあ。面白いわこれは。

遊郭と岡場所

メモ。

遊郭というのは、幕府公許の遊女屋を一箇所に集めたもので、江戸には吉原だけ。 一箇所に集めたのは統制するため。 これに対して、岡場所はそれ以外の私娼窟のこと。 品川・内藤新宿・板橋・千住の宿場町以外、天保の改革で取りつぶしになった。 天保の改革では深川の門前仲町にあった辰巳芸者などが弾圧された。

柳橋は、天保の改革がゆるんだ後に、おそらくはそれ以前からあった船宿街をよりどころとして、 芸者たちが集まってきて、嘉永(1848-)・安政(1854-)以後、次第に岡場所のようになったところのようである。

斗、俵、石

なんかややこしいので、まとめてみる。

まず、石高だが、太閤検地では、1石で5斗が良い田んぼ、1石で3斗が普通の田んぼ、1石で1斗しかとれないのが悪い田んぼ、と決めたそうだ。まあだいたい1石当たり2斗ないし4斗換算か。

本来は1石=10斗なのだろうが。10合が1升、10升で1斗、10斗で1石。なので1000合が1石に相当する。1年365日三食1合ずつ米を食うとだいたい年に1石になる。そこで人間が1年に食う米の量がだいたい1石、と見積もられた。

だいたい3.5升が1俵なので、年に30俵ほど食べることになる。

町奉行所与力は最初のころ知行を与えられてそこから得られる年貢がそのまま俸禄となっていたが、途中から蔵米の支給になった。つまり、最初は領地を持った殿様だったのがサラリーマンに変更になった。そのとき知行地取り200石が蔵米80石に変更になっている。幕府標準のレートでは1俵=0.35石=3斗5升なので、蔵米80石とは、約230俵。知行地で200石取れるということは、その内の0.65が農民の取り分、0.35が支配の取り分になるので、200×0.35=現米70石=200俵となる。まあだいたい同じ。

この石高と現米の換算比率と、石と俵の換算比率がどちらも0.35なのがややこしい。

ようするに知行1石と蔵米1俵はほぼ同じということだな。あと、金1両もだいたい米1俵と同じ。

ここで、町奉行所与力の大塩平八郎と、将軍侍講の成島柳北の俸禄を比べてみると、大塩は200俵で、成島は家格300俵+役料200俵=500俵。おおよそ与力は今の警部のような仕事で年収で言えば1000万円くらいだろうか。とすると成島の年収は2500万円くらい。大企業の取締役くらいの収入はあったことになる。多少家来を養ったりしなくちゃならなかっただろうが、軽く妾の一人二人は囲えたろうな。父子鷹には岡野孫一郎という1500石の旗本が出てくるが、これだと年収7500万円に相当する。家来を養わなくてはならないからすべてが個人収入ではないが、さすがにお殿様だな。

文学部唯野教授2

引き続き、第2講「新批評」。

マックスウェーバーが「典型的かつ大量に行われる社会的闘争はながい間には結果的に、重要な個人的性質を持つものを淘汰するに至る」と言っているらしいのだが、これは ピーターの法則 のことではないのか。よくわからんがとりあえず備忘録代わり。

うーむ。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「すべてのものを正確にあるがままの形でほったらかしておくものだ」と言っていて、それはつまり「文学作品を解剖するのは人間の体を切り刻むのと同じ非道な行為」だからで、「ちょい本居宣長」だと言っている。なぜそこでまた本居宣長。本居宣長は、そんなこと言ってないよ全然。筒井康隆の中では本居宣長っていう人はどういう人ということになっているのかなあ。「ちょい小林秀雄」、という意味でなら少しは当たってるのかな。小林秀雄は、よくわかりません、なんでゴッホとかモーツァルトとかまで口出ししてるのか。全然わからん。で、小林秀雄と本居宣長は全然別の人格だと思うんだけど。

「新批評」は「科学合理主義のパロディ」「技術優先」「判断停止」ふーん。とりあえずメモ。

文学部唯野教授

なんとなく手持ちの本を読み始める。

『文学部唯野教授』第一講「印象批評」。

ここで、筒井康隆は、「印象批評」とは、「神様並みの常識持」つ人にしか出来ないことで、日本人ならば小林秀雄や本居宣長くらいだ、などと言っていて、妙に感心してしまったので、久しぶりにここに書いているのだが。

さらに「神様並みの常識持」つ「印象批評」をする人でも「小説は無秩序だから面白い」とか「登場人物の性格が行き当たりばったりだからこそ自然に見える」などと言っている。うーむ。たぶん、いや確実にだが、筒井康隆は、きちんとプロットを考えて、登場人物の性格もきちんと設定して、小説を書いているにもかかわらず、「あなたの小説はカオスなところが面白いですね」とか「登場人物の性格が破綻しているから面白いですね」などと言われて頭に来たのだろうな。はははわかるわかる。

国文科は小林秀雄の『本居宣長』を半強制的に読まされるのか。以前この部分を読んだときは、そもそも小林秀雄も本居宣長も読んではいなかったので、ちんぷんかんぷんだったのだが、今ならだいたいわかる。小林秀雄の『本居宣長』も、本居宣長の著作も、精読した(つもり)だからだ。

で、本居宣長の「されば、緒の言は、その然云フ本の意を考えんよりは、古人の用ひたる所を、良く考へて、云々のことは、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」を原文密着主義、などと筒井康隆は言っているのだが、はて、そうだろうか。まず、もとの本居宣長の引用だけど、「用ひ」などの仮名遣いが間違っていて、しかも送りがながひらがななところを見ると、たぶん岩波文庫版の『排蘆小船』から引いたものだろうと思うのだが、だとしても、宣長が言いたかったことは単に、古語で意味の通らない言葉が出てきたときには、その事例をできるだけたくさん調べて、意味を解読する必要があるよ、ということだろう。言葉の意味の本質などというものをいくら考えても無駄で、できるだけたくさんの文献に当たって用例を調べて類推しろと言っているだけだ。これをひとことでなんと言い表すかは知らんが、それを「神様並みの常識を持つ人の印象批評」とか「原文密着主義」などと言ってよいのだろうか、と疑問に思ってしまうわけだ。