『太平記』に
天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。
という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。
『太平記』に
天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。
という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。
『柳橋新誌』に芸妓の名前として列挙してあって、多いのは「阿長」などと「阿」が付く名前だが、 為永春水『春色梅暦』など見ると、「阿長さん」とかいて「おちょうさん」と呼んでいる。 つまり、「阿」は「あ」ではなく「お」と読むのであろう。
「三種の神器」の初出が『平家物語』ではないかという根拠は、簡易な手法ではあるが、
新潮国語辞典の用例を調べたのである。この辞典は用例に「もっとも頻繁なもの」ではなく「初出」つまり「もっとも古い例」を載せるのが方針である。教科書等に載っているような、無視できない典型例は「初出」と併記されるから、「初出」が漏れることはないのだ。
それで、『平家物語』の成立は、鎌倉幕府の成立からどう見ても半世紀は後だろう。1240年くらい。つまり、1221年に起きた「承久の乱よりも後」なのである。
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)
後鳥羽院の御時、つまり承久の乱の直前に、すでに原型が出来ていた可能性もあるのだが、承久の乱によって、宣旨も院旨もなしに、「三種の神器」の権威だけで、後堀川天皇は即位したのであり、それによって「三種の神器」という概念が初めて確立し、それが『平家物語』の中に、リアルタイムで盛り込まれたのではないか。偶然の一致とは思えぬ。
つまり、安徳天皇都落ちのときには、「三種の神器」というものが皇位継承の印として、重要視されてはいなかった可能性もあるということだ。もし「三種の神器」が承久の乱以前から皇位継承の証であったなら、公卿の日記などにも、前々から用例がなくてはなるまい。どうかな。
「三種の神器」の初出はどうやら平家物語らしい。「十善帝王、三種の神器」という言い回しが二度、後は「主上、並びに三種の神器」、等。
「十善帝王」というのは、「天子に父母なし。吾十善の戒功によて、万乗の宝位をたもつ。」とあってすなわち殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を犯さないことを「十善戒」といって、この戒を守ればその功徳によって人間界の王になるという。「三種の神器」という言い回しも、なんとなく仏教説話から由来しているような気になるな。
筒井康隆の「雨乞い小町」を久しぶりに読んだのだが、その中で、ずっと気になっていたのだが、
ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは
ちはやぶる 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ
の二首があって、「ことわりや」の出来が悪くて「ちはやぶる」の方が良いと言っているところだ。なぜ筒井康隆は、そう判断したのだろうか。いろいろ調べてみると面白いのだが、まず、「ちはやぶる」の方は『小町集』『小大君集』に採られており、小野小町か小大君かはわからぬが、ともかく、平安中期にはもうあった歌なのだ。ところが「ことわりや」の方がどちらかと言えば有名であって、初出は江戸初期のいろんな説話集、元はといえば、『雨乞小町』という謡曲(能)の演目の一つだったようだ。『雨乞小町』は七小町というものの中の一つで、浮世絵の題材には良く採られるが、テキストなど失われて久しいようだ。
弘法大師が京都の神泉苑で雨乞い勝負をしたという伝説があって、和泉式部もここで同じように勅命で雨乞いをして、そのときに「ことわりや」の歌を詠んだ、
日の本の 名に負ふとてや 照らすらむ 降らざらばまた 天が下かは
ことわりや 日の本ならば 照りもしつ 天が下とは 人もいはずや
などといったバリエーションもあるらしい。いずれにしても女性が詠んだということになっている。弘法大師も、竜王という女性に雨乞いをさせたらしい。雨乞いは女という定説でもあるのだろう。そういえば、雨女とは言うが、雨男とはあまり言わない。
そうだなあ。どれもできばえは大して違わないように思えるのだが。いずれにしても、民間の雨乞いの歌だよな、きっと。
加門七海『くぐつ小町』という小説にも「ちはやぶる」の歌が出てくるようだ。こちらは比較的新しい1996年に単行本になった作品。筒井康隆の『雨乞い小町』の単行本初収録は『ホンキィ・トンク』1973年。
伊勢物語25段。
むかしをとこありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢はで寝る夜ぞ ひぢまさりける
色ごのみの女 返し
見るめなき わが身をうらと 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る
これらを業平と小町の間でやりとりした歌として解釈している。筒井康隆が和歌を論じてるのが珍しいので、少し考察してみたいのだが、これは伊勢物語にも古今集にも採られている有名な歌なので、筒井康隆が特に和歌に関心を持ったというより、たまたま目について取り上げたにすぎないだろう。
小町の歌は、業平の歌の返歌の形には、まったくなってない。返歌なら返歌らしく元歌を何か参照するなりしなくちゃならないが、まったく別々の歌という印象だよな。ああ、たまたま古今集で隣り合った歌なのか。
筒井康隆の解釈では、これは二人が美男美女の似合いのカップルだと言われて、その気になって詠んでみて、あまりにも大向こう受けの嫌らしい歌だったので二人とも破って捨てた、実は二人は恋愛感情よりも友情の方が強くてうんぬん、という設定。はて、どうだろうか、そんな解釈ができるだろうか。
今、八重洲には常盤橋、新常盤橋の他に、昔のままの常盤橋がある。実に紛らわしい。
もともとの常盤橋は、新常盤橋と常盤橋に挟まれていて、西岸には常盤橋公園があり、東岸には日銀本店がある。上を首都高が通り、橋の上には浮浪者の段ボール小屋がある。
ほとんど人通りがない。
外堀は、常盤橋まで来ると日本橋川に折れ曲がり、呉服橋の辺りから南がすべて埋め立てられている。
この、大手町とか八重洲の辺りは、歩いていてもあまり愉快なところじゃないね。黒塗りの車が多すぎる。
深川の 流れの末の 浮かれ妻 つひのよるせや いづくなるらむ
船底の 枕並べて 深川の 遊びは客の 舵をこそとれ
まことなしと 人に言はるる 身ぞつらき 客に情けも 深川の里
身揚がりを して呼ぶ客は たをやめの 心のうちも 深川の里
柳橋新誌と併せて江戸繁盛記も読んでいるのだが、吉原と深川の対比が面白い。吉原は北にあるので、里(ほくり)。深川は南東にあるので、辰巳(たつみ)。吉原は幕府公認だから、いわば公娼。深川は民間、私娼。
吉原は芸と色では色の方が重く、それぞれの妓楼が芸者も料理人も幇間も雇っている。ところが深川では芸者は置屋というところにいて、客は酒楼に遊びに行き、料理屋から肴を取り寄せて、置屋から芸者を呼ぶ。また芸者も芸と色では芸の方が重い。
柳橋芸者は、天保の改革で深川はつぶされてから出来たもので、辰巳芸者の流れをくむ。ここでは、酒楼ではなくて船宿が主体となる。船宿と言っても必ず楼(二階)があって、一階は船宿の亭主や女将が住み、客は二階に上がるものらしい。船宿には厨房のようなものも、ないようだ。亭主の他に船頭が居て、つまり亭主というのは実は何もしない。ただばくちを打ったりして遊ぶだけらしい。女将の滑舌によって船宿というものは儲けたり儲からなかったりするのだという。
柳橋芸者は普通、柳橋南詰め、西両国広小路の北の、下柳原同朋町というところに住んだらしい。その母と二人暮らし。他には猫くらい。客が芸者の自宅に来て遊ぶこともあったようだ。
前田愛『成島柳北』には、
甲子太郎は、柳北の本名で彼が誕生した天保八年(一八三七)二月十六日の干支が、甲子であったことから命名されたという。
と書かれているのだが、これは紛らわしい記述だ。 1837年は大塩平八郎の乱があった年だが、この年の干支は丁酉。柳北の生きていた時代で、甲子は1864年、元治元年に当たる。 たとえば伊東甲子太郎は、上洛の年が1864年だったので、それを記念して甲子太郎と名乗ったとされる。
『濹上隠士伝』冒頭
濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。
「天保丁酉の年」は天保八年という意味。「二月甲子」の「甲子」は、干支紀日法というもので、60日を周期とした日にちの表記法によるものと思われる。和暦で1937年2月の甲子は確かに16日で、西暦に換算すると3月22日になる。ふむ。やっと納得が行った。
調べてみると、センター試験に軍記物が出たのは、今回が初めてではないようだ。平治物語、源平盛衰記が出てるし、平家物語も軍記物のうちだろう。
やはり、保元物語と言えば、為朝とか清盛とかだと思うのだけど、そこをあえてはずして、為義と義朝という当たりが、ひねってあるよね。
ていうか、いろいろ調べてみると、この「為義と義朝」の場面というのは、保元物語の中でも、割と有名人気の箇所、いわゆるクライマックス(の一つ)らしいことがわかる。そうだったのか。
センター試験「公民・倫理」を解いてみる。 のまねをして、私も国語の古文を解いてみる。 自己申告すると、ややケアレスミスはあったものの、ほぼ解けた。 問1と問2は、文法の問題とも言えるが、問1はかなりトリッキーな、つまり現代語では解釈不可能で、ひっかかりそうな単語をわざと混ぜている。もしかすると、これは、入試テクニックとして参考書や予備校の授業などで指摘されている、有名なひっかけなのかもしれないが、普通に古文を趣味で読んでいる人には、難解であって、文脈によって判断せざるを得ないから、読解問題に近い、と思う。
たとえば問1(ア)だが、これは「すかす」の意味を知らねば解けぬ。コンテクストでは、「催促する」ともとれるし「なだめる」とも取れる。むしろコンテクストから察すれば「催促」のほうが当たりではないか。(イ)(ウ)は読解で解ける。
問3から後は現国の読解問題にきわめて近い。私は昔、こういう、答えがあるのかないのかわからない問題が苦手だったが、最近やっとこつを覚えてきたようだ。問6なども、「まあ、これを読んで、自分は必ずしも、そんなふうには思わないけど、そういうふうに解釈する人もいるかもしれないな」というのが正解で、残りは「その解釈にはちょっと無理があるのじゃないかなあ。」と疑問を感じさせる文言が、ひとつずつ混ぜられているのだった。
そもそも、私は理系だったから、昔は理系でも古文や漢文もセンター試験でやらされたのだがそれはともかくとして、こういう問題を専門に解く訓練を受けていない。受験テクニックを駆使するともっと楽に解けるのかもしれないが、わからん単語はさっさと辞書を引きながら読む、ただの古文愛好家として言わせてもらえば、こんな文章を高校生が読めるのがおかしいと思う。難しすぎる。ますます、古文の受験者は減るだろうし、古文を嫌いになるに違いない。それが心配だ。出題箇所だが、『保元物語』というのは面白いけど、この義朝と為義の離別の場面は読んだことがなかった。なるほど確かに面白い箇所であって、へえ、こんなエピソードもあったのか、と気づかせてはくれるのだが、ちと、玄人好み過ぎやしないか。『保元物語』にはもっと面白い箇所がいくらでもあるのに。というか、この問題を解いて、古文っておもしろいなあと思う高校生は、皆無だと思うのだが、それで良いのだろうか。
それから、これは、読み解くのにかなり時間を要する問題だった。こんなに時間をかけないと解けない問題で、良いのだろうか。もしかして、普通の受験者は現代文の箇所だけ解いて、古文や漢文を解く受験者というのは、相当マニアックな連中のみ、という設定なのだろうかな。
それで私は、ある人に、この問題の感想を聞いたのだが、その人が言うには 「(源氏物語のような)王朝女流文学だと誰と誰が会話しているのかさっぱりわからないことが多いが、これは、 主人と家来の会話が主だから、誰が誰に話した言葉かわかりやすく、良問だと思う。」 というのだった。 なるほどなあ。そういうものなのかなあ。
「センター試験」「保元物語」などでググると、いろいろ講評が読めて面白い。 軍記物は初めての出題、か。ふーん。ていうか、軍記物ってすげー面白いのに今まで一度も出題されておらず(※追記あり)、その初の出題例が「義朝と為義の離別」なのかよと。なんか、感覚狂ってないか。例年と比べて和歌が一つもないのが良かった、などという意見が多いが、おい、古文で和歌を避けて通るなよ。むしろ、和歌メインでやろうよ、古文なんだからさあ。なんか、和歌って、受験産業界で蛇蝎のように嫌われてるのかな。
悲しい現実だな。