梅颸詩抄

「梅颸日記」は見延典子の「すっぽらぽんのぽん」などである程度わかるのだが、原本を見るのはちと難しいようだ。「梅颸詩抄」は入手困難。そもそも「颸」がOPACで検索できない。困った。山陽が江戸に遊学するときに梅颸が詠んだという歌

不二のねも あふみのうみも 及びなき 君と父との 恵み忘るな

うーん。悪くはないが儒教臭く説教臭くて、歌としての雅やかさがない。こんなこと母親に言われたらもううんざりする。富士山や琵琶湖をいきなりもってこられても、っていう。他の歌にも当たってみないとわからんが。

返歌

たのもしく おほしたてたる たらちねの 親の心ぞ 憂かりけるらむ
もののふの 家に生まれし 子にしあれば 親のをしへぞ そむきかねつる
子を思ふ 親のこころは たふとくも かつ苦しきは 子の心かな

追記20260927

頼山陽全書 全集 附録 梅颸日記

景樹2

はづき十六日の夜なりけむ、頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてよめる

すむ月に 水のこころも かよふらし たかくなりゆく 波の音かな

文政7年(1824) 8月16日に香川景樹と頼山陽が会ったときに詠んだ歌らしい。香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1780年生まれだから、山陽の方がだいぶ年下だ。だが、1824年となるともう44才、日本外史が完成する2年前ということは、私塾の経営はだいぶ安定したころだっただろう。山陽の母・梅颸が歌を景樹に習っていたつながりだという。なるほど、そこは盲点だったな。小沢蘆庵にも習ったらしい。山陽もたまには和歌を詠んだらしく、母と子の和歌がたくさん載っているようだ。やれやれ、梅颸日記でも読むか。
山陽の歌

親も子も老いの波よる志賀の山三たび越えけることぞうれしき

梅颸の歌

まがひつる雲は色こそながめけれ花にうづめるみよしののやま

景樹が小沢蘆庵のもとへ詠んだ歌

身はつかる道はた遠しいかにして山のあなたのはなは見るべき

蘆庵の返し

としを経し我だにいまだ見ぬはなをいととく君はをりてけるかな

宣長が詠んだ歌

涼しさに夏もやどりもふるさとに帰らむこともみな忘れけり

景樹返し

ただひと目みえぬる我はいかならむふるさとさへに忘るてふ君

宣長返し

ふるさとは思はずとてもたまさかにあひ見し君をいつか忘れむ

ふーん。ずいぶんつきあいが広かったようだ。上の歌からわかるが、宣長と景樹は初対面だったようで、しかも宣長の最晩年・享和元年(1801)の夏のことのようだから、これで今生の別れとなったわけだな。秋にはもう宣長は死んでいるし。ぎりぎりのタイミングだった。72才の当世随一の老学者にまみえた壮年の歌人の感情の高ぶりが上の歌のやりとりからも伝わってくる。

景樹は桂園派の流れを作った人で、堂上の公家から地下の香川家に伝えられた二条派の分流で、真淵の「万葉調」に対して古今調を重んじてうんぬん。なんとなく公家のまねをしてつまらん歌を詠み続けた因循姑息な流派のように思えるのだが、景樹の歌はかなり狂歌に近い自由で気楽なものが多いように思う。雑体の中に俳諧歌というものも載っている。堂上でもなく万葉でもなく狂歌や俳諧に近い、江戸時代の中では主流とみなされる流派だったのだろう。まして宣長も批判している「古今伝授」などといったいかがわしい密教的な歌風ではあり得ない。景樹がそういうバカであった可能性はその実作を見る限りあり得ないと思う。

それが明治になると万葉・アララギ以外の古風な「和歌」はすべて「桂園派」というレッテルを貼られて迫害を受けた。代わりに「短歌」という呼び名が発明されたというわけだ。「桂園派」を攻撃するためにその古今調の始祖であるところの紀貫之が偶像破壊の対象として選ばれたということだろうが、実際批判したかったのはその流れの香川景樹やら、歌会所の高崎正風だったというわけだ。

正岡子規のアジ文書「歌詠みに与ふる書」だが、あれは特に子規がどうというより、俳句詠みの若造の跳ねっ返りな主張が、当時流行していた西洋文学の、自然主義かなんかの風潮にうまく乗って扇動に利用されたってとこではないか。しかもその言いたいところの実体は古文漢文ちんぷんかんぷんな文体ではなくて、俺等がふだんしゃべっているような言葉で歌わせろという程度の、大衆化・民主化運動のたぐいであって、こむつかしいお勉強なんかしてんじゃねーよぐらいの反発だっただろうと思うんだな。別に古今がどうのとか貫之がどうのってことはどうでもよかったんだろうと思うな。大衆運動なんてものはいつでもその程度のものだ。

龍馬

龍馬はまさに「さざれ石が巌となって苔むすまで」虚像がふくれあがった人と言うべきだろう。土佐を脱藩して薩摩の密偵とか武器商人相手のブローカーのような仕事はしていたかもしれないが、教養があるわけではなく、今でいうところのやくざの中堅幹部くらいのものだったのではないか。「世の中を洗濯」程度のことはその当時の志士なら誰でも言いそうなことであり、和歌はほとんどがその時代のはやり歌のつぎはぎだし、手紙だって自分で読み書きできたかどうかすら怪しい。まあしかし野口英世母のシカだってなんとかこうとか手紙くらいは書くわけだから、まったく書けなかったということもないかもしれないが。そんなやくざ映画の主人公みたいなところが受けるのだろうが、彼一人居ようがいまいが、維新がどうこう、日本の歴史がどうこうということはあり得ない。

贈正四位坂本龍馬君忠魂碑というものがあるらしいが、昭憲皇后の夢枕にどうこうというそのいきさつはともかくとして、明治24年に追贈されたというから、おそらく薩摩藩でも西郷隆盛に追贈の運動があって明治22年に正三位を贈られているので、土佐藩の中では一番名高い龍馬にもそのような運動の結果、追贈があった、くらいに考えれば良いのではなかろうか。西郷隆盛は西南戦争の首謀者で本来朝敵だが名誉回復という意味で正三位にとどまったので、本来であれば正一位でもおかしくない。たった一位の違いだが龍馬と西郷隆盛ではその意味あいが違う。何しろ

我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ

敵の大将たる者は 古今無双の英雄で

と歌われたのが隆盛なのだから。贈正四位は生前だと五位くらいの、平安時代だと地方長官、鎌倉時代以降では執権や大名くらいの官位で、維新に功績があった人には普通かやや高めくらいか。

こういう形の偶像崇拝は、非常に不愉快だ。司馬遼太郎にも大いに責任がある、と言えなくもないが、司馬遼太郎を何か権威付けして利用し金儲けしている連中も、自分たちのやっていることが歴史上どれくらい危険か、自覚した方が良い。司馬遼太郎自身この手の虚構の偶像崇拝を嫌悪していたのではないのか。

伊東甲子太郎、橋本若狭、中原猶介が贈従五位か。ここらまでくるとほぼ無名の志士だな。も少し事例があればだいたいの相場がわかるのだが。

蘆庵2

この人の言う「ただ事の歌」というのも、江戸時代に相当に流行っていた狂歌や、俳諧などとの棲み分けが難しいところがあり、蘆庵の歌にも狂歌とも言えるきわどいものもあるが、まあそれだけ和歌が江戸時代に多様性を獲得しつつ成熟していたことを表すものとも言える。探せばもっとこういう人は居るのかも知れない。こういう少なからぬ数の、浪人だか乞食同然の人たちが学者もしくは芸人として生涯を全うできたという意味では江戸時代はやはり画期的だったのでは。

無常
さざれ石の 巌となるも とどまらで 移り行く世の 姿ならずや

小さな石が成長して大きな巌になるという変化も、とどまることなく変転してやまないこの世の現象の一つではないのか、と訳すべきだろう。

はかなさは いづれまさらむ よひの間に 見えける夢と まぼろしの世と
酒
世の憂さも 忘るる酒に ゑひしれて 身の愁へそふ 人もありけり

わろす。自分のことだろうか。

吹く風も待たでけぬべき露の身を千年のごとく思ひなれぬる
おろかにてかよわきものの老いたればとりどころなき我が身なりけり
つくづくとひとりしものを思ふには問はず語りぞ常にせらるる
昔見しいもがすみかは田となりて野はたは今の人の家々
花咲かで七十ぢあまり五とせになりぬと言ふもはづかしの身や

ことのはの道はことわざしげき世に住みて心に思ふことを言ひいづるならひながら、塵を離れたるものぞをかしと思ふことのありて
世の塵にうづもれながらうづもれぬ大和言葉の道ぞ正しき

「今ははや浜のまさごの道絶えて寄るかたもなきわかの浦波」に返し
この国はことばの海の大八島いづくによるもわかの浦波

このみちもすゑの世の姿に心寄する人のみ多ければ、それを嘆きて詠める
いかばかりいひちらすともことのはの花を思はば実はなかるべし

ことの葉は人の心の声なれば思ひを述ぶるほかなかりけり
鳥すらも思ふおもひのあればこそかたみにねをば鳴きかはしけれ

歌は見聞き覚え知るより出づるものなるを、ひたすらにほかを求むる人の多ければ
何をかは あぜ倉かへし 求むらむ 見聞きに満てる 言の葉の種

今の世の歌は言えりのみして、常に見聞くものおほくは詠まずなりにたり
いにしへはおほねはじかみにらなすびひるほし瓜も歌にこそよめ

ひとふしと思ふややがてすなほなる心のゆがむはじめならまし
おろかにも千代よろづ代と祈るかなここはとこよのやまとしまねを
西に入り東に出でて天津日の幾夜千巡り世を照らすらむ

伊勢の宣長が七十を祝いて
七十ぢは人かずならぬ我も経ぬ君はちとせのよはひ重ねよ

老いたるどちの別れに
もろともに老いにけるかなますらをの別れにかくや袖しぼるべき

心
言ふことはみな心より出でながら心を言はむ言の葉ぞなき

はかなくあかしくらすことをおもひて
西に暮れ 東に明けて 出づる日の 今いくめぐり 我を照らさむ

良い歌だなあ。これが辞世の歌か。蘆庵の辞世の歌とは

入相の かねて惜しみし 年なれど 今はとくづる 声の悲しさ

か

波の上を 漕ぎ来と思へば 磯際に 近くなるらし 松の音高し

などを言うらしいが、あまり良い出来ではないなあ。

返歌

西に入り 東に出づる 日の本に 我がいくばくの 歌を残さむ
いたづらに 明け暮れはせじ 西に入り 東へ巡る ただのひと日も

小沢蘆庵の歌

江戸時代の知らない人。でもなかなか良い。宣長とほぼ同世代の人で交流もあったらしい。

よしさらば こよひは花の 蔭に寝て 嵐の桜 散るをだに見む

これは良い。

けさよりは 吉野の山の 春霞 たが心にも かかりそむらむ
あともなき 朱雀大路の 古き世を 思ひ出でつつ 雪やわくらむ
何ごとの はらだたしかる 折にしも 聞けばゑまるる うぐひすの声
春雨の 音きくたびに 窓あけて 軒の桜の木の 芽をぞ見る

良い。江戸時代にここまで高いレベルに達し、また公家だけでなく武士や庶民にまで広く普及していた和歌がなぜあれほどまでに無残に破壊されねばならなかったのか。実に悔しい。
なるほど、「ただごとの歌」か。すばらしいなこれは。

行く春を うぐひすの音は 絶えぬるに はかなくもなほ 鳴くひばりかな
鳴くひばり さのみな鳴きそ 暮れてゆく 春は惜しめど かひなきものを
かひなしと 言へども我も 行く春を 惜しとぞ思ふ 泣きぬばかりに
泣くばかり 惜しとはなにか 思ふべき また来む春を 頼む身ならば
頼まれぬ 老いの身をもて 限りなき 春を惜しむも かつははかなし

なかなか良いなこの連作。

今は世に 心とめじと 思ひしを 花こそ老いの ほだしなりけれ

良い。

良寛の歌

良寛の歌は僧侶らしい静かな美しい歌だ。明らかにわかるレベルの差。

あしびきの深山を出でてうつせみの人のうら屋に住むとこそすれ
しかりとてすべのなければいまさらになれぬよすがに日を送りつつ
はなかつみかづにもあらぬしづが身を長くもがもと祈る君はも

はなかつみと数がかけてある。明らかに万葉調が見てとれる。しかし武士のような勇ましさはない。

深山木も 花咲くことの ありといふを 年経ぬる身ぞ はるなかりける
年月の 来むと知りせば たまぼこの 道のちまたに 関据ゑましを

このクオリティの高さはすごい。すべてただたまたま開いた一ページの中にある歌なのだが。すごいな。こういう歌が詠みたいとさえ思う。

賀茂真淵の歌

本居宣長全集を読んでいると、村岡典嗣の評として(やや抜粋)

歌人としての宣長は、遺憾ながら第二流、もしくは以下の評価を甘受せねばなるまい。
文学や詩歌に対する、未曾有のすぐれた理解や見識を示した彼にして、なにゆえにかくのごときであったかは、あるいは不思議としうるくらいであり、学者と作者は必ずしも一致しないとはいいながら、この点賀茂真淵などと比較して、全く違っている

が紹介してあり、では賀茂真淵には秀歌があるかと思って、岩波書店日本古典文学大系「近世和歌集」を読んでみる。確かに面白い歌もある。

大魚(おほな)釣るさがみの海の夕なぎに乱れていづる海士小舟(あまをぶね)かも

いにしへのしづはた衣きし世こそおりたちてのみしのばれにけれ

沖つ舟手向けすらしも岩浪のたてるありそにかかるしらゆふ

雲のゐるとほつあふみのあはは山ふるさと人にあはでやまめや

故郷にとまりもはてず天雲の行きかひてのみ世をば経ぬべし

もののふの恨み残れる野辺とへば真葛そよぎて過ぐる秋風

見わたせば天香具山うねび山あらそひたてる春霞かな

むらさきの芽もはるばるといづる日に霞色濃き武蔵野の原

つくば山しづくのつらら今日とけて枯生(かれふ)のすすき春風ぞ吹く

さくら花花見がてらに弓いればともの響きに花ぞ散りける

山ふかみおもひのほかに花をみて心ぞとまるあしがらの関

かげろふのもゆる春日の山桜あるかなきかのかぜにかをれり

しなのぢのおきその山の山ざくらまたも来て見むものならなくに

しかし特に驚いたのは次の二首

うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山さくら花

もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花

「うらうら」の方は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の本歌ではないかというくらい似ているし、「もろこし」の方も「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山」にクリソツ。 もちろん、真淵は宣長の33才の年長であり、宣長が39才のとき(1769)に真淵は亡くなっており、先に詠んだのは真淵である。宣長も、わかった上でまねて詠んだのだろう。

世の中によしのの山の花ばかり聞きしに勝るものはありけり

みよしのをわが見に来れば落ちたぎつ瀧のみやこに花散り乱る

これらも真淵が吉野山を詠んだ歌。

宣長は43才のとき(1772)吉野に桜を見に行っている(菅笠日記)。猛烈に桜の歌を詠み出したのは44才の時からだ。思うに宣長の山桜好きは真淵から受けた影響(あるいは師・真淵を慕う気持ち)と、実際に吉野山を訪れたことによるのはほぼ間違いないし、「敷島の」の歌が真淵へのオマージュであることも確かだろうと思う。

真淵の歌を全体としてみれば、宣長と大した違いのない古今調だが、中にはわざと万葉調に詠んだものもある。田安宗武ら武士の師となったこともあり、武家の影響もみられる。一方、宣長は青年期から老年まで歌の傾向はまったく変動がない。二十台後半に書いた「おしわけをぶね」において彼の思想と学問の方針は完全に完成されているのは見事である。しかしゆえに十年一日のごとく「ほとんど生長も発展もみられないことも、やがて彼が真の詩人でなかったゆえとすべき」などと言われる始末だ。

「近世和歌集」の真淵の歌は抜粋なのでこれ以上なんとも言えないのだが、宣長に比べて真淵の歌が優れているとするのは単なるアララギ史観に過ぎないと思う。

酒を詠んだ戯れ歌

飽き果てぬ 酒に心の 失せぬ間に 酒なき里に うつり住ままし
あさか山 かげさへ見ゆる 山の井の 浅くぞ酒は 飲むべかりける
ゑはばとて 秩父の山の いはが根の いはずもありなむ よしなし事は
雨降れば 湯気にくもれる 窓の戸の ゑひて心の などか晴れざる
春の日に 酒てふものの なかりせば 花は咲くとも のどけからまし
いづこにか 酒をのがれむ みよしのの 奥にも酒は ありてふものを
けふも酒 明日もさけさけ むらぎもの 心のぬしは 酒にこそあらめ