霊元院の歌

梓弓 やしまの外の 波風も のどかなる世の 春やいたらむ
袖の香を 家づとにせむ 道の辺の 垣根の梅は 折るべくもなし
山水の 一つ流れを いく町に すゑせき分くる しづが苗代
夏もはや なかばは過ぎぬ さみだれの 晴れぬ日かずを 数へこし間に
おのがため つれなき妻を 有明の 月にたぐへて 鹿や鳴くらむ
消えなばと 拾はで見るも 笹の葉の うへにたまらぬ 玉あられかな
都には まだ降りそめぬ 雪をけさ 山の端白く 見てぞおどろく
風に伏し 霜にしほれて 池水の みぎはに枯れぬ 芦の葉もなし
つたひ来る 流れも細き 岩間より こほりにけらし 山河の水
にひまくら かはす言葉も 年月の 思ひのほどを いかが尽くさむ
おどろかす 一筆もがな あひ見しは 夢かとたどる 今朝のまた寝に
ひとたびは あひ見し人の 忘るばかりに またぞつれなき
ひととせの しわざいとなき 民や住む 田づらに見えて つづくいほりは

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。

ただごと歌

小沢蘆庵の歌論「布留の中道」など読む。紀貫之が「ただごと歌」と言ったのは、一つは古今集仮名序の

いつつには、ただことうた、
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。

という箇所で、花鳥風月を詠むといったものではなく、またそれを描いた屏風に添えるというものでもなく、ありのまま思ったことをただ詠んだということだろう。本文中では、読み人知らずで、恋の歌。

または、土佐日記の中で、

又船君のいはく「この月までなりぬること」と歎きて苦しきに堪へずして、人も言ふこととて心やりに言へる歌、
ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり
聞く人の思へるやう「なぞただごとなる」と密かに言ふべし。
「船君の辛くひねり出して良しと思へる事を。怨じもこそし給へ」とてつつめきてやみぬ。

船君とは、貫之本人のことのようだ。「よそかいか」とは「よそかあまりいつか」のことであり、45日と解釈すべきだろう。「40日も50日も」と訳すのはおかしい。全体では「春の長い日を45日も船に乗って私は日を経た」というような意味で、たしかにある意味「当たり前」であり「平凡」「ありのまま」ではある。

さて、「布留の中道」に、当時の「ただ歌」の悪例として

不尽の山 同じ姿に 見ゆるかな こなたおもても あなたおもても
女郎花 いろいろにこそ 露もおけ 花には黄玉 葉には青玉

の二首が挙げられている。一つ目は、駿河や甲斐など、どの方角から見ても、富士山は同じように見える」というような意味で、二つ目は「女郎花に置く露が、花には黄色く、葉には青い色なら面白いだろう」というような意味。二つ目は明らかに駄作だし、面白くもなんともない。一つ目は微妙。ただし蘆庵が批判するには、富士山を詠むには、もっといろいろと詠みようがあろうに、ただどちらからみても同じに見えるなどと詠むのは平凡きわまりない、歌にならない、ということのようだ。

藤原公任の拾遺集に採られた歌

(1) 朝まだき嵐の山の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき

は大鏡では

(2) をぐら山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき

であるが、本人がもともと詠んだ歌は

(3) 朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢばを着ぬ人ぞなき

だったと言う。(1) は拾遺集を集めた(と言われている)花山院が本人の意思に反して「改悪」したものだと言うのだが、これだけ異同があると、どれがほんとうなのかわからない。(3)の説は、袋草紙という、平安時代末期の、保元の乱の頃(1155-1159)に成立した歌論書に書かれていることであり、拾遺集は1006年頃の成立、大鏡は1100年頃に成立したと言われている。一方、公任は1041に死んでいる。袋草紙の説が間違っているとも言い難いし、大鏡の逸話はなんとなく嘘くさい、とも言える。袋草紙は150年も前のことを言っているのであり、当時は今に伝わってない写本や、拾遺集編纂の事情を伝える何かの家伝書もあったのかもしれんが、今のような科学的な古文辞学的手法があるはずもなく、かなり疑わしい。ただ言えることは、この例を挙げた蘆庵は、(3)の方が(1)よりも良く、「実を重くして飾りを好まざる、誠に歌人の心なるべし」とほめているのであるから、彼が主張した「ただごと歌」により近い形なのだということだろう。なにごとも、ひとつひねってやろうとか、「一節おもしろかるべき心」を詠みこんでやろうとか、そういうのは邪曲な心であり、自然の道に違うと考えているようだ。

雨

雨降れば せばき我が家の 軒端より せばき庭のみ ながめくらしつ
降れば照り 照ればまた降る 我が宿の 庭木の若葉 はぐくまれけり
枯れにきと 思ひし木より 若き芽の 生ひたる見れば ほほゑまれけり
我が宿の せばき庭にも 年ごとに 植ゑたる苗木 増えまさるかな
なほ広き 庭も持たまし 富しあらば 老いたるのちの なぐさめとせむ

酒の出費がバカにならないということを

このごろは つひへもおほく なりければ 酒飲むならひ やめましものを

ふと

なりはひの日々に疲れてうつろなる思ひに耽くるやまと民くさ
かくありてしのがばやがて夏は来むかくありてまた年は暮れなむ
何か良きたづきはありやかくありてなどて我が世の人まかせなる

ふと

京極派風(笑)

朝の日のまぶしさにたへで戸もあけず伏したるままにもの思ひする
朝と夜酒を飲めると飲まざると人の心のかくもうつろふ
寝覚めしてふすまかぶりてあれこれと朝はもの思ふときにこそあれ
よべのことを思ひ出づればあさましきここちのみする浮かれ歩きか
ゑひは抜け夜も明けぬれば楽しきと思ひしことの憂ひとぞなる

影響受けやすいたちかもしれない。

永福門院

伏見天皇の中宮で、天皇と共に京極為兼に学ぶ。京極派最高の歌人の一人とも。

過ぎ移る時と風とぞ恨めしき花の心は散らむともせじ
風に聞き雲にながむる夕暮れの秋の憂へぞたへずなりゆく
夕暮れの庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむらさめぞふる
川千鳥月夜を寒みいねずあれや寝覚むるごとにこゑの聞こゆる
音せぬがうれしき折りもありけるよたのみ定めて後の夕暮れ
たまづさにただ一筆と向かへども思ふ心をとどめかねぬる
過ぎて行く月日を返すものにあらばこひしきかたをまたもみてまし
むら雲に隠れあらはれ行く月のはれもくもりも秋ぞかなしき
月の姿なほありあけのむら雲にひとそそぎするしぐれをぞ見る
むらむらに小松混じれる冬枯れの野辺すさまじき夕暮れの雨
寒き雨は枯れ野の原に降りしめて山松風の音だにもせず
鳥のこゑ松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕暮れ
荒れぬ日の夕べの空はのどかにて柳のすゑも春近く見ゆ
さても我が思ふ思ひよつひにいかに何のかひなきながめのみして
あやしくも心のうちぞ乱れ行くもの思ふ身とはなさじと思ふに
とはぬかなとふべきものをいかにあればきのふもけふもまた過ぎぬらむ
山あひにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり

うーん。ふつう? 確かに京極為兼の影響は見えるが。 伏見天皇の歌も見たが、こちらもごくふつう。だいたいこの三人しかいないんだよな、京極派って。結局、為兼が突然変異だった、ということだろう。

二条為世の歌

たくさんあるのでとりあえず新千載集から為世の歌。

明けやすき空に残りて夏の夜は入ること知らぬ月のかげかな

夏は月が入るより先に夜が明けてしまう。

あくがるるものと知りてや秋の夜の月は心をまづさそふらむ
恨み侘び夕べは野辺にこゑたてて来ぬつまこひに鹿ぞ鳴くなる
音たててこずゑを払ふ山風もけさよりはげし冬や来ぬらむ
ひさかたの空に積もると見えゆるかなこ高き峰の松の白雪
白波も寄せつるかたにかへるなり人をなにはのあしと思ふな

白波でも心を寄せる方に帰るのだから人を悪く思うな、と。まあ縁語などがそこそこ面白い。

言ひ初めて心変はらばなかなかに契らぬ先ぞこひしかるへき
したもえの我が身よりこそ立てずとも富士のけぶりのたく人は知れ

うーむ。

うつつには また越えも見ず 思ひ寝の 夢路ばかりの 逢坂の関
おのづから いつはりならで 来るものと 思ひ定むる 夕暮れもがな

うーむ。

同じ江の 葦分けを舟 押し返し さのみはいかが 憂きにこがれむ
長き夜も ひとり起きゐて まどろまぬ 老いの友とは 月を見るかな
いく夜かは 見果てぬ夢の さめぬらむ 松の戸叩く 峰の嵐に
月かげの 夜さすほかは みなと江に 行くかたもなき あまの捨て舟
さかのやま 照る日のかげの 暮れしより 同じ心の 山に迷ひき

確かに平坦、確かに平凡。幽玄とか有情とか言えばそうかも。題詠なんだろう。これが二条派なんだな。なんか、ドリルを解いてるみたいだよな。頓阿、契沖、宣長に通じる。

定家の前衛的なところとか西行や和泉式部の情熱的なところとかは京極為兼に行き、定家や西行の無情感とかわびさびは二条為世に受け継がれた。こってりと情緒的な京極派は仏教、とくに禅宗が流行った中世の雰囲気には合わずに衰退した。文芸の担い手に僧侶が多かったことも、京極派には災いしただろう。そういう芸術家肌のこってり情緒的な公家文化を担っていけるような余力のある公家というものも、もはや存在しなかった。武士にも愛好されることがなかった。狩野派の絵や茶道のように家元の言う通りに作法を学べば万人にも嗜むことができる、それが二条派。陶芸や書道のように希少性(カリスマ性や芸術性)を要求されるのが京極派。前者をデザインと言えば後者はアートだ。あるいは、前衛的実験的なデザインがアートであり、逆に定型化し普遍化したアートがデザインといえようか。そんなところだろうか。

京極為兼の歌

玉葉集や風雅集などは、なかなか図書館にもない。けっこう困る。十三代集などはだいたいが入手困難。しょうがないので21代集データベースから。

為兼の歌。すこし面白い。玉葉から

冴ゆる日の しぐれののちの ゆふ山に うすゆき降りて 雲ぞ晴れゆく
ねやの上は 積もれる雪に 音もせで 横切るあられ 窓たたくなり

ここらの冬の叙景がなかなか良い。屋根に積もる雪は音も無いが窓を叩く霰の音がうるさいという。雪と霰が同時に降るというのはどうかとも思うが。

泊まるべき 宿をば月に あくがれて 明日の道行く 夜半の旅人

まるで敦煌の駱駝の旅のようだな。

旅の空 あめの降る日は 暮れぬかと 思ひてのちも 行くぞ久しき

雨の日の旅は空も暗く、もう暮れたかと思いながら久しく行くという意味か。面白い。

さらにまた 包みまさると 聞くからに 憂さ恋ひしさも 言はずなるころ
人も包み 我も重ねて 問ひ難み たのめし夜半は ただ更けぞゆく

相手がへそを曲げてふさぎ込んでいるのでとやかくものも言えない。

恨み慕ふ 人いかなれや それはなほ 逢ひみてのちの 憂へなるらむ
言の葉に 出でし恨みは 尽き果てて 心にこむる 憂さになりぬる

恨み言は言い尽くして今は内にこもっている。

辛きあまり 憂しとも言はで 過ぐす日を 恨みぬにこそ 思ひ果てぬれ

こちらはあまりにもつらいので、なんとも言わずに過ごしているのを、 恨まないというのはもう気持ちが離れてしまったからだろう、と。

もの思ひに けなばけぬべき 露の身を あらくな吹きそ 秋の木枯らし

面白いじゃないか。風雅集から

春のなごり ながむる浦の 夕凪に 漕ぎ別れ行く 舟も恨めし

春の叙景。

松を払ふ 風はすそのの 草に落ちて 夕立つ雲に 雨きほふなり

夏の叙景。「(峰の)松を払う風が裾野の草に落ちる」とか「夕立ち雲に雨が競う」とか、映像に立体的な動きがある。なかなか良い。本歌取りや縁語などの仕掛けがまるで見られないのも気持ちよい。ただもう、情景を言葉で巧みに表現したというもの。

秋風に 浮き雲高く 空すみて 夕日になびく 岸の青柳

「秋風に浮き雲高く空すみて」辺りの叙情が現代的。 また秋の叙景に青柳というのが新鮮。「夕日になびく岸の青柳」こういう言い回しは現代では当たり前だが、中世では珍しかったに違いない。

庭の虫は 鳴き止まりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな

「庭の虫」「壁のきりぎりす」の対比が面白い。

野分立つ 夕べの雲の あしはやみ しぐれに似たる 秋のむらさめ

秋の台風による驟雨と冬の時雨が似ているという、おもしろい歌。なかなか楽しそうだな。「足が速い」という言い回しが、当時にもあったのだろうか。

朝嵐の 峰より降ろす 大井川 浮きたる霧も 流れてぞ行く

「あさあらし」とか「浮きたる霧も流れてぞ行く」とかなんか表現が独自で面白い。

降り晴るる 庭のあられは 片寄りて 色なる雲に 空ぞ暮れ行く

「ふりはるる」とか「あられ」が「かたよる」とか「色なる雲に空ぞ暮れ行く」とか実に技巧的。

ふるさとに 契りし人も 寝覚めせば 我が旅寝をも 思ひやるらむ

ふつうに面白い。

結び捨てて 夜な夜な変はる 旅枕 仮り寝の夢の あともはかなし

ふつうに面白いだろ。

初しぐれ 思ひそめても いたづらに まきの下葉の 色ぞつれなき

まあ普通。

大井川 はるかに見ゆる 橋の上に 行く人すごし 雨の夕暮れ

いやあこれはまるで浮世絵の風景のようだ。大雨の中、遠景に橋がかかりその上を人が渡っていく。なるほど「異端」とされるのもわからんでもない。叙景にしろ描写にしろ、なにか若々しい躍動感がある。若い頃の定家や実朝にも通じる何か。これの対極にあるのが二条派の「平坦」とか「わびさび」とか「伝統墨守」というものだと言われれば、妙に納得がいく。

大空に あまねく覆ふ 雲の心 国土(くにつち)潤(うる)ふ 雨くだすなり

何か物狂おしいような。雨乞いの歌だろうか。「大空をあまねく覆う雲の心」が「国土を潤す雨をくだす」とかすごいな、自然賛歌。まあ、たぶん一種の天才肌だったんだろうな。他人は真似しにくいわ、これは。

山形赤湯温泉合宿免許

大学三年生の夏。22才。青春だなあ。車と中免の同時教習だった。

ふかきより ふかき思ひに 入りにけり 今ひとたびと 求むるにより
いねし間に 町に夕立は ふりにけり よひの祭りを 清むるごとく
花も実も あらで畑に おふる木を つくづく見れば 桜なりけり
思ふさまに 林檎は育ち 鳥は鳴き 川には土地の 子らさへ遊ぶ
ひさしぶりに つくづく熱き 湯に入りて あがればビール ふと飲ままほし
柿の種 買はむと来つる 夜の店に なんとラムネは 五十円なり
さすがプロ 全然こぼさなかったねと おせじを言って くれるおばさん
アメリカや オーストラリアに 行かずとも 空の広さは 日本にもある
国つ神に 我が来しことを 告ぐるなり ひとりつとめての 外山に登り
けふひと日 雨は降りけり ゆく川の 流れは満ちて ささにごりたり
おみくじを 結びおくため ひとむらの あをささだけぞ まうけられたる
こぞの夏 買ひし麦わら帽もがな けふしも日差し 強くなりけり
ゆふされば おほかたのせみは しづまりて みやゐの杜に ひぐらしぞ鳴く
やうやくに みづかさは減り 子らもまた 来むと見しまに 雨はふりけり
たかさごの 尾根をつたひて ゆく雲の いづこにけふは つどはむとする
えも言はず 夏の光に みがかれて 指に乱るる みづの流れを
暗幕で 外は見えねど ひぐらしの 鳴く声きこゆ ゆふさればにや
いくにちか そるもうたてと ありしひげも 思ふともなく けふはそりけり
あたたかき 部屋に戻りて かけおきし 作業着におのが 匂いをかぎぬ
思ひみな しづめむとして 湯に入りて 伊東静雄の 歌くちずさむ
おもいきり バイクの第二段階の 急制動でこけてしまった
この分じゃ 帰るころには ばらばらに なるんじゃないか おれのからだは
汗をかいてそのあと風呂に入るのもビールをうまく飲むだけのため
けふよりは残しし仕事はじめむと思ひしことのほかにもあるかな
卒検にこさめ降らなむふらふらと道に出で来る人もこそ減れ
とみに雨降り始めける部屋にありてこころあてなき日を過ぐすかな
わが宿のかたへに川の水は満ちかたへに稲の穂ぞ実りける
かの車とくも行かなむかのおうなな出でそ我は検定中ぞ
たれかこの川わたるらむこことかの岸辺に続く道はあれども
卒検を受けてののちにくらぶれば昔はものを思はざりけり
卒検はおはりにけりないたづらに歩道をわたるおうなを知らで
あめやむはありがたかれどしかすがにおきなおうなら道に出づらめ
温泉に栄ゆる町にゐやあつく神はとやまにまつらるるなり
故郷でも今日より盆にいりにけむ祖父の初盆なれどあらぬかも
初盆にみかんはいまだ青からむとぶらふ人もまたおほからむ
こぼすなよ、心配無用、ゆっくりと半クラッチでコルク抜くから
夜さりて窓のあかりにはむしらはあまた来れども我は帰るも
とをあまりやうかのあひだこの町にあれどもあした我はいぬめり
始発ではないのでつばさもやまびこも最悪の場合たちどほしだな
かへるさに小室直樹の新刊を買へばつれづれなぐさまれけり
立ったまま食う幕の内のんびりと釜飯なんか食ってられるか
立ちぼうけ弁当売りの姉ちゃんがとほれるくらいの混み具合にて
時間割吹き流してる扇風機夏休みあと幾日もなし
一枚にふたつきごとのカレンダーながつきなればあらためにけり

新類題和歌集

ふーむ。 霊元天皇も後水尾天皇に続いて「新類題和歌集」という勅撰和歌集を編纂させている。 21代の勅撰和歌集から通算で数えれば、 22代が後水尾天皇の「類題和歌集」(1703年)、 23代が霊元天皇の「新類題和歌集」(17??年)、 となる。

歌集のこと 参考:吉川弘文館発行「古事類苑」

但し後水尾天皇の朝に「類題和歌集」あり、霊験天皇の朝に「新類題和歌集」あり。 共に勅撰なれども、一題の下に衆多の歌を載せたるものにて、 勅撰の春夏秋冬等を以て分類し、毎首に題を加へたるものとす。 自ら其の撰を異にする所ありて、古より勅撰の中に算入せず。

うーん。 おそらくは、題詠の手本のために、同じ題の歌をたくさん、昔の勅撰集との重複も含んで集めたもので、 確かに21代集までとは性格の違うものかもしれないが、 時代が変われば編纂方針も変わるし、時代に即していく必要もあるだろうし。 つまり、21代集までは「秀歌の選抜」という意味があったのだろうが、 類題和歌集では「和歌の分類と習得」という意味の方が濃かったのだろう。 あるいは先行する「夫木和歌抄」などと類似する性質のものか。 あるいは当代の歌はごく少なくて、主に古い歌を類別すること、 或いは21代集の総集編たることが主たる目的だったか(確かにそういうものがあると便利だろうし、 そういう動機もわからんでもない)。

「類題和歌集」「新類題和歌集」を、勅撰集から排除する理由はあるのかないのかよくわからないが、 ともかく一度現物を読んでみる必要はあるな。 と、思ったがOPACでほとんどヒットしない。 あるのは国会図書館くらいか。 これは厳しい。


追記。おそらくこの勅撰類題和歌集というものはどこにも存在しないか、宮内庁の倉庫の奥底にまったく精査されることもなく雑然と置かれているだけなのだろうと思う。