秋の夕暮れ

小沢正夫氏は『古代歌学の形成』で『古今』の序について網羅的に分析している。彼の説を要約するならば、『古今』の序はまず「真名序」が書かれ、これをもとに紀貫之が「仮名序」を書いた。「真名序」に関しては藤原公任が著した『和漢朗詠集』にも裏付ける記述がある。また、その内容は「仮名序」が「『古今集』の内容に精通し、これに愛情をもった文章」であるのに対して、「真名序」は「事務的・官僚的」で「微温的でよそよそしい態度」であって、「貫之以外の人、例えば普通に言われている淑望あたりが書いたと考えてさしつかえない」と言っている。「仮名序」に関しては壬生忠岑が書いた『和歌体十種』に貫之が序を書いたという記載があり、「六義」にこだわるなどの特徴が見える。私も小沢氏に概ね同意する。なるほど、貫之は「真名序」を和文にして、「仮名序」を書き、六義について若干敷衍したであろう。しかし貫之がやったことはそこまでで、今に残る「仮名序」はそこから誰かがさらに大幅に書き足したもののように私には思える。なぜならその書き足したとおぼしき部分に疑惑の文言「あきのゆふくれ」が含まれるからだ。

「秋の夕暮れ」を最初に歌に詠んだ人は平兼盛。光孝天皇の子孫で、村上天皇の御代に臣籍降下して平姓を賜った(光孝平氏)。赤染衛門は兼盛の娘であるという説もある。

浅(あさ)茅(ぢ)生(ふ)の 秋(あき)の夕(ゆふ)暮(ぐ)れ 鳴(な)く虫(むし)は 我(わ)がごと下(した)に ものや悲(かな)しき

(秋の夕暮れに茅(ちがや)の原で鳴いている虫は私のように、心の中で悲しんでいるのだろうか)

兼盛の次の世代の人、和泉式部は「秋の夕暮れ」がかなりお気に入りだった。

ゆふぐれのしかのこゑ

四方山(よもやま)の しげきを見(み)れば 悲(かな)しくて 鹿(しか)なきぬべき 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

太宰帥敦(あつ)道(みち)の親王(しんわう)、中絶えける頃、秋つ方、思ひ出でてものして侍りしに

待(ま)つとても かばかりこそは あらましか 思(おも)ひもかけぬ 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

あはれなる事

あはれなる ことを言(い)ふには 人(ひと)知(し)れず もの思(おも)ふときの 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

八月ばかり、人のもとへ

音(おと)すれば 訪(と)ふか訪(と)ふかと 萩(をぎ)の葉(は)に 耳(みみ)のみ留(と)まる 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

(秋の夕暮れに、萩の葉の音を聞くたび、あなたが訪れたかと耳が止まります)

どちらかといえば和泉式部が『枕草子』の「秋は夕暮れ」というフレーズを気に入って、これらの歌を次から次へと詠んだように思える。というのは、和泉式部は「秋は夕暮れ」の他にも

夜(よる)睡(い)も寝(ね)ぬに、障(さう)子(じ)を急(いそ)ぎ開(あ)けて眺(なが)むるに

恋(こひ)しさも 秋(あき)の夕(ゆふ)べに 劣(おと)らぬは 霞(かすみ)棚引(たなび)く 春(はる)のあけぼの

のように「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる」を丸パクリしたような歌を詠んでいるのである。この「春のあけぼの」を最初に詠んだのも和泉式部らしく、『千載集』以後盛んに詠まれるようになった。和泉式部は清少納言より十才くらい年下だが、逆に、和泉式部の歌を見て清少納言が『枕草子』を書いた、ということは、ちょっと考えにくい。

『古今』「仮名序」に「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き」とあるのはおそらく曽祢好忠の長歌の一部、

‥ はなのちる 春(はる)のあした 葉(は)のおつる 秋(あき)のゆふべ ‥

(または、はなちる 春のあした この葉のおつる 秋のゆふべ)

からきていると思われる。好忠は『小倉』の「由良の門を渡る舟人梶を絶え行く方も知らぬ恋の路かな」で知られるが、彼も『拾遺集』時代の人である。

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。実際「しきしまのみち」は俊成が『千載集』の序で用いたのが初出で、歌として使われ始めたのは『玉葉集』以降という事例もある。「敷島の道」とは「歌道」のことだ。もともと「歌」そのものや「歌道」は歌に詠むものではなかったから、まず『勅撰集』の序に使われ、歌に使われるまで準備期間が必要だった。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中にわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるか?

雲母や金銀箔を押した料紙に流麗な仮名文字で筆記された国宝元永本古今和歌集。これにはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。この元永本は、俊頼が白河院の歓心を買うため献上したものと思われるが、これを見るたび、ああ、俊頼が言う『金葉』とはこんな金ぴかのこけおどしみたいな歌のことを言うのだなと興ざめする。

そして曽祢好忠の歌との類似性は?これも貫之の仮名序を見た好忠が真似たのだろうか?それは相当不自然ではないか。そうやって疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。例えば「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの 我が黒髪に 年暮れて 鏡の影に 降れる白雪」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が「仮名序」を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。

明治という元号

明治という元号は籤(くじ)で決まった。後にも先にも日本の元号が籤で決められたのはこの時だけだ。贈正一位太政大臣岩倉具視の日記『岩倉公実記』によれば、具視は、選んだ字が吉か凶かなんて煩雑な議論をするのは時代遅れだしもうやめましょう、ついでに一世一元の制度にしましょうと提案した。中国ではとっくに明朝から一世一元であり、清朝もそうだった。

具視は越前国福井藩主松平春嶽に二、三の候補を選ばせて、天皇が自分で籤を引き、それが「明治」だったので新元号を「明治」に決めてしまった。ずいぶん乱暴な話だ。有職故実を何より重んじる公家の岩倉具視がそんなぞんざいなことをするとは。

宮中で行われる占いとしては大嘗祭で行われる卜(ぼく)定(じょう)が有名だ。亀の甲羅を灼(や)いて占うのだが、これも天皇が自ら行うものではなく、神祇官(卜部(うらべ))が占って天皇に上奏するだけだ。天皇自ら獣骨や亀甲を火に炙り吉凶を占う。あり得ない。卑弥呼じゃあるまいし。記録が残っていない古墳時代とか飛鳥時代ならともかく、全くあり得ない。

なぜ岩倉具視と松平春嶽が二人で決めたのか。春嶽は佐幕派だが、具視は倒幕側だったはず。この二人の間でなんらかの取引が行われたのだろうか。普通そう疑うだろう。

改元の詔に列挙された臣下の名を見てみよう。

筆頭は「正二位内大臣 臣源朝臣」となっている。ちょっとわかりにくいがこの人は徳川慶喜だ。

慶応三年十二月八日、徳川第十五代将軍慶喜の上奏を受けて大政返上を天皇が許可。これを受けて翌日天皇は王政復古の大号令を発する。この時点で慶喜は将軍職を辞すが、いまだ「徳川内府」、つまり内大臣と呼ばれている。

王政復古の同日、小御所会議が開かれる。ここでは内覧、摂政関白、守護等の職を廃止するとは言っているが、太政官を廃止するとは言ってない。それはそうで、岩倉具視にとって敵は幕府そのものというよりは、幕府の武威を笠に着て、宮家や公家を支配してきた摂家、そして摂家支配の根拠となっていた「禁中並公家諸法度」だったからだ。具視が倒幕に与(くみ)した理由はそこだ。具視が属する中・下流公家階級にとって倒幕とは倒摂家に他ならなかった。摂家、つまり摂政関白は常に佐幕派で、幕府老中と緊密に連携していた。

薩長は慶喜に即時領地を返納し内大臣を辞めろ、と主張する。

内大臣慶喜もいずれは「辞官納地」するだろうと春嶽は言う。しかしそれは律令制そのものが西洋式の議会制君主政に倣った新制度に置き換り、維新政府が樹立された後に、徳川家以下全ての諸侯が同時に官位官職を辞し、領地を返納する、という意味だ。徳川家としてはそれまで官位官職、そして封地を保持する必要がある。しかし薩長は徳川家だけ先に、ただちに辞官納地するよう主張する。なぜなら徳川は「朝敵」だからだ、と言いたいのだ。 勤王の志篤(あつ)い慶喜は言うだろう、「天皇に委任された大政は喜んで返上する。しかし朝敵になるのは絶対に嫌だ、」と。徳川は朝敵ではないから徳川だけ先に辞官納地はしない。そのため正二位徳川内大臣慶喜が筆頭で改元の詔を発布する。薩長が同意するはずがない。絶対なんだかんだと揉める。だからこの詔はできるだけ速やかに出す必要があり、天皇に籤を引かせてえいやっと改元した。こうして具視と春嶽は共謀して、慶喜がいまなお内大臣であり、太政官筆頭である証拠を残した。改元の詔勅という紛れもない公文書によって。うさんくさい討幕の密勅などこれで吹き飛んでしまった。

目安箱とか玉くしげとか

落とし文とか捨て文というものを制度化した目安箱ってのがあったはずだよね。で、ちょっと調べれば、天明の飢饉のとき、松平定信が諸藩や民間人からも献策を推奨し、宣長も『玉くしげ』『秘本玉くしげ』などを紀伊藩主徳川治貞に献上した、くらいのことはすぐにわかるはず。

徳川幕府が人民に施した善政などない、江戸時代は暗黒時代だったっていうネガティブキャンペーンを薩長が文部省なんかを使って長年にわたって繰り広げたせいで、ネトウヨはとかくこうした間違った歴史観をもっている。

定信の父は田安宗武、宗武の父は徳川吉宗で、もとは紀州藩主だった。宗武は賀茂真淵に国学を学び、定信もおそらく国学的な雰囲気の中で成長したはずで、そうなると徳川宗家の開祖家康がとんでもなくむちゃくちゃな宗教観・思想の持ち主だってことは、定信もわかっていたはず。

ところが定信は朱子学を信奉する教条主義者だってことになってしまった。そんなはずないだろ。定信の著作をみれば明らか。尊号一件の扱い方にしても、彼が完成させた大政委任論にしろ、定信が、賀茂真淵や本居宣長らのような、国学者的な尊王家であるのは明らかだ。

ネトウヨの無知蒙昧を正すのでなくそれを煽って部数を稼ごうなどという輩が愛国者と言えるだろうか。

読めば読むほどわからなくなる本居宣長

『神社発信』という雑誌の vol.3 (2018年3月発行) から vol.8 (2019年4月発行) まで「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」という記事を連載していた。私はこれを複数の人に読んでもらい、感想を聞くことができたのだが、表題の通り「読めば読むほどわからなくなる」というか「読んでも何が書かれているのかよくわからない」と言われた。別に難しいことを書こうと思ったわけではない。一般に宣長は難しいと考えられているが実は簡単なのだけど、宣長は誤解されていて、それら先入観を捨てないと宣長は理解できない。彼を読み解くにはそれなりの準備と時間と手間をかける必要があるから辛抱してついてきてね、途中で宣長100%わかったと思ってもそれは勘違いだから気を付けてね、という程度の意味合いだった。

よくわからない文章を書く人にはさまざまなタイプがあると思う。ハイデッガーとかヴィトゲンシュタインとか?あれも彼らの思想背景を理解しドイツ語の原文で読めば(つまりドイツ語のこまかなニュアンスがわかるネイティブスピーカー並の感性があれば)読めるのかもしれん。
小林秀雄などはいわゆる「悪文」タイプで、感覚的に思いついたことをあれこれ書いていて、文章もうまいのだろうけど、結局何が言いたいのかわからない、言いたいことはあるらしいがまったく根拠が示されてない、なんとなくそれっぽい雰囲気だけの、従って読んだ後に何も残らない。そういうたぐいの文章だと思う。たぶん小林秀雄の文章というものはBGM代わりに朗読かなにかしてもらえば良い気持ちになる、という程度のものだろう。しかしそういう彼にも一定のファンがついてて、そういう文章を愛でるのだ。白洲正子がまさにそういうファンの一人で、しかし彼女は、小林秀雄晩年のライフワーク『本居宣長』に関しては、全然面白くないと、本人を前にそう言っている。私はまったく逆で、私にとって小林秀雄の『本居宣長』以外の文章はちんぷんかんぷんで何を言いたいのかさっぱりわからないのだが、『本居宣長』に関してはちゃんと時間をかけて取材もしてるし、他の人が指摘しなかったような新しい知見があちこちに見られるのだ。誤解を恐れず言えば小林秀雄はもともと「文系的」な文章を書く人だったが、『本居宣長』に至って初めて「理系的」な、中身のある、明確な主張のある文章を書いた、いや、書こうと努力したのだと私には思える。

人をわかったような気にさせる文章を書くのはたやすい。逆に、わかったような気になっている人にわからせる文章を書くのは難しい。

小林秀雄の『本居宣長』はまず彼が宣長の墓参りをするところから始まる。町中の寺にある仏式の墓と、山奥にある神道式の墓だ。この二つの墓の対比がまさに宣長なのであり、導入であり、つかみなのであり、つまり、宣長という人の二面性というか多面性を如実に表す象徴でもある。小林秀雄らしい文芸的なイントロダクションでもあり、同時に極めて示唆に富んだ問題提起でありインスピレーション(霊感、直感)なのだ。少なくとも私にはそう思えた。
小林秀雄も最初はとりあえず取材の手始めに、墓参りでもするかというくらいの気持ちだったのかもしれないが、現地を訪れてやはり何かの霊感を得たのだろうと思う。
しかし普通の人がみれば、なんだ、わざわざ松坂まで墓参りしに行ったのか、で終わりなのだと思う。
私も一度目はそう思ったかもしれない。しかし何度か読むうちにこのイントロダクションに重大な意味があるように思えてくるのだ。
なぜ仏式と神式二つの墓があるかといえば宣長は若い頃は仏教が大好きで、のちに国学者になってもその趣味は消しがたかったからだし、
あるいは徳川家康が仏教を奨励してたから、人は嫌でも寺に墓を作らなくてはならなかったからでもある。
宣長はまず寺で葬式を済ませたあと遺体を山の墓に運ぶよう遺言した。なるほどいかにも宣長らしい。
しかしふつうは、はいはい墓参り墓参り、でそれ以上読むのをやめる。
小林秀雄の『本居宣長』を何度も何度も熟読する人はいない。たいていは最初をちらっと見て読むのをやめてしまう。
なぜかと言うに人は自分が読みたい宣長を読もうとするからだ。小林秀雄がそれ以外の宣長について語ろうとしても、頭の中には入っていかない。

途中、中だるみというか、冗長な回もあると言えばあるが、50回も100回も連載しようとなればそういう、過去に遡った事実の羅列に過ぎない「仕込み」の回がどうしても必要になる。私も連載をやってみて気づいた。面白い回を書くにはしばらくつまらない回を書かねばならぬけれど、それなりの緊張感を持続しつつときどき、おーっと思わせるような明察を披露したりするのだ。
小林秀雄の『本居宣長』に挫折した人は多いと思う。連載はもっと長くてそれを縮めてああなったというから、連載をリアルタイムで読んでいた白洲正子にとっては、まさにつまらなかったのだろう。

『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』に関して言えば、連載の話が来ていきなり原稿を書き始めたので初めは何について書こうかなと考えながら書いていた。A4版の全ページカラーの雑誌なので文字ばかり並べてはもったいないと思ったから、国会図書館のデジタルライブラリーから浮世絵なんかをできるだけ探してきて載せようと考えた。1回目と2回目はそんなふうに書いた。書きながら、幕末の薩長から見た宣長と、徳川の幕臣から見た宣長とは全然違うんだなってことに気づいた。
宣長は町人から取り立てられて紀州の家臣になった。つまり侍になった。尾張藩士にも弟子がたくさんいて、つまり、紀州と尾張の徳川家には一目置かれる存在だったし、宣長の「みよさし論」は、同時代の松平定信にも大きな影響を与えた。武士としての宣長、幕臣としての宣長という視点が欠落している。もちろんそのことに気づいて研究している人はいるのだが、世間には知られていない。
小林秀雄も気づいてはいたのだろうがそこについてはあまり掘り下げてない。
なので代わりに私が書いてやろうと思った。
宣長は松平定信に天明の飢饉の対処方法について献策した。定信は表立って宣長の意見を聞いたわけではないが、たぶん大いに参考にしただろうし、紀州・尾張の幕臣たちには宣長の思想が深く浸透していった。宣長は積極的に幕政に関与しようとした。もし定信が受け入れていれば宣長はもっと積極的に、活発に政治的発言をしただろうと思う。

とそういうことを連載していくうちに書いていこうと思い、とりあえずじっくり仕込みから入ろうと思ったのだが、本論を述べる前に連載は8回で打ち切りになった(神社発信が休刊になったから)。
で、人に聞くと、最初の1回目と2回目くらいは面白かったが、それからつまらなくなったと言われた。
人の見方というものはそうしたものなのだなと思った。
私も小林秀雄の轍を踏んだのだった。

『虚構の歌人 藤原定家』にしても、難しすぎると言われる。確かに私が読んでもそうだ。特に最初から通して読もうとしたときなど。だが、ときどき思い出して、一つの箇所をじっくり読み直してみるとけっこうするどいこと書いてるなと思えたりする。
『エウメネス』も加筆修正を繰り返していくうちにだんだん読みにくくなってしまった。自分で読んでても読みにくいんだから他人はもっとそうだろうと思う。
もちろん私の文章には私からみてもまだまだ推敲が足りてない、考察やサーベイが浅い、と思われるところがあるが、では推敲し、考察し、サーベイを加えれば加えるほどに今度は非常に読むのがつらい文章になっていく。これはどうにもしがたい。

夏目漱石はある意味で幸せだった。最初、我が輩は猫であるとか三四郎のようなわかりやすい小説で読者を獲得し、だんだんに難しいものを書くようになったが読者は我慢してついてきてくれた。ただ漱石が作った漢詩は誰も評価してはくれなかったが。別の意味では、漱石もまた、『晩鐘』『落ち穂拾い』を描いたミレーのように、あるいは若い頃に『ゴッホの手紙』を書いた小林秀雄のように、自分が良いと思う作品を他人が評価してくれない典型なのかもしれない。

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹

『評伝 小室直樹』下巻p.395

崎門の学に連なる栗山潜鋒。

これは間違っている。たぶん小室直樹もそうは言ってないはず。でもそんなふうに読者は思うだろう。栗山潜鋒は水戸学とも崎門学とも関係ない。独立独歩。

※追記。栗山潜鋒は明らかに純粋な儒者ではない。徳川期の儒学は、まず幕府直轄の官学を言う。天下国家、経国済民を論じる儒学が官学となるのは必然であり、漢代でもそうだったし、徳川もまたそれに倣った。儒者は幕府に仕官した官儒が偉く、一番偉いのは将軍に直接諮問される立場に一部の奥儒者、顧問であり、尾張水戸紀州など親藩に仕える儒者らが続く。市井の儒者は儒者のようなそうでないような扱い。本居宣長などは、国政に口出しできない市井の学者が儒学を学んで何の役に立つ、とまで言っている。大塩平八郎は大阪町奉行与力ではあったがさっさと家督を養子に譲って自分は陽明学に凝った。儒者ではあるがかなり外れている。栗山潜鋒は水戸光圀に招聘されて彰考館総裁の一人となったが、大塩平八郎よりもさらにエキセントリックである。それを、潜鋒がもと崎門の師を持ったためだと説明付けるのはたやすい。確かに崎門には神道に対する異様なこだわりがあり、これは中国かぶれの儒者(特に新井白石や太宰春台など)とはまったく違う。小室直樹が潜鋒の影響を受けているのは確実だが、その認識はかなりおかしく、おそらく単に、若い頃の小室直樹が読んだ国学書から間接的に受けているのだろうと思われる。

従来、皇位は長氏相続法にしたがって、順に、白河天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と継承されてきた。

この認識も間違っている。白河院は、天皇家が摂家に対抗するため、院政を発明した。これによってはじめて皇位の直系相続が実現した。藤原氏全盛時代は、さかんに兄弟間で相続している。それは摂家によって皇位をたらい回しにしたから。摂家の影響力を排除するため意図的に白河院は直系相続にした。栗山潜鋒だって当然、長子相続が天皇家の伝統でもなんでもないことは知ってる。問題は鳥羽天皇が白河院がせっかく確立してくれた直系相続を捨て兄弟相続を復活させたことだ。

皇位継承順位は、天倫の序すなわち長子相続法によって定められるべきである。
その根本規範が、ほかならぬ、上皇と関白によって破壊されたのである。
救いがたい急性アノミー(無規範状態)が全日本を覆い尽くすであろう。

この認識もあり得ない。もしそうなら、藤原道長の時代に急性アノミーが生じていなくてはならない。そんなことはなかった。少なくとも表面上は世の中は平和に治まっていた。藤原基経が陽成天皇を廃して光孝天皇を立てたときにもものすごいアノミーが発生しなくてはならない。そんなことは起きてない。

後白河天皇が義朝に父為義の処刑を命じた。つまり天皇が「父殺し」を命じた。そのため天皇政権が終わり武士政権となった。

これはまあどうかなあ。そういう解釈も一応は成り立つかもしれない(※追記。ともかく摂家が武家に対する扱いははなはだ不当なものであってその矛盾が義朝の時に父殺しという形で可視化されたのは間違いないのだが、むしろ、賴山陽が指摘しているように、義家の時にはすでに、武家の信頼は朝廷を離れて清和源氏や桓武平氏に帰していたとするほうがずっと自然だ)。

ま、ともかく、小室直樹は、山崎闇斎の崎門学や、山鹿素行の『中朝事実』などを重視する一方で、賀茂真淵や本居宣長の国学を軽んじ、真淵や宣長に濡れ衣を着せようとする。これはおそらくは、小室直樹が影響を受けた平泉澄という人がそういう考えの人だったからなのだろう(※追記。平泉澄という人は確かに小室が若い頃影響を受けた思想家の一人だったのだろう。賀茂真淵、本居宣長との関係は要精査)。国学以前日本では、中国と日本とインドの宗教はすべて混在していた。その上で、神道よりも仏教や儒教のほうが優れている、という舶来主義が主流だった。それを、混交したままひっくり返して、実は日本が本家本元だったんですって言い出したのが垂加神道。日本ルーツ説。

国学と他の学派との本質的違いは、国学は日本古来のものとそれ以外のものを切り分ける古文辞的作業をおこなった、ということだ。そこには当然、日本古来のものを尊ぶ思想が付随してくるわけだが。

宣長はきちんと『古事記』を分析して、日本固有のものを外来のものから分離し、その上で神道と仏教と儒教を比較して、神道のほうが仏教や儒教よりも優れている点がある、ということを主張したにすぎない。儒教には儒教の良いところがあり、仏教には仏教の良いところがある。しかし、ここは日本であって、インドに仏教があり中国に儒教があるように、日本には日本古来の神道がふさわしい、そう言っているのにすぎない。その根本にあるのは相対主義であり、日本が世界で一番優れている、というのが本来の主張ではないし、まして、中国やインドにも神道を押しつけようというものではない。同じように、キリスト教徒はキリストを拝めば良いだけのこと。それは、宣長と上田秋成の論争を注意深く読めばわかることだ。日本が一番良い、絶対的に良い、などと言ってるのは崎門学や中朝事実のほうだ。

小室直樹は、アノミーという理論が先行していて実証が伴っていない。歴史を緻密に検証していけば、その理屈では通らない事例がいくらでもある。それらを一つ一つ潰していかないと理論は実証できない。

栗山は天皇の失政を強く激しく批判しながら、それでもなお天皇システムを肯定する。

違うんだな。それは違う。単に北畠親房の受け売りで天皇を批判するだけの安積澹泊とも違うし、天皇を激しく批判しながら天皇を崇拝する三島由紀夫とも違う。栗山潜鋒は朝廷に天皇を補弼し武威を示し天下に敷き行う臣下がいないので、その大権が武家に委任されているのであり、それは太古から連綿として変わらない、ということを言いたかったのである。それはつまり幕府が三度交代してはじめて、栗山潜鋒がその日本固有の歴史を観察して発見した知見だ。つまり、天皇システムを肯定しているのではなく、日本固有の歴史的法則性を発見したのだ。それは北畠親房の時代にはまだ判然としていなかったから、親房には見いだせなかった。易姓革命の原理による儒学でも説明が付かなかった。中国にはない日本固有の必然的歴史的法則が作動した結果、徳川幕府が成立した。潜鋒が言いたかったことはまさにそれ。すなわち栗山潜鋒の理論は佐幕理論なのであり、倒幕理論ではない。あり得ない。天皇は絶対だから天皇は不徳でも良い、なんて言ってない。

さらに本居宣長は潜鋒の理論をいたく気に入って、これを「みよさし論」として完成させて、幕府の最高権力者である老中松平定信が追認し採用する形でオーソライズしたから、大政委任論が成立したのである。そしてそこから自然に幕末の大政奉還論が生まれてくる。何段階ものステップを経て、徳川の250年間にわたる治世の中で徐々に熟成されてできたものだ。国学は決して天然自然が良いとか神様のあるがままが良いなんてことは言ってない。少なくとも宣長はそんな脳天気なことは言ってない。宣長は彼の歌論において、古い時代には古い歌、新しい時代には新しい歌がふさわしい、歌は時代時代で異なる、混同してはならないと明確に言っている。みんな宣長がいかに政治に関心をもち関わっていたかをしらんのだ。宣長の門下にはだんだんと武士が集まってきた。その中には尾張や紀州で幕政に責任ある地位にいる者もいた。彼らは宣長に政論を求め、宣長も応えた。宣長は国学を政治に応用しようとして紀州藩や尾張藩に働きかけ、松平定信ともコンタクトを取ろうとしていた。松平定信は宣長を表面上無視したが、賀茂真淵を師と仰いだ田安宗武の子である松平定信が国学を知らぬはずもない。実は深く宣長の影響を受けて政治に生かしていたのだ。

決して三島由紀夫と栗山潜鋒は同型(アイソモーフィック)ではない。

もっと他にも間違いがある。『禁中並公家諸法度』は摂家が天皇家や公家を支配して公家社会の頂点に立つために家康にお願いして幕府の権威で認めさせたものだ。その張本人は近衛信尹。決して家康が天皇に押しつけたものではない。紫衣事件も、摂家と幕府が結託して寺社を管理しようとしておきたものであり、天皇とは直接関係ない。確かに後水尾天皇は幕府を恨んでるような歌を詠んだりもしている。しかし、後水尾は近衛信尹の甥であり、また後水尾の同母弟は近衛家を継いで信尹の養子になったりしている。じつは天皇と摂家はツーカーなのであり、公家支配は摂家が考えたものであり、公家支配のコツを家康に伝授したのも実は摂家なのである。

詩三百篇 思無邪

景山先生『不尽言』に曰く、天照大神は女体と言ふ事なれども、呉の太伯なるべしと言へる事、さもあるべき事とも思はるるなり。その上に、太伯は元、殷の世の人なれば、殷の世の人は鬼神を尚ぶ風俗なるゆゑ、殷の余風が残りて、日本には髪を尚ぶ事と見えたり。又、呉の字を付けて称する事多く、呉竹、呉服の類ひなど、かたがた符合する事もあるなり。然れどもかく言へる事を、神道者などは、これは儒者の唐贔屓から言ひ出だしたる附会の説とて甚だ嫌ふ事なり。神道者は、只、日本は神国なりとて、神と言ふものを奇怪幻妖なるもののやうに人に思はせ、日本には別に日本の道ありとて、吾が道を神妙不測にせうと拵へたるものなり。神道とて別あるべき事ならず。

しかしながら、神は即ちいにしへの聖神なれば、いかさま天照大神の聖徳、数千年の季まで人心に薫染して得去らぬと言ふは、神妙不測の事なるによって、神国と言はんもことわりと覚ゆるなれば、かの武国と言はんよりは一理ある事なり。

和歌と言ふものも、本は詩と同じ物にて、紀貫之、『古今集』の序に、「人の心を種として万の言の葉となれりけり」と言ひ、「見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる」と言へれば、詩の本意と符号せるものなり。此の万の字、面白し。人情は善悪曲直、千端万緒なるものなれば、人の心の種の内に発生の気の鬱したるが、見るもの聞くものに触れて、案配工夫無しに、思はず知らず、フッと言ひ出せる詞に、すぐにその色を表すものなり。草木の種と言ふもの、内に生えむと思ひ工夫して生ずる物ではあるまじ。発生の気が内に鬱して、自然にズッっと生え出づるものなり。しかれば、其の詞を見るによって、世上人情の酸いも甘いも良く知らるる事なり。されども、人の大事に臨み、自ら警めたしなみ、案配工夫して、心の内にてその善悪を調べ、吟味して詞に発する事は、皆それは作り拵へたるものなれば、中々人の実情は知れぬ事もあるなり。それゆゑに、箪食豆羹などに心の色を表すと言ひて、人の心を許し、うっかりと思はず知らずにふと言ひ出だしたる詞にて、人の実情は良く見ゆるものなり。

俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。

詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。

本居宣長の功績

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。

陸奥宗光とその時代

岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』を読んでいるのだが、 昔読んだときは、ただそのまま感心して読んだのだが、今読んでみるとアラの多いのに気付く。

陸奥宗光の父・伊達宗広は和歌を良く詠んだのだが、 今あらためてみてみると、岡崎久彦が「絶賛」するほどすごいわけでもない。 当時の紀州藩は和歌山から南紀、伊勢、松坂までぐるりと、内陸の大和地方を取り巻いて、紀伊半島の東、南、西を知行地としていた。 本居宣長は従って松坂紀州藩支配の学者であるから、紀州徳川家に召し抱えられて、 のちには養子の本居大平が宣長の代わりに紀州藩に仕え、大平が宗広に和歌を教えたのである。
この本居宣長から出た歌道はそのまま明治の桂園派の一支流となった。 桂園派はもちろん香川景樹を祖とするが、これが宮中御歌所で本居派の歌道や後水尾院以来の堂上和歌と混淆して、明治の桂園派をなしたのである。 そうした流れで見てみると、宗広の和歌はごくふつうの桂園派の範疇にあるといわねばならず、 また典型的な江戸後期の地下の和歌であり、上田秋成もそうであったように、当時の民間歌謡である都々逸や常磐津などの影響を濃く受けている。 ということを歌人でもなく、また江戸・明治期の桂園派に詳しくない岡崎久彦が考察できるはずもなかろうと思う。

江戸時代の日本には古学派というものができた。これは江戸時代という、学問が高度に進んだ社会における独特な現象である。何世紀もの間、朱子学が正統学として確立し、他の学説などは邪説としてほとんど存在しなくなっていた東洋社会に新説が生まれたのである。二百年間の徳川は平和で社会が安定していたので、正統派以外の説が出ても政治体制がビクともしない余裕があり、それだけの言論の自由があったということができよう。

新説と言っても奇抜なアイデアということでなく、孔子、孟子の思想を原典に遡って日本人特有の徹底した真面目さで学んでいるうちに自然と出て来たのである。

などと書いている。 まるで、江戸時代の日本でいきなり古学が生まれて、それを荻生徂徠が発明したような書き方をしている。これは非常に問題がある。

江戸時代の日本の儒学者は当然のことながら、明末清初の学者の影響をうけた。 朱子学以外の儒学がなかったはずがない。当時の黄宗羲や顧炎武は考証学を先駆し、朱子学の理念に囚われない史学的、考証学的考察を行った。 また朱子学に対して陽明学があった。 陽明学を直接輸入したのは中江藤樹で、これを展開したのが熊沢蕃山だった。 江戸時代の日本に陽明学が深く浸透していたことは大塩平八郎の名をあげるまでもなかろう。 朱子学を正統とする林羅山らの官学に対して、在野では古学、考証学、陽明学が流行して、これが、もっぱら論語と孟子を読めという伊藤仁斎の古義学となり、荻生徂徠の古文辞学となり、れが堀景山を経て本居宣長に伝わり、大平に伝わり、伊達宗広に伝わったのだ。そう書かなくてはおかしい。
もちろん「日本人特有の徹底した真面目さ」というものを伊藤仁斎がもっていたのは確かだろうが、彼がいきなり古典を直接読めなどと提唱したはずがない。

咲けば花 散れば塵とぞ はらひける あはれ桜も 人の世の中

この、いかにも江戸期の花柳界で口ずさまれたような句をつづっててできた歌は、直接的には香川景樹の影響によるものに違いない。

岡崎久彦がいきなり、古学は日本独自に荻生徂徠が発明した、なんて珍説を唱えるはずがないから、岡崎は誰かの説を生かじりしたのだろう。 江戸時代の雰囲気を紹介したつもりで全然できてない。 岡崎という人は面白い文章を書くけど講談めいている、 彼の祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟だというのだから、 どうもそこらあたりの内輪褒めの話が中心になっているようだ。 用心して読まなくてはならないと思う。

和歌の道は花鳥風月から入るべし

根岸に住む人に歌を見てくれと言われて見た。

春の朝 うぐひすの声は 聞かねども 根岸の里は のどかなりけり

人の歌を添削するというのは難しいものだ。 私なら、

うぐひすの はつねはいまだ 聞かねども 根岸の里に 春はきにけり

とでも詠むだろうか。 特段良くなったわけではないが、古語を使い、古典の言い回しを使えばこうなると思う。

「根岸の里」というのが、和歌というよりは俳句であまりに有名なフレーズで、 逆に扱いに困るのだが、 実際根岸に住んでいるというのだからしかたない。

上野山 鳥はなけども うぐひすの 声はいまだに とどかざりけり

わかる。でも私なら「とり」はたとえばだが「ももちどり」、 「鳴く」は「すだく」として、

ももちどり うへのの山に すだけども いまだまじらぬ うぐひすのこゑ

とでもするだろうか。まあ、そもそもこういう歌をいまさら私は詠まないと思うのだが。

花鳥風月から和歌の道に入ろうというのは今時の人には珍しい。 今はいきなり口語で短歌を詠むでしょう。 いきなり時事問題を扱ったり。 恋人と逢った別れたと。 あれは私は好きではない。 俵万智だっていきなり口語で詠んだとは思えないのよね。 でも彼女の追随者たちはみな、古典をすっとばしていきなり短歌を詠んだ。

でまあ、私が根岸に住んでいたら、写生の歌を詠むと思う。 使い古された単語ではなく、言い回しではなく、 写生によって古いことばに新しい命を吹き込もうと思うだろう。 目の前の光景をそのまま切り取って。それはでも一通り、花鳥風月で練習したあとのことだと思う。

まわりくどくふるくさいやりかただとは思わないでほしい。


追記。根岸に住む和歌を詠む人とは誰だろうか。一人くらいしか思いつかないが、その人が、たまたま試しに詠んだのだろうか。まったく思い出せない。

桓武天皇

桓武天皇はやはり異常だ。 皇統譜を書いているとよくわかるのだ。

桓武平氏と言っても、四系統ある。 第三皇子葛原親王、第九皇子万多親王、第十皇子賀陽親王、第十二皇子仲野親王。 このうち葛原親王系から将門と貞盛が出て、 貞盛から伊勢平氏が出て、清盛につながる。 古今集に出てくる平貞文などは仲野親王系。

平氏以外に、 第七皇子明日香親王から出た久賀氏、 さらに良岑氏がある。 良岑氏といえば遍昭以外知られてないマイナーな王族だがそれなりに子孫繁栄している。

桓武天皇の皇子から平城、嵯峨、淳和天皇が即位した。 嵯峨天皇にも皇子が多かった。 平城天皇と淳和天皇はさほどでもないが、平城天皇からは在原氏が出た。 嵯峨天皇は桓武天皇よりも極端で、皇子は多いが、仁明天皇以外の直系王族はほとんどがすぐに消えてしまっている。

ともかく桓武天皇時代の親王の数が異常に多いし、 親王以外の皇子はさらに多い。 桓武以前と桓武以後でまったく様相が異なる。 白河院時代に親王を極端に減らし、親王以外の皇子はみんな法親王にしてしまって、 皇室財産を緊縮したのとは大違いなのだ。

そもそも光仁天皇から桓武天皇に譲位した理由も謎だ。 光仁天皇の父・志貴皇子系統の皇族はいくらでもいたのに、 よりによってなぜ百済人の后の皇子が即位せねばならなかったのか。 たしかに志貴皇子は天智・天武系統の中では傍系なので、有力な后がいない。 しかし天武系は途絶えて藤原氏を后とする有力な皇子が無い中でなぜ桓武天皇が即位したのか。

おそらくだが、平安末期に平氏や源氏が擡頭してきたように、 この時代、百済人の勢力が非常に強かったのだ。 藤原氏などの名門貴族もその百済人たちの力を借りないと朝廷を操縦できない。 だから藤原百川など一部の藤原氏が桓武を擁立した。 さらに藤原冬嗣など百済人の血を引く藤原氏がその路線を継承した。

桓武天皇の時代は皇子の時代だったが、 王族の子孫が平氏となり源氏となることによって、 武士の時代となって、皇子は不要になってしまった、ということだろう。 桓武天皇の勢いは皇室には留まらずにその外の社会に波及して増幅していった。 もし桓武天皇と同じ規模で皇室が維持されていれば日本は大陸型の中央集権国家になっていただろう。 しかし皇室はたちまちにしぼんでしまい、無数の支族が枝分かれして繁栄することになった。 だから封建社会になった。