五月雨の頃

「さみだれのころ」を最初に詠んだのは西行であろうと思う。それを俊成が真似て、さらに後鳥羽院や良経が真似た歌が『新古今』に採られることで世間に知れ渡ったのだと私は推測する。まずは西行の歌を見るが、それらはほぼ、彼の家集『山家集』に見られるだけで、『新古今』には採られていない。

西行は明らかに「水」が大好きだった。西行は「花の歌人」として名高いが、実は「水の歌人」と呼んでも良いくらい水の歌を多く詠んでいる。雨、五月雨、時雨、初時雨、村時雨、冬時雨、嵐、雫、雲、雲居、白雲、八雲、雲路、浮雲、横雲、瀧、滝川、瀧枕、池、沼、沢、川、入江、菖蒲(あやめ)に真菰(まこも)。春夏秋冬、ありとあらゆるパターンの水に関わる歌を詠んでいる。清少納言が「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」というなら、西行は「春は春雨」「夏は五月雨」「秋は時雨」「冬は雪」と言うに違いない。

「五月雨の頃」以外に「五月雨の空」「五月雨の晴れ間も見えぬ雲路」「五月雨に水まさるらし」「その五月雨の名残りより」「五月雨は野原の沢に水越えて」「五月雨に小田の早苗やいかならむ」「五月雨に山田の畦の瀧枕」「五月雨は行くべき道のあてもなし」「五月雨の軒の雫に玉かけて」「五月雨の頃にしなれば」「五月雨に干すひまなくて」「五月雨はいささ小川の橋もなし」「水底に敷かれにけりなさみだれて」「五月雨の小止む晴れ間のなからめや」「五月雨に佐野の浮橋うきぬれば」「五月雨の晴れぬ日数のふるままに」「五月の雨に水まさりつつ」「五月雨の晴れ間たづねてほととぎす」などなど。いやはや驚くべき執念だ。

秋の夕暮れ

小沢正夫氏は『古代歌学の形成』で『古今』の序について網羅的に分析している。彼の説を要約するならば、『古今』の序はまず「真名序」が書かれ、これをもとに紀貫之が「仮名序」を書いた。「真名序」に関しては藤原公任が著した『和漢朗詠集』にも裏付ける記述がある。また、その内容は「仮名序」が「『古今集』の内容に精通し、これに愛情をもった文章」であるのに対して、「真名序」は「事務的・官僚的」で「微温的でよそよそしい態度」であって、「貫之以外の人、例えば普通に言われている淑望あたりが書いたと考えてさしつかえない」と言っている。「仮名序」に関しては壬生忠岑が書いた『和歌体十種』に貫之が序を書いたという記載があり、「六義」にこだわるなどの特徴が見える。私も小沢氏に概ね同意する。なるほど、貫之は「真名序」を和文にして、「仮名序」を書き、六義について若干敷衍したであろう。しかし貫之がやったことはそこまでで、今に残る「仮名序」はそこから誰かがさらに大幅に書き足したもののように私には思える。なぜならその書き足したとおぼしき部分に疑惑の文言「あきのゆふくれ」が含まれるからだ。

「秋の夕暮れ」を最初に歌に詠んだ人は平兼盛。光孝天皇の子孫で、村上天皇の御代に臣籍降下して平姓を賜った(光孝平氏)。赤染衛門は兼盛の娘であるという説もある。

浅(あさ)茅(ぢ)生(ふ)の 秋(あき)の夕(ゆふ)暮(ぐ)れ 鳴(な)く虫(むし)は 我(わ)がごと下(した)に ものや悲(かな)しき

(秋の夕暮れに茅(ちがや)の原で鳴いている虫は私のように、心の中で悲しんでいるのだろうか)

兼盛の次の世代の人、和泉式部は「秋の夕暮れ」がかなりお気に入りだった。

ゆふぐれのしかのこゑ

四方山(よもやま)の しげきを見(み)れば 悲(かな)しくて 鹿(しか)なきぬべき 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

太宰帥敦(あつ)道(みち)の親王(しんわう)、中絶えける頃、秋つ方、思ひ出でてものして侍りしに

待(ま)つとても かばかりこそは あらましか 思(おも)ひもかけぬ 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

あはれなる事

あはれなる ことを言(い)ふには 人(ひと)知(し)れず もの思(おも)ふときの 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

八月ばかり、人のもとへ

音(おと)すれば 訪(と)ふか訪(と)ふかと 萩(をぎ)の葉(は)に 耳(みみ)のみ留(と)まる 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

(秋の夕暮れに、萩の葉の音を聞くたび、あなたが訪れたかと耳が止まります)

どちらかといえば和泉式部が『枕草子』の「秋は夕暮れ」というフレーズを気に入って、これらの歌を次から次へと詠んだように思える。というのは、和泉式部は「秋は夕暮れ」の他にも

夜(よる)睡(い)も寝(ね)ぬに、障(さう)子(じ)を急(いそ)ぎ開(あ)けて眺(なが)むるに

恋(こひ)しさも 秋(あき)の夕(ゆふ)べに 劣(おと)らぬは 霞(かすみ)棚引(たなび)く 春(はる)のあけぼの

のように「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる」を丸パクリしたような歌を詠んでいるのである。この「春のあけぼの」を最初に詠んだのも和泉式部らしく、『千載集』以後盛んに詠まれるようになった。和泉式部は清少納言より十才くらい年下だが、逆に、和泉式部の歌を見て清少納言が『枕草子』を書いた、ということは、ちょっと考えにくい。

『古今』「仮名序」に「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き」とあるのはおそらく曽祢好忠の長歌の一部、

‥ はなのちる 春(はる)のあした 葉(は)のおつる 秋(あき)のゆふべ ‥

(または、はなちる 春のあした この葉のおつる 秋のゆふべ)

からきていると思われる。好忠は『小倉』の「由良の門を渡る舟人梶を絶え行く方も知らぬ恋の路かな」で知られるが、彼も『拾遺集』時代の人である。

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。実際「しきしまのみち」は俊成が『千載集』の序で用いたのが初出で、歌として使われ始めたのは『玉葉集』以降という事例もある。「敷島の道」とは「歌道」のことだ。もともと「歌」そのものや「歌道」は歌に詠むものではなかったから、まず『勅撰集』の序に使われ、歌に使われるまで準備期間が必要だった。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中にわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるか?

雲母や金銀箔を押した料紙に流麗な仮名文字で筆記された国宝元永本古今和歌集。これにはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。この元永本は、俊頼が白河院の歓心を買うため献上したものと思われるが、これを見るたび、ああ、俊頼が言う『金葉』とはこんな金ぴかのこけおどしみたいな歌のことを言うのだなと興ざめする。

そして曽祢好忠の歌との類似性は?これも貫之の仮名序を見た好忠が真似たのだろうか?それは相当不自然ではないか。そうやって疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。例えば「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの 我が黒髪に 年暮れて 鏡の影に 降れる白雪」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が「仮名序」を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。

明治という元号

明治という元号は籤(くじ)で決まった。後にも先にも日本の元号が籤で決められたのはこの時だけだ。贈正一位太政大臣岩倉具視の日記『岩倉公実記』によれば、具視は、選んだ字が吉か凶かなんて煩雑な議論をするのは時代遅れだしもうやめましょう、ついでに一世一元の制度にしましょうと提案した。中国ではとっくに明朝から一世一元であり、清朝もそうだった。

具視は越前国福井藩主松平春嶽に二、三の候補を選ばせて、天皇が自分で籤を引き、それが「明治」だったので新元号を「明治」に決めてしまった。ずいぶん乱暴な話だ。有職故実を何より重んじる公家の岩倉具視がそんなぞんざいなことをするとは。

宮中で行われる占いとしては大嘗祭で行われる卜(ぼく)定(じょう)が有名だ。亀の甲羅を灼(や)いて占うのだが、これも天皇が自ら行うものではなく、神祇官(卜部(うらべ))が占って天皇に上奏するだけだ。天皇自ら獣骨や亀甲を火に炙り吉凶を占う。あり得ない。卑弥呼じゃあるまいし。記録が残っていない古墳時代とか飛鳥時代ならともかく、全くあり得ない。

なぜ岩倉具視と松平春嶽が二人で決めたのか。春嶽は佐幕派だが、具視は倒幕側だったはず。この二人の間でなんらかの取引が行われたのだろうか。普通そう疑うだろう。

改元の詔に列挙された臣下の名を見てみよう。

筆頭は「正二位内大臣 臣源朝臣」となっている。ちょっとわかりにくいがこの人は徳川慶喜だ。

慶応三年十二月八日、徳川第十五代将軍慶喜の上奏を受けて大政返上を天皇が許可。これを受けて翌日天皇は王政復古の大号令を発する。この時点で慶喜は将軍職を辞すが、いまだ「徳川内府」、つまり内大臣と呼ばれている。

王政復古の同日、小御所会議が開かれる。ここでは内覧、摂政関白、守護等の職を廃止するとは言っているが、太政官を廃止するとは言ってない。それはそうで、岩倉具視にとって敵は幕府そのものというよりは、幕府の武威を笠に着て、宮家や公家を支配してきた摂家、そして摂家支配の根拠となっていた「禁中並公家諸法度」だったからだ。具視が倒幕に与(くみ)した理由はそこだ。具視が属する中・下流公家階級にとって倒幕とは倒摂家に他ならなかった。摂家、つまり摂政関白は常に佐幕派で、幕府老中と緊密に連携していた。

薩長は慶喜に即時領地を返納し内大臣を辞めろ、と主張する。

内大臣慶喜もいずれは「辞官納地」するだろうと春嶽は言う。しかしそれは律令制そのものが西洋式の議会制君主政に倣った新制度に置き換り、維新政府が樹立された後に、徳川家以下全ての諸侯が同時に官位官職を辞し、領地を返納する、という意味だ。徳川家としてはそれまで官位官職、そして封地を保持する必要がある。しかし薩長は徳川家だけ先に、ただちに辞官納地するよう主張する。なぜなら徳川は「朝敵」だからだ、と言いたいのだ。 勤王の志篤(あつ)い慶喜は言うだろう、「天皇に委任された大政は喜んで返上する。しかし朝敵になるのは絶対に嫌だ、」と。徳川は朝敵ではないから徳川だけ先に辞官納地はしない。そのため正二位徳川内大臣慶喜が筆頭で改元の詔を発布する。薩長が同意するはずがない。絶対なんだかんだと揉める。だからこの詔はできるだけ速やかに出す必要があり、天皇に籤を引かせてえいやっと改元した。こうして具視と春嶽は共謀して、慶喜がいまなお内大臣であり、太政官筆頭である証拠を残した。改元の詔勅という紛れもない公文書によって。うさんくさい討幕の密勅などこれで吹き飛んでしまった。

目安箱とか玉くしげとか

落とし文とか捨て文というものを制度化した目安箱ってのがあったはずだよね。で、ちょっと調べれば、天明の飢饉のとき、松平定信が諸藩や民間人からも献策を推奨し、宣長も『玉くしげ』『秘本玉くしげ』などを紀伊藩主徳川治貞に献上した、くらいのことはすぐにわかるはず。

徳川幕府が人民に施した善政などない、江戸時代は暗黒時代だったっていうネガティブキャンペーンを薩長が文部省なんかを使って長年にわたって繰り広げたせいで、ネトウヨはとかくこうした間違った歴史観をもっている。

定信の父は田安宗武、宗武の父は徳川吉宗で、もとは紀州藩主だった。宗武は賀茂真淵に国学を学び、定信もおそらく国学的な雰囲気の中で成長したはずで、そうなると徳川宗家の開祖家康がとんでもなくむちゃくちゃな宗教観・思想の持ち主だってことは、定信もわかっていたはず。

ところが定信は朱子学を信奉する教条主義者だってことになってしまった。そんなはずないだろ。定信の著作をみれば明らか。尊号一件の扱い方にしても、彼が完成させた大政委任論にしろ、定信が、賀茂真淵や本居宣長らのような、国学者的な尊王家であるのは明らかだ。

ネトウヨの無知蒙昧を正すのでなくそれを煽って部数を稼ごうなどという輩が愛国者と言えるだろうか。

読めば読むほどわからなくなる本居宣長

『神社発信』という雑誌の vol.3 (2018年3月発行) から vol.8 (2019年4月発行) まで「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」という記事を連載していた。私はこれを複数の人に読んでもらい、感想を聞くことができたのだが、表題の通り「読めば読むほどわからなくなる」というか「読んでも何が書かれているのかよくわからない」と言われた。別に難しいことを書こうと思ったわけではない。一般に宣長は難しいと考えられているが実は簡単なのだけど、宣長は誤解されていて、それら先入観を捨てないと宣長は理解できない。彼を読み解くにはそれなりの準備と時間と手間をかける必要があるから辛抱してついてきてね、途中で宣長100%わかったと思ってもそれは勘違いだから気を付けてね、という程度の意味合いだった。

よくわからない文章を書く人にはさまざまなタイプがあると思う。ハイデッガーとかヴィトゲンシュタインとか?あれも彼らの思想背景を理解しドイツ語の原文で読めば(つまりドイツ語のこまかなニュアンスがわかるネイティブスピーカー並の感性があれば)読めるのかもしれん。
小林秀雄などはいわゆる「悪文」タイプで、感覚的に思いついたことをあれこれ書いていて、文章もうまいのだろうけど、結局何が言いたいのかわからない、言いたいことはあるらしいがまったく根拠が示されてない、なんとなくそれっぽい雰囲気だけの、従って読んだ後に何も残らない。そういうたぐいの文章だと思う。たぶん小林秀雄の文章というものはBGM代わりに朗読かなにかしてもらえば良い気持ちになる、という程度のものだろう。しかしそういう彼にも一定のファンがついてて、そういう文章を愛でるのだ。白洲正子がまさにそういうファンの一人で、しかし彼女は、小林秀雄晩年のライフワーク『本居宣長』に関しては、全然面白くないと、本人を前にそう言っている。私はまったく逆で、私にとって小林秀雄の『本居宣長』以外の文章はちんぷんかんぷんで何を言いたいのかさっぱりわからないのだが、『本居宣長』に関してはちゃんと時間をかけて取材もしてるし、他の人が指摘しなかったような新しい知見があちこちに見られるのだ。誤解を恐れず言えば小林秀雄はもともと「文系的」な文章を書く人だったが、『本居宣長』に至って初めて「理系的」な、中身のある、明確な主張のある文章を書いた、いや、書こうと努力したのだと私には思える。

人をわかったような気にさせる文章を書くのはたやすい。逆に、わかったような気になっている人にわからせる文章を書くのは難しい。

小林秀雄の『本居宣長』はまず彼が宣長の墓参りをするところから始まる。町中の寺にある仏式の墓と、山奥にある神道式の墓だ。この二つの墓の対比がまさに宣長なのであり、導入であり、つかみなのであり、つまり、宣長という人の二面性というか多面性を如実に表す象徴でもある。小林秀雄らしい文芸的なイントロダクションでもあり、同時に極めて示唆に富んだ問題提起でありインスピレーション(霊感、直感)なのだ。少なくとも私にはそう思えた。
小林秀雄も最初はとりあえず取材の手始めに、墓参りでもするかというくらいの気持ちだったのかもしれないが、現地を訪れてやはり何かの霊感を得たのだろうと思う。
しかし普通の人がみれば、なんだ、わざわざ松坂まで墓参りしに行ったのか、で終わりなのだと思う。
私も一度目はそう思ったかもしれない。しかし何度か読むうちにこのイントロダクションに重大な意味があるように思えてくるのだ。
なぜ仏式と神式二つの墓があるかといえば宣長は若い頃は仏教が大好きで、のちに国学者になってもその趣味は消しがたかったからだし、
あるいは徳川家康が仏教を奨励してたから、人は嫌でも寺に墓を作らなくてはならなかったからでもある。
宣長はまず寺で葬式を済ませたあと遺体を山の墓に運ぶよう遺言した。なるほどいかにも宣長らしい。
しかしふつうは、はいはい墓参り墓参り、でそれ以上読むのをやめる。
小林秀雄の『本居宣長』を何度も何度も熟読する人はいない。たいていは最初をちらっと見て読むのをやめてしまう。
なぜかと言うに人は自分が読みたい宣長を読もうとするからだ。小林秀雄がそれ以外の宣長について語ろうとしても、頭の中には入っていかない。

途中、中だるみというか、冗長な回もあると言えばあるが、50回も100回も連載しようとなればそういう、過去に遡った事実の羅列に過ぎない「仕込み」の回がどうしても必要になる。私も連載をやってみて気づいた。面白い回を書くにはしばらくつまらない回を書かねばならぬけれど、それなりの緊張感を持続しつつときどき、おーっと思わせるような明察を披露したりするのだ。
小林秀雄の『本居宣長』に挫折した人は多いと思う。連載はもっと長くてそれを縮めてああなったというから、連載をリアルタイムで読んでいた白洲正子にとっては、まさにつまらなかったのだろう。

『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』に関して言えば、連載の話が来ていきなり原稿を書き始めたので初めは何について書こうかなと考えながら書いていた。A4版の全ページカラーの雑誌なので文字ばかり並べてはもったいないと思ったから、国会図書館のデジタルライブラリーから浮世絵なんかをできるだけ探してきて載せようと考えた。1回目と2回目はそんなふうに書いた。書きながら、幕末の薩長から見た宣長と、徳川の幕臣から見た宣長とは全然違うんだなってことに気づいた。
宣長は町人から取り立てられて紀州の家臣になった。つまり侍になった。尾張藩士にも弟子がたくさんいて、つまり、紀州と尾張の徳川家には一目置かれる存在だったし、宣長の「みよさし論」は、同時代の松平定信にも大きな影響を与えた。武士としての宣長、幕臣としての宣長という視点が欠落している。もちろんそのことに気づいて研究している人はいるのだが、世間には知られていない。
小林秀雄も気づいてはいたのだろうがそこについてはあまり掘り下げてない。
なので代わりに私が書いてやろうと思った。
宣長は松平定信に天明の飢饉の対処方法について献策した。定信は表立って宣長の意見を聞いたわけではないが、たぶん大いに参考にしただろうし、紀州・尾張の幕臣たちには宣長の思想が深く浸透していった。宣長は積極的に幕政に関与しようとした。もし定信が受け入れていれば宣長はもっと積極的に、活発に政治的発言をしただろうと思う。

とそういうことを連載していくうちに書いていこうと思い、とりあえずじっくり仕込みから入ろうと思ったのだが、本論を述べる前に連載は8回で打ち切りになった(神社発信が休刊になったから)。
で、人に聞くと、最初の1回目と2回目くらいは面白かったが、それからつまらなくなったと言われた。
人の見方というものはそうしたものなのだなと思った。
私も小林秀雄の轍を踏んだのだった。

『虚構の歌人 藤原定家』にしても、難しすぎると言われる。確かに私が読んでもそうだ。特に最初から通して読もうとしたときなど。だが、ときどき思い出して、一つの箇所をじっくり読み直してみるとけっこうするどいこと書いてるなと思えたりする。
『エウメネス』も加筆修正を繰り返していくうちにだんだん読みにくくなってしまった。自分で読んでても読みにくいんだから他人はもっとそうだろうと思う。
もちろん私の文章には私からみてもまだまだ推敲が足りてない、考察やサーベイが浅い、と思われるところがあるが、では推敲し、考察し、サーベイを加えれば加えるほどに今度は非常に読むのがつらい文章になっていく。これはどうにもしがたい。

夏目漱石はある意味で幸せだった。最初、我が輩は猫であるとか三四郎のようなわかりやすい小説で読者を獲得し、だんだんに難しいものを書くようになったが読者は我慢してついてきてくれた。ただ漱石が作った漢詩は誰も評価してはくれなかったが。別の意味では、漱石もまた、『晩鐘』『落ち穂拾い』を描いたミレーのように、あるいは若い頃に『ゴッホの手紙』を書いた小林秀雄のように、自分が良いと思う作品を他人が評価してくれない典型なのかもしれない。

評伝 小室直樹

たまたまアマゾンを見ていて、『評伝 小室直樹』という本が2年前に出ていたことを知った。しかるにその上巻はすでに品薄状態で中古でもかなりのプレミアがついている。仕方なく、とりあえず上下巻とも図書館で借りて読むことにした。

著者の村上篤直氏は橋爪大三郎が編んだ『小室直樹の世界』という本に付録された目録を執筆したというから橋爪氏のお弟子さんか何かなのだろう。橋爪氏は当然小室直樹について熟知していた。そしてそれを村上氏にもたびたび語っていただろうし、村上氏も橋爪氏に小室直樹のことについてたびたび質問していただろう。その過程で村上氏は、橋爪氏がどうして小室直樹の本当の姿を書かないのか、小室直樹の評伝を執筆して世に広めないのか、橋爪先生が書かないのなら私が書きますよ、もちろん推薦文くらいは書いてくれますよね、くらいのことは言ったのではないか、と想像されるのである。

私が読みたいと思うのは小室直樹全集であり、その一つ一つの著作に対する解説であり、また校注である。しかしどうも橋爪氏はそのようなものを書く気はまったくないらしい。橋爪大三郎が副島隆彦と共著で書いた『小室直樹の学問と思想』ではただ、小室直樹は偉い学者だったとしか書かれてなく、その著作についてはほとんど触れられていないと言って良い。

で今回『評伝 小室直樹』を読んでその謎が氷解したような気がした。橋爪氏は書きたくなかったのだ。なぜなら小室直樹が出版した著書のほとんどすべては小室直樹が直接執筆したのではなく、出版社のプロデュースとリライトによって書かれたものであり、中にはほとんどゴーストライターが書いたとしか言いようが無いものも含まれているからだ。そのほとんどすべては小室直樹が自分で書きたいと思って書いたものではなく、周りがお膳立てして書かれたものだ。そんな著作群について橋爪氏が言及したくないのは当然であろう。村上氏は橋爪氏が書かないのであれば自分が、という半ば義務感で、この暴露本を書いたのだと私は推察する。

下巻256p、ある日、橋爪、白倉、志田が集まったとき、「小室直樹とは何者か」が話題になった。「最高のティーチャー」との結論で意見は一致した。

教育者として、学問の本質をわかりやすく教えられる能力は抜群のものがある。

では、学者、研究者としてはどうか、小室先生は何か発見はしたのか。ティーチャーとしては最低でも、大発見を一つでもすれば学者、研究者として名前は残る。たった一本でも、学術論文として意義のあるものを書けば、学説史に名を残せる。

では、小室先生はどうか。結論は出なかった。

ここはいろいろ考えさせられるところで、小室直樹がMITのサムエルソンのところへおしかけてPh.Dを取ろうとして失敗し、帰国して東大で学位を取ろうとして指導教官の京極純一になかなか学位審査をしてもらえなかったとか、いろいろ同情するところはあるが、結局、小室直樹が法学博士の学位をとるにはとったが、橋爪にあてがわれた非常勤講師や特任教授などのアカポスしか得られなかったというのは、厳然とした事実だ。客観的に彼が偉大な学者だという証拠は無い、ということになる。

上巻253p、「小室は、何かをするときに、雑駁だ。大づかみなことは正しいんだが、細かいところに目が届かんから、失敗する。」まさにそうなのだろう。

決定的な学術業績もなく、著書もまたマスコミに踊らされて書いたものだとしたら、では小室直樹に残るものとはなんなのだろうか。

それでも彼に残るものとはやはり、人を感化する力、なのかもしれない。

『評伝 小室直樹』下巻p133から『週刊宝石』に掲載された小室直樹と横山やすしの対談が一部掲載されている。私はこれをリアルタイムで読んだはずだから、それは1984年7月。つまり私が駿台予備校京都校で浪人生だった頃読んだことになる。

『週刊プレイボーイ』だったかと思ったが記憶違いだった。

この対談は非常に面白くて、これを読むだけのためにも、『評伝 小室直樹』を読む必要があると思う。再び読めてたいへんうれしい。結局、世間一般の人からみた小室直樹という人は、この横山やすしが見たようなものなのだ。世間一般の人からみた、世間離れした学者というものの姿なのだ。ようするに、結婚して家庭を持ち、妻子をもっていないと人は学者のいうことを信用しないものなのだ。彼らにとってわかりやすいことを学者が言えば、彼らはなるほどその通りだとなっとくしてくれるが、自分たちの常識に反することを言っても理解してはもらえないんだっていう教訓になった。

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹

『評伝 小室直樹』下巻p.395

崎門の学に連なる栗山潜鋒。

これは間違っている。たぶん小室直樹もそうは言ってないはず。でもそんなふうに読者は思うだろう。栗山潜鋒は水戸学とも崎門学とも関係ない。独立独歩。

※追記。栗山潜鋒は明らかに純粋な儒者ではない。徳川期の儒学は、まず幕府直轄の官学を言う。天下国家、経国済民を論じる儒学が官学となるのは必然であり、漢代でもそうだったし、徳川もまたそれに倣った。儒者は幕府に仕官した官儒が偉く、一番偉いのは将軍に直接諮問される立場に一部の奥儒者、顧問であり、尾張水戸紀州など親藩に仕える儒者らが続く。市井の儒者は儒者のようなそうでないような扱い。本居宣長などは、国政に口出しできない市井の学者が儒学を学んで何の役に立つ、とまで言っている。大塩平八郎は大阪町奉行与力ではあったがさっさと家督を養子に譲って自分は陽明学に凝った。儒者ではあるがかなり外れている。栗山潜鋒は水戸光圀に招聘されて彰考館総裁の一人となったが、大塩平八郎よりもさらにエキセントリックである。それを、潜鋒がもと崎門の師を持ったためだと説明付けるのはたやすい。確かに崎門には神道に対する異様なこだわりがあり、これは中国かぶれの儒者(特に新井白石や太宰春台など)とはまったく違う。小室直樹が潜鋒の影響を受けているのは確実だが、その認識はかなりおかしく、おそらく単に、若い頃の小室直樹が読んだ国学書から間接的に受けているのだろうと思われる。

従来、皇位は長氏相続法にしたがって、順に、白河天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と継承されてきた。

この認識も間違っている。白河院は、天皇家が摂家に対抗するため、院政を発明した。これによってはじめて皇位の直系相続が実現した。藤原氏全盛時代は、さかんに兄弟間で相続している。それは摂家によって皇位をたらい回しにしたから。摂家の影響力を排除するため意図的に白河院は直系相続にした。栗山潜鋒だって当然、長子相続が天皇家の伝統でもなんでもないことは知ってる。問題は鳥羽天皇が白河院がせっかく確立してくれた直系相続を捨て兄弟相続を復活させたことだ。

皇位継承順位は、天倫の序すなわち長子相続法によって定められるべきである。
その根本規範が、ほかならぬ、上皇と関白によって破壊されたのである。
救いがたい急性アノミー(無規範状態)が全日本を覆い尽くすであろう。

この認識もあり得ない。もしそうなら、藤原道長の時代に急性アノミーが生じていなくてはならない。そんなことはなかった。少なくとも表面上は世の中は平和に治まっていた。藤原基経が陽成天皇を廃して光孝天皇を立てたときにもものすごいアノミーが発生しなくてはならない。そんなことは起きてない。

後白河天皇が義朝に父為義の処刑を命じた。つまり天皇が「父殺し」を命じた。そのため天皇政権が終わり武士政権となった。

これはまあどうかなあ。そういう解釈も一応は成り立つかもしれない(※追記。ともかく摂家が武家に対する扱いははなはだ不当なものであってその矛盾が義朝の時に父殺しという形で可視化されたのは間違いないのだが、むしろ、賴山陽が指摘しているように、義家の時にはすでに、武家の信頼は朝廷を離れて清和源氏や桓武平氏に帰していたとするほうがずっと自然だ)。

ま、ともかく、小室直樹は、山崎闇斎の崎門学や、山鹿素行の『中朝事実』などを重視する一方で、賀茂真淵や本居宣長の国学を軽んじ、真淵や宣長に濡れ衣を着せようとする。これはおそらくは、小室直樹が影響を受けた平泉澄という人がそういう考えの人だったからなのだろう(※追記。平泉澄という人は確かに小室が若い頃影響を受けた思想家の一人だったのだろう。賀茂真淵、本居宣長との関係は要精査)。国学以前日本では、中国と日本とインドの宗教はすべて混在していた。その上で、神道よりも仏教や儒教のほうが優れている、という舶来主義が主流だった。それを、混交したままひっくり返して、実は日本が本家本元だったんですって言い出したのが垂加神道。日本ルーツ説。

国学と他の学派との本質的違いは、国学は日本古来のものとそれ以外のものを切り分ける古文辞的作業をおこなった、ということだ。そこには当然、日本古来のものを尊ぶ思想が付随してくるわけだが。

宣長はきちんと『古事記』を分析して、日本固有のものを外来のものから分離し、その上で神道と仏教と儒教を比較して、神道のほうが仏教や儒教よりも優れている点がある、ということを主張したにすぎない。儒教には儒教の良いところがあり、仏教には仏教の良いところがある。しかし、ここは日本であって、インドに仏教があり中国に儒教があるように、日本には日本古来の神道がふさわしい、そう言っているのにすぎない。その根本にあるのは相対主義であり、日本が世界で一番優れている、というのが本来の主張ではないし、まして、中国やインドにも神道を押しつけようというものではない。同じように、キリスト教徒はキリストを拝めば良いだけのこと。それは、宣長と上田秋成の論争を注意深く読めばわかることだ。日本が一番良い、絶対的に良い、などと言ってるのは崎門学や中朝事実のほうだ。

小室直樹は、アノミーという理論が先行していて実証が伴っていない。歴史を緻密に検証していけば、その理屈では通らない事例がいくらでもある。それらを一つ一つ潰していかないと理論は実証できない。

栗山は天皇の失政を強く激しく批判しながら、それでもなお天皇システムを肯定する。

違うんだな。それは違う。単に北畠親房の受け売りで天皇を批判するだけの安積澹泊とも違うし、天皇を激しく批判しながら天皇を崇拝する三島由紀夫とも違う。栗山潜鋒は朝廷に天皇を補弼し武威を示し天下に敷き行う臣下がいないので、その大権が武家に委任されているのであり、それは太古から連綿として変わらない、ということを言いたかったのである。それはつまり幕府が三度交代してはじめて、栗山潜鋒がその日本固有の歴史を観察して発見した知見だ。つまり、天皇システムを肯定しているのではなく、日本固有の歴史的法則性を発見したのだ。それは北畠親房の時代にはまだ判然としていなかったから、親房には見いだせなかった。易姓革命の原理による儒学でも説明が付かなかった。中国にはない日本固有の必然的歴史的法則が作動した結果、徳川幕府が成立した。潜鋒が言いたかったことはまさにそれ。すなわち栗山潜鋒の理論は佐幕理論なのであり、倒幕理論ではない。あり得ない。天皇は絶対だから天皇は不徳でも良い、なんて言ってない。

さらに本居宣長は潜鋒の理論をいたく気に入って、これを「みよさし論」として完成させて、幕府の最高権力者である老中松平定信が追認し採用する形でオーソライズしたから、大政委任論が成立したのである。そしてそこから自然に幕末の大政奉還論が生まれてくる。何段階ものステップを経て、徳川の250年間にわたる治世の中で徐々に熟成されてできたものだ。国学は決して天然自然が良いとか神様のあるがままが良いなんてことは言ってない。少なくとも宣長はそんな脳天気なことは言ってない。宣長は彼の歌論において、古い時代には古い歌、新しい時代には新しい歌がふさわしい、歌は時代時代で異なる、混同してはならないと明確に言っている。みんな宣長がいかに政治に関心をもち関わっていたかをしらんのだ。宣長の門下にはだんだんと武士が集まってきた。その中には尾張や紀州で幕政に責任ある地位にいる者もいた。彼らは宣長に政論を求め、宣長も応えた。宣長は国学を政治に応用しようとして紀州藩や尾張藩に働きかけ、松平定信ともコンタクトを取ろうとしていた。松平定信は宣長を表面上無視したが、賀茂真淵を師と仰いだ田安宗武の子である松平定信が国学を知らぬはずもない。実は深く宣長の影響を受けて政治に生かしていたのだ。

決して三島由紀夫と栗山潜鋒は同型(アイソモーフィック)ではない。

もっと他にも間違いがある。『禁中並公家諸法度』は摂家が天皇家や公家を支配して公家社会の頂点に立つために家康にお願いして幕府の権威で認めさせたものだ。その張本人は近衛信尹。決して家康が天皇に押しつけたものではない。紫衣事件も、摂家と幕府が結託して寺社を管理しようとしておきたものであり、天皇とは直接関係ない。確かに後水尾天皇は幕府を恨んでるような歌を詠んだりもしている。しかし、後水尾は近衛信尹の甥であり、また後水尾の同母弟は近衛家を継いで信尹の養子になったりしている。じつは天皇と摂家はツーカーなのであり、公家支配は摂家が考えたものであり、公家支配のコツを家康に伝授したのも実は摂家なのである。

天明八年戊申十月御心得之箇条並老中心得之箇条依台命松平越中守定信撰之上ル覚

一 五常五倫の道を体せられ文武兼ね備はらせられ候御事は勿論の御儀、且つ貴賎共各職分御座候ひては職に背き難き候由、恐れ乍ら上には御官位尊くあらせられ候上、征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、源氏長者を御兼職遊ばされ候。征夷将軍に於いては一日も武備を御忘れられ難し。両院別当に於いては又、文道を御離れ難く遊ばされ候御事・御職分に成られ御座候へば、弥(いよいよ)御慎み御勤め遊ばさるべく候事

一 何ゆゑに斯くは御尊くあらせられ候と常々思し召されるべく候。斯くの如く御尊くあらせられ候は、東照宮の御神徳にあらせられ候。東照宮にも斯くの如く御尊くあらせられ候様、神慮にもあらせられず、応仁の頃より天下大いに乱れ、生民、塗炭に落ち候をお救ひなされ、大正・至仁の御徳あらせられ候に付き、天下人民、帰服奉り候ひて天下を御平治遊ばされ候。元より御尊くあらせられ候はでは天下永久に御治め難く遊ばさる御事に付き、再応の勅命に任せられ、遂に御位も御尊く成らせられ、万代無疆・御栄耀には成らせられ至り候。古人も天下は天下の、一人の天下にあらずと申し候ひまして六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候御事に御座候へば、かりそめにも御自身の者に思し召すまじき御事に御座候。将軍と成らせられ、天下を御治め遊ばされ候は御職分に御座候。然る所、上に立たせられ候ひては、おのづから御心も弛ませられ、御政事は残らず下へのみ任せられ、万づ天下の為に御心用ゐさせられ候御儀薄く御慰み事にのみ御心を用ゐさせられ、或いは上にあらせられ候ひては下の御威風に靡き奉り候によりて、自然思し召し付かせられ候事いつも宜事とのみ思し召され仰せ出だされ候儀は御筋合如何の事も其の儘御押し付け遊ばされ、御喜怒の御私情にて御賞罰の御大法を曲げられ、御愛憎の変にも御人の御進退遊ばされ候類ひはあらせられまじき御事惣て軽き輩職分におはせられ候へば御咎の所も亦重く天下の患ひにも相ひ及び候事相ひ記し候如くに御座候。

以下略

国体論と『保建大記』

日本国体の研究 などというものを読んでいたのだが、 国体という言葉はイギリスには無いと英国大使のエリオット氏が言っていた、などと書かれていて、 実際、国体という言葉は江戸時代に入ってから栗山潜鋒が作った言葉なので、中国の古典にも無いし、インドにあるはずもないし、 ヨーロッパにあるはずもないのである。

それでこの著者は、趣意無しで出来た国には国体は無く、 趣意があって出来た国には国体がある、などと言っているのだが、 日本が出来たときに趣意なんかあったはずがない。 日本の建国がどういうものであったかは、神武天皇紀なんかからなんとなくわかるとしか言いようがない。 大陸から稲作文化なんかがわーっと日本に渡ってきて、狩猟採集社会が農耕社会になって、村が出来、国が出来ていった。 そんなふうになんとなく成り行きで出来た国であったはずだ。 世界中の国がそんなふうにしてできたように。 それがなぜかいつの間にか、日本だけが、世界にも稀な、何千年も王朝が途切れなく続く唯一の国になった。 なんでそんなことが日本でだけ起きたのだろう、という疑問から、国体という概念が出来たのだ。 そしてその問題意識を最初に抱いたのが栗山潜鋒だった。

多くの人は、日本は島国だから、たまたまうまいぐあいにそんなふうになったのだ、と思っている。 確かに偶然の要素は大きい。 室町時代なんていつ天皇家が絶えてもおかしくなかったわけだし。 でもその後四百年も天皇家は続いたし、今後もどのくらい続くかわからない。 じゃあなんで続くの?続くべくして続いているの?将来の日本のために私たちはどんなことを考えなきゃいけないの? と現代日本人の私たちにもいろいろな問題ができてくる。

とりあえず栗山潜鋒という人は先駆者だ。 彼は国体という言葉を単に「国内外に対する国の体面、体裁」「独立した一個の国としての尊厳」「主権国家としての独立性」というような意味で国体と言った。 単なる「お国柄」というような意味ではない。 栗山は、山鹿素行のような日本中心主義者ではない。 国と国の関係について言えば相対主義者である。 どの国も自分の国が中国である、というただそれだけの主張だ。

『保建大記』では、 国交のあり方、国としての尊厳、それが国体であり、これをきちんと国内外に示す、そうしないと国体を損ねる、栗山はそういうような言い方をしているに過ぎない。

『保建大記』はしかし、儒教では説明できない「日本独自の政体」がなぜ出来たのか、その独自性について初めて突き詰めて論じた書であったから、 「国体」とは自然と「日本独自の、万世一系の天皇中心の政体」という意味に使われるようになった。 そして『保建大記』そのものはあまりにも深く難しい論文だったので、次第に忘れられて国体という言葉だけが勝手に一人歩きし始めたのだ。

もちろん『神皇正統記』の著者北畠親房も、日本だけ王朝の交替や革命というものがなくて天照大神からずっと皇位継承が連綿と続いているのは不思議だ、ということには気付いていた。 最初にそのことを明確に記したのは親房だ。 だが親房は、摂家に代わって武家が台頭してきたが、再び天皇親政の時代が来るのじゃなかろうか、という楽観的観測を持っていた。

栗山潜鋒の時代には、摂家独裁から武家による幕府ができ、再び幕府ができ、三度幕府が出来た。 こうして完全に武家の世の中になったにも関わらず、なぜか皇統というものは太古から連続している。 つまり、国の政治の実権を握るものは(中国の王朝のように)交替していくが、皇統は連綿と続いている。 どうやら中国と日本では異なる原理に王権は基づいているらしい。 ただの偶然も三回も四回も続けば必然になる。 日本の王権は儒教の論理では説明が付かないのではないか。では日本独自の政体論が必要なのではないか。 こうして生まれたのが国体論なのだから、日本以外に国体という言葉があるはずがないのである。

徳川家康は天皇を大事にしようとか日本の君主は天皇だとか、そんなことは別に考えてもいなかっただろう。 死に物狂いで戦っていてたまたま最後まで勝ち抜いて、頼朝や尊氏にならって幕府を開いたというのにすぎない。 何か趣意があって幕府を開いたはずがない。 家康はいきあたりばったりにそれらしい幕府を作り、天皇にそれらしい待遇を与えたのにすぎない。 家康は足利ご一家の吉良家を高家という旗本の身分で残して珍重した。 家康にとって天皇家も高家も似たようなもんだ。

しかし松平定信くらいまでくると、今更ガチンコ勝負で諸侯を押さえつけて、国を治めようなんて考えているはずがない。 もうあんな実力主義の時代はこりごりだと思ってるはずだ。 天皇の権威を利用したほうが、武力を行使するよりずっと有利だ。 ならば利用しようということになる。 最初に国体という趣旨があったはずがない。 国を治めるのに何か趣旨が必要になったから国体ができた。 だから、松平定信は水戸学や宣長の「みよさし論」などを採り入れ、頼山陽にお墨付きを与えて、大政委任論というものを確立したのだ。 江戸時代の国体論というものはつまり大政委任論のことだ。 天照大神から天皇家に委任された国を治める権限を、天皇からさらに征夷大将軍に委任しているという構図。 大政委任論からは大政奉還論も同時に出てくる。 大政委任・大政奉還論というのはつまり中国の易姓革命理論に相当するのだ。

それでまあ、戦前戦中の国体論は、栗山潜鋒や松平定信や本居宣長や頼山陽の役割というのがよくわかってないので、非常に観念的な国体論になってしまっている。

本居宣長が松平定信に与えた影響は知られている以上に大きいはずだ。 国体論は北畠親房-栗山潜鋒-本居宣長-松平定信-頼山陽-水戸斉昭-吉田松陰というようなラインで出来ている。 その中で一番重要で難解なのが栗山潜鋒なのだが、 驚くべきことに栗山はかの『保建大記』をわずか18才で書いたのだ。 そしてわかったつもりでいた『保建大記』を改めて一字一字読んでいくと、実はまだ何もわかってなかったことに気付く。 それでまあ、『保建大記』をどうにかせんといかんと今は一生懸命読んでいるところだ。

栗山潜鋒という人があまり知られていないのは彼が重要でないからではない。 わかりにくいからだ。ほとんど誰も手を付けられないからだ。 頼山陽ですら普通の人は四苦八苦する。頼山陽は多少漢文に親しんだ人にはなんてことはない。 本居宣長だって別に難しいことは何も言ってない。 山崎闇斎だって荻生徂徠だって一通り読んでみたが別に難しいことは何も言ってない。 だが栗山潜鋒はめちゃくちゃ難しい。 いつまでたっても一般人に知られるはずがない。