百済人と冬嗣

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、多くの氏族が桓武に女御を入内させた。同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、桓武天皇から始まる可能性があった。しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、摂家というものを作り出したのではなかろうか。百済人は歴史から姿を消したように見えて、実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、日本の上流社会に生き延びたのである。高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。遍昭も良岑氏なので百済系。源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。彼は仁明天皇に娘種子を、文徳天皇に静子を入内させた。名虎は紀氏中興の祖であったが、結局冬嗣・良房親子に負けた。名虎の子・有常は急速に没落していき、貫之や友則の時代の紀氏は、藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

十一日の月

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。 目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。
十六日の月は「いざよひ」、
十七日の月は「たちまち」、
十八日の月は「ゐまち」、
十九日の月は「ねまち」、
二十日の月は「ふけまち」、
つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。 月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。 『伊勢物語』82段「渚の院」

・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。
飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ
親王にかはり奉りて、紀有常、
おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、 夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、 もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

又あふ坂の 関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

かくいひやりたりければ、

これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

よろこびにたへで、又、

秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。

皇室典範草庵談話要録

10月10日の産経新聞の記事に、明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。例えば岩倉具視の意見とは思えない。武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。西郷隆盛は朝敵そのものであった。実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、京都を奪い返し、北朝を建てたのである。この頃京都は東京に対して西京といったが、東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、皇統が分裂していた可能性は高いのである。その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、明治政府としてはたいへん困ることになる。明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。

宣長が養子縁組みして離縁した件

神社は氏子、寺は檀家という。しかし伊勢神宮では檀家という。この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。 『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。 寺は一つの村や町に複数あることがあって、 徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。 いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、 神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。 神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。 神主や氏子はそんなこと普通しない。
神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。 はたしてそうなのか。 明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。 冠婚葬祭ができない。これは困る。 その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。 明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。 今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、 宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。 漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、 和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。 まだ契沖には出会っていない。 和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。 和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。 それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。 しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。 和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、 そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、 山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。 墓を二つ作った。 それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。 神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。


追記。思うに宣長は神道も好きだったが仏教も好きだった。だから神宮寺の檀家になるのが一番好都合だと思ったのかもしれない。若き日の宣長にとっては神仏習合の吉田神道や神宮寺のようなものが理想だった。しかしだんだんに知識が増えるにつれて、やはり神道と仏教は別物であり、というよりある一定の区別、けじめが必要であり、ついに神宮寺の檀家となり御師となることにジレンマを感じるようになってしまったのかもしれない。

摂政

日本では、摂政というのはずっと天皇の外戚のことだった。具体的には藤原氏のことだった。昭和天皇が即位する前に摂政宮となったのは例外であった。

藤原氏が摂政である場合、藤原氏は天皇家の祭祀まではやらない。藤原氏には藤原氏の氏長者がいて、藤原氏の祭祀があるからだ。

天皇家の祭祀は天皇の専権事項であり続けた。皇太子や上皇が行うことはあり得ない。大正期の摂政宮がどうであったか。詳しくは知らないが、天皇以外が天皇家の祭祀を行うことはちょっと考えにくい。それはいかなる法律にも、憲法にも書き得ない、天皇家の家訓に関わることであって、国民とか、日本という国家が変更のしようがない。介入のしようがない。昔ならば天皇が譲位して上皇になればよかったがそれは現在認められてない。明言はまったくされてないが、

「天皇の高齢化に伴」い「行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」

とか

摂政を置いても「生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」

とはこのことだろうと思う。天皇が必ずやらなくてはならないこと、摂政に任せられないことは、他には考えにくい。国事行為ならば、摂政や大臣が代行できる。問題はそれ以外の部分なのだ。

摂政が全部代行すれば良い、と言っても、外戚の藤原氏が摂政だったという長い長い伝統があるし、天皇家の内規では天皇しかできないことがあるのだ。結局伝統に則るためには明治政府が作った皇室典範は邪魔になるのである。

今上天皇としては、フィリピンを訪問したことによって、為すべきことはすべてなし終えたと思ったのに違いない。長い、戦後の贖罪の旅だった。譲位の意向というのはその区切りを付けたことによると思う。

天皇と上皇がいる状態というのは、もともと珍しくはなかったのだが、政治的にはあまりよろしい状態ではない。天皇と上皇は政治的には対等だったという、これも長い長い伝統があるからだ。天皇が上皇になっても上皇の権力は天皇の時とまったくそのまま、或いはさらに権威づけられて存続するし、上皇が再び天皇に即位することだってあったわけだし、上皇もまた国事行為を行ってもよいと解釈することは可能だし、上皇もまた日本国の象徴だと見なすことすら可能だし、とにかくいろいろややこしいことが発生する。だから明治の元勲たちは、天皇は譲位できず、その代わり摂政が天皇の国事行為のすべてを代行し得るというやり方を決めたのだったが、国事行為ではない天皇家の身内の宗教的行事までは縛りようがない。そこを修正しようと思うと、皇室典範だけではなく、憲法も、天皇のあり方も、全部一度見直さなきゃならなくなる。

譲位を認めると、天皇を強制的に退位させられるようになるからダメだという意見もあるようだが、これは、現代ではあまり関係ないのではないか。

新撰和歌2

「新撰和歌」みてるとけっこうわけのわからない歌とか、あまり面白くない歌も含まれている。 わけのわからない歌を「古今集」などで確かめてみると、 貫之本人のせいか途中で写した人のせいかは知らないが、間違っているものも多い。

「古今集」に比べれば「新撰和歌」のほうが雑な印象だが、 そりゃまあ、「古今集」はいろんな人がきちんと校正した結果が今日に残っているわけだから、 それにくらべて貫之の私撰集のほうにあらがあるのは仕方がないのかもしれない。

で、「本朝文粋」が藤原明衡によって後冷泉天皇の時代に成立していたのは間違いないことだし、 その中に紀淑望による「古今和歌序」が当初から収められていたのもうたがいようがない。 でおそらくこれはもともと「序」として書かれたのではなくて、後で「本朝文粋」の「序」の章にまとめられたのであろうということがうかがえる。 そして「序」は「詩序」と「和歌序」に分かれており、 「詩序」には一から四がある。
和歌序は

* 古今
* 新撰
* 奉賀村上天皇四十御筭
* 中宮御產百日
* 女一宮御著袴翌日宴
* 左丞相花亭遊宴
* 賀玄宗法師八十之齡
* 讚法華經廿八品
* 春日野遊
* 泛大井河各言所懷
* 泛大井河詠紅葉芦花

となっており、みな漢文である。 歌合の序はもともと仮名で書かれたものもあって、仮名序というものがもともとなかったわけではない。

古今仮名序の初出は「元永本古今和歌集」であり、白河院の頃に源俊頼が作ったと考えてよい。 そしてこの仮名序も、おそらくは俊頼が真名序を適当に和訳したものだ。 俊頼は確かに和歌は優れているが「俊頼髄脳」などみると歌論はさんざんであって、「古今仮名序」の支離滅裂な文章と良く似ている。

それにくらべて古今の真名序は内容はともかくとして、簡潔で理路整然としている。 おかしなことをくどくど書いたり、脱線したりしてない。 貫之の新撰和歌序にしても、まあ内容や簡潔さというものはともかくとして、まっとうな文章であって、俊頼髄脳や古今仮名序のような悪文ではない。 そもそも貫之は「土佐日記」のような見事な名文を書けるひとなわけだから、 それほどの人が「古今仮名序」のような頭のおかしい文章を書くはずがない。

それで私としてはますます古今集仮名序は源俊頼がでっちあげたものであろうという確信を深めた。 古今集仮名序を、貫之が書いた、仮名文の歌論の先駆などとして持ち上げるのは大問題だ。私としてはさらにすすめて、「竹取物語」や「伊勢物語」も貫之が書いたことを立証したいが、こちらはまだ手つかずだ。

だが文体を「土佐日記」と比較すれば良いだけだから、貫之著かどうかを突き止めること自体は(要する手間ひまはともかくとして)それほど難しくはないだろう。

それでまあ、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、

内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
素性
かすが野に わかなつみつつ よろづ代を いはふ心を 神ぞしるらむ

内侍のかみ、つまり内侍の長官の尚侍は、ここでは藤原満子のこと、その兄の藤原定国が右大将でその四十の賀、という意味。 つまり、新春に若菜を摘んで献上するというのは主君の長寿を祈念する祝賀行事であった。 ここでは素性が藤原定国を祝っている。 単に春の七草を食べれば寿命が延びると信じられていただけではない。 ということは、

仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた
君がため 春の野に出でて わかなつむ わが衣手に 雪はふりつつ

これは、光孝天皇が即位する前、時康親王であったときに、父の仁明天皇か兄の文徳天皇に奉った歌ではなかったか。 年下の清和天皇、陽成天皇にささげた歌である可能性は低いだろう。

また、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、『後撰集』読み人知らず

ふる雪は 消えてもしばし とまらなむ 花ももみぢも 枝になきころ

定家はこれを本歌取りして

みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

を詠んだのは間違いなかろう。 もちろん「秋の夕暮れ」は清少納言「枕草子」の影響だし、 『源氏物語』第十三帖「明石」

いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、

の影響も受けているのである。 ただ単に禅的ダダイズムの歌ではなくて、どちらかといえば平安王朝の雰囲気をコラージュした作品であったと言うことができよう。

新撰和歌 巻第四 恋・雑 荓百六十首 (2/2)

> 281 おもふどち まとゐせるよの からにしき たたまくをしき ものにざりける

> 282 人はいさ 我はなき名の をしければ むかしもいまも しらずとをいはむ

> 283 わが身から うき名のかはと ながれつつ 人のためさへ かなしかるらむ

> 284 あまぐもの よそにも人の なりゆくか さすがにめには 見ゆるものから

異本歌、いづくにか世をばいとはむ世中に老をいとはぬ人しなければ

> 285 いづくにか 世をばいとはむ 心こそ 野にも山にも まどふべらなれ

> 286 月夜には こぬ人またる かきくもり あめもふらなむ わびつつもねむ

> 287 おそくいづる 月にもあるかな 足引の 山のあなたも をしむべらなり

> 288 露だにも なからましかば 秋の夜を たれとおきゐて 人をまたまし

> 289 ながれても なほ世の中を みよしのの 滝の白玉 いかでひろはむ

> 290 いまはとて かれなむ人を いかがせむ あかずちりぬる 花とこそ見め

> 291 ひかりなき たにには春も よそなれば さきてとくちる もの思ひもなし

> 292 色見えで うつろふ物は 世のなかの 人の心の 花にぞ有りける

> 293 あまのすむ さとのしるべに あらなくに うら見むとのみ 人のいふらむ

> 294 いろもなき 心を人に そめしかば うつろはむとは おもはざりしを

> 295 ふる里は みしごともあらず をののえの くちしところぞ こひしかりける

> 296 ありそ海の はまのまさごと たのめしは わするることの かずにぞ有りける

> 297 すみよしの きしのひめ松 ひとならば いく代かへしと とはましものを

> 298 ゆきかへり ちどりなくなり はまゆふの 心へだてて おもふものかは

> 299 すみよしと あまはいふとも ながゐすな 人わすれぐさ おふといふなり

> 300 おもひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを

> 301 もののふの やそうぢ川の あじろぎに ただよふなみの ゆくへしらずも

> 302 わすらるる 身を宇治ばしの 中たえて こなたかなたに 人もかよはず

> 303 いまぞしる くるしきものと 人またむ さとをばかれず とふべかりけり

> 304 わすれ草 なにをかたねと おもひしを つれなき人の 心なりけり

> 305 おほあらきの もりのしたくさ おいぬれば こまもすさめず かる人もなし

> 306 あきの田の いねといふとも かけなくに ををしとなどか 人のいふらむ

> 307 うつせみの よにしもすまじ 霞たつ みやまのかげに 夜はつくしてむ

> 308 いそのかみ ふる野の道も こひしきを しみづくみには まづもかへらむ

> 309 神無月 しぐれふりおける ならのはの なにおふみやの ふることぞこれ

> 310 またばなほ よりつかねども 玉のをの たえてたえては くるしかりけり

> 311 ながれくる たきのしら玉 よわからし ぬけどみだれて おつる白玉

> 312 世の中に たえていつはり なかりせば たのみぬべくも 見ゆるたまづさ

> 313 たがために ひきてさらせる いとなれば 夜をへてみれど しる人もなき

> 314 いまさらに とふべき人も おもほえず やへむぐらして かどさせりいはむ

> 315 わくらばに とふ人あらば すまのうらに もしほたれつつ わぶとこたへよ

> 316 我が宿は みわのやまもと 恋しくは とぶらひきませ すぎたてるかど

> 317 うれしきを なににつつまむ から衣 たもとゆたかに たたましものを

> 318 秋くれば 野にも山にも ひとくだつ たつとぬるとや 人の恋しき

> 319 わがせこめ きませりけりな うくやどの 草もなびけり 露もおちたり

> 320 おくしもに ねさへかれにし 玉かづら いつくらむとか われはたのまむ

> 321 山のはに いさよふ月を とどめおきて いくよみばかは あく時のあらむ

> 322 我がやどの 一むらすすき かりかはむ きみがてなれの こまもこぬかな

> 323 あさなけに 世のうきことを しのぶとて ながめしままに としをへにける

> 324 あはれてふ ことにしるしは なけれども いはではえこそ あらぬものなれ

> 325 世の中は うけくにあきの おく山の この葉にふれる 雪やけなまし

> 326 あさぢふの をののしのはら しのぶとも 人しるらめや いふひとなしに

> 327 やまびこの おとづれじとぞ 今は思ふ われかひとかと たどらるる世に

> 328 わびはつる ときさへものの かなしきは いづれをしのぶ 心なるらむ

> 329 みはすてつ こころをだにも はふらさじ つひにはいかが なるとしるべく

> 330 伊勢のうみの あまのたくなは うちはへて くるしとのみや おもひわたらむ

> 331 かくしつつ よをやつくさむ 高砂の をのへにたてる まつならなくに

> 332 おもふとも こふともあはむ ものなれや ゆふてもたゆく とくるしたひも

> 333 あはれてふ ことのはごとに おく露は むかしをこふる なみだなりけり

> 334 思ひやる こころやゆきて 人しれず きみがしたひも ときわたるらむ

> 335 ありはてぬ いのちまつまの ほどばかり うきことしげく おもはずもがな

> 336 あひ見ぬも うきもわが身の から衣 思ひしらずも とくるひもかな

> 337 われしなば なげけまつ虫 うつ蝉の 世にへしときの ともとしのばむ

> 338 おもひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしきものを

> 339 わすられむ ときしのべとぞ 浜ち鳥 ゆくへもしらぬ あとをとどむる

> 340 みちしらば つみにもゆかむ すみの江の きしにおふといふ 恋わすれ草

> 341 ほのぼのと あかしのうらの 朝ぎりに 島がくれゆく 船をしぞ思ふ

> 342 いはのうへに たてる小松の 名ををしみ ことにはいはず こひこそわたれ

> 343 あふさかの あらしのかぜの さむければ ゆくへもしらず わびつつぞゆく

> 344 あはれてふ ことこそうけれ 世の中に おもひはなれぬ ほだしなりけり

> 345 足引の 山のあなたに いへもがな 世のうきときの かくれがにせむ

> 346 こひこひて まくらさだめむ かたもなし いかにねし夜か 夢にみえけむ

> 347 みやこ人 いかがととはば やまたかみ はれぬ思ひに わぶとこたへよ

> 348 つつめども 袖にたまらぬ 白玉は 人を見ぬ目の なみだなりけり

> 349 ぬしやたれ とへどしら玉 いはなくに さらばなべてや あはれとおもはむ

> 350 こひしきも こころよりある ことなれば われよりほかに つらき人なし

> 351 あまのかる もにすむ虫の われからと ねをこそなかめ よをばうらみじ

> 352 ちはやぶる かものやしろの ゆふだすき ととひもきみを かけぬひぞなき

> 353 いまこそあれ われもむかしは をとこ山 さかゆくときも ありこしものを

> 354 ひさしくも なりにけるかな 住の江の 松はちとせの ものにぞ有りける

> 355 かぜのうへに ありかさだめぬ ちりのみは ゆくへもしらず なりぬべらなり

> 356 こひせじと みたらし川に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな

> 357 若菜つむ かすがの野べは なになれや 吉のの山に まだゆきのふる

> 358 みわの山 いかにまちみむ としふとも たづぬる人も あらじと思へば

> 359 いく代へし いそべの松ぞ むかしより 立ちよるなみや かずをしるらむ

> 360 しら玉か なにぞと人の とひしより 露とこたへて きえなましものを

> 361 ながれては いもせのやまの なかにおつる よし野の滝の よしや世の中

紀淑望

古今251 「秋の歌合しける時によめる」または新撰和歌12。

紅葉せぬ ときはの山は ふくかぜの おとにや秋を ききわたるらむ

和漢朗詠集巻頭。

逐吹潛開、不待芳菲之候。
迎春乍変、将希雨露之恩。
内宴進花賦

五言でも七言でもない。なんだこれは。

吹かぜを逐おひて潛かに開く、芳菲の候を待たず。
春を迎へて乍たちまちに変ず、まさに雨露の恩を希はむとす。

芳菲は草花の香り。

新古今1866「猿田彦」

ひさかたの あめのやへぐも ふりわけて くだりし君を われぞむかへし

これも謎の歌だな。

これで紀淑望の知られている歌や詩は全部かな?

古今集真名序

夫和歌者、託其根於心地、發其華於詞林者也。
人之在世、不能無為、思慮易遷、哀樂相變。感生於志、詠形於言。是以逸者其聲樂、怨者其吟悲。可以述懷、可以發憤。
動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌。
和歌有六義。一曰「風」、二曰「賦」、三曰「比」、四曰「興」、五曰「雅」、六曰「頌」。
若夫春鶯之囀花中、秋蟬之吟樹上、雖無曲折、各發歌謠。物皆有之、自然之理也。
然而神世七代、時質人淳、情欲無分、和歌未作。
逮于素戔烏尊、到出雲國、始有三十一字之詠。今反歌之作也。其後雖天神之孫、海童之女、莫不以和歌通情者。
爰及人代、此風大興、長歌短歌旋頭混本之類、雜體非一、源流漸繁。譬猶擴雲之樹、生自寸苗之煙、浮天之波、起於一滴之露。
至如難波津之什獻天皇、富緒川之篇報太子、或事關神異、或興入幽玄。但見上古歌、多存古質之語、未為耳目之翫、徒為教戒之端。
古天子、每良辰美景、詔侍臣預宴莚者獻和歌。君臣之情、由斯可見、賢愚之性、於是相分。所以隨民之欲、擇士之才也。
自大津皇子之初作詩賦、詞人才子慕風繼塵、移彼漢家之字、化我日域之俗。民業一改、和歌漸衰。
然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、獨步古今之間。有山部赤人者、並和歌仙也。其餘業和歌者、綿綿不絕。
及彼時變澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艷流泉涌、其實皆落、其華孤榮、
至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀。故半為婦人之右、難進大夫之前。
近代、在古風者、纔二三人。然長短不同、論以可辨。
華山僧正、尤得歌體。然其詞華而少實。如圖畫好女、徒動人情。
在原中將之歌、其情有餘、其詞不足。如萎花雖少彩色、而有薰香。
文琳巧詠物。然其體近俗。如賈人之著鮮衣。
宇治山僧喜撰、其詞華麗、而首尾停滯。如望秋月遇曉雲。
小野小町之歌、古衣通姬之流也。然艷而無氣力。如病婦之著花粉。
大友黑主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而體甚鄙。如田夫之息花前也。
此外、氏姓流聞者、不可勝數。其大底皆以艷為基、不知和歌之趣者也。
俗人爭事榮利、不用詠和歌。悲哉悲哉。雖貴兼相將、富餘金錢、而骨未腐於土中、名先滅世上。
適為後世被知者、唯和歌之人而已。何者、語近人耳、義慣神明也。
昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾來、時歷十代、數過百年。
其後、和歌棄不被採。雖風流如野宰相、輕情如在納言、而皆以他才聞、不以斯道顯。
陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、惠茂筑波山之陰。淵變為瀨之聲、寂寂閉口、砂長為巖之頌、洋洋滿耳。思繼既絕之風、欲興久廢之道。
爰詔大內記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河內躬恒、右衛門府生壬生忠岑等、
各獻家集并古來舊歌、曰「續万葉集」。於是重有詔、部類所奉之歌、敕為二十卷、名曰「古今和歌集」。
臣等、詞少春花之艷、名竊秋夜之長。況哉、進恐時俗之嘲、退慚才藝之拙。適遇和歌之中興、以樂吾道之再昌。
嗟乎、人丸既沒、和歌不在斯哉。
于時、延喜五年歲次乙丑 四月十五日、臣貫之等 謹序。

新撰和歌 巻第四 恋・雑 荓百六十首 (1/2)

> 202 しのぶれば くるしきものを 人しれず 思ふてふこと たれにかたらむ

古今519。題知らず、読み人知らず。

> 203 人しれず おもふこころは 春がすみ たちいでてきみが めにも見えなむ

古今999 「寛平御時歌たてまつりけるついてにたてまつりける」
藤原勝臣

> 204 久かたの あまつそらにも あらなくに 人はよそにぞ おもふべらなる

古今751。題しらず、在原元方。「あらなくに」→「すまなくに」

> 205 たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに

古今909。題しらず、藤原興風

> 206 おとにのみ きくのしらつゆ 夜はおきて ひるはおもひに けぬべきものを

古今470。題しらず、素性、「けぬべきものを」→「あへずけぬべし」

> 207 わがうへに つゆぞおくなる あまのがは とわたるふねの かいのしづくに

古今863。題しらず、読み人しらず。「かいのしづくに」→「かいのしづくか」

> 208 よし野がは いはなみたかく 行くみづの はやくぞ人を おもひそめてし

古今471。題知らず、貫之。

> 209 世のなかに ふりぬるものは 津のくにの ながらのはしと 我となりけり

古今890。題知らず、読み人知らず。

> 210 足引の 山したみづの うづもれて たぎつこころを せきぞかねつる

古今491。題知らず、読み人知らず。

> 211 ぬきみだす 人こそあるらし したひもの またくもあるか そでのせばきに

古今923。「布引の滝の本にて人人あつまりて歌よみける時によめる」業平。
「ぬきみだす」→「ぬきみだる」、「したひもの」→「しらたまの」、「またくもあるか」→「まなくもちるか」。
古今和歌六帖1711、「またくもあるか」→「まなくもふるか」、または3192「ぬきみだす」→「ぬきとむる」。
業平集59、古今と同じ。
伊勢物語87、「・・・そこなる人にみな滝の歌よます。かの衛府の督まづよむ。わが世をばけふかあすかと待つかひのなみだの滝といづれ高けむ。あるじ次によむ。ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに、とよめりければ、かたへの人笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。」

> 212 ほととぎす なくやさ月の あやめぐさ あやめもしらぬ こひもするかな

古今469。題知らず、読み人知らず。

> 213 たがみそぎ ゆふつけ鳥か から衣 たつたのやまに おりはへてなく

古今995。題知らず、読み人知らず。

> 214 津の国の むろのはやわせ ひてずとも つなをばやはく ものとしるべく

古今和歌六帖2606「きのくにの むろのはやわせ いでずとも しめをばはへよ もるとしるがね」

わかりにくい。「ひでず」は「ひいでず(秀で、穂出の転)」、早稲田に穂が出る前にしめ縄を張ってしまおう、見張っているとわかるように、の意味か。

> 215 なにはがた しほみちくれば あまごろも たみののしまに たづなきわたる

古今913。題知らず、読み人知らず。「しほみちくれば」→「しほみちくらし」。

「雨衣」は「田蓑」にかかる。田蓑の島は淀川河口付近にあった島。

赤人「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして たづ鳴き渡る」の変形か?

> 216 夕されば くものはたてに 物ぞ思ふ あまつそらなる 人をこふとて

古今484。題知らず、読み人知らず。

> 217 あまつ風 雲のかよひぢ ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ

> 218 たちかへり あはれとぞ思ふ よそにても 人にこころを おきつ白波

> 219 こきちらし たきのしら玉 ひろひおきて 世のうきときの なみだにぞかる

> 220 川の瀬に なびくたまもの みがくれて 人にしられぬ こひもするかな

> 221 いくばくも あらじうき身を なぞもかく あまのかるもに おもひみだるる

> 222 すみの江の なみにはあらねど よとともに こころをきみが よせわたるかな

> 223 わたのはら よせくるなみの たちかへり 見まくもほしき たまつしまかな

> 224 あさきせぞ なみはたつらむ よしの河 ふかきこころを 君はしらずや

> 225 わたつうみの かざしにさせる しろたへの なみもてゆへる あはぢしまかな

> 226 こころがへ するものにもが かたこひは くるしきものと 人にしらせむ

> 227 みな人は こころごころに あるものを おしひたすらに ぬるるそでかな

> 228 みちのくの あさかのぬまの はなかつみ かつ見る人を こひやわたらむ

> 229 かつ見れど うとましきかな 月かげの いたらぬさとの あらじと思へば

> 230 我が恋は むなしきとこに みちぬらし おもひやれども ゆくかたもなし

> 231 ふたつなき ものとおもひしを みなそこに やまのはならで いづる月かげ

> 232 なぬかゆく はまのまさごと わが恋と いづれまされり おきつしら波

> 233 われ見ても ひさしくなりぬ すみよしの きしの姫松 いくよへぬらむ

> 234 わたつうみの そこのこころは しらねども 人を見るめは からむとぞ思ふ

> 235 おもひきや ひなのわかれに おとろへて あまのはまゆふ いさりせむとは

> 236 つれなきを いまはこひじと おもへども こころよわくも おつるなみだか

> 237 世の中の うきもつらきも つげなくに まづしるものは なみだなりけり

> 238 わがこひを しのびかねては あしひきの 山たちばなの いろに出でぬべし

> 239 いろなしと 人や見るらむ むかしより ふかきこころに そめてしものを

> 240 おきもせず ねもせで夜を あかしては はるのものとて ながめくらしつ

> 241 なよたけの よのうきうへに 初しもの おきゐてものを おもふころかな

> 242 あはれてふ ことだになくは なにをかも こひのみだれの つかねをにせむ

> 243 世の中は むかしよりやは うかりけむ わが身ひとつの ためになれるか

> 244 わがこひは 人しるらめや しきたへの まくらばかりぞ しらばしるらむ

> 245 たまぼこの みちにはつねに まどはなむ 人をとふとも われとおもはむ

> 246 こひしきに いのちをかふる ものならば しにはやすくぞ あるべかりける

> 247 わびぬれば 身をうきくさの ねをたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ

> 248 こむ夜にも はやなりぬらむ めのまへに つれなき人を むかしとおもはむ

> 249 しかりとて そむかれなくに 今年あれば まづなげかるる あはれ世の中

> 250 あしがもの さわぐいりえの しらなみの しらずや人を かくこひむとは

> 251 わたつうみの おきつしほあひに うかぶあわの きえぬものから よるかたもなし

> 252 そこひなき ふちやはさわぐ 山川の あさきせにこそ うはなみはたて

> 253 山ざとは ものさびしかる ことこそあれ 世のうきよりは すみよかりけり

『和漢朗詠集』にも出る。古今944 山里は物の憀慄(わびし)き事こそあれ世のうきよりはすみよかりけり。

> 254 木のまより かげのみ見ゆる 月くさの うつし心は そめてしものを

> 255 かりのくる みねのあさ霧 はれずのみ 思ひつきせぬ 世のなかのうさ

> 256 ゆふされば やどにふすぶる かやり火の いつまでわが身 したもえにせむ

> 257 わがこころ なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て

> 258 君といへば 見まれまずまれ ふじのねの めづらしげなく もゆる我がこひ

> 259 風ふけば おきつしら波 たつた山 夜半にや君が ひとりゆくらむ

> 260 あやなくて またなきなみの たつた川 わたらでやまむ ものならなくに

> 261 あまの川 雲のみをにて はやければ ひかりとどめず 月ぞながるる

> 262 つなでひく ひびきのなだの なのりその なのりそめても あはでやまめや

> 263 みやこにて ひびききこゆる からことは なみのをすげて かぜぞひきける

> 264 逢ふことの なぎさにしきる なみなれば うらみてのみぞ 立ちかへりける

> 265 あかずして 月のかくるる やま里は あなたおもてぞ こひしかりける

> 266 人しれぬ おもひのみこそ わびしけれ わがなげきをば われのみぞしる

> 267 あかなくに まだきも月の かくるるか 山のはにげて いれずもあらなむ

> 268 いそのかみ ふるともあめに さはらめや あはむといもに いひてしものを

> 269 おもふより いかにせよとか あきかぜに なびくあさぢの いろことになる

> 270 あなこひし いまも見てしか 山がつの かきほにおふる やまとなでしこ

> 271 あれにけり あはれいくよの やどなれや すみけむ人の おとづれもせず

> 272 むらどりの たちにしわが名 今さらに ことなしぶとも しるしあらめや

> 273 あしたづの たてる河辺を ふくかぜに よせてかへらぬ なみかとぞ見る

> 274 人しれず やみなましかば わびつつも なき名ぞとだに いはましものを

> 275 いにしへの 野なかのしみづ ぬるければ もとのこころを しる人ぞくむ

> 276 人しれず ものをおもへば 秋の田の いなばのそよと いふ人もなし

> 277 なにはがた おのがたもとを かりそめの あまとぞわれは なりぬべらなる

> 278 それをだに おもふこととて 我が宿を 見きとないひそ 人のきかくに

> 279 ここにして わがよはへなむ すがはらや ふしみの里の あれまくもをし

> 280 しほみてば いりぬるいその くさなれや 見る日すくなく こふらくおほし