詩三百篇 思無邪

景山先生『不尽言』に曰く、天照大神は女体と言ふ事なれども、呉の太伯なるべしと言へる事、さもあるべき事とも思はるるなり。その上に、太伯は元、殷の世の人なれば、殷の世の人は鬼神を尚ぶ風俗なるゆゑ、殷の余風が残りて、日本には髪を尚ぶ事と見えたり。又、呉の字を付けて称する事多く、呉竹、呉服の類ひなど、かたがた符合する事もあるなり。然れどもかく言へる事を、神道者などは、これは儒者の唐贔屓から言ひ出だしたる附会の説とて甚だ嫌ふ事なり。神道者は、只、日本は神国なりとて、神と言ふものを奇怪幻妖なるもののやうに人に思はせ、日本には別に日本の道ありとて、吾が道を神妙不測にせうと拵へたるものなり。神道とて別あるべき事ならず。

しかしながら、神は即ちいにしへの聖神なれば、いかさま天照大神の聖徳、数千年の季まで人心に薫染して得去らぬと言ふは、神妙不測の事なるによって、神国と言はんもことわりと覚ゆるなれば、かの武国と言はんよりは一理ある事なり。

和歌と言ふものも、本は詩と同じ物にて、紀貫之、『古今集』の序に、「人の心を種として万の言の葉となれりけり」と言ひ、「見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる」と言へれば、詩の本意と符号せるものなり。此の万の字、面白し。人情は善悪曲直、千端万緒なるものなれば、人の心の種の内に発生の気の鬱したるが、見るもの聞くものに触れて、案配工夫無しに、思はず知らず、フッと言ひ出せる詞に、すぐにその色を表すものなり。草木の種と言ふもの、内に生えむと思ひ工夫して生ずる物ではあるまじ。発生の気が内に鬱して、自然にズッっと生え出づるものなり。しかれば、其の詞を見るによって、世上人情の酸いも甘いも良く知らるる事なり。されども、人の大事に臨み、自ら警めたしなみ、案配工夫して、心の内にてその善悪を調べ、吟味して詞に発する事は、皆それは作り拵へたるものなれば、中々人の実情は知れぬ事もあるなり。それゆゑに、箪食豆羹などに心の色を表すと言ひて、人の心を許し、うっかりと思はず知らずにふと言ひ出だしたる詞にて、人の実情は良く見ゆるものなり。

俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。

詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。

本居宣長の功績

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。

歌詠みの死滅

和歌を詠み始めの頃は、やまとことばだけで、五七五七七に詠むのがとても難しいと感じる。 だけどその習慣を10年、20年と続けていくうちに、自然に歌が詠めるようになる。

今私はシラフのときにはほとんど歌を詠まないが、なぜか酒に酔って知性や理性というブレーキが利かなくなると歌を詠む人になってしまった。 そして詠んだ歌を忘れて翌朝、ツイッターか何かに書き込んだのをみて、 こんな歌自分で詠んだんだなと驚く。

私たちは考えてしゃべるのではない。 歌もそうだと思う。 自然に詠めるまで訓練することが大事なのだ。 そこまでいけば歌など勝手に詠めるのだ。 昔のうまい歌詠みたちもみんなそうだった。 うまい歌を詠もうと思って詠むのではない。 歌というものはほとんど無意識に詠まなくては良い歌にはならない。 良い歌を詠もうと巧んではならない。 そんな歌はたいてい出来損ないだ。

もちろん酔っ払って下手な歌を詠むこともある。 あとからみて陳腐だなあと思うことも多い。 しかしシラフのときには決して詠めない、詠まないような歌を詠んでいて我ながら驚くこともある。

そして、いろんな人たちのブログやSNSなど見てて、 やまとことばだけで、五七五七七に、きちんとした和歌を詠んでいる人が、 私以外にはもはや一人もいないのではないかという気がしてならない。 まだきちんと平仄あわせした七言絶句などの漢詩を作る人のほうが多いように思う。

きちんと和歌を詠む人、桂園派の生き残りは柳田国男くらいまでだった。 今の人たちは昔の人たちのように和歌を詠むことなんてできないとはなから諦めている。 佐佐木信綱あたりがそう決めてしまった。 佐佐木信綱ですら詠めないのだから私たちも詠めるはずがないと思い込んでしまった。 諦めるから詠めないのだ。 一つの伝統が尽きようとしている。死に絶えようしている。 このままではほんとうに日本人は和歌を詠めなくなってしまう。 実に恐ろしい。

陸奥宗光とその時代

岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』を読んでいるのだが、 昔読んだときは、ただそのまま感心して読んだのだが、今読んでみるとアラの多いのに気付く。

陸奥宗光の父・伊達宗広は和歌を良く詠んだのだが、 今あらためてみてみると、岡崎久彦が「絶賛」するほどすごいわけでもない。 当時の紀州藩は和歌山から南紀、伊勢、松坂までぐるりと、内陸の大和地方を取り巻いて、紀伊半島の東、南、西を知行地としていた。 本居宣長は従って松坂紀州藩支配の学者であるから、紀州徳川家に召し抱えられて、 のちには養子の本居大平が宣長の代わりに紀州藩に仕え、大平が宗広に和歌を教えたのである。
この本居宣長から出た歌道はそのまま明治の桂園派の一支流となった。 桂園派はもちろん香川景樹を祖とするが、これが宮中御歌所で本居派の歌道や後水尾院以来の堂上和歌と混淆して、明治の桂園派をなしたのである。 そうした流れで見てみると、宗広の和歌はごくふつうの桂園派の範疇にあるといわねばならず、 また典型的な江戸後期の地下の和歌であり、上田秋成もそうであったように、当時の民間歌謡である都々逸や常磐津などの影響を濃く受けている。 ということを歌人でもなく、また江戸・明治期の桂園派に詳しくない岡崎久彦が考察できるはずもなかろうと思う。

江戸時代の日本には古学派というものができた。これは江戸時代という、学問が高度に進んだ社会における独特な現象である。何世紀もの間、朱子学が正統学として確立し、他の学説などは邪説としてほとんど存在しなくなっていた東洋社会に新説が生まれたのである。二百年間の徳川は平和で社会が安定していたので、正統派以外の説が出ても政治体制がビクともしない余裕があり、それだけの言論の自由があったということができよう。

新説と言っても奇抜なアイデアということでなく、孔子、孟子の思想を原典に遡って日本人特有の徹底した真面目さで学んでいるうちに自然と出て来たのである。

などと書いている。 まるで、江戸時代の日本でいきなり古学が生まれて、それを荻生徂徠が発明したような書き方をしている。これは非常に問題がある。

江戸時代の日本の儒学者は当然のことながら、明末清初の学者の影響をうけた。 朱子学以外の儒学がなかったはずがない。当時の黄宗羲や顧炎武は考証学を先駆し、朱子学の理念に囚われない史学的、考証学的考察を行った。 また朱子学に対して陽明学があった。 陽明学を直接輸入したのは中江藤樹で、これを展開したのが熊沢蕃山だった。 江戸時代の日本に陽明学が深く浸透していたことは大塩平八郎の名をあげるまでもなかろう。 朱子学を正統とする林羅山らの官学に対して、在野では古学、考証学、陽明学が流行して、これが、もっぱら論語と孟子を読めという伊藤仁斎の古義学となり、荻生徂徠の古文辞学となり、れが堀景山を経て本居宣長に伝わり、大平に伝わり、伊達宗広に伝わったのだ。そう書かなくてはおかしい。
もちろん「日本人特有の徹底した真面目さ」というものを伊藤仁斎がもっていたのは確かだろうが、彼がいきなり古典を直接読めなどと提唱したはずがない。

咲けば花 散れば塵とぞ はらひける あはれ桜も 人の世の中

この、いかにも江戸期の花柳界で口ずさまれたような句をつづっててできた歌は、直接的には香川景樹の影響によるものに違いない。

岡崎久彦がいきなり、古学は日本独自に荻生徂徠が発明した、なんて珍説を唱えるはずがないから、岡崎は誰かの説を生かじりしたのだろう。 江戸時代の雰囲気を紹介したつもりで全然できてない。 岡崎という人は面白い文章を書くけど講談めいている、 彼の祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟だというのだから、 どうもそこらあたりの内輪褒めの話が中心になっているようだ。 用心して読まなくてはならないと思う。

和歌の道は花鳥風月から入るべし

根岸に住む人に歌を見てくれと言われて見た。

春の朝 うぐひすの声は 聞かねども 根岸の里は のどかなりけり

人の歌を添削するというのは難しいものだ。 私なら、

うぐひすの はつねはいまだ 聞かねども 根岸の里に 春はきにけり

とでも詠むだろうか。 特段良くなったわけではないが、古語を使い、古典の言い回しを使えばこうなると思う。

「根岸の里」というのが、和歌というよりは俳句であまりに有名なフレーズで、 逆に扱いに困るのだが、 実際根岸に住んでいるというのだからしかたない。

上野山 鳥はなけども うぐひすの 声はいまだに とどかざりけり

わかる。でも私なら「とり」はたとえばだが「ももちどり」、 「鳴く」は「すだく」として、

ももちどり うへのの山に すだけども いまだまじらぬ うぐひすのこゑ

とでもするだろうか。まあ、そもそもこういう歌をいまさら私は詠まないと思うのだが。

花鳥風月から和歌の道に入ろうというのは今時の人には珍しい。 今はいきなり口語で短歌を詠むでしょう。 いきなり時事問題を扱ったり。 恋人と逢った別れたと。 あれは私は好きではない。 俵万智だっていきなり口語で詠んだとは思えないのよね。 でも彼女の追随者たちはみな、古典をすっとばしていきなり短歌を詠んだ。

でまあ、私が根岸に住んでいたら、写生の歌を詠むと思う。 使い古された単語ではなく、言い回しではなく、 写生によって古いことばに新しい命を吹き込もうと思うだろう。 目の前の光景をそのまま切り取って。それはでも一通り、花鳥風月で練習したあとのことだと思う。

まわりくどくふるくさいやりかただとは思わないでほしい。


追記。根岸に住む和歌を詠む人とは誰だろうか。一人くらいしか思いつかないが、その人が、たまたま試しに詠んだのだろうか。まったく思い出せない。

桓武天皇

桓武天皇はやはり異常だ。 皇統譜を書いているとよくわかるのだ。

桓武平氏と言っても、四系統ある。 第三皇子葛原親王、第九皇子万多親王、第十皇子賀陽親王、第十二皇子仲野親王。 このうち葛原親王系から将門と貞盛が出て、 貞盛から伊勢平氏が出て、清盛につながる。 古今集に出てくる平貞文などは仲野親王系。

平氏以外に、 第七皇子明日香親王から出た久賀氏、 さらに良岑氏がある。 良岑氏といえば遍昭以外知られてないマイナーな王族だがそれなりに子孫繁栄している。

桓武天皇の皇子から平城、嵯峨、淳和天皇が即位した。 嵯峨天皇にも皇子が多かった。 平城天皇と淳和天皇はさほどでもないが、平城天皇からは在原氏が出た。 嵯峨天皇は桓武天皇よりも極端で、皇子は多いが、仁明天皇以外の直系王族はほとんどがすぐに消えてしまっている。

ともかく桓武天皇時代の親王の数が異常に多いし、 親王以外の皇子はさらに多い。 桓武以前と桓武以後でまったく様相が異なる。 白河院時代に親王を極端に減らし、親王以外の皇子はみんな法親王にしてしまって、 皇室財産を緊縮したのとは大違いなのだ。

そもそも光仁天皇から桓武天皇に譲位した理由も謎だ。 光仁天皇の父・志貴皇子系統の皇族はいくらでもいたのに、 よりによってなぜ百済人の后の皇子が即位せねばならなかったのか。 たしかに志貴皇子は天智・天武系統の中では傍系なので、有力な后がいない。 しかし天武系は途絶えて藤原氏を后とする有力な皇子が無い中でなぜ桓武天皇が即位したのか。

おそらくだが、平安末期に平氏や源氏が擡頭してきたように、 この時代、百済人の勢力が非常に強かったのだ。 藤原氏などの名門貴族もその百済人たちの力を借りないと朝廷を操縦できない。 だから藤原百川など一部の藤原氏が桓武を擁立した。 さらに藤原冬嗣など百済人の血を引く藤原氏がその路線を継承した。

桓武天皇の時代は皇子の時代だったが、 王族の子孫が平氏となり源氏となることによって、 武士の時代となって、皇子は不要になってしまった、ということだろう。 桓武天皇の勢いは皇室には留まらずにその外の社会に波及して増幅していった。 もし桓武天皇と同じ規模で皇室が維持されていれば日本は大陸型の中央集権国家になっていただろう。 しかし皇室はたちまちにしぼんでしまい、無数の支族が枝分かれして繁栄することになった。 だから封建社会になった。

在原元方

だんだん見えてきた。

古今和歌集編纂の主役は、業平・棟梁・元方の在原氏三代と紀貫之。

伊勢物語は業平・紀有常コンビが中心になってできあがったもの。古今集は元方・貫之。
棟梁は中継ぎのようなもの。棟梁と貫之は寛平御時后宮歌合(宇多天皇の母班子女王主催の歌合)で知り合った。

有常と貫之は同じ紀氏だが、家柄は若干遠い(紀有常の祖父・勝長は、貫之の祖父のさらに祖父。勝長-名虎-有常、勝長-興道-本道-望行-貫之。なお、本道-有友-友則)。血筋が一本通っているのが在原氏。貫之が元方に接近していろいろ昔のことを聞き出して伊勢物語の祖型を作った。元方はほわっとした歌を詠む人だよな。

それで、伊勢物語自体は非常にもやっとしたもので、わけがわかってない。紀貫之が素稿を書いたのは間違いないと思うが、それを後撰集や拾遺集時代のもやっとした連中がかなりリライトしている、というあたりが真相だろう。

在原元方は生没年不明だが、おそらく貫之とだいたい同じなのだろう。藤原国経の養子になっているのは、元方の父棟梁がそもそも金が無いのと、国経が棟梁の娘を妻としたからだ。

国経は基経や高子の異母兄妹にあたるわけである。国経や基経は高子のもとに忍んでくる業平の番人になっていたことになっている。国経は当事者だし、棟梁や元方も事情を知らなかったはずがない。だがどう考えても高子の話は変だ。

古今集に出て来る当代歌人の中で当時一番偉かったのは宇多上皇だけど、彼はなぜか古今集には一首も載せてない。いくつか可能性があって、宇多上皇の歌は載っているのだが読み人知らずになっている、という説(自説)。宇多上皇は元方と貫之をたてて自分は表にでなかったという説(これも自説)。

国経にしても時平にしても、摂家ではあるが、宇多上皇の時代にはそれほど権勢はなかった。少なくとも国経と時平は歌人と言えるような人物ではなかった。そうすると一番偉いのは元方だろう。だから彼の歌が巻頭に出て来る。

百済人と冬嗣

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、多くの氏族が桓武に女御を入内させた。同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、桓武天皇から始まる可能性があった。しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、摂家というものを作り出したのではなかろうか。百済人は歴史から姿を消したように見えて、実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、日本の上流社会に生き延びたのである。高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。遍昭も良岑氏なので百済系。源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。彼は仁明天皇に娘種子を、文徳天皇に静子を入内させた。名虎は紀氏中興の祖であったが、結局冬嗣・良房親子に負けた。名虎の子・有常は急速に没落していき、貫之や友則の時代の紀氏は、藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

賊軍の合祀

10月13日の産経新聞に全面広告の意見広告が載っていた。

ご存知ですか?
靖国神社に祀られているのは官軍のみで、賊軍と称された方々が祀られていないことを・・・

これは10月4日の靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上という記事、 10月12日のNHK報道「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら と関連するものであろう。

西郷隆盛、白虎隊、新撰組、江藤新平らは、靖国神社には祀られていない。ただし靖国神社の同じ境内の中にある、鎮霊社には祀られている。

私は、靖国神社の合祀者を増やすのは反対だ。そういうことを言い出すと、東京裁判で有罪判決を受けて死んだ政治家(軍属ではない)や、民間人の挺身隊なども合祀し、戦争に巻き込まれて死んだ、東京空襲の死者や原爆被害者などみな合祀しようという話になり、 さらには日本国民全員が靖国神社の氏子であるなどと解釈する者が出てくる。それは明らかに昭和天皇が望まなかったことだ。昭和天皇によれば明治天皇も、民間人を合祀することには反対であった。

亀井静香が言う、

靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってる

というような、軍人と民間人を際限なく混同するような思想は間違っていると思う。

もし必要ならば、鎮霊社の扱いをもっと大きく丁重にすれば良い。原則を変更すべきではない。

cf. 靖国神社合祀、御衣黄。

十一日の月

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。 目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。
十六日の月は「いざよひ」、
十七日の月は「たちまち」、
十八日の月は「ゐまち」、
十九日の月は「ねまち」、
二十日の月は「ふけまち」、
つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。 月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。 『伊勢物語』82段「渚の院」

・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。
飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ
親王にかはり奉りて、紀有常、
おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、 夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、 もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。