タルコフスキー再説

タルコフスキー、特にソラリスについて、過去に何度も書いている。タルコフスキーのソラリスソラリス総括というのも書いている。

DVDを借りてタルコフスキー版のソラリスを見たのは冨田勲の『宇宙幻想』を聴いて知ったからだ。初めてみたのがいつ頃だったかよくわからない。1998年、私が33才の時に『僕の村は戦場だった』と『アンドレイ・ルブリョフ』を見ている。『僕の村は戦場だった』はわかりやすい、トラウマになる映画だが、『アンドレイ・ルブリョフ』は確かにつまらない。確かロシアの農村で熱気球に乗る冒険家みたいなのが出てくる話で、もっと先まで見れば面白いのかもしれないが、いまだに見れてない。『鏡』はちょっと頭だけ見てやめてしまった。『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』などは見たことが無いと思う。今後見るかどうかもわからない。

ローラとバイオリンは、わかりやすいけど、なんかどうでも良い作品だったような気がする。

タルコフスキー版ソラリス冒頭の「バートン報告」。以前私はこれを「台詞棒読みの謎シーン」などと評しているのだけど、改めて見直すとそれほど悪い構成ではない。ただ、原作の「バートン報告」というものはああいうバートン本人の口述を録画したというものではなくて、長大で精細な報告書なのであり、それをクリスがソラリスステーションの中で読むという筋書きになっているはずだ。映画という媒体の都合上、映像で表現するためにああなってしまうのは仕方ないのかなと思う。だがあれをあの台詞だけで説明するのにはもともと無理がある。

クリスがソラリスへ旅立つ前日、クリスの父母の家に息子クリスが泊まりにくる。父母の死に目に会えるかどうかもわからない長いミッションであるらしい。池の上にしぼんだ風船が木の枝に引っかかっているのはここに子供が住んでいるということを暗示している。その子はクリスとハリーの間に生まれた娘であるらしいが、そんなことは一切説明されないし、原作にも無いことだ。母ハリーが死んだあと、父クリスが祖父母に娘を預けて田舎で育てられた、と解釈しようと思えばできる。その娘はバートンが連れてきた息子としばらく遊んでいるが、クリスがバートンを怒らせてしまい、バートンは息子を連れて帰ってしまう。その後バートンと息子が乗ったタクシーが延々と東京の首都高速を走る有名なシーンがあって、何か特別な意味があるかと注意してみてみたがよくわからん。でもタルコフスキーの映画ではただひたすら白樺林の中でくるくる回っている主観視点の映像などあるから、こういう目の回るようなシーンが好きなのかもしれない。首都高シーンの後に再びクリスの父母が住む田舎のシーンに移るから、文明と自然の対比を言いたかったのかもしれない。この田舎のシーンが非常にくどいのは最後のオチがまたこの田舎に戻ってくるから、伏線として念入りに描写したのに違いないし、昔はこういう長回しのシーンが許容されていたということもあるかもしれない。ともかくも現代から見れば不可解なほどに長い意味不明なシーンがたくさんある。

タルコフスキーとしてはソ連にああいう立体交差の高速道路があればそれを撮ったに違いないが当時も、今のロシアにもそんなものはあろうはずがない。タルコフスキーとしてはアメリカのインターステートみたいなものを撮りたかったのではないか。しかしソ連の映画監督がアメリカに撮影に行くこともできなかったろうし、また、標識が英語で書かれているのも都合が悪かっただろうから、しかたなく東京で撮影したのかもしれない。

カラーと白黒のシーンがランダムに混ぜられているように思える。モノクロにすることに何か意味(回想とか想像とか)があるのかと思って見てみたが、よくわからん。当時は映画がモノクロからカラーに移行するときに当たっていて、地の部分をモノクロで、特に派手に演出したいところだけをカラーにしたのかもしれない。

クリスがバートンから直接話を聞くという設定も、クリスがバートンに無理解なのも、映像でストーリー説明するにはこうするしかなかったような気もする。最後のオチも、原作のあっけない終わり方では映画にならないから、タルコフスキーが苦心して付け足したものかもしれない。

ソラリスステーションに到着したばかりのクリスがなんだかよくわからない東欧風かアメリカ風なのかわからない普段着を着ていて、革のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというのは奇妙だ。基地の内部も今の目で見るとあまりにも宇宙船ぽくない。というのは私たちがキューブリックの2001年宇宙の旅を見た後だからそう思うのかもしれない。

などとあれこれ考えてみるにアレは何か奇をてらったとか、余計な解釈をしたというよりも、レムのゴリゴリのSFを割と無難にタルコフスキーが映画にまとめた作品だった、と言っても良いのかもしれないなと思った。

あの映画の恐ろしさというのは、やはりハリーの登場シーンで、目を覚ますといきなりハリーが椅子に座っていて、手に持った櫛で顔をなでる。それから立ち上がり寝起きのハリーにキスする。バートンが見た幻覚を馬鹿にしていたハリーが、自らその幻覚を見るはめになった驚きと恐怖が良く表されていると思う。もちろんその後にもショッキングなシーンはいくらもあるのだが、ひっぱってひっぱってあそこでいきなりハリーを出したのはやはりインパクトを最優先した効果的な演出で、それはソダーバーグ版ソラリスとは全然違っている。ソダーバーグ版ではクリスと妻レイア(ハリーから改名)の映像が冒頭から延々と繰り返される。

wikipedia惑星ソラリスには

上記の、東宝から発売された『名作・ソビエト映画』吹替版VHSは、(中略)地球シーンが無いことなど、実は「映画版」と「小説」が乖離している部分がかなりカットされており、タルコフスキーの世界観を度外視するならば、奇しくもレムによる原作に近い仕上がりになっていると言える。

などと書かれているが、誰が書いたかしれないが、ずいぶん余計な感想だなと思う。レムとタルコフスキーが喧嘩した話なども、そりゃそれくらいの意見の相違はあったろうなとしか思えない。レムは、映像だけでストーリーを説明しなくてはならない、ちゃんと起承転結をつけて客を楽しませなくてはならない映画という媒体に対しておそらくまったく何の理解もなかったと思うし、レムの言う通りにやればそもそも映画化は不可能だっただろうと、タルコフスキーに同情したりもする。

ところで クリス・ケルヴィンはロシア語では Крис Кельвин (Kris Kelvin) と書くらしいのだが、Kris も Kelvin もロシア人の名前らしくない。彼はイギリス人という設定だったのだろうか。Sartorius はドイツ人ぽい。スナウトもなんとなく英語っぽい感じだ。Hariという名もなんだか変だ。レムは無国籍な、聞き慣れない名を使いたかったのだろうか。Henri Burton に至っては明らかにイギリス人の名だ。Gibarian もイギリス人かドイツ人の名前っぽい。

それからついでだが『宇宙幻想』は冨田勲が46才のときに作った作品だが、今からみると2001年宇宙の旅に始まり惑星ソラリスに終わる、途中にLPレコードに収まりきれるだけ曲を安直に詰め込んだ宇宙SFもののアラカルトに見える。だが当時、あんなふうにフルオーケストラの曲をそれっぽく、正弦波と三角波と矩形波とノコギリ波とノイズしか出せないアナログモジュラーシンセサイザーとデジタルシーケンサーだけで演奏したというのはおそろしくすごいことである。今ならDAWがあれば誰でもあれくらいのものは作れてしまうのだが。

『惑星』『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』はSF三部作と呼ばれているらしい。『惑星』が一番名高いらしいが私はどちらかといえば『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』のほうが好きだった。『バミューダ・トライアングル』を知らなければプロコフィエフを聴くなんてこともなかっただろう。

AIに映画を探してもらった(追記あり)

Gemini アプリ のロゴ

Gemini アプリ

送信したメッセージ: 昔見たことのある映画を探しています。砂漠の中で遭難した若い男女二人が協力して砂漠を抜け出すという映画です。

砂漠で遭難した男女が協力して脱出する映画はいくつかあります。もう少し情報があれば、探している映画を特定しやすいかもしれません。

年代: いつ頃見た映画か、年代が分かると絞り込みやすくなります。

男女の年齢: 若い男女とのことですが、具体的な年齢層は覚えていますか?

その他の情報:

  • 飛行機が墜落して遭難する話だったか?
  • 遭難した場所はサハラ砂漠だったか?
  • 男女は恋愛関係になるか?
  • 何か印象的なシーンは覚えていますか?

これらの情報があれば、検索エンジンでより具体的なキーワードで検索できる可能性があります。

参考までに、砂漠で遭難した男女が協力して脱出する映画の例をいくつか挙げます。

  • 「ブルー・ラグーン」(1980年): 飛行機事故で無人島に漂着した幼い男女が成長し、恋愛関係になる映画。
  • 「サハラ – 砂漠に眠る秘宝」(1995年): アメリカ南北戦争の英雄の息子が、サハラ砂漠で遭難した女性を助ける映画。
  • 「サバイバル・ウォーズ」(2006年): 砂漠で遭難した男女が、互いに疑心暗鬼を抱きながら脱出を試みる映画。
  • 「サンド・ストーム」(2016年): 砂漠で遭難した女性3人が、過酷な状況の中で生き抜こうとする映画。

これらの映画の中に、探している映画が含まれている可能性があります。

また、以下のサイトも参考にしてみてください。

これらのサイトでは、砂漠を舞台にした映画をジャンルや年代で検索することができます。

その他、情報提供のお願い

上記の情報に加え、映画を見た当時の状況など、少しでも記憶に残っている情報があれば、さらに絞り込みやすくなります。

ご協力よろしくお願いいたします。

送信したメッセージ: 男女は砂漠を脱出する寸前に愛し合い結ばれます。最後、砂漠を抜け出したところで映画は終わります。

情報ありがとうございます。男女が結ばれるという情報で、探している映画が絞り込みやすくなりました。

該当する可能性のある映画をいくつか挙げます。

  • 「ブルー・ラグーン」(1980年): 飛行機事故で無人島に漂着した幼い男女が成長し、恋愛関係になる映画。ラストシーンでは、二人は島を脱出し、新たな生活を始める。
  • 「サハラ – 砂漠に眠る秘宝」(1995年): アメリカ南北戦争の英雄の息子が、サハラ砂漠で遭難した女性を助ける映画。二人は困難を乗り越え、愛し合うようになる。
  • 「サバイバル・ウォーズ」(2006年): 砂漠で遭難した男女が、互いに疑心暗鬼を抱きながら脱出を試みる映画。ラストシーンでは、二人はようやく心を通わせ、結ばれる。

これらの映画の中で、特に「ブルー・ラグーン」が該当する可能性が高いと思われます。

その他の可能性

上記以外にも、以下の映画が該当する可能性があります。

  • 「シェルブールの雨傘」(1964年): 戦争で引き裂かれた男女の愛を描いた映画。ラストシーンでは、二人は再会を果たし、結ばれる。
  • 「タイタニック」(1997年): 豪華客船タイタニック号の沈没事故を舞台にした映画。ラストシーンでは、主人公たちは海に沈みながら結ばれる。

これらの映画は砂漠が舞台ではありませんが、男女が困難を乗り越え、愛し合うという点は共通しています。

情報提供のお願い

上記の情報に加え、映画を見た当時の状況など、少しでも記憶に残っている情報があれば、さらに絞り込みやすくなります。

例えば、以下の情報があると助かります。

  • 映画を見た時期
  • 映画のカラー/モノクロ
  • 主演俳優の名前
  • 印象的なシーン

ご協力よろしくお願いいたします。

最終的に、探している映画が見つかることを願っています。

送信したメッセージ: サバイバル・ウォーズについてもうすこし詳しく教えてください。監督は誰ですか。

映画「サバイバル・ウォーズ」は、2006年に公開されたイギリス映画です。監督は、ポール・グリーングラスです。

主なスタッフ・キャスト:

  • 監督: ポール・グリーングラス
  • 脚本: ポール・グリーングラス
  • 製作: スコット・ルーディン, エイドリアン・アーליך
  • 撮影: バリー・アクロイド
  • 編集: クリス・イニス, ピーター・マック
  • 音楽: ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
  • 出演: ドン・チードル, イドリス・エルバ, マイケル・ケネス・ウィリアムズ, ルイス・ガスマン, メアリー・エリザベス・ウィンステッド

あらすじ:

アメリカ軍の特殊部隊員4人が、アフガニスタンの砂漠で拉致され、武装勢力に追われる。彼らは過酷な状況の中で生き延び、脱出を試みる。

評価:

この映画は、リアルな戦闘シーンと緊迫感のあるストーリーで評価されました。第79回アカデミー賞では、編集賞にノミネートされました。

関連情報:

この映画が、あなたが探している映画と同じかどうか、確認してみてください。

送信したメッセージ: 全然違いますね。戦争とは関係ありません。歴史ものでもありません。単純なラブロマンスです。

ご指摘ありがとうございます。情報不足で誤った回答をしてしまい申し訳ありません。

ご提供いただいた情報に基づいて、再度探してみます。

条件:

  • 砂漠が舞台
  • 遭難した男女が協力して脱出する
  • 男女は脱出する寸前に愛し合い結ばれる
  • 戦争や歴史ものではない
  • 単純なラブロマンス

これらの条件に合致する映画は、以下の通りです。

  • 「ブルー・ラグーン」(1980年): 飛行機事故で無人島に漂着した幼い男女が成長し、恋愛関係になる映画。ラストシーンでは、二人は島を脱出し、新たな生活を始める。
  • 「サハラ – 砂漠に眠る秘宝」(1995年): アメリカ南北戦争の英雄の息子が、サハラ砂漠で遭難した女性を助ける映画。二人は困難を乗り越え、愛し合うようになる。

この2つの映画は、ご提示いただいた条件に最も合致していると考えられます。

その他の可能性

上記以外にも、以下の映画が該当する可能性があります。

  • 「シェルブールの雨傘」(1964年): 戦争で引き裂かれた男女の愛を描いた映画。ラストシーンでは、二人は再会を果たし、結ばれる。
  • 「タイタニック」(1997年): 豪華客船タイタニック号の沈没事故を舞台にした映画。ラストシーンでは、主人公たちは海に沈みながら結ばれる。

これらの映画は砂漠が舞台ではありませんが、男女が困難を乗り越え、愛し合うという点は共通しています。

情報提供のお願い

上記の情報に加え、映画を見た当時の状況など、少しでも記憶に残っている情報があれば、さらに絞り込みやすくなります。

例えば、以下の情報があると助かります。

  • 映画を見た時期
  • 映画のカラー/モノクロ
  • 主演俳優の名前
  • 印象的なシーン

ご協力よろしくお願いいたします。

最終的に、探している映画が見つかることを願っています。

送信したメッセージ: カラー映画です。30年くらい前テレビで見ました。

カラー映画で、30年くらい前にテレビで見たとのことですね。情報ありがとうございます。

さらに絞り込むために、以下の情報も教えていただけますでしょうか?

  • 主演俳優の名前は覚えていますか?
  • 映画の雰囲気は明るかったですか、暗かったですか?
  • 印象的なシーンは覚えていますか?

これらの情報があれば、より具体的な検索が可能になります。

参考までに、30年くらい前に公開された砂漠が舞台の映画をいくつか挙げます。

  • 「ブルー・ラグーン」(1980年)
  • 「サハラ – 砂漠に眠る秘宝」(1995年)
  • 「シェルブールの雨傘」(1964年)
  • 「タイタニック」(1997年)
  • 「アラビアのロレンス」(1962年)
  • 「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて愛することを学んだか」(1964年)
  • 「ベン・ハー」(1959年)
  • 「十戒」(1956年)

これらの映画は、すべて砂漠が舞台の映画ですが、年代やジャンルは様々です。

情報提供のお願い

上記の情報に加え、映画を見た当時の状況など、少しでも記憶に残っている情報があれば、さらに絞り込みやすくなります。

ご協力よろしくお願いいたします。

最終的に、探している映画が見つかることを願っています。

結局、最後にはアラビアのロレンスとかベン・ハーとか十戒なんかを出してきて、まったく役に立たないってことがわかっただけだった。ちなみに copilot はもう少し馬鹿だった。


追記。パラダイス (1982年の映画)という映画だったらしい。AIはだいぶ賢くなっている。

NHK大河ドラマの終焉

Disney+のShogunが流行ったことで、ディズニーは、NHK大河ドラマを真似ればアメリカでも流行って儲かるということがわかってしまった。これからディズニーはどんどん大河ドラマをパクってくる。ディズニーはNHKとは違って日本史に閉じたドラマは作るまい。東アジア史をやり、西アジア史をやり、ヨーロッパ史をやり、アメリカ史をやり、そして世界史のドラマを作るだろう。日本史しかやりたがらない大河ドラマは絶対に勝てない。

大河ドラマが扱うネタにしても、鬼滅の刃みたいなアニメのほうが面白いとなればますます大河ドラマの存在価値は失われる。タレント事務所と制作委員会とNHKに阿(おもね)ったドラマ制作はもう終わりだ。実に良い気味だ。これはNHKだけの責任ではない。旧態依然、伝統芸能と化した大河ドラマを飽くまでも延命させようとしてきたファンの責任でもある。

ブラックリスト

ブラックリスト見た。面白いんだが、何かが物足りない。homelandやvivantとは違って、エピソードがぶつ切りで、敵役は次から次に移り変わっていく。24 -twenty-four- 形式か。メインのキャラクターには何か裏設定があってそれをラストまで引っ張っていくという戦略なのだろうが、これって全部見る必要ある?と思ってしまう。

脚本はよく練られていて、これまで作られてきたFBIものCIAもの、いわゆる政治サスペンスものの王道を行っていて、俳優もみな魅力的なんだが、なんというのかなあ、悪い意味で幕の内弁当的というか。homelandだとここのエピソードはともかくとして全体のストーリーというものがあったし、キャラクター設定は破綻寸前のようにみえて一応の統一感を保っている。そういう危なっかしいところ、優等生的な作品ではないところ、ある種実験的なところに魅力があった。ブラックリストにはそのどれもがない。だから意外性が無い。ああ面白かったな、でもなんとなく既視感がある、で終わってしまう。でもまあテレビドラマなんてものはそれで良いわけで、成功した作品と言って良いのだろう。当たるかはずれるか一か八かの作品なんて商業的には作ってられない。

ある意味最近の少年ジャンプの作品なんてみんなそんなものではないのか。私もドラゴンボールあたりまではみていた。ドラゴンボールも途中で飽きて見るのをやめた。ワンピースも連載初回から見てしばらく見ていたが、途中で飽きて見るのをやめた。作り込まれれば作り込まれるほど意外性はなくなっていって、見る気がしなくなる。テレビ番組もみなそうだ。

Netflix でいうと Surviver というのがある。これも最初はプロットの面白さで見ていたが途中で飽きた。これ、最後まで見る必要ある?ただ惰性で続けて引っ張ってるだけだよな、と思えてきた。Lupin もそうだ。面白い着想だが、全部見る必要ない気がした。

おそらく homeland は、この先どういう展開になるか、もしかしてドラマ自体が破綻して終わるのではないか、というような心配を見ている側にさせる。しかし blacklist は、テレビドラマの水戸黄門を見ているように、どうせ一件落着するんだろうと安心して見ていられるから、メタな意味で面白くないのではなかろうか。

ククルスドアンの島

ククルスドアンの島を見たのだが、最近の日本アニメってすごいんだな、というのが感想だった。モビルスーツはCGでかっちょよく動くし、キャラクターは正真正銘安彦良和の絵がなめからに動く。ストーリーもさすが富野由悠季、まったく破綻がない。セイラさんの口調がなんだか気持ち悪いのがなんとなく歴史修正主義みたいだがまあいいか。技術が向上し、お金も人もかければこのくらいは作れるんだな、という印象はあるが、意外性は少なかった。そりゃしょうがないよね。ドラえもんもクレヨンしんちゃんもそのほかいろんな日本アニメはみんなそうなのだ。長谷川町子原作のサザエさんは長年テレビでアニメ放送されているうちにすっかり毒気を抜かれてしまった。同じことがガンダムでも進行中なわけだ。ガンダムもまたどこかで見たことある日本アニメの一つになってしまった。

正直な話私はそうした類いの作品を見たいわけではないのだが、このククルスドアンはあまりにもよくできていたから最後まで一気に見てしまった。しかし何度も繰り返し見るタイプのものではないかもな。

改めてこの最新ガンダム作品を見てみるとアムロなんかがいちいち「アムロ中尉」などと呼ばれているのが気になる。昔からこんなにいちいち階級で呼んでいたのだろうか。さらに日本が作る戦争ものには共通のウェットさがある。義理と人情。浪花節。同じ感覚をvivantにも感じたし、タランティーノも日本映画(仁義なき戦いのことか)に影響されてレザボアドッグスを作った、などという人もいる。このククルスドアンでも特有の暑苦しさを感じた。日本料理に必ず醤油が使われているような。特色でもあるが呪縛でもあると思うんだ。もっとすかっと作れないんだろうか。

Reservoir Dogs

レザボアドッグスだが、話自体は単なるチンピラ映画ではあるのだけど、何度かじっくり見てみるとやはり、タランティーノの処女作だけあって価値の高い作品だ。

タランティーノ自身が演じるブラウンだが、一番みっともないダサい役だけども、役者というものはこういう役は敢えてやりたがらないだろうか、それを監督が自分で演じた、と言えなくもない。パルプフィクションでも同じなのだろう。

ブラウンを殺したのは潜入捜査官のオレンジだった。映像として見せてはいないが他には考えられない。

オレンジはまた、たまたま巻き込まれた民間人を殺してしまった。これもくどくど説明されていないが、反射的に殺してしまったのだろう。

ブラウンはさらにブルーも殺したとされているのだが、これはそもそもまったく映画の中で描かれてない。最終的にざっくり省略したのだろう。そもそもこの作品は強盗がダイヤモンドの卸を襲撃して奪うという筋書きであるのにその強盗シーンはさくっとカットしてあり、時系列もパルプフィクションと同じくわざとバラバラにしてあり、見せるところ、撮るところを大胆に取捨選択して順番を入れ替えている。ぼーっと見ているとかなりわかりにくいところもある。映画館で一度見ただけではわかるまい。映画館で見るなら何度か繰り返し見る必要がある。DVDならスロー再生したり、コマ送りしたりしないとわからないシーンも多い。そういう意味では『カメラを止めるな』に近い。

ブロンド役はキル・ビルに出てきた、ビルの弟役。

ピンクは最後まで生き残り、ダイヤモンドを持ち逃げすることに成功した、という解釈なのか。それとも外で張り込みしていた警察に結局は捕まったのだろうか。いろいろと裏設定はあるらしいが、すべてが説明されているわけではない。

ゲイとか黒人とか、今のポリコレ時代にはもう二度と作れないようなゲスい映画ではあった。

リアリズムとファンタジー

vivantについて、続きなのだが、そういえば私も特務内親王遼子とか潜入捜査官マリナとか、特殊な任務についた軍人や警官の話を書いたりもしたのだが、普通に考えて、そういう特務機関の存在を完全に隠蔽するのは不可能であろうと思う。特務内親王遼子では

「我が軍には、特務、などという機関も職種もないはず。それに軍命であれば、なおのこと、上官の命令によらなくては、私はあなたにお手伝いのしようがありません。」

「そんなことは、上等兵のおまえに言われなくてもわかっている。特務は特務だ。軍隊とは直接関係ないから、おまえが知らなくて当然だ。おまえの上官は誰だ。」

などという会話をさせたりしている。そういう特務機関が現代の日本に存在するという設定自体がこのvivant というドラマをファンタジーにしてしまっている。まあ、ファンタジーで良いんだというのであればそれはそれで良いのだけど。また、いくら射撃の腕前が天才でも、心臓の付近を撃って急所を外すというような撃ち方ができるはずがない。できたとしたら魔法だ。拳銃などというものはそんなに正確に狙えるものではない。

リアリズムとファンタジーは混在できない。リアリズムにファンタジーを混ぜようとすると結局すべてが夢の国の魔法の話になってしまう。それがvivantの最大の弱点であって、とりあえずシーズン1はそれでなんとか完結させたとしてもシーズン2以降の続編を作ろうとするとますますその設定が足枷となり、ちぐはぐなものになっていくような気がする。

homelandで登場人物はみな優秀だが欠点も持ち失敗もする。それが現実でありリアリズムである。ゴルゴ13は常に単独行動し狙撃を必ず成功させるがそれはゴルゴ13が漫画でありファンタジーであり、劇画でありギャグ漫画であるから許されるのであって、vivantで実はこれはファンタジーなんですと言われたらしらけるだろう。

vivant

最近ホッカイロレンという youtubeチャンネルをよくみるのだが、そこで viviant が紹介されてて、 netflix にも公開されているから、では見てみるかと見てみると面白くて一気見して2度目も見始めている。ドラマにしろ映画にしろあまり私はこういうことはしないので、よほど面白かったのは確かだ。

主人公が半沢直樹にしか見えないのは新鮮さを欠くと言って良いと思う。ちなみに半沢直樹は見てないのだが、印象が強すぎる。じゃあ他に誰を主人公にすれば良いのかと言われても私にはわからんが。たぶん半沢直樹の続編、和製ciaドラマを作ろうというのがおおもとの企画だったのだろう。俳優はみなだいたいはまってる。脇役がよく固めているのだが、二宮和也だけが浮いてる。演技はともかくとして、せめて顔をこんがり日焼け色にして髪の毛をぼさぼさにしてモンゴル人っぽくしてくれればだいぶなじんだと思うのだが、なんだろうこれは。これがいわゆる事務所の都合というやつなのだろうか。役所広司は必ずしもこの人でなくても良かったとは思うがこれも良い演技だった。阿部寛はなかなか良かった。

ciaドラマはよく研究されていると思う。本場アメリカのciaドラマにもアメリカ人固有の偽善というものがあり、それを克服しようとかなり努力した「ホームランド」ですらまだまだその「臭み」は残っている(視聴者がアメリカ人なのだから仕方ないのだが)。日本人にとっては当たり前の、フーテンの寅さん的人情話、浪花節というものが根底にあり、その上にciaものが乗っかっているので、だんだんとじわじわとものすごい違和感がわきおこってくる。「正義感」というベクトルが日本とアメリカでは似ているようで全然違ってて、警察もの、ciaものになるとその違いがよけい目立ってなんか気持ち悪くなってくる。

でも最後までなんとかそれをねじ伏せてまとめあげているから、これはこれで一つの前例として、よくできていると思う(つまり歴史的価値があると思う)。単なる妥協の産物に終わってない、よくできた作品だ。見終わった後にも、ではあそこはこうしたほうが良かったのではないか、というような瑕疵も出て来ない。ああするしかなかったんだろうなあとは思う。

日本でciaものを作るには、陸軍中野学校から三島由紀夫の盾の会みたいなものがどうしても絡んでくるのだろう。その絡ませ方が少し過剰な感じもしたがネトウヨにも多少サービスしたせいかもしれない。この程度であれば特に問題無いか。ただこの三島由紀夫的な方向へ続編をどんどん暴走させるということも可能であって、そうすると評価は分かれてくるんだろうなあ。

アクションものとしては派手さが足りないとか、韓国ドラマやアメリカドラマと比べてつかみが弱いとか映像的魅力が無い、エフェクトに迫力が無いなどという人もいるようだが、別にそんなくどい演出はしなくてよいのではないか。そういうポスプロ的な演出は本来おまけであって、それがシナリオより前に出てくるのは嫌味だ。映像作品なんだから絵で見せるというやり方もあるかもしれないが、どちらかと言えばこの作品の売りはストーリー展開なのだから、このくらい地味でも良いっちゃ良い。きちんと脚本が練れていれば派手なアクションシーンなんてなくて良い。

こういうciaもの特有の間の持たせ方とか焦らせ方とか伏線の張り方とかあるいは見る人間の予想をわざとはぐらかすやり方など、すべてはやり尽くされている手法ではあるので、私は用心しながら見ていったけれども、どれも丁寧に作られていて、飽きさせないのは良かった。

結局浪花節的なきれい事に終わっているのだがテロとか戦争というものはそんなきれい事じゃ済まないだろとも思うし、日本人に見せるだけならこれで良いかもしれんが netflix などで配信して海外からの収入も当てにするとなるとこれでは日本人の自己満足と言われても仕方ないのかもしれない。しかしアメリカのドラマだってディズニーアニメだってアメリカ人の自己満足には違いないのだから、これはこれでもう開き直るしかないのかもしれない。いろんなことを覚悟の上できれい事で逃げ切ったとも見える。

モンゴル、ロシア、中国(ウィグル)、カザフの国境が集まる地帯にバルカ共和国という架空の国のもうけるという設定も面白いし、そういう国に日本人の諜報部員が送り込まれたら当然そういうことも起きるだろうなという自然な設定になっている。ただ、ラスボスが自分の父親だったというのはスターウォーズを思わせるし、諜報部員が送り込まれて現地のテロリストの親玉になるというのは地獄の黙示録だし、大使館に逃げ込んで綱引き状態になるというのもどこかで見たような気もするし、いろいろと既視感のあるシーンも多いがどれも良く調べてうまく活かしたオマージュと言って良いかもしれない。逆に初めて見る演出やシーン、設定も多くて、どうやってこんなネタ仕込んだのかなとちょっと感心もした。

あと、ホッカイロレンに関して言うと、スターウォーズではマンダロリアンが一番(?)面白いとか言ってて共感したがしかし私はそもそもそれほどスターウォーズのコアなファンではないし、私は少年ジャンプとか特にワンピースみたいなのがまったく面白いと思わないので、感性とか好みにはかなり差はあるだろうなとは思った。ひろゆきと岡田斗司夫がスターウォーズネタで口論する動画など、面白いっちゃ面白いんだが、そこまで細かいことに別にこだわりはないしなーとも思った。

本所・桜屋敷

鬼平の第1話は「唖の十蔵」でこの回はまだ火付盗賊改方長官の長谷川平蔵と妻の久栄、与力筆頭の佐嶋忠介、そしてのちに密偵となる粂八くらいしかでてこない。ほかにはこの話にしか出て来ない同心の小野十蔵が出るくらい。初回らしく非常にシンプルな話である。

第2話の「本所・桜屋敷」では彦十と岸井左馬之助が出てくる。ほかには酒井祐助、竹内孫四郎、小柳安五郎という同心が出てくるが竹内は後の話では自然消滅してしまう。

ところが新しいテレビドラマの「本所・桜屋敷」ではいきなり主要登場人物が勢揃いでそのうえゲスト出演で松平健まで出てきて、平蔵と松平健の対決まで盛り込んでいるから、これだけ誰も彼も出演させて、ゲストのメンツも立てて、その上昔と今と二人一役やらせて、そういう条件付きで一話に全部盛り込めと言われた脚本家はさぞかし苦労しただろうと思う。これを見させられるほうも迷惑で、少なくとも私にとっては大迷惑だった。ストーリーは二の次で制限時間内に俳優を並べるだけで精一杯だっただろう。最初は少ないキャストで、だんだんに増やしていけばもっと話も作りやすかっただろうと思う。私も歴史小説など書いていて思うが、こういう説明的、前振り的、紹介的な書き出しは決してやってはならぬと思っている。いつの間にか自然と話の世界に入り込んでいたというような導入が最善だと思うが、テレビドラマではそうもいかないんだろう。

カリオストロ、泥鰌庵

『カリオストロの城』の、フランス製のいかがわしいDVDを持っていて、リージョンフリーの sony のプレイヤーを買ったので観ているのだが、これは amazon.com などでは 88us$ くらいで売られているのに、amazon.co.jp だと並行輸入品で3万円くらいする。余りにもぼったくりである。リージョンフリーのプレイヤーがそのリージョンの数だけ割高になるならともかく、世界のどこかではリージョンフリーが単一リージョンのプレイヤーと同じ値段で売られているのだとするとそもそもリージョンとは何か、なんでそんなもの作るんだよという話になる。

それはまあ良いのだが、パチモンらしくて画質は全然よろしくない。かつ、タバコのふかすシーンやタバコの吸い殻が山盛りになったシーンなどがいたるところにでてきて、昔は別にこんなシーン見ても何も感じなかったのだけど、今ではもう見るに堪えない。まったく見る気が失せて止めてしまった。

また人から『泥鰌庵閑話傑作選』をもらったのだが、まあまあ面白いといえば面白いが、主人公が常にタバコを吸っててやはり読む気が失せる。

私の場合、姉がタバコを吸っていたので、私もはたちくらいから吸い始めたのだが、30才くらいで自然にやめてしまった。吸うにしても1日に3、4本程度だし、火の元の始末が面倒だし、煙草の吸い殻は汚いし、いちいちタバコやライターを買ってもしけらせてしまったり、長いこと使わずに溜めてしまい火が付かなくなったり、もらいタバコしたりして、いっそのことまったく吸わないほうがましだと思ってやめてそれきりになった。

亀戸は立ち飲み屋が多いと聞いて見にいったが、とにかく町のガラが悪い。いたるところに喫煙者がいて、町全体がタバコ臭い。北千住とよく似ている。健康増進法などできて、概ねどこの町もだんだんに清潔になりつつあるが、その皺寄せで、一部の町は逆にどんどんガラが悪くタバコ臭くなっていっているように思う。浅草にしろ、あの上野にしろ、また町田も、昔に比べてずいぶん喫煙者は減った。浅草はインバウンドの客が多いので禁煙に比較的理解があるのだろうと思う。

船橋は町全体がタバコ臭いというわけではないのだが、居酒屋で平気でみんなタバコを吸っている。海に近いので食べ物は安くてうまい。高円寺阿佐ヶ谷あたりと比べても町全体のレベルが違う。たぶん江戸時代からずっと船橋は食い物は旨いのだろうし、高円寺阿佐ヶ谷あたりは戦後になってやっと居酒屋のようなものが出てきたのに違いない。文化と歴史の違いだと思う。

船橋あたりだと浅草や町田なんかと同じように次第に禁煙が進んでいくのではなかろうかという期待はある。タバコの無い船橋というのは住んでみたい気もする。

錦糸町は亀戸と正反対にどんどんきれいな町になっていっているというから、町の二極化が進んでいるということであろう。ならますます私は亀戸や北千住には寄りつけなくなるということになる。