ボウリング・フォー・コロンバイン

この映画のキモなんだが、2001.9.11 以後に取材されたものだと思われるが、アメリカとカナダでは銃や弾の所有率や買いやすさなどはほとんど同じなのに、カナダではほとんど銃犯罪が起こっておらず、のうえカナダでは家に鍵をかけさえしない、ということだと思う。犯罪の街デトロイトの対岸サーニアですらそうなのだ。

マイケル・ムーアはその理由を分析するが、アメリカという国が原住民を銃によって虐殺し、さらには黒人奴隷が白人に対して暴動を起こすのではないかと内心怖れているために、護身用の銃がないと精神的に不安なのではないかというのだ。

アメリカでも犯罪は減っているが犯罪を報道する回数は何倍にも増えているという。メディアが不安を煽ることが、銃乱射という犯罪を生み出しているのではないかともいう。

なるほど、人種差別や凶悪犯罪はじょじょに減っているのだろう。しかし、視聴者の関心が高いという理由で、メディアがある特定の犯罪を取り上げることによって、そういう刺激的な犯罪が次第にエスカレートしていき、模倣犯を生むという悪循環を作っているのだ。この連鎖は、一度生み出されると、つむじ風のように、簡単には消えず、エネルギーを吸収して成長すらする。そのエネルギーを供給しているのは明らかにマスメディアであり、民衆の恐怖心だ。多くのアレルギーや精神疾患がそうであるように、一度発症してしまうと、もとに戻すのは難しい。アメリカではその不安と恐怖が世代をこえて再生産されている。

カナダにはそんな悪循環がない。もともと犯罪件数が圧倒的に少ない。だから、スーパーマーケットで銃弾を売っていても、免許さえあれば簡単に銃を入手できても、アメリカの俗悪な犯罪ドラマが国境を越えてあふれていても、犯罪はおこらない。

少なくともカナダの事例を見れば、銃規制に意味はないという全米ライフル協会の主張は正しい。これは歴史的、社会心理的な問題なのだろう。

日本を見るに、日本はもともと銃や刀の規制は緩かった。しかし戦後、暴力団どうしの抗争が社会問題化することによって、銃刀法がだんだんに厳しくなっていった。戦前も刀を使ったやくざの出入りというものはあったのに違いないが、あまり問題視されていない。 やはり戦後の混乱とマスメディアのせいなんじゃないかと言う気がする。そして銃規制や、ましてゲーム規制なんてことはあまり関係ないんじゃないかという気がする。

探偵物や刑事物に出てくる事件も統計と乖離しているのはあきらかである。女性がいきなりストーカーに刺される、みたいなドラマにしたてやすい事件ばかりが繰り返し出てくる。こういう風潮が社会心理というものを著しくゆがめ、犯罪を助長し再生産ているのではないのか。

ソラリス総括

結局ソラリスを一から全部見直すことになってしまった。

ツタヤで借りてきたタルコフスキー版の DVD は 2013年製で、これは今年出た「新装版」Blu-Ray と内容的には基本的にはまったく同じものである、と思う。画質音質などに違いはあるのかもしれないが。タルコフスキー傑作選Blu-Ray Box を出すにあたりついでに「新装版」を出したということだろうと思う。それより前の DVD を入手するにはアマゾンあたりで中古を買うしかないようだが、そこまでする気にはなれなかった。

さて、ハリウッド版、というか、ジョージ・クルーニーが主演して、ジェームス・キャメロンとスティーブン・ソダーバーグが作ったソラリスだけども、最初の雨のシーンや、宇宙ステーションに流れているBGMがバッハなのは明らかにタルコフスキー版のオマージュである。レムの原作では、クリス・ケルヴィンは特に誰かに呼ばれたというわけでもなく、何かソラリスで事件があったからというわけでもなく、たまたま何かの通常任務としてソラリスに赴き、そこで宇宙ステーションの異常事態に気付くことになっている。ギバリャンとはかつて一緒に仕事をしたことがあるが、ギバリャンに呼ばれたわけではない。
ケルヴィンの肩書きはたしかに作中で「心理学者」と言及されているが、心理学者だからわざわざソラリスの非常事態に派遣されたのではない。そういうふうな書き方ではない。
ケルヴィンは物理学的な素養も充分持った、一般的な自然科学者として描かれている。

しかしソダーバーグ版では、冒頭でかなりの尺を使って、「精神科医」あるいは「セラピスト」として勤務しているクリスが描かれる。さらに、クリスは一人でベッドに寝ており、「私をもう愛してないのね」という女のセリフが流れることによって、昔つきあっていた女がいたが、今はいないことが示唆される。

そして、知り合いの科学者ジバリャン(原作ではギバリャン)が、ソラリスからビデオメッセージで助けを求めたのでクリスがおもむくことになる。そのメッセージは謎めいていてよくわからない。ジバリャンはいかにも心を病んでいるようにみえる。

このイントロは、おそらくアメリカ社会において、心理学者とか精神科のカウンセラーというものが日常生活に浸透していて、その「わかりやすさ」をシナリオに利用したのだろう。アメリカ人でない私には最初良くわからなかったが。原作にはそんなニュアンスは一切無い。

クリスがソラリスに着いてみるとジバリャンはすでに自殺していた。見ている側では、ああ、ジバリャンは心を病んでとうとう自殺を図ったんだなと思う。クリスは間に合わなかったんだなと思う。そう思えば自然な流れだ。それからスノウ(原作ではスナウト)とゴードン(原作ではサルトリウス)に会う。ジバリャンが何故死んだのかを聞き出すためだ。これまた自然な流れだ。ここまでSF的要素は極めて希薄である。スノウやゴードンという名前もおそらくはSF色(というかロシア色)を消すために変えてある。ソラリスというものについても何も説明されない。単に、クリスはジバリャンの心の治療のために宇宙まで呼び出され、患者はすでに自殺していたという流れだ。レムの原作を知って見ていると何が言いたいのかよくわからない展開だが、先入観無しに見ればそういうことになるはずだ。

いよいよ死んだ妻レイア(原作ではハリー)がクリスの元に現れる。セラピストのクリスが妻を自殺で死なせたという伏線がここで生きてくる。セラピスト自身がソラリスの謎の心理現象に対峙することになるわけなのだが、以後、妻との不仲と和解というものがしばしばメインテーマとなるハリウッド映画路線を突っ走ることになる。死んだ妻との再会、懺悔。ある意味アメリカ映画にありがちな、オカルト的な展開と言えなくもない。

これもハリウッドの事情を知らず、レムの先入観を持っている私などがみると、なんとも意味不明に見えてしまう。おそらくアメリカでは倦怠期の夫婦が映画を見に行くことが多いのだろう。精神科医やカウンセラーに夫婦仲を相談するということも一般的。そういうアメリカ社会の背景を下敷きにしいてみると、やっとこれがすごくわかりやすい映画なんだってことがわかる仕掛けなのである。

でまあそこまで考えてみるに、この映画の脚本家は一応大衆向けの映画を作る気でいたのに違いない。別に難解なソビエト映画のリメイクをやろうとしたのではないのだ。

アメリカではたぶん、男一人で、あるいは女一人で、映画を見に行くというのは罪悪に近いのではないか。だから、アメリカではオタクな映画は流行りにくい。男女の恋愛というものが描かれないと映画館に人を呼びにくい。きっとそういう事情がある。日本で子供向けの映画が流行るのと同じ理由だ。

われわれは自分を聖なる接触の騎士だと思っている。ところがそれが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の世界だけで充分だ。ところが、その地球はまだなんとなく住みにくい。そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。広い宇宙には、地球の文明よりももっと完全な文明をもつ世界があるにちがいない。また、非常に幼稚であったわれわれの過去の生きうつしであるような世界もあるだろう。

原作でレムはスナウトにそう言わせている。これがレムのSFなのだ。他人が書くSFとの違いをここまではっきり丁寧に説明している。レム以外のSFというのは要するに人間自身を映している鏡に過ぎず、実際に起こり得る地球外生命との接触などというものからほど遠いのだ、レムはそう言いたいのである。レムの小説を読む価値はここにある。レムと一緒になって、ほんとうの未知との遭遇とはどんなものだろうかってことをあれこれ思考実験する。人間の持つ先入観と戦う作業。しかしそれでは世間一般のSFにはならないし、ソビエト映画にもハリウッド映画にもならない。観客を映画館に呼ぶこともできない。

ソダーバーグ版の見どころを一つ言えば、スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。難点を言えば、これは人類に不変な真実を描いたものではない。私に言わせればこれはハリウッド映画にありがちな、アメリカ人のオナニーというのに近い。

wikipedia にも書いてあるのだが、90分に縮めた日本語吹き替え版は、レムの原作に近いという意味では良く出来たものになっていると思う。おそらくタルコフスキーよりはレムに同情的な人が、台詞やナレーション、効果音などをふんだんに補完して編集したのに違いない。ある意味力作だと言える。ただしタルコフスキー的要素を完全に切り捨てられなかったために、ラストが意味不明になってしまっている。誰かがレムの小説に忠実に映画化すれば良いのに。そうすればソダーバーグ版やタルコフスキー版を理解する助けになるだろう。

タルコフスキーのソラリス

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は後から付け足したのかもしれない、などと書いたのだけど、タルコフスキーはそれに気付いていたか、或いはレムから直接聞いたのかもしれない。その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。前振りになっていない上に邪魔ですらある。レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。車でバートンとその息子が到着する。この家には少女と馬と犬がいる。この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、バートン報告のビデオなどないし、ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。バートンは息子を連れて帰る。その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。

アメリカ映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。離婚した状態で物語が始まる。或いは別居中である。仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、ヒロインは別れた妻で、子供は妻に取られてて、困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、妻とも子とも仲が良い。しかし軍人なので家を離れがちであり、しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。そんなストーリーはタブーなのだ。

ソラリス

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。

ネタバレはあります。

CGや特撮がしょぼいのはシャレもあるだろうから、そこは批判しないようにしようと思ってたが、だいたいは良かった。それなりにきちんとしている。この映画のCGをハリウッド映画なんかと比較して叩くとかむなしいだろ。

ただ、いろんな路線の電車に爆弾積んでゴジラにぶつけるCGはダサかった。いろんな電車がプラレールかなんかみたいにとびちっててなんであんなことするのかと思った。あれは何か、鉄オタへのサービスのつもりなのだろうか。電車ぶつけても先頭車両の爆薬くらいしか効かないだろう。

で、呑川をさかのぼってくるサンショウウオだかなんかみたいな形態のゴジラは面白かった。ああこれがネタバレかと思った。

自衛隊とゴジラの戦闘シーンはよかった。たぶんこの映画の一番良いところはここだ。多摩川を挟んで自衛隊とゴジラが対決してゴジラが勝っちゃう。米軍との戦闘もまあまあだった。しかしゴジラの背中からビームが何本も出るのは「イデオンかよ」と思って引いた。ゴジラの口から出すビームが「なんだ巨神兵かよ」と思った。

でまあ電車をぶつけるのはどっちらけだった。ビルに仕掛けた爆弾でゴジラが下敷きになるのもどうかと思った。それで口から凝固剤を流し込むのだが、血管注射するならともかく口から入れても入るかしれないし、入っても胃があるなら胃酸で変質してしまうだろうし、注入している間ゴジラがおとなしく気絶しているのがもう全然間抜けで、自衛隊や米軍に対してあんなに強かったゴジラがなんでこんななのかと思う。でそのタンクローリーみたいなのが瓦礫の山の中をどうやってゴジラまで近づくんだよ、近付けたのは奇跡に近いんじゃないかと思う。ともかくこのヤシオリ作戦というのがとてつもなくひどい、と私には思えた。北の丸の屋外に指令本部みたいなのを設置して、なんか迷彩の網みたいなのをかぶして、放射能防護服着てるのだが、なんでそんなことする必要があるのかと思った。別に指令本部は立川にあっても良いんじゃないかと思った。立川じゃなくても良いから北の丸よりもずっと離れた地中とかにあっても良かったはずだ。そういうご都合主義が多すぎた。

首相官邸のすったもんだとかは別にどうでもよかった。石原さとみも言われているほど大根役者ではなかった。ノリとしては政治ドラマというより警察ドラマに近い。政治臭もあるのだが、そんなに良い出来とは思えなかった。例えば「ブラックホークダウン」みたいな、胃に穴が開きそうな緊迫感は無い。あれも結局はアメリカマンセー臭さがあるんだけど、ああいうふうに、実際に戦争してる国が作る映画とはまるで違う物だ。アメリカの属国とかいう言葉も、言いたかったんだろうが、軽い感じがした。

あと、主人公が最初から事故原因を巨大不明生物だと見抜いていたのが不自然過ぎる。

東映のデビルマンを1デビルマンとすれば、シン・ゴジラは1000デビルマンくらいはある。でもいろいろ不満な点はあるので、10000デビルマンではない。

深読みすると、シン・ゴジラは冒頭で行方不明になる牧悟郎なる科学者が生み出したものであり、その「倒し方」も牧悟郎が残した「暗号化資料」にすべて明記されていて、すべては牧による自作自演であり、シン・ゴジラは牧が作った「使徒」なのであるから、これに忠実に沿って実行されたがゆえにヤシオリ作戦は成功したのだ、と解釈できなくもない。「私は好きにした、君らも好きにしろ」という牧の置き手紙もそういう意味。だとしてもやはりあの「倒し方」は納得いかない。

トータル・リコール

トータル・リコール(シュワルツネッガーのほう)をみた。この映画は何度もみているのだが、初めて通してみてみた。良く出来た話だと思う。特に最後まで夢なのか夢じゃないのかわからないしかけ。途中、あ、やっぱ夢なんだなと思わせといて、やっぱ現実かもしれないと思わせる絶妙の駆け引き。味方かと思うと敵、敵かと思うと味方。自分までもが実は敵だったというひっかけ。いやーよくできてるなと思う。

Philip K. Dick という人の短編SF小説 We Can Remember It for You Wholesale が原作になっているという。つまり原作は映画ほどのボリュームはなかったということだ。映画の字幕では inspired by と書かれているので、ざっくり下敷きにしたくらいというのが当たっているのだろう。

原作は明らかに夢では無いという設定でできている。リコール社で注射された narkidrine という薬のせいで、主人公は削除された記憶を徐々に取り戻す、という設定。

映画のほうでは主人公は自ら記憶を取り戻すことはない。主人公は単に昔から何度も火星にいる夢を見る、そこにはいつも同じ女性がいる、というだけだ。リコール社で薬を打たれると火星にいた記憶がよみがえったようにも見えるがそのこと自体が夢だと解釈できなくもない。

最後まで夢かどうかというネタばらしはない。映画を作ったスタッフの意図でそうしたのだ。原作は原作として尊重しつつ、より込み入ったしかけに作り替えたのである。ここまで手をかけておいて最後にやっぱり夢でしたとか、逆に現実でしたなどとネタばらしをするような、野暮はしまい。そういうヒントはすべて注意深く消してあるからだ。

ハリソン・フォードの逃亡者にしても原作のテレビドラマはもっとあっさりしたものだっただろう。それを映画化するにあたってシナリオをみっちりと練り直したのだ。一人の人間が思いつくには話ができすぎている。同じことはシャイニングにも言えるだろう。これが日本だと、原作に手を加えたり、連作にしたりしても、原作を超えることはおろか、原作の味わいまでも壊してしまうことが多いように思う。なので、脚本家は原作をなるだけ忠実に、そのおもしろさを殺さないように映画化してもらいたい、そう願うようになる。

ハリウッドでも、リメイクしすぎてつまらなくなることは多いのだが、そうではない、それよりか微妙に手前の、ほんとうに面白い作品もたまに出るので、そこが面白いなと思う。

西遊記とインド映画

のんびり西遊記など読んでいたのだが、なぜかインドのめちゃくちゃなストーリーのCG映画を思い出した。思うにこれらは根っこは同じなのかもしれない。西遊記はどう考えてもこれは道教、というよりヒンドゥー教かなんかの影響が濃い。こんな無茶なストーリーは中国土着のモノではなかろう。中国の大地から自然に沸いてくるような物語というのはやはり三国志演義とか水滸伝みたいなものではなかろうか。西遊記はかなり毛色が違う。天竺にお経をとりにいく、というのとか閻魔大王とか、こういうのはインドの影響で中国に生まれた文学ではなかろうか。そしてインドでは、手が何千本何万本に分かれて戦い合うみたいな。毛を吹くとその化身が何千体何万体もできるみたいな。千手観音的なおとぎ話がいくらでもあるのではなかろうか。それを3DCGで忠実に再現すると今のインド映画みたいになるのではなかろうか。

2001年宇宙の旅

『2001年宇宙の旅』は今見ればつまらない映画だが、当時はすごかったのに今はなぜつまらなく感じるか、というところを鑑賞しなくては意味のない作品だ。『マカロニほうれんそう』や『8時だよ全員集合』にも同じようなことがいえる。あの頃面白かったものがなぜ今つまらないか。

『2001年宇宙の旅』は、テンポが遅い。あれは、クラシック音楽を聴きながら、宇宙船や宇宙ステーションがゆっくり動くのを眺めるためのもので、いわばイージーリスニングや環境音楽などの走りだったといえる。またそもそもSF映画にクラシックを最初に使ったのは『2001年』だっただろう。『2001年』がなければ『スターウォーズ』も『宇宙戦艦ヤマト』も無い。

猿人の描写なども、着ぐるみを着たお笑い芸人が何度も何度も繰り返しているから、何の変哲もない、ただのありきたりの退屈な映像に過ぎないが、封切当時、つまりアポロで人が月に行ったのと同じくらいに見た人には新鮮だったのに違いない。なにしろ大阪万博よりも、7年も前なのだから。同じ年に『猿の惑星』も出たのが興味深い。

HALが人間を殺す、というのも、Portal の GlaDOS などへの影響を思い起こさせる。

『2001年宇宙の旅』はあまりにも多くの人に影響を与えたから、一度も見たことがなくても、後世の多くの映像を通じて既に見ているのと同じだ。それを初めてみてつまらないと思うのでは古典を鑑賞したことにはならない。

なるほど。『2001年』は公開当初から、「退屈で眠気を誘う」と評されていたのか。New York Timesも、筒井康隆も、星新一も。また興行成績も悪かった。ということは、いきなりこれを、1968年に、人類が月に到達する以前に見た人たちは、一様につまらなく感じたということであり、また、『2001年』を何の予備知識もなしに、いきなり見た現代の若者たちも、やはり同じようにつまらなく感じるのだろう。これはこれで実に興味深い事実だ。逆になぜ私は『2001年』をそれほど退屈に感じなかったのだろうか。いろいろな知識を得てから見たせいだろうか。それとも『2001年』の中に、いろんなSF映画のプロトタイプを観察したからだろうか。あるいは、映像から、無意識のうちに、原作の小説のプロットを補完していたからか?

うーん。結論めいたことを言えば、『2001年』は「おもしろい」と「つまらない」の両極端の評価があって、そのどちらを自分が感じるかということは、あまり自明ではない。だから、やはり、用心して観たほうがよいということか。評価が分かれない作品というのは要するに凡作なのだろう。