トータル・リコール

トータル・リコール(シュワルツネッガーのほう)をみた。この映画は何度もみているのだが、初めて通してみてみた。良く出来た話だと思う。特に最後まで夢なのか夢じゃないのかわからないしかけ。途中、あ、やっぱ夢なんだなと思わせといて、やっぱ現実かもしれないと思わせる絶妙の駆け引き。味方かと思うと敵、敵かと思うと味方。自分までもが実は敵だったというひっかけ。いやーよくできてるなと思う。

Philip K. Dick という人の短編SF小説 We Can Remember It for You Wholesale が原作になっているという。つまり原作は映画ほどのボリュームはなかったということだ。映画の字幕では inspired by と書かれているので、ざっくり下敷きにしたくらいというのが当たっているのだろう。

原作は明らかに夢では無いという設定でできている。リコール社で注射された narkidrine という薬のせいで、主人公は削除された記憶を徐々に取り戻す、という設定。

映画のほうでは主人公は自ら記憶を取り戻すことはない。主人公は単に昔から何度も火星にいる夢を見る、そこにはいつも同じ女性がいる、というだけだ。リコール社で薬を打たれると火星にいた記憶がよみがえったようにも見えるがそのこと自体が夢だと解釈できなくもない。

最後まで夢かどうかというネタばらしはない。映画を作ったスタッフの意図でそうしたのだ。原作は原作として尊重しつつ、より込み入ったしかけに作り替えたのである。ここまで手をかけておいて最後にやっぱり夢でしたとか、逆に現実でしたなどとネタばらしをするような、野暮はしまい。そういうヒントはすべて注意深く消してあるからだ。

ハリソン・フォードの逃亡者にしても原作のテレビドラマはもっとあっさりしたものだっただろう。それを映画化するにあたってシナリオをみっちりと練り直したのだ。一人の人間が思いつくには話ができすぎている。同じことはシャイニングにも言えるだろう。これが日本だと、原作に手を加えたり、連作にしたりしても、原作を超えることはおろか、原作の味わいまでも壊してしまうことが多いように思う。なので、脚本家は原作をなるだけ忠実に、そのおもしろさを殺さないように映画化してもらいたい、そう願うようになる。

ハリウッドでも、リメイクしすぎてつまらなくなることは多いのだが、そうではない、それよりか微妙に手前の、ほんとうに面白い作品もたまに出るので、そこが面白いなと思う。

スーパーサイズミー

スーパーサイズミーという映画はただ30日間、スーパーサイズのハンバーガーを食べ続けたというだけの映画ではなく、アメリカの学校給食事情などが取材されていて興味深い。

アメリカの通常の公立学校の給食というのは、いわば自由主義であって、おそらく国家は給食業者を恣意的に選別してはいけないという思想に基づいているのだろう。だから業者はチョコレートでもポテトチップスでもなんでも売る。もちろんそうではない、ダイエット食のようなものも売る。どの食べ物を選ぶかは子供の自由、あるいは子供をしつける親の責任、ということになる。

で、もし、子供の体重とか健康をきちんと管理したい親は、子供をそのようにしつけるか、あるいはそういうしつけをしてくれる私立の学校に通わせる。

その結果子供も大人もどんどんデブになっていくのでこりゃまずいんじゃないのという考えが、「良識あるアメリカ人」に芽生えてきた。

実際アメリカの飲食店はどれもこれもスーパーサイズでシズラーやデニーズなども日本に比べればはるかにスーパーサイズで、Tボーンステーキとかばんばん出している。マクドナルドだけがスーパーサイズなわけではない。

一方日本では一部にやたらと大盛りの焼肉丼とかラーメンを食う文化があって、それがアメリカのスーパーサイズ文化と或る意味共通していている。

今の秋葉原に行くと、これはアメリカをバカにはできぬと思う。アメリカ以上にバカである。昔はこうではなかった。秋葉原は比較的食文化的には貧困な町であった。食事をしようと思えば御徒町・上野・御茶ノ水、あるいは神田まででかける必要があった。あるいは昭和通り沿いに多少の飲食店があったくらいだ。もちろん皆無ではなくて昔から多少の居酒屋や定食屋などはあったわけだが、わざわざ秋葉原に食事をしにいくという風潮はなかった。夜八時を過ぎると閑散とした町になる。ある意味神保町もそんな町だった。

今の秋葉原はあれは何だ。電子部品やPCパーツを売る店の隣にラーメン屋やハンバーグ屋があってむさくるしい男たちが行列している。あれを見苦しいといわずしてなんといおう。ラーメン屋もじゃんがらが出店したころはまだかわいかった。いまじゃ二郎もどきがどんどん店をだしている。このまま秋葉原が進化しつづけたらと思うと恐怖だ。

電子部品やPCパーツや、せいぜい同人誌なんかを売る町だったころはまだよかった。コスプレしたメイドがちらほら恥ずかし気に歩いてたころはまだよかった。24時間365日不夜城のコミケみたいな町になってしまうのではなかろうか。なんかのテーマパークみたいに隔離したほうがいいんじゃないか。ま、それはそうと、あれは非常に偏見に満ちたプロパガンダ映画にすぎない、ということは言っておくべきかもしれない。

あれを見てハンバーガーは悪いと信じる人はプロパガンダに弱いと自覚すべき。

ああいう恣意的なあおりをドキュメンタリー映画などとと言ってほしくはない。

ゴッドファーザー追記

今では映画が一つあたるとシリーズ化するのが当たり前のようになっているが、ゴッドファーザーの頃はそうでもなかったらしく、続編を作ることにいろんな抵抗があったようだ。二作目は一作目の前の話と後の話でサンドイッチする形で作られており、一作目に相当する時期のちょっとした逸話も挿入されている。もしマーロン・ブランドがヴィト役を引き受けていたらもっとその部分を膨らましただろう。

興行的にはともかくとして、またこの作品が結果として非常に優れているということもおいておいて、この二作目はおそらく作る必要のないものだった。少なくとも一作目から必然的連続的に出てくる話ではない。

コッポラはのちに地獄の黙示録を作ったように、キューバ革命を描きたかったのだろう。 いや話はほんとは逆で、当時同時進行していたベトナム戦争が、かつてのキューバ革命をコッポラに思い出させたのだろう。彼の関心はアメリカという国の大義名分というものではなかったか。あるいはアメリカ人を負かしたベトナム人やキューバ人に興味があったのかもしれない。マフィアの話を書きたいのでもなかったかもしれない。コッポラはヴィトやマイケルになんとかして表の世界、つまり知事や上院議員などの仕事に就かせようとする。裏社会の話は彼にはどうでも良い気がしていたのではないか。

コッポラにはゴッドファーザーという持ちネタがあったから、ある意味それに引きずられて、続編という形で作ることになる。キューバのバチスタ政権と結んで、フロリダ州マイアミを拠点して大儲けしていたユダヤ系のマフィアがマイヤー・ランスキー、彼はHyman Rothのモデルである。友人のベンジャミン・シーゲルは同じユダヤ系でMoe Greeneのモデルである。

コッポラは一作目から二作目へ話を橋渡しするためにモー・グリーンを使った。一作目でモー・グリーンとロスはヴィトの商売仲間であり、ヴィトはモーがラスヴェガスでホテルやカジノを経営するための資金を提供し、その代りできの悪い息子のフレドをモーに預けている。モーは一作目で死に、ロスは二作目から出てくる。モーはイタリア系マフィアのナンバーツーでコルレオーネ家に敵対する黒幕のEmilio Barziniと親しかった。バルジーニは、麻薬に手を出さず政治家を独占しているヴィトの勢力を切り崩そうとしていた。それは割と映画の中で丁寧に説明されている。マイケルは父ヴィトと相談の上でラスヴェガスのモーを圧迫し、ヴィトの死後モーやバルジーニを殺害する。ロスはハバナでヴィトと商売をした仲であったが、やはりヴィトの死後、友人モーの件を遺恨に持って、マイケルを殺そうとする。だがそのモーとロスの関係がいまいち弱い気がするんだよなあ。

上院議員のPat Gearyはものすごく緻密に描かれているのに対して、ロスはいまいちとってつけたようだ。コッポラという人はよほど政治家(政治、戦争、革命etc)に興味があるように思える。

ゴッドファーザー2でコッポラはキューバ革命をやりたかったのでしょうか。というよりキューバ革命だけ独立させた別の映画を作ればよかったようにも思えます。いろんなことを詰め込みすぎています。

その視点は非常に鋭く、映画史や映画批評の観点からも実に多くの議論がなされてきた本質的なポイントです。

結論から言うと、コッポラ自身が「キューバ革命を描く映画」を単独で作りたかったというよりは、「マイケル・コルレオーネという男の精神的没落」と「アメリカン・ドリームの光と影」を極限まで描ききるために、キューバ革命という歴史的大事件がどうしても不可欠だったというのが真相に近いと言えます。

なぜコッポラがキューバのパートを独立させず、あえて『ゴッドファーザー PART II』の中に組み込んだのか、いくつかの理由に分解して整理してみます。

1. キューバ革命は「コルレオーネ帝国の崩壊」の象徴

『PART II』の核は、「父ヴィトーの築き上げた家族の絆」が、「息子マイケルの冷徹な事業拡大」によって崩壊していく対比です。

マイケルがキューバに進出したのは、カジノやホテルビジネスを国家(バティスタ政権)と癒着して合法的に支配し、帝国の頂点を極めるためでした。しかし、その頂点に立った瞬間にキューバ革命が勃発し、すべてが一夜にして霧散します。

  • 資本主義と欲望のピーク(ハバナの豪華ホテル)
  • 一瞬での絶望的な瓦解(カストロ派の勝利による逃走)

この一連のドラマは、マイケルが手に入れた巨大な権力が「いかに脆く、虚しいものか」を鮮やかに浮き彫りにします。もしキューバ革命がなければ、マイケルの「事業的失敗」を描く説得力が弱くなってしまったのです。

2. 「金で買えないもの」を知る重要なシークエンス

映画の中で、マイケルが「カストロ率いる反乱軍が勝つかもしれない」と直感する有名な場面があります。

ゲリラの兵士が捕まる際、手榴弾で自爆して政府軍の警官を道連れにする様子を車内から目撃したマイケルは、ハバナのホテルでマヤー・ランスキー(作中ではハイマン・ロス)らにこう語ります。

「政府軍の兵士は給料のために戦っているが、反乱軍の兵士は信念のために戦っている。だから彼らは勝てる」

「金や恐怖で人間を支配できる」と信じ切っていたマイケルが、命を捨ててでも信念に生きる人間(革命軍)の圧倒的なエネルギーに直面し、自分の支配体系の限界を悟るという、マイケルの内面的変化を描く上で極めて重要な意味を持っています。

3. 歴史の渦と「詰め込みすぎ」の構造

確かに『PART II』は、以下の要素が重なり合っており、要素が極めて多い作品です。

  1. 若きヴィトーの成長伝(1900〜1920年代:ファミリーの誕生)
  2. マイケルの冷徹な権力闘争(1950年代:ファミリーの空中分解)
  3. ワシントンの公聴会(国家権力との対決)
  4. キューバ革命(国際政治と巨額ビジネスの暗雲)
  5. 兄弟の裏切りと粛清(フレドとの悲劇)

コッポラと原作者のマリオ・プuzoは、単なるマフィアの復讐劇だった1作目を越えて、「アメリカという国家の近代史そのもの」を映画の中に凝縮しようとしました。

「移民が苦労して一族を成した時代(ヴィトー)」から、「資本主義の欲望が国境や政治までをも飲み込み、最後には身内すら殺し合う時代(マイケル)」への変遷を描くにあたり、1950年代末のハバナはアメリカ合衆国の強欲さと挫折を映し出す最高の舞台だったのです。

もしキューバ革命だけで別の映画を作っていたら?

おっしゃる通り、「キューバ革命とマフィアの癒着」だけに焦点を絞った映画(たとえば『ハバナ』やマフィアのハバナ会議を中心にしたサスペンス)としても、間違いなく見応えのある単体作品になったはずです。

しかし、コッポラがあえてそれを『PART II』という巨大なジグソーパズルの一片として組み込んだからこそ、「父のノスタルジックな時代」と「息子の冷酷な時代」の対比がより一層際立ち、単なるマフィア映画を超えた「大河悲劇」としての映画史的金字塔になったと言えます。

「詰め込みすぎ」と感じられるのは至極当然の密度の濃さですが、その過剰なまでのスケール感こそが『PART II』が持つ独特の凄みや重厚みを生んでいる理由でもあります。

モー・グリーン

ざっとネットを検索した限りでは、ゴッドファーザーについて書かれているブログやらwikiというのは、ゲーム版の攻略サイトであったり、或いはアル・パチーノがかっこいいとかマーロン・ブランドがしぶいとかそんなことばかり書かれていて、ウィキペディアを見ても情報量が少なすぎて何のことやらわからない。小説の Godfather をまずは読むべきなのかもしれない。

でまあ、映画1作目のゴッドファーザーではコルレオーネ一家が突然ニューヨークを捨ててラスヴェガスに移る。クレメンザやテシオなどの部下は独立してニューヨークに一家をかまえる。ラスヴェガスにはモー・グリーンというユダヤ系のマフィアがずっと前から仕切っている。

なぜマイケルはラスヴェガスに移ろうとしたのか。なぜにニューヨークを捨てるのか。かなりわかりにくい。ラスヴェガスで堅気の仕事を始めようとしたという説明もあるようだが、納得しがたい。

モー・グリーンのモデルであるベンジャミン・シーゲルはユダヤ系移民の子でブルックリンに生まれる。主にユダヤ系のマフィアとつるんだが、イタリア系のマフィアとも関係した。ニューヨークからカリフォルニアに移って成功し、それからラスヴェガスに進出した。ヴィト・コルレオーネに敵対する黒幕エミリオ・バルジーニは、ニューヨークの五大ファミリーの一つのボスで、アメリカ全土でも、コルレオーネ一家に次ぐ勢力である。


追記 20260927

コルレオーネ一家はなぜニューヨークからラスベガスに拠点を移したのですか。

映画『ゴッドファーザー』シリーズにおいて、コルレオーネ一家が1950年代にニューヨークからネバダ州ラスベガスへ拠点を移した主な理由は、合法ビジネスへの脱皮(表の経済活動への移行)と組織の存続・再構築を果たすためです。

具体的な背景には、以下の3つの大きな要因があります。

1. カジノ産業を通じた「合法化」の推進

ヴィトー・コルレオーネの後を継いだマイケル・コルレオーネは、コルレオーネ一家をマフィアという裏社会の組織から、合法的な企業グループへと変革させることを最優先事項としていました。

当時、ラスベガスはギャンブルが合法化された一大成長都市であり、カジノやホテルへの投資・経営は、膨大な裏金を合法的な利益(洗金)へと変換し、真の「ビジネスマン」へシフトするための絶好の機会でした。

2. ニューヨークにおける旧来型抗争の限界

第一部で描かれた「五大ファミリー」との全面戦争により、ニューヨークでの裏社会のパワーバランスは極めて不安定になり、警察や取締当局からの監視も急速に強まっていました。

売春や裏ギャンブルといった従来の犯罪ビジネス依存から脱却し、急速に発展する西部の新興地へ移ることで、政府の取締網や泥沼の抗争から距離を置く狙いがありました。

3. 一家の一極集中支配と権力強化

ラスベガスでは、既にヴィトーの長男ソニーの死後、次男フレドが現地に派遣され、モー・グリーンとともにカジノ事業の基盤を築いていました。

マイケルはモー・グリーンらを排除してカジノの利権を全面的に手中に収めることで、西海岸・ラスベガスにおける強大な経済的支配権を確立しようとしました。

※ただし『ゴッドファーザー PART II』で描かれるように、ラスベガスへ移転した後もキューバの事業進出をめぐる陰謀や組織内の裏切りに巻き込まれ、マイケルが望んだ完全な「合法化」は容易には達成されませんでした。

ゴッドファーザー2

面白いんだが、よくまあこんな複雑な話を作ったものだと思う。しかも長い。

少し無理があるなと思うのは、マイケルがネヴァダからマイアミへロスに会いに行き、その後ニューヨークでフランクに面会したときに、マイケルを襲撃した黒幕がロスであることに気づいてたということだ。ネヴァダにいた頃から気づいていたのか。マイアミで直接ロスにあって直感したのか。それともフランクの反応を見て最終的に確信にいたったのか。語られていないことが多いのだが、いずれにせよ、あれだけのヒントでどうしてロスが黒幕と断定できるのか。そこにかなり無理を感じる。

ロスのモデルはマイヤー・ランスキーというユダヤ系ロシア人であろう。革命前のキューバでのしあがったマフィア。カストロが親米政権を倒すとラスヴェガスの賭博に目をつける。晩年イスラエル国籍を得ようとするが拒否される。映画の中の設定と同じだ。

ラスヴェガスのカジノ産業を創始したモー・グリーンというマフィアのモデルはベンジャミン・シーゲル という人らしい。モー・グリーンは一作目のゴッドファーザーでコルレオーネ一家の敵役として登場しているのだが、ロスはモー・グリーンと同じユダヤ系マフィアであって、それゆえにラスヴェガスに進出してこようとしているマイケルを敵視しているらしいのだが、これも本作だけを見ている限りではよくわからない。

でまあ、これらの実在したユダヤ系のマフィアと、イタリア系のマフィアが、ラスヴェガスのカジノの利権を巡って対立したという抗争はあったのだろうし、それがストーリーの下敷きになっているのだが、それをあの映画を見ただけでわかれというのはちと難しい。

最初、マイケルの息子のアンソニーの初聖体式を祝うパーティーが開かれていて、その場にネヴァダ州選出の上院議員パット・ギーリーという人が出てくる。ギーリーはマイケルにカジノを認可する代わりに賄賂を要求するが、マイケルは拒絶。ギーリーはイタリア系移民を嫌う生粋のアメリカ人(アングロ・サクソン?)として描かれている。次にロスの手下ジョニー・オラと会って、ロスの協力を得る。次にフランクとあって、ニューヨークでロスの一派のロサト兄弟と和解するよう告げる。その夜にマイケルはマシンガンで襲撃されるのだが、この時点で黒幕は、ギーリーなのか、ロスなのか、フランクなのか、それとも他に誰かいるのかわからない。

ギーリーは後にマイケルの兄フレドが経営する風俗店で女の死体と一緒に寝ていたところを発見されるのが、理由は語られないが、おそらくコルレオーネ一家にはめられたということだろう。以後弱みを握られたギーリーは公聴会に召喚されたマイケルを擁護する立場を演じる。

フランクは公聴会に証人で呼ばれるのだが、彼はマイケルに殺されかけたと疑っており、 マフィアのボスとしてのマイケルの実像を公聴会で話すはずだったが、フランクの兄が急遽イタリアからかけつけてきて、それを見たフランクは一転してマイケルの容疑を否認する。ここがまたよくわからない。兄がマイケルと一緒にいたからマイケルを恐れたのか。 或いはマイケルに対する信用を回復したのか。フランクはなぜFBIによってずっと拘留されているのか。なぜフランクは、ロスが殺されると同時に自殺しなくてはならなかったのか。ここらへんもきちんとは説明されていない。

その上、マイケルの父ヴィトーの前半生も同時に描かれているので、ややこしいことこの上ない。

追記20260927

マイケルを機関銃で襲撃させたのは誰ですか。

ネバダの自宅でマイケルとケイが寝室で襲撃された事件(銃撃事件)の手引きをした黒幕は、ハイマン・ロス(Hyman Roth)です。

ただし、「襲撃の実行」と「黒幕」の関係には、映画の中で重要な二つの要素が絡んでいます。

1. 黒幕(指示を出した人物):ハイマン・ロス

マイケルを排除し、キューバでの巨大なカジノ利権やビジネスを独占するために、陰で糸を引いていたのはハイマン・ロスでした。

マイケル自身も最初からロスを疑っていましたが、犯人を油断させて裏のネットワークを暴き、キューバでのビジネスを進めるために、あえて「ロスを信頼しているフリ(親交を保つフリ)」を続けていました。

2. 内通者(家の中に手引きした人物):フレド・コルレオーネ(マイケルの兄)

屋敷の敷地内や寝室のカーテンが開け放たれていたことなどから、屋敷の「内部人間」の手引きがあったことは明確でした。その内通者となっていたのがマイケルの実の兄であるフレドです。

フレドは「自分は家族の中でずっと軽視され、落ちこぼれ扱いされてきた」という強いコンプレックスを抱えていました。そこをロスの側近であるジョニー・オラにつけ込まれ、「お前にしかできない重要なビジネスだ」「マイケルにも利益になる」と唆されて情報を流してしまったのです。

※フレド自身は「マイケルを殺すつもりだった」とは知らず、単にマイケルを脅迫して交渉のテーブルに着かせるためのものだと騙されていた可能性が高いですが、結果的にマイケルを絶体絶命の危機に晒すことになりました。

まとめ

  • 黒幕(首謀者): ハイマン・ロス
  • 手引きした内通者: フレド・コルレオーネ(兄)
  • 実行犯: ロスが雇った刺客たち(襲撃直後に口封じのため殺害され、遺体で発見される)

この襲撃事件こそが、マイケルに「実の兄であるフレドを粛清する」という哀しい決断をさせる決定的な引き金となりました。

マイケルはロスとフレドの関係にいつ気付きましたか。

マイケルがフレドとロスのつながりを確信したのは、キューバ(ハバナ)のナイトクラブでショーを見ている最中です。

それまでの経緯と、決定的な瞬間の流れは以下の通りです。

1. 確信に至るまでの流れ

  • 襲撃直後:マイケルは「屋敷の内部に裏切り者がいる」ことを見抜いていましたが、それが実の兄であるフレドだとはまだ確信していませんでした。
  • ハバナでの接触:マイケルはビジネスの交渉のためにハバナに入り、後からやってきたフレドに「ハイマン・ロスやその側近(ジョニー・オラ)を知っているか?」と尋ねます。この時、フレドは「会ったこともない、名前くらいしか知らない」と嘘をつきました。

2. 決定的な瞬間(ナイトクラブのシーン)

マイケルは上流階級の要人やフレドを連れて、ハバナのナイトクラブ(アダルトショーの観覧)へ行きます。

そこで酒に酔ったフレドが、テンションが上がって周りの客にこう自慢げに話してしまいます。

「ジョニー・オラが俺をここに連れてきてくれたんだ。あいつは最高の場所を知ってるんだよ!」

この発言を聞いた瞬間、マイケルは固まります。

「会ったこともない」と言っていたはずのジョニー・オラと、フレドが以前から深く付き合っており、ハバナの街を案内されるほど密接な関係だったことが完全に露呈した瞬間でした。

3. その後の有名な「死のキス」

自分が裏切られていたこと、そして屋敷襲撃を手引きした内通者が実の兄だったことを悟ったマイケルは、カウントダウンの年越しパーティ(1959年のカウントダウン)の混乱の中、フレドを引き寄せて強烈なキス(シチリアのマフィアで「お前の裏切りを知っている」「死」を意味するキス)をし、こう言い放ちます。

「知っていたぞ、フレド。お前だと分かっていた。俺の心を折ったな……俺の心を!」

(I know it was you, Fredo. You broke my heart. You broke my heart!)

このハバナの夜に、マイケルの中で「兄フレドへの絶望」と「冷酷な粛清への決意」が完全に固まることになります。

マイケルは、ロスがハバナでケーキを切ってみなに食べさせていたときに、すでにロスが黒幕だと確信していたのでしょうか。

はい、ケーキのシーンの時点(それどころかハバナに行く前)で、マイケルはロスが黒幕であることを完全に確信していました。

あのケーキのシーンは、マイケルが「ロスが黒幕だと知りながら、それを隠して探りを入れ合っている」という極めて高度な化かし合い(心理戦)の象徴的な場面です。

時系列とマイケルの思考を整理すると、真相がよく分かります。

1. ハバナに行く前にすでに確信していた

自宅襲撃の直後、マイケルは信頼するトム・ヘイゲンに対してはっきりと「ロスが自分を殺そうとした」と明かしています。

マイケルは、自分とロス、そしてペンタンジェリ(ニューヨークのボス)の三角関係を冷徹に分析していました。ロスはペンタンジェリを排除しようとしており、マイケルが邪魔になったため殺そうとしたのだと即座に見抜いていたのです。

2. なぜ黒幕だと知りながらハバナへ行き、ケーキを食べたのか?

マイケルがロスをその場で殺さず、笑顔でハバナまで赴いてビジネスの交渉を続けた理由は2つあります。

  1. 屋敷の手引きをした「内部の内通者(裏切り者)」が誰かを見極めるため
  2. ロスの命を奪う前に、彼のビジネスや狙いの全貌を掴み、罠にハメ返すため

ハバナのホテルのテラスで、ロスが自分の誕生日を祝ってキューバの地図が描かれたケーキを切り分け、「みんなで分け合おう」と投資家たちに配る有名なシーンがあります。

あの時、マイケルはロスの「キューバをアメリカのビジネスマンたちで山分けしよう」という強欲な提案を静かに聞きながら、「こいつが俺を殺そうとした男だ」と完全に分かった上でケーキを受け取っています。

3. ケーキの後の「マイケルの反撃」

マイケルはこのケーキのシーンのすぐ後に、病床のロスを訪ねて「誰がペンタンジェリを殺そうとしたのか?」とあえて尋ねたり、病院でロスの暗殺を試みたりします。

つまり、ハバナでのマイケルの行動はすべて、「ロスが黒幕である」という絶対の確信の上に立った演技と復讐の準備だったのです。

そして、その化かし合いの最中に、思いもよらず「実の兄フレドがロスの手先(内通者)だった」という最悪の事実をナイトクラブで知ることになり、マイケルの絶望が頂点に達することになります。

ペンタンジェリとはつまりフランキーのことですね。

はい、その通りです!

劇中で「フランキー」または「フランク」と呼ばれている人物の本名(フルネーム)が、フランク・ペンタンジェリ(Frank Pentangeli)です。

作中での彼の立ち位置を整理すると、より分かりやすくなります。

  • 本名: フランク・ペンタンジェリ(Frank Pentangeli)
  • 愛称: フランキー(Frankie)、または「ペンタンジェリ」
  • 立場: かつてクレメンザ(1作目でヴィトーの右腕だった男)の部下で、クレメンザの死後にニューヨークの旧コルレオーネ縄張りを引き継いだ古参の幹部。

彼の存在が重要だった理由

フランキーは古き良きシチリアの伝統や「家族」の絆を大切にする熱血漢で、ビジネスライクに割り切るマイケルのやり方や、ハイマン・ロスとの提携にずっと不満を持っていました。

しかし、ロスらの罠によって「マイケルに裏切られて殺されかけた」と勘違いさせられ、公聴会でマイケルに不利な証言をする検察側の「決定的な証人」になってしまいます。

映画の後半、公聴会の場でシチリアから連れてこられた実の兄(ヴィンチェンツォ)の姿を見たフランキーが、マフィアの掟(沈黙の誓い=オメルタ)を思い出して証言を翻すシーンは、『PART II』の中でも屈指の名場面です。

ロスを枕で窒息させようとして兵士に射殺されたのは誰ですか。黒幕はマイケルですか。

その男はマイケルの側近(ボディガード/ヒットマン)であるブスセッタ(Bussetta)です(劇中では単にマイケルの「用心棒」や「ボディガード」として描かれています)。

そして、黒幕(指令を出した人物)は間違いなくマイケルです。

このハバナの病院での暗殺未遂シーンの経緯と意図は以下の通りです。

1. 事件の流れ

  • 指示: マイケルはハバナ滞在中、ロスの病状が悪化して病院に運び込まれたタイミングを見計らい、自らのボディガードに「ロスを抹殺しろ」と命じました。
  • 実行: ボディガードは夜間に病院のロスの部屋へ潜入し、ベッドで横たわるロスの顔に枕を押し当てて窒息死させようとします。
  • 結末: あと一歩のところで、バティスタ政権の警備兵(政府軍の兵士)が部屋に踏み込んできて、ボディガードはその場で射殺されてしまい、ロスの暗殺は失敗に終わりました。

2. なぜこのタイミングだったのか?

マイケルはハバナに入る前から「ロスが自分を襲撃させた黒幕である」と知っていました。

しかし、あえてキューバでビジネスの話を進めるフリをしていたのは、ロスの暗殺計画と同時にロスの手先(ジョニー・オラら)もまとめて排除し、自分の命を狙ったツケをハバナの地で一気に支払わせるためでした。

実際、この病院での襲撃とほぼ同じ時刻(大晦日の夜)に、マイケルの命を受けたブシェッタの仲間(別の刺客)がジョニー・オラを絞殺しています。

3. 直後に起きた「計算外の事態」

マイケルにとって誤算だったのは、この暗殺事件のまさにその夜にキューバ革命が完結してしまったことです。

ロスをあと一息で殺せるという瞬間にカストロの反乱軍がハバナに突入し、バティスタ大統領は亡命、街は大混乱に陥りました。警備兵が病院に押し寄せてボディガードが撃たれたのも、この革命勃発による混乱の最中でした。

結果として、ロスの暗殺はこの時点では失敗し、マイケルもハバナからの緊急脱出を余儀なくされることになります。

バティスタ政権の警備兵はなぜ来たのですか。革命が始まったのでロスを保護しにきたのでしょうか。

結論から言うと、「バティスタ大統領の退陣(亡命)が決まったため、重要人物であるロスを救出・護衛(あるいは政権崩壊を伝えるため)に兵士たちが駆けつけた」というのが主な理由です。

彼らは暗殺者(ブスセッタ)がいると分かって撃ち込んできたのではなく、「部屋に入ったらたまたま枕でロスを殺そうとしている男を見つけたので射殺した」というシチュエーションでした。

この展開には、映画の背景とファンの間での考察を含めていくつか重要なポイントがあります。

1. バティスタ政権とロスの「深い蜜月関係」

ハイマン・ロス(モデルは実在の大物マフィア、マイヤー・ランスキー)は、バティスタ大統領に巨額の賄賂を贈り、キューバのカジノやホテル利権を牛耳る「最大級のビジネスパートナー(VIP)」でした。

そのため、政権崩壊の土壇場においても、バティスタ側にとってロスは優先的に身の安全を確保し、国外へ逃がさなければならない最重要人物の一人だったのです。

2. 暗殺失敗の真相(運悪く重なった革命)

マイケルのボディガード(ブスセッタ)は、病院に潜入して枕でロスを窒息死させようとしました。あと数秒で完了するというまさにその時、兵士たちが部屋に踏み込んできました。

  • 革命軍がハバナに迫り、バティスタ大統領が正式に辞任を発表する直前、政権側は急いで要人の保護と避難の手配を進めていました。
  • 兵士たちは「ロスを緊急避難させるため」部屋に入ったところ、目の前で枕を押し当てているブスセッタを目撃し、反射的に射殺したのです。

3. もうひとつの裏考察(フレドが密告した説)

ファンの間や脚本の解釈として「フレドが通報したのではないか」という有名な説もあります。

マイケルはハバナのカフェでフレドに対し、「ロスは新年(カウントダウン)を迎えられない(=今夜殺す)」と告げていました。パニックになったフレドが、マイケルの企みを阻止しようと(あるいはロスの陣営に連絡して)警備を向かわせたという解釈です。

まとめ

演出上の最大の意味は、「マイケルの完璧な計算が、歴史の巨大なうねり(キューバ革命)によって狂わされた」という点にあります。

どれだけ冷酷で用意周到なマイケルでも、一国の政権崩壊とそれに伴う兵士たちの予期せぬ動きまではコントロールできず、あと一歩のところでロスの暗殺を取りこぼしてしまったのです。


いやはや。よくわからずに見ていたことがはっきりした。ネタバレは AI に聞くに限るな。これをネットであちこち検索していたらものすごい時間がかかるところだ。

相棒

今水谷豊主演の「相棒」という刑事ドラマがばんばん流れているので自然と目に入るのだが、割と見れる作品だ。税金でまかなわれている警察という組織、そして警察官という公務員が、法律の範囲内で、事件にどこまで踏み込めるか、そもそも「刑事事件」とは何かということを、きちんとわきまえた上で作られているからだ。単なる娯楽番組ではない、教養番組になっている。

かつて踊る大捜査線に感じたような不愉快さがない、ということだ。むろん、わかっているつもりだ、制作側は。悪いのはそれを流行らせた一般視聴者だ。

その昔の西部警察なんてのは日本の警察官がショットガンやスナイパーライフルぶっぱなしたりして、あれだとまああきらかに虚構だとわかるからまだ害はないのかもしれない。

まともかく世の中は少しずつまともな方向へと進化しているんだと思う。

西遊記とインド映画

のんびり西遊記など読んでいたのだが、なぜかインドのめちゃくちゃなストーリーのCG映画を思い出した。思うにこれらは根っこは同じなのかもしれない。西遊記はどう考えてもこれは道教、というよりヒンドゥー教かなんかの影響が濃い。こんな無茶なストーリーは中国土着のモノではなかろう。中国の大地から自然に沸いてくるような物語というのはやはり三国志演義とか水滸伝みたいなものではなかろうか。西遊記はかなり毛色が違う。天竺にお経をとりにいく、というのとか閻魔大王とか、こういうのはインドの影響で中国に生まれた文学ではなかろうか。そしてインドでは、手が何千本何万本に分かれて戦い合うみたいな。毛を吹くとその化身が何千体何万体もできるみたいな。千手観音的なおとぎ話がいくらでもあるのではなかろうか。それを3DCGで忠実に再現すると今のインド映画みたいになるのではなかろうか。

2001年宇宙の旅

『2001年宇宙の旅』は今見ればつまらない映画だが、当時はすごかったのに今はなぜつまらなく感じるか、というところを鑑賞しなくては意味のない作品だ。『マカロニほうれんそう』や『8時だよ全員集合』にも同じようなことがいえる。あの頃面白かったものがなぜ今つまらないか。

『2001年宇宙の旅』は、テンポが遅い。あれは、クラシック音楽を聴きながら、宇宙船や宇宙ステーションがゆっくり動くのを眺めるためのもので、いわばイージーリスニングや環境音楽などの走りだったといえる。またそもそもSF映画にクラシックを最初に使ったのは『2001年』だっただろう。『2001年』がなければ『スターウォーズ』も『宇宙戦艦ヤマト』も無い。

猿人の描写なども、着ぐるみを着たお笑い芸人が何度も何度も繰り返しているから、何の変哲もない、ただのありきたりの退屈な映像に過ぎないが、封切当時、つまりアポロで人が月に行ったのと同じくらいに見た人には新鮮だったのに違いない。なにしろ大阪万博よりも、7年も前なのだから。同じ年に『猿の惑星』も出たのが興味深い。

HALが人間を殺す、というのも、Portal の GlaDOS などへの影響を思い起こさせる。

『2001年宇宙の旅』はあまりにも多くの人に影響を与えたから、一度も見たことがなくても、後世の多くの映像を通じて既に見ているのと同じだ。それを初めてみてつまらないと思うのでは古典を鑑賞したことにはならない。

なるほど。『2001年』は公開当初から、「退屈で眠気を誘う」と評されていたのか。New York Timesも、筒井康隆も、星新一も。また興行成績も悪かった。ということは、いきなりこれを、1968年に、人類が月に到達する以前に見た人たちは、一様につまらなく感じたということであり、また、『2001年』を何の予備知識もなしに、いきなり見た現代の若者たちも、やはり同じようにつまらなく感じるのだろう。これはこれで実に興味深い事実だ。逆になぜ私は『2001年』をそれほど退屈に感じなかったのだろうか。いろいろな知識を得てから見たせいだろうか。それとも『2001年』の中に、いろんなSF映画のプロトタイプを観察したからだろうか。あるいは、映像から、無意識のうちに、原作の小説のプロットを補完していたからか?

うーん。結論めいたことを言えば、『2001年』は「おもしろい」と「つまらない」の両極端の評価があって、そのどちらを自分が感じるかということは、あまり自明ではない。だから、やはり、用心して観たほうがよいということか。評価が分かれない作品というのは要するに凡作なのだろう。

マダガスカル

テレビでマダガスカルを見る。 マダガスカル2広報用にぶつぶつに編集されCMを挿入されたやつだが、まあおよその雰囲気はわかった。 これは、ジャングル大帝などでは曖昧にぼかされていた禁断のテーマをパロディ的に解決したものであって、動物園を逃げたライオンが仲間の草食動物ではなくて寿司を食うことによって野生の本能をコントロールするというもの。 なんかかなり納得できないというかそれでいいんかいというものを感じた。