夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『坑夫』をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、ちょうど

いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。さらに進むと、

そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。春日部がどんなだかは知らない。

ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、そっちは取材してなくて、たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

追記あり

万歳

半七捕物帳 三河万歳 に屋敷万歳や町万歳、出入り万歳、乞食万歳、 などという言葉が出てくるが、 普通の国語辞典や古語辞典を見ても意味が通じない。 ネットを検索してみると、 正月に武家屋敷や町屋などを回って、悪鬼を祓い福をもたらす芸のようなもの、 千秋万歳というのが正式らしい。

コトバンク

まんざい【万歳】

民俗芸能。祝福芸,門付芸の一つ。正月に家々の座敷や門口で予祝の祝言を述べたてるもので,〈千秋万歳(せんずまんざい)〉の末流と考えられる。平安時代後期成立の《新猿楽記》には〈千秋万歳之酒禱〉と見え,千秋万歳はこのころすでに職能として存在していたと思われる。鎌倉時代以降には宮中をはじめ寺社,武家などの権門を訪れるようになり,室町時代の中ごろには一般の民家にも門付してまわるようになった(《臥雲日件録》)。

せんずまんざい【千秋万歳】

〈せんじゅまんざい〉とも読む。正月の祝福芸能の一つ。また,それを業とする者をさす場合もある。鎌倉期では《明月記》《勘仲記》などにその参入の記事がみえる。《名語記》によると散所法師が初子の日に家々を訪ねて行う祝言芸で,それによって禄物を得たという。室町期に入ると,声聞師が正月に禁裏(5日),公方邸(7日)をはじめ,諸家に赴いて,千秋万歳を演じ,曲舞を舞った記録が多い。

岩波古語辞典

年の初め、家々を訪れて、家門・寿命の長久を祝い、歌舞を演じて回った下級の法師・陰陽師。

今日万歳参啓、祝言、退出。

一種の乞食輩、歳首に人家に到り祝言を歌ふ、世に之を万歳と号す

万歳はマンザイとも読み、漫才に通じるという。 もともと漫才は正月にやるおめでたい芸能だったのかもしれず、 今の正月三ヶ日のテレビ番組にその痕跡があるといえるのかもしれない。

尾張万歳というものもあるらしく、三河万歳とか、もともとあの辺りから回ってくる渡り芸人的なもの、 もしかすると熱田神宮や伊勢神宮なんかに属する祝(はふり)や巫女(かむなぎ)などの渡りの神職とか、山伏などと関係するものなのかもしれない。

『半七捕物帳』は関東大震災以前に書かれた時代小説なので(※連載後半は違う)、東京にも江戸の町並みがほぼそのまま残っていただろうし、 作者の岡本綺堂も、江戸時代の生き証人から直接話を聞くことができたのだろう。 江戸時代のことをうだうだ書いている私にとっては、当時の江戸の雰囲気が感じられる、非常に貴重なものだ。 明治維新からまだ50年弱しかたってない。 彼にとっての江戸は、私にとっての昭和30年代みたいなものなわけだ。

野村胡堂は、文藝春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、『銭形平次』を書いたという。 昭和の戦前戦後に渡って書かれたものだ。 『新選組始末記』は昭和の初め。 『鬼平犯科帳』ともなると完全に戦後だ。 このへんになるともうあまり役に立たない。 永井荷風の作も、役に立つような立たないような。

もっと江戸や明治の小説をきちんと読まねばな。

「どうだ、半七。けさの行き倒れは、何者だと思う。あんな因果者を抱えているのをみると、香具師やしの仲間かな」と、弥兵衛は云った。

「さあ、手のひらの硬い工合ぐあいがどうも才蔵じゃねえかと思いますが……」

「むう。おれもそう思わねえでもなかったが、香具師ならば理窟が付く。やあぽんぽんの才蔵じゃあ、どうも平仄が合わねえじゃあねえか」

「ごもっともです」と、半七も考えていた。「しかし旦那の前ですが、その平仄の合わねえところに何か旨味があるんじゃありますまいか。ともかくもちっと洗いあげてみましょう」

「平仄が合わない」こんな使い方するんだな。

才蔵。

雑芸人の名称。千秋万歳や万歳はふつう2人一組で演じられ,一方を太夫,一方を才蔵と称する。
万歳は太夫と才蔵の掛合が基本で,太夫は烏帽子,直垂(または素襖)姿,才蔵は投頭巾(大黒頭巾)に裁着姿が一般的である。シテ役の太夫は扇子を持って千代万歳の祝言を言い立て,才蔵はワキ役で太夫の語りの間をぬって相槌を打ち,鼓を打ち鳴らし,囃したり,歌ったりしながらモドキの役割と滑稽な三枚目を演じる。

正月の万歳に小鼓を打ちながら大夫の相手をして人を笑わせる役

才蔵は飲みかねまじき面っ付

「やあぽんぽんの才蔵」とは、よくわからんが、要するに太鼓叩きの芸人、とでもいう意味か。

悪質な香具師に因果者師というのがいて、身障者を見世物にして、 「親の因果が子に報い」などとやったらしい。 なので、香具師が子供を抱えて行き倒れしたなら平仄が合う、太鼓持ちだとちとおかしい、そう言いたいわけだ。 で実際この子供は生まれつき犬歯が生えた鬼っ子で・・・。 なんかむずいな。

江戸の役人事情

予想したのと全然違ってドロドロした話で、 江戸時代の幕臣ってすげー腐敗してたんだなあとか、 まあ、勝海舟とか大塩平八郎とか子母沢寛とかの話をさらに生々しくした感じで、 興味深く読んだ。 しかし怖いのでたぶん自分はネタにはしないと思う。

時の風評をそのまま書きて虚実区々なれば取るべからず

まあまさにそうだろう。 ゴシップというかスキャンダルというかなあ。 悪代官とか悪徳商人とかそういう時代小説に使い回されてるようなネタだなあ。

「非役の小普請」、または「禄ある浪人」、つまり、無役で最下層の御家人の話とか。

なんか素性のわからん浪人がどこかで本でを儲けて、 金貸しをしながら「与力」株を買う。 美人局などしていて与力をクビになり再び浪人に。 しかし今度は金を返せない旗本の弟が出奔していなくなってたので、 その弟になりすまし、 別の旗本の養子となって、 その養父を隠居させて自ら押しも押されもせぬ旗本直参となる、 とか実におどろおどろしい話。 それが松平定信が部下に調べされた事件簿「よしの冊子」というのに書かれているというのが、なかなかよく出来た話である。

ところがこういう偽の実子、 「入れ子」というのは旗本ではよくある話でいちいち摘発しないというのがまたすごい。大丈夫か徳川幕府。 鳥羽伏見の戦いで負けるはずだ。

「甲州は葡萄(武道)の成り下がり」(笑) 幕府の直轄領なのに甲斐一国一揆とかあったしな。

勝海舟の父子吉の『夢酔独言』の読者ならご記憶のむきもあると思う。

とあるが、実際勝子吉の『夢酔独言』くらいは読んでないと、こむつかしいだけでおもしろさのわからぬ本だと思う。

彷彿

「彷彿」漢和辞典を見ても、「髣」も「髴」も特に意味はないように思われる。「方」と「弗」という音だけに意味があるのだろう。中国語辞典で引くと、「あたかも・・のようだ」、という意味と、主に「相彷彿」の形で「似ている」という意味があるそうだ。

頼山陽の詩に「水天髣髴」とあるが、海と空の境がはっきりとしない(似ている)、という意味だろう。

呉融「端居」

殘蟬彷彿鳴

残った蝉がかすかに鳴いている、という意味だろう。 呉融は晩唐の詩人。

薛濤「江月樓」

秋風彷彿吳江冷

これも秋風がかすかに吹いているという意味であろう。薛濤は唐代の女流詩人。

丁澤「上元日夢王母獻白玉環

夢中朝上日,闕下拜天顏。彷彿瞻王母,分明獻玉環。

丁澤は誰かよくわからんがこれも唐詩。夢の中で朝日が昇り、宮門の下で天顔を拝する。
おぼろげに王母を見、明らかに玉環を献じる。

魯迅「秋夜」

他彷彿要離開人間而去

それ(夜空)はあたかもこの世から離れ去っていこうとするかに見える。現代中国語的用例。

おそらく昔はかすかにとかおぼろげという意味だっただろう。それが似ているという意味になり、まるで何とかのようだ、という意味になった。

もし主人のような人間が教師として存在しなくなった暁には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人を髣髴すると同程度の労力を費やさねばならぬ。

〈漱石・吾輩は猫である〉

このように何かを想起させる、類推する、という用法はどこから来たか。謎だ。

柳生宗矩

wikipedia 柳生宗矩 に、

かなりの喫煙者であり、沢庵より癌になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている(『沢庵和尚書簡集』)。

とあるが、これはいかにもおかしい。 当時、煙草が(肺)癌の元であるなどという説があるはずがない。

うわづら文庫

たはこ御やめ候はすハ、むねのいたみやみ申間敷候(もうしまじくそうろう)。たはこにて、かくに皆々成申候(なりもうしそうろう)

つまり、煙草をやめないと、胸の痛みはやまないでしょう。煙草のせいでみんなそのようになるのです、と言ってるだけではないか。

なんか知らんが最近の人がそう書いたことをそのまま載せてるっぽいよね。

幕末の頃の剣術というのは、割と知られているようだが、 もっと江戸中期から後期にかけての道場というものが、 どのようなものであったか、 どのような建築であったか、 どのような教え方であったか、 調べようとすると案外わからない。

剣道日本に講武所の記事が とあるが、講武所は幕末であるし、剣術だけの道場ではあるまい。 近代兵器を教えた道場だと思うのだが。

玄武館道場で8間四方

とあるから、ざっと60坪くらいだろうか。 お寺の本堂くらいの広さだろうか。 どういう構造だったのだろうか。 玄武館も幕末で一番大きな町道場だったわけだから、 その他の道場はもっと小さかったのにちがいない。

ま、ともかく、江戸時代の道場の考証はけっこうむずかしい。 相撲の稽古部屋が最も古態を残すといわれればそうかもしれんと思う。

思うに、戦というものはほとんどが夜戦である、当たり前だが。 従って初期の稽古というのはもっぱら屋外で行われていただろう。 ところが幕末になると町人や農民などの弟子があまりに増えすぎて、 それらを収容するための娯楽施設として稽古場、つまり道場というものが出来たのではなかろうか。 竹刀や防具もまた同じ。

魯迅

魯迅を読んでいる。 割と面白い。 電車の中にいて周りにたくさん人間がいるのが不思議な感じになる。 人間がいるのが当たり前なのだが、小説によって完全に異世界に連れて行かれてしまうのだろう。

阿Q正伝、故郷、孔子己などは読んだ記憶がある。 たぶん、教科書に載っていたのではなかろうか。 少し調べてみるとわかるがこれらは、魯迅の一番初期の作品(38才頃。ただし、32才のときに『懐旧』という小説を発表しているようだ)で、 社会的な影響力も大きかったようだが、 必ずしも、すごく面白くはない。 やはり初期の作品で狂人日記も今回読んでみたが、さほどでもない。 たぶんまだ書き慣れてなかったのではないか。 こういうのを高校の教科書に載せても生徒はおもしろがらないと思うよ。 他にもっといいのがあるのに、と思う。

四十代半ば頃、1925年とか1926年頃に書いたものがすごく面白いと感じた。 孤独者、眉間尺、祝福、藤野先生など。 藤野先生は、やはり読んだ記憶がある。これも教科書か。 必ず文末に日付が記してあるから、何歳の頃書いたかわかって便利だ。 結構短い期間に集中して書いている。

眉間尺(または「鋳剣」)は中国の昔の伝奇小説干将・莫耶を題材にしたものであり、 中島敦の「山月記」のようなものか。まあふつうこんなへんてこりんなストーリー、現代人は思いつかんわな。 途中になんか変な歌が出てくる(原文)。

哈哈愛兮愛乎愛乎!
愛青劍兮一個仇人自屠。
夥頤連翩兮多少一夫。
一夫愛青劍兮嗚呼不孤。
頭換頭兮兩個仇人自屠。
一夫則無兮愛乎嗚呼!
愛乎嗚呼兮嗚呼阿呼,
阿呼嗚呼兮嗚呼嗚呼!

「奔月」は嫦娥奔月のことで、 たまたまこないだ調べた[碧海青天夜夜心](/?p=10880)の元ネタ。 こちらは大して面白くもない。解説を読んでもピンとこないし。 ただ書きたかったから書いた、のだろうか。

体重が一時期よりも15kgも減ってこれからも減る傾向にある。 ビールが苦くてまずく感じるようになった。 日本酒はとてもうまく感じるのだが、 日本酒を飲んでしまうと、体重が少なくなったせいか、 一気に良いが回って自制心を失ってしまうようだ。 ビールかウーロン割りみたいなものをちびちび飲んでいればそんなことにはならないが、 今度は酔えなくて発散できない。 体の脂肪というものが、血中アルコール濃度というものの変動を抑えていてくれてたのだと思う。 痩せるというのも実にめんどうだ。

窩窩頭。 何かほかの小説で読んだことがあるのだが思い出せない。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、 肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、 という部分は書いてない。 著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。 書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。 病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。

小谷野敦 中島敦殺人事件

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。