草枕

夏目漱石『草枕』の冒頭は有名な

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

であるがその数パラグラフ後に

あらゆる芸術の士は人の世を長閑
のどか
にし、人の心を豊かにするが
ゆえ

たっ
とい。

住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。着想を紙に落さぬとも璆鏘のおん胸裏きょうりおこる。丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かくかんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めればる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺縑なきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのう解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかい出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじ乾坤けんこん建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよく覊絆きはん掃蕩そうとうするの点において、―― 千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。

などと芸術論を語っているかのごとき部分がある。

人の世は住みにくい。その住みにくさを少しでもやわらげて住みよくするものが芸術である、芸術とはたとえば詩であり、絵画であり、音楽であり、彫刻である、などと言っている。

しかし漱石は決して、一般論としての芸術のことをここで論じたかったのではあるまい。まして西洋美術、西洋音楽などのことを言いたかったわけではあるまい。詩とはすなわち漱石が愛した漢詩のことであり、自ら作詩することであったに違いない。そうしてみると絵というものも実は漱石はプライベートに描いていたのではないかと調べてみると、けっこう描いていたということがすぐにわかるのである。

漱石の絵というものはしかしおそらくなにかの模写のようなものではなかったか。絵を描くのはもちろん難しい。しかしながら模写は割と誰でもできる。模写した絵は元絵があるのだが、その元絵から模写された絵というものはたいてい、構図とか画題は優れていても、なんとなくふんにゃりとしていてしまりがない。

画家が自分で描いた絵というものは、構図というか構成に主張があるし、何を描きたいかという画家の意思が見える。目の前の世界に対する感性がそこには表れている。模写にはしかしその意志がない。感性が鈍い。何を描きたいのか、その主張が弱い。個性が無い。そもそもこの人はなぜこの絵を描いたのか、描かねばならなかったのか、その必然性が伝わってこない。

写真もそうだが絵はまず世界から描きたい矩形を切り取らねばならぬ。写真と違い絵はその矩形を絵の具と筆で埋めねばならぬ。そうやって世界を解釈した結果が絵だ。その絵をみて感動した人がそれを模写する。漱石もそういうタイプの、絵を愛好する人だったはずだ。時間をかけて絵の修業をした人ではない。だからああいう、目力の無い、穴が空いただけのような目になったのだと思う。そう、人真似をして「絵」を描くことはできても「目」を描くのはむずかしい。

模写というのはつまり、私も画家のような絵が描きたいという願望だけがあって、絵そのものを描いているわけではないからだ。だから人物画でも目に力が無かったり、風景画でも配列が直線的であったりする。

漱石に画家の素養を求めるのは酷であろうが、詩は違う。漱石はかなり本気で詩を作っていた。自分の才能に密かに自信を持っていた。音楽と彫刻というのは単なる付け足し、目くらましであろう。要は、漱石は自分が漢詩を作る意味、意義というものをここで熱く語っているのである。漱石はイギリスで西洋文学を学び、それを日本に輸入し、それに基づいて小説を書く人だ、その規範となる人だと思われている。しかし漱石は江戸時代の荻生徂徠のような詩を作るのが好きであった。洋行するよりも作家になるよりもずっと前、子供の頃からそういう趣味があった。しかし漱石の詩を褒める人も、愛好する人もいなかった。漱石の描いた絵を珍重する人はいたが、漱石の詩は古めかしく退屈なもので、いわゆる旧時代の遺物のたぐいであって、何の価値もないものだとみなされていた。

漱石は漢詩はともかくとして自分の小説は誰もが注目していることを知っていた。その小説の中に、「草枕」の冒頭から少しずらして、読者がふと気を抜くあたりに、さりげなく、自分の熱い主張を埋め込んだのだ。漱石はさすがに自分の詩をそのまま小説に埋め込むことは控えた。しかし自分が詠んだ俳句はたくさんちりばめた。おそらく目くらましのためであろう、英語の詩さえ引用した。編集者に見せて、これは小説ではないと怒られただろうから、仕方なくストーリー性のある話にしたてて小説仕立てにして渡した。新聞社としては漱石先生が書いた紛れもない小説であるから掲載した。そんないきさつであったのではないか。

漱石にとって小説というものは世渡りのために書かねばならぬものであった。世の中は無理解なものであった。越すことのできぬもので、それを越してしまえば人でなしの国に行くばかりであって、人でなしの国は住みにくい今の世の中よりさらに住みにくいだろう。その住みにくい世の中で、自分にとって息抜きとなり、くつろぎとなるのが詩である。

明らかに漱石はそう主張している。

しかも、漱石はおそらく自分を芸術家だと思っている。小説家としてではない。詩人だと思っている。それが自分の天職だと思っている。人の心を豊かにするが故に尊いとまで言っている。なんという悲しい詩人ではないか。私たちは漱石のその悲しみを知っていただろうか。誰かそれを指摘した人が今までにいただろうか。

漱石は自分は王維や陶淵明のような詩人ではないと言っているがそんなことは当たり前で、どんな偉い詩人だって敢えて自分を王維や陶淵明と比較したり、まして張り合ったりしない。それ未満の、例えば日本の漢詩人とは比べようがあるくらいの詩人ではあるというプライドを持っていた。もしそんなプライドがなければ、自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう(※追記あり)。編集者に頼んで新聞に載せてもらうこともできただろうし、無理強いすれば詩壇の講師にもなれたかもしれない。しかし彼はそうはしなかった。誰かが彼の詩を評価してくれるのを待っていた。小説家としてではなく、詩人として評価されるのでなければ詩を人に見せたくはないと思っていた。詩とは違い俳句は漱石にとって単なる遊び、日々の座興に過ぎなかったから、自分の俳句を小説に載せることにはなんの抵抗もなかったようにみえる。

西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛
ばんこく

うれい
などと云う字がある。詩人だから万斛で素人
しろうと
なら一
ごう
で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨
ぼんこつ
の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の
かなしみ
も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。

ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌
しいか
の純粋なるものもこの
きょう
解脱
げだつ
する事を知らぬ。
どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世
うきよ
勧工場
かんこうば
にあるものだけで用を
べん
じている。いくら詩的になっても地面の上を
けてあるいて、
ぜに
の勘定を忘れるひまがない。

うれしい事に東洋の詩歌しいかはそこを解脱げだつしたのがある。採菊きくをとる東籬下とうりのもと悠然ゆうぜんとして見南山なんざんをみる。ただそれぎりのうちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘がのぞいてる訳でもなければ、南山なんざんに親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的しゅっせけんてきに利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。ひとり坐幽篁裏ゆうこうのうちにざし弾琴きんをだんじて復長嘯またちょうしょうす深林しんりん人不知ひとしらず明月来めいげつきたりて相照あいてらす。ただ二十字のうちにゆう別乾坤べつけんこん建立こんりゅうしている。この乾坤の功徳くどくは「不如帰ほととぎす」や「金色夜叉こんじきやしゃ」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てたのちに、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気のんき扁舟へんしゅううかべてこの桃源とうげんさかのぼるものはないようだ。余はもとより詩人を職業にしておらんから、王維おうい淵明えんめい境界きょうがいを今の世に布教ふきょうして広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人ひとり絵の具箱と三脚几さんきゃくきかついで春の山路やまじをのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしのでも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからのねがい。一つの酔興すいきょうだ。

芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえな事と見立てて発句ほっくにした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、じいさんもばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。

今の人は西洋の詩にかぶれている。西洋の詩は住みにくい世の中から解脱することができない。しかし東洋の詩は幸いなことに住みにくい人の世を解脱している。自分は詩人ではないけれども、すこしの間でも、非人間的な天地に逍遙したいから、絵を描いたり、詩を作ったりするのであると。馬がしょんべんするのを芭蕉が俳句にしたように私はありとあらゆるものを大自然の点景として詩にしてみよう。これが漱石の信仰告白でないとしてなんであろうか。

現代において詩作は睡眠と同じくらいに必要であると漱石は言う。

漱石はたぶん新聞社の編集者から、或いは読者から、或いは弟子から、徳冨蘆花の不如帰や尾崎紅葉の金色夜叉みたいな通俗小説を書いてくれとか、ファウストを書いたゲーテやハムレットを書いたシェークスピアのような文豪になってくれと言われた。あるいはそんな小説の書き方を教えてくれと頼まれたのだろう。そうじゃないんだよ、自分はそういうものが書きたいんじゃない。詩人になりたいんだ、俗世間から解脱したいんだ、そんな自分は常の人よりも苦労性で、神経が鋭敏なんだよ。漱石は明らかにそう言っているではないか。だからこんな「草枕」みたいなへんてこな文芸論のような芸術論のような小説を書いてみせたのだろう。

そういえば「坑夫」でも

自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などと最後の最後に余計な言い訳を付け足している。編集者は漱石がなかなか(幸田露伴や尾崎紅葉のような)小説らしい小説を書かないのでじれていたに違いない。漱石はいつも小説ばかり書け書けと言われて困惑していたに違いない。そして漱石が書いた小説はなぜかいつもよく読まれた。読者がついた。当代一の売れっ子作家であった。なぜなのだろうか。小説の終わりに「これは小説ではない」と言われると小説のつもりで楽しく読んだ読者(私を含む)は困ってしまう。いったいそれはどういう意味なのかと。

ウィキペディア「草枕」を見ると、「草枕」は芸術論、西洋芸術と東洋芸術の比較であると言っているが、それには違いないが、もっと端的に、詩人になりたかったのにどういうわけか小説家として名を成してしまい、詩人としてはまったく評価されなかった漱石という人の憤懣をぶちまけたものだと考えるのが正解だと思う。

松岡正剛の千夜千冊 『草枕』夏目漱石。なるほど。小説として読めばそういうことになろうが、漱石が言いたかったこと(というか訴えたかったこと)は私の解釈でほぼ間違いないと思う。

『猫』『坊っちゃん』のソフィスティケーションの奥の奥には、もとから『草枕』の俳諧漢文めいた雅趣低徊が鳴っていた。「深淵」とはそのことだ。

そんなもって回った言い方をしなくても良い。漱石は通俗小説より漢詩が好きだった。それがそのものズバリなのだ。

浅草地下商店街マップ

東京メトロのサイトにも銀座線浅草駅構内図に6, 7, 8番出口が記載されているが、非常にわかりにくい(特に浅草地下街から6番出口まではかなり省略されている)。A4、A5出口などは本来は都営浅草線の出口に振られた番号であろう。都営線と銀座線の連絡は極めて悪い(1番線到着ならば都営線への乗り換えは比較的スムーズだが、2番線に着くと面倒なので、その場合1駅前の田原町駅で降りて次の1番線到着の電車を待てなどと車内アナウンスがあるほどである。ただし雷門、浅草寺方面に行くには2番線到着のほうが便利。6, 7, 8番出口に向かうならば一番先頭の車両に乗るのが良い)。都営線と東武線に至っては直接の接続は無い(銀座線に入場することなく都営線と東武線をつなぐ地下通路は無い)。地上にいったん出るしかない。あまりにも設計が古すぎ、またあまりにも場当たり的なので、新宿や渋谷のようにいっそのこと完全に再開発してしまったほうがよいのだろうが、それでは浅草駅らしさが失われてしまうので、昭和遺産かなにかに指定して未来永劫現状のまま保存してはどうか。

6番出口と8番出口は幅が2メートルほどしかない。銀座線から新仲見世通りへの近道として機能させるにはあまりにも細すぎる(玉の井の「抜けられます」のようなものか。昭和30年、敗戦直後の貧乏性がなせるわざなのだろう)。浅草の要衝に位置しながら盲腸のような役割しか果たせていないのは、これら6, 8番出口のせいである。銀座線から地上に出る場合は普通1, 2, 3, 7番出口を使うだろう。4, 5番出口は隅田川のほうに出てしまうので普通こちらを利用することはない。

地下街の通路も幅4メートルしかない上にテーブルや陳列などが店からはみ出している。漏水は地下街全体に見られ、まったく手の施しようがない。エアコンも2025年夏になってやっと設置された。

地下街は深夜から朝6時までシャッターが降りて閉鎖されている。

浅草地下街商店一覧

鬼坊主の女

私は「鬼平犯科帳」は池波正太郎の原作を、流し読みではあるが一応全巻読んでいて、さいとうたかをのマンガも機会があれば読むようにしているのだが、そのマンガに「鬼坊主の女」というものがあった。原作には見覚えのない話なので(和歌が題材になる話を私が見落とすわけがない)、さいとうたかをのオリジナルかと思ったのだが、調べてみると、もとは「鬼平犯科帳」とは直接関係ない「にっぽん怪盗伝」という、池波正太郎の短編集があり、その中に収録されていたものらしい。「にっぽん怪盗伝」は audible にあったので聞いてみた。

ウィキペディアの鬼坊主清吉によれば、鬼坊主と呼ばれた盗賊は実在していて、獄門にかけられたときに辞世の歌

武蔵野に 名もはびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに かくてしをるる

を詠んだという。これは和歌としてみて、まずまずの出来だと思う。意味も明確だ。1805年6月27日のことだというから、長谷川平蔵は既に死に、松平定信も老中を退いている。旧暦文化2年6月27日をグレゴリオ暦に変換すると1805年7月23日となるから、夏の暑い盛りだったことになる。オニアザミが咲くのは6月から9月。

この話は落語『鬼あざみ』になっていて、その中では

武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる

となっている。池波正太郎はこの落語を元ネタにして、「鬼坊主の女」を書いたらしい。

盗賊の頭、鬼坊主は捕らえられたが、子分に命じて、先に盗んで隠しておいた金を使って、辞世の歌を代作してもらって、それを獄門のときに詠じて、役人を驚かせたということにしたのである。この「鬼坊主の女」では辞世の歌は

武蔵野に 名ははびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに 少し萎れる

となっている。これを鬼平犯科帳ものに最初に仕立て直したのはテレビドラマで、1970年5月19日放送の「鬼坊主の花」であったという。さらに1993年に再度「鬼坊主の女」としてドラマ化され、2003年にはさいとうたかをによってマンガ化されたらしい。

このマンガでは鬼坊主と一緒に磔にされた手下二人も代作の歌を詠み、しかもこの歌を代作したのが長谷川平蔵やら木村忠吾であったことになっている。

武蔵野に 名を轟かせし 鬼太鼓 罰は受けれど 音のさやけき
商売の 悪も左官の 粂なれば 小手は離れぬ 今日の旅立ち
浄瑠璃の 鏡に映る 入れ墨に 吉の噂も 天下いちめん

こうなってくるともう和歌ではない。狂歌としても、あまり良い出来とはいえない。池波正太郎の原作まではなんとか和歌らしい様式と体裁を保っていたが、おそらく和歌というものの良し悪しのわからぬ人の手によって、テレビドラマ化、マンガ化する段階で誰かが適当におもしろおかしく改作したのだろう。

こうして並べてみると、やはり鬼あざみ清吉本人が詠んだ歌が一番優れているように見えるのだが、あまりに出来過ぎているので、人から人に言い伝えられるうちに上品に洗練されていったのではないかと思われる。あるいは、歌の内容からして、本人が詠んだというよりは、獄門にされた清吉を見た誰かが詠んだ歌にも見える。やはり無学文盲な盗賊がいきなりこのレベルの和歌を詠むということはちょっと考えにくい。ちょうど大田南畝が蜀山人の号を使い始めた頃に当たるから、彼が詠んだとしてもおかしくはない。大田南畝はれっきとした幕臣なので、彼が盗賊に同情的ともとれる歌を詠んではまずいので、盗賊本人が辞世で詠んだ、ということにした、としたらなかなかおもしろいかもしれん。

また、しょせんテレビドラマやマンガを見る人、或いは作る人々には、和歌のよしあしなどわからないのだなという気にもなる。盗賊が辞世にまずい狂歌を詠んだという演出にはおあつらえかもしれんが。

岡本太郎

近頃の twitter はほんとうにもう見るのも嫌だ。特定のアカウントを巡回し、思いついたことをメモしたり写真を載せたりするだけにして、まとまった文章はこちらに書こうと思う。

一年のうちで三月と八月はとくに気力が萎えるので、そのせいもだいぶあるとは思うが、なんというかもうまったくやる気が出ないし、生きている張り合いがない。思うに私の場合、本を書いている間は、すごい本を書いて世の中に残すぞーと、気が張っていて、生きているという充実感があるのかもしれない。しかし原稿が出来上がり、校正する余地ももうほとんどないとなると、急にやることがなくなって、これから何をやればいいんだろうという喪失感でいっぱいになってしまうらしい。

もちろん実際に本が出て、良いとか悪いとか、人の評判を聞きたいとは思うが、しかしそれ自体がもう少し長生きしたいなとか、人生って楽しいなという風にはならず、じゃあもう本も書き終えたことだしあとはできるだけ苦しまずに死にたいななどと気分になりがち。

岡本太郎は両親がともに文人であったからあのように文章が書けたのであろうし、また彼の書いたものを出版してくれるツテにも困らなかったのだろう。岡本太郎という人を見ていると、アートとは煎じ詰めるところアートビジネスのことなのだなと改めて思わされる。日本のマスコミにしても、ゴッホやピカソのようなアーティストが日本にも欲しい、ではだれをそのシンボルとして奉るかと物色したところ、一番手ごろなキャラクターだったのが岡本太郎だった、ということではないか。彼の作品に目立つもの、奇抜なものはあるけれども、ではもし彼が大阪万博で太陽の塔の制作を任されていなかったら、今どれくらいの人が彼を覚えているだろうか。彼が太陽の塔を作ったのは、一部は実力であろうが、アート業界におけるコネとか出版社や新聞社やテレビへの露出のおかげというところが大きかったはずだ。

実際私が岡本太郎の作品でレプリカなりなんなり所有したり飾ったりしたいかと言えば、それほど魅力的なものはない。そもそも私はピカソが好きではないし、現代美術、前衛芸術にも関心がない。私が絵葉書を買ってみたり、額装して壁にかけたりする絵といえばレンブラントくらいしかない。レンブラントと岡本太郎はまったく真逆の作家だ。

戦前、旧秩序を擁護した朝日新聞は、戦後、旧秩序をぶっ壊す側に回って保身を図らねばならなかった。そうした状況で岡本太郎はちょうどよいアイコンだったのではなかろうか。

岡本太郎が亀井勝一郎、竹山道雄など学者の文章をこきおろしているところがあるが、これとても一種のヤラセであろう。ほんとうに日本のタブーに触れるのであれば出版社や編集者がそういう文章を世の中に出すはずがない。竹山道雄は、斑鳩の里や法隆寺は美しいが駅前のパチンコ屋は汚いなどというどうでも良い話をしている。そんなことをわざわざ文章にすることになんの意味があるのか。情報量ゼロではないか。そして岡本太郎のように、そんな文章をわざわざ批評することにも意味はないのである。岡本太郎は竹山道雄の文章は美文ではあろうが美そのものではないという。そりゃそうだろう。世の中には情報量ゼロの美文をありがたがる人がたくさんいる。それに比べて、最初は汚くみっともなく見えたゴッホやピカソのほうが現代ではより広く世の中に受け入れられている。それはその通りに違いない。

また、小林秀雄が押し入れから骨董品を岡本太郎の前に次々にもち出してきて目利きを試すという話があって、小林秀雄という人はそうやってちまちまと骨董品を蒐集し人にみせびらかすような人であったのかと、しかも骨董品の鑑定というものに対してひどく臆病な人であった(骨董趣味の人はしばしばそうだが)ことがわかり、これはこれで面白いエピソードだけど、そこで岡本太郎が言うのは、経験で鑑定するのでない、玄人は知り過ぎている。素人のほうが批評はうまいはずだ、などと言っていて、そういうこともあるかもしれないが、そうではないこともあるかもしれないとしかいいようがない。ほんとうであるとも嘘であるとも証明できないことを延々と書く。芸術家の文章にはありがちではなかろうか。

岡本太郎は芸術と芸を分けたがる人で、彼の定義によれば、芸とは芸能とか技能のようなもので、伝統的な様式美をとにかく守るものであり、一方で、芸術とはそうした家元とか伝統とは関係なしに若者がいきなり作り出すものである、などと言っている。別にそう言いたければそういえばよかろう。この定義は、岡本太郎やピカソやゴッホには当てはまるけれども、世の中はすべてが前衛芸術でできているわけではない。そんなことは岡本太郎自身承知しているわけだが。

彼は技術と技能の違いについても書いている。技術はひたすら未来に向かって進歩していくが、技能は逆に後ろ向きで、伝統を墨守するのだと。そうかもしれない。だが、技術と技能は真逆のものであり、相容れないものだ、とは私は思っていない。和歌を詠んでいればわかることだ。彼は法隆寺が焼けたのであれば自分が法隆寺になれば良い、古典はその時代のモダンアート、などという。まさにそれであって、古いものを残し尊重しつつ、自らも新しいものを作ることが大事なのだ。古いものと新しいものを区別することは(やりようによってはしばしば)害悪でもある。戦前と戦後、江戸時代までと近代で線引きして一方は良く他方は悪いという、いわゆる二分法で書かれた主張は、わかりやすいだけでたいてい間違っている。

彼が室町や江戸時代の文芸、美術について書いている箇所があるけれども、やはりよくわかってない、というよりかなり雑な知識しかない。そりゃそうだろう。知識や経験があってはいけないと言ったとたんに室町時代の芸術はほとんどすべてわからなくなる。アフリカやポリネシアの原住民が彫った彫刻とか、文字がなかった縄文時代や弥生時代の土偶や埴輪とは違うのだ。文字は読んで理解しなくてはならない。

正しいのか正しくないのか確かめることもせず、本人が実際に書いものを直接読まずにその人を批評する人が非常に多いので、岡本太郎のやり方考え方は非常に危険だと思う。文芸に関していえば、ちゃんと読まなくてはならない、徹底して読まなくてはならない、それはいわゆる世の中の芸術鑑賞とは違う、それが文芸の本質だ。

世阿弥が優れていると岡本太郎は言っているがではあなたはどれくらい世阿弥を読んで理解しているのか。世阿弥と世阿弥以外はどう違うのか、自分で読んでいなくては説明できないはずだ。現代美術には詳しく、一方古典芸能については雑な式しかなく、その上で現代美術は優れていて古典芸能はだめだというのでは説得力がまるでない。

岡本太郎は伝統芸能を批判し、本居宣長も古今伝授をさんざんに攻撃する。私も宣長につられて古今伝授を批判し、それで和歌を擁護したつもりになったりもしたのだが、そういうつまらない伝統やしきたりを目の敵にしてもあまり意味はない、少なくとも、時間を費やして文章にしたり、ましてやそれを出版する必要はないと思えてきた。別に私がやらなくても岡本太郎が書いていることを、わざわざ私が書く必要はない。みんなどこかで読んで知っていることだから。ほんとうに自分だけが気付いたことを書けば十分だ。

去年のこの辺りから岡本太郎の文章を読み始めたようだ。リンクを貼っておく。この頃から既に生きているのが楽しくないなどと言っているようだ。面白いね。おんなじことを何度も何度も書いているのは年寄だから仕方ないということにしておこう。

今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

二次創作とパブリックドメインと生成AI

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

完結させないほうがよい。

最近は酒を飲んでも楽しくない。一人で飲むときなどは、缶ビール一本で飽きてしまう。人と飲んでいるときや外で飲む時は逆に飲み過ぎてしまってそれはそれで面白くない。

若い頃は気分を無理矢理盛り上げるために旨くも無い酒をがぶ飲みしたりもしたが、今はまったく逆で、人とトラブルを起こさないようビクビクしながら飲んでいる。そういう飲み方してちゃ、周りのノリについていけないし、面白いはずもない。私はもともと周りに合わせて盛り上がるってことが苦手で、適当に合わせて飲むことができないので困る。

谷川俊太郎とか宮沢賢治とか山之口貘とか萩原朔太郎とか中原中也とか、いろんな詩人がいるんだが、ああいうのはいったいどこが詩なのだろうか。萩原朔太郎にしても、彼の和歌は私にはまあわかるのだが、詩はなんともいえない。谷川俊太郎も「はなののののはな はなのななあに」などは面白いとは思うけど、それ以外のはどうも大したことはない。宮沢賢治も、一日三合の飯で我慢しとか、面白くなくはないけど、だからなんなのだと思う。それを言ったら「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」なんかも、だから何が面白いのかということになる。糸井重里の「インテリげんちゃんの夏休み」なんかも、面白いといえば面白いのかもしれないが、だからなんなのだという気もする。

俵万智も、あれは不倫の歌だから面白いのだが、それ以外は、面白いのは缶チューハイくらいで、なんということもない。

岡本太郎が書いた文章は面白いと言われて読んでみたが、あまり関心しない。結局面白けりゃいいじゃん、みんなが良いと言うのは良い、と言っているだけのように思える。日比野克彦の文章なんかは私にはどうしようもないものにおもえる。しかしなぜだか知らないが岸田劉生の文章は良い。

でまあ、今挙げた人たちの中で100年後、200年後まで残るのは正岡子規と俵万智くらいかなと思うのだが、どうだろうか。たぶん香川景樹や頓阿は残るだろう。吉田類の俳句なんて10年ももつまい。あんなデタラメな漢語を並べただけの俳句をなんでまたありがたがるのか。ただのしゃれなのか。

文章のうまい人、歌のうまい人というのは私の中では確実にいるのである。正岡子規や樋口一葉はうまいほうだと思う。ただし樋口一葉にはあんまり整ってない詠草のような歌が多い。土屋文明が正岡子規や伊藤左千夫の歌を『短歌入門』でとりあげていろいろ解説しているのだが、土屋文明という人はほんとに歌のよしあしがわかっていたのだろうか。

折口信夫も読んでみたが、何を言ってるのかさっぱりわからん。小林秀雄の悪文をつまらなくしたような文章だ。和辻哲郎は、なるほど言いたいことはわかるが、それがどうしたという感じ。寺田寅彦を文系にしたという感じだ。

竹久夢二と夢野久作はなんか似てて間違う。夢野久作の書く文はなかなか良い。たとえば「眼を開く」など。

斎藤茂吉はごくまれに正気に戻ったように良い歌を詠むことがあるのだが、普段はどうしようもなくくだらない歌ばかり詠んでいた。良い歌もあるから一概にダメとは言えないが、ああいう人がいるせいで、世間の人は良い歌と悪い歌の区別がまったくつかなくなってしまったように思う。

たとえば茶道具なんかを骨董の目利きたちがあれが良いこれが良いと言っているのは、彼ら身内の間ではそういう違いがあるというだけで、私からみたら竹のヘラなんてものは茶をかき混ぜられればそれで良いようにしか思えない。おんなじことは和歌にも言えるのかもしれない。私には全然違って見える歌も人からみればどれも似たり寄ったりなのだろう。ただ和歌に関していえば単に竹のヘラのそり具合曲がり具合とは全く違う、本質的な違いがあるように、私には思えるのだ。

『関白戦記』はあれでとりあえず完結しているからいいんだが、『エウメネス』は全然完結してないのに50万字を超えてて、特にむりやり完結させた『エウメネス6』の出来が悪い。『エウメネス5』までにしておいて、『エウメネス』は未完成、ということにしておこうか。うん、完結させないほうが良いような気がしてきた。できないことを無理にできたことにするより、できないままでほったらかしておいたほうが良いのかもしれない。

文学部唯野教授3

『文学部唯野教授』を読み返してみようと思ったのは、 『短編小説講義』を読んでみて、すごくわかりやすかったからだ。 やはり筒井康隆という人は他の人に比べるとはるかに深く良く理解しており、 またわかりやすく説明できる人だなと思った。 『文学部唯野教授』は面白いは面白いのだが、大学での講義形式になっている文芸理論、 というより文芸批評理論、というより哲学談義が何言ってるかよくわからなくて、 その部分はめんどくさくて退屈で飛ばして読んでいた。

同じ文学と言っても、文芸と哲学。 不思議なことに、日本には哲学が好きな人が多くて文芸はあまり書く人がいない。 つまり、ハイデッガーとかサルトルとかを書くのが好きな人のほうが、 ゲーテやハイネなんかを書く人よりずっと多い。 私はずっと哲学には苦手意識というか、あんなもの何になるんだという気持ちが強かった。

『文学部唯野教授』と『短編小説講義』は同じ時期に平行して構想され執筆されたものであり、 内容も似通っている。 だから『短編小説講義』を読んでから『唯野教授』を読むと、 『唯野教授』だけではよくわからなかったところがわかったり、 あるいは共通する言い回しが出て来てより深く理解できたりする。

たとえば『短編小説講義』でマーク・トゥエインの『頭突き羊の物語』が、 「話の横滑り」のギャグでできていると書かれているが、 この「横滑り」という言葉が『唯野教授』にも何度も出てくる。 だから「横滑り」という言葉が出てくるたびにああ、 あのマーク・トゥエインの羊の話を念頭にこの言葉を使ってるんだなって思えるのだ。

唯野教授の講義だが、これはハイデッガーの話が分かれば後は大して難しくないってことが今回わかった。 ハイデッガーが難しいっていうのはつまり彼の言っていることが単なる同義語反復、 つまりトートロジーに見えるからだ。 たとえば「目の前に現実に存在しているものが現存在であり実存である」、 「現存在の存在規定は、我々が世界内存在と名づける存在体制をもとに、アプリオリに看取され、了解されなくてはならない」 などという言い方であり、 だからそれが何だ、そんなものが哲学ならば哲学なんて何の役に立つのだ、と思って、 それ以上ハイデッガーを読もうとも、哲学というものを理解しようとも思えなくなってしまう。

ハイデッガーだけを読んでいればどうしてもそうなるのだが、 ハイデッガーの師匠のフッサールという人と対比させてみると、 ハイデッガーの言っていることは良くわかる。 フッサールという人はそんなふざけた、トートロジー的なことは言ってない。 ただ、デカルトが言うような「意識」は存在しない。 自分が意識していると意識するような意識なんてものすら不要である。 確かなものは何もないのだから「判断中止」しろという。 判断中止してしまえば何もわからないはずなのだが、 フッサールはそこから「純粋意識」とか「超越論的主観性」とか「先験的主観」なんてものがあるなんてことを言い出す。 「判断中止」までは理解できるがそこから先が宗教になってしまってる。 ハイデッガーはそれはいかんよと言いたいわけだ。 人間の存在とはただ自然と対話することとか、いずれ死ぬという時間の中にいる存在だと言ってるだけ。 自分の死を直視しましょう、常に自分を未来に投げ込みましょう、 そして人間という存在は決して完成しない、などと言っている。

で、『文学部唯野教授』はフッサールの回までをめんどくさがらずに読んで、 フッサールの次のハイデッガーの回を丁寧に読めばそんなに難しいことは言ってない。 ハイデッガーを越えれば後は楽だ。 しかし飛ばし読みしてるとなんだかよくわからないということになる。 ともかくもハイデッガーについての筒井康隆の説明は非常にわかりやすい。

そんでまあ現代文芸批評はポスト構造主義とかいうところまで来たと言っているわけだが、 私が見るに、 文学も文芸批評も、近代科学の影響をうけて、 印象批評や、 宗教や哲学やイデオロギーから自由になろうとし、科学になろうとした。 いや、文学や哲学は、科学よりもさらに根源的な学問でなければならない。 つまり科学的技法というものに嫉妬して、科学を模倣し科学を超えようとした。 科学的に分析できる、 科学以上に厳密に根源的に分析しなくてはならないと考えた。 しかしその悪戦苦闘のすえ、文芸は、小説というものは著者がいて読者がいて、 その関係で美的価値が生まれるものであり、 科学的には解釈できないから科学ではない、というのが結論、というか、 筒井康隆がたどりついた独自の文芸理論なんだと思う。

文学は批評家がわざわざ脱構築してやる必要はなくて、なぜかというと文学は初めっから自分をディスコンストラクトしているからだし、それどこかディスコンストラクションのやりかたについて自分でぶちまけたりもしてるからなんだそうです。

文学はそもそも構築されていないから脱構築する必要すらない。 文学は科学的に分析できる、自然科学になれる、 自然科学を超えるなにか根源的な学問たり得る、 っていうのが最終目標だってことがそもそも間違っていたというのが結論であり、 まあ至極当然なポストモダン的な帰着だわな。 自然科学やら数学だって、何か根源的な学問たりえるわけではない。

たいていの現代思想の本はそういう結論で締めくくっている。 哲学とか科学とか宗教というものが何か究極の解決策であるかもしれないという考え方自体が、 大いなる錯覚だった。 わからんものはわからん。

でもまあこれって宣長がとっくの昔に言ってることと同じだと思う。 「文学とは何の役にも立たないものだ」「文学は文学であって、その他の宗教や政治や道徳で判断してもダメだ」ってことでしょう。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。