草枕4

成り行き上、仕方なく『草枕』を通して読むことにした。予想とは少し違ってけっこう面白かった。この小説が一部の人(主に一般大衆)には受けがよく、また一部の人(主に評論家など)にはわからない、難しい、よみにくいと言われる理由もだいたいわかった。面白いというのはこの小説が案外通俗的だからだ。第五章の床屋と主人公の掛け合いなどはまるで漫才だ(『坊っちゃん』や『我が輩は猫である』に通じるところがある)。『草枕』が難しくてよくわからんという人はたぶんだらだら長くて蘊蓄ばかりで読む気にならないのだろう。それなら第五章だけをまず読んでみるとよい。

温泉旅館の出戻りの女将というのは、地元の人々には狂女のように言われているが、実際はまったく正常な精神の持ち主であって、自分の生きたいように生きようとしているだけの女のように思える。元の夫は銀行家だったが破産したので、元妻に金をもらって満州に行ってなんとか再起しようとしている。日露戦争の頃にはそういう人が多くいたのだろう。夫が破産したから離婚して実家に帰ってきた女というのは不義理な、不人情な、気が狂った女だと当時の人には見えたのだ。ストーリーとしてはただそれだけのことで、そこに芸術論のごときものがやたらと盛られているに過ぎない。

没落した夫を捨てた女は「不人情」なのだが、俗世間のごたごたを離れて絵を描いたり詩を作ったりする主人公は「非人情」だという、対比の構図になっているのも、普通に読んでみればわかるんで、ただそれだけのことだ。

日露戦争のころ、30歳の洋画家である主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。やがて宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、彼に「茫然たる事多時」と思わせる反面、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」でもあった。そんな「非人情」な那美から、主人公は自分の画を描いてほしいと頼まれる。しかし、彼は彼女には「足りないところがある」と描かなかった。

などとウィキペディアに書いてあるが、主人公の画工(えかき)が非人情であり、若奥様の那美は不人情なのである。これを書いた人は明らかに『草枕』を読み間違えている。

漱石の妻、鏡子はこの温泉場に行ったことはないが、那美のモデルとなった女から直接話を聞く機会があってそれを『漱石の思ひ出』に書いている(「前田(案山子)さんのお宅の姉さん」の名で出てくる。前田卓(つな)という人でウィキペディアにも項目が載る。この前田卓という人はごく普通の女性に過ぎない)。

漱石本人が書いた書簡や『余が草枕』も読んでみた。漱石は「坑夫」も小説になってない、と言っているけれども、「草枕」も「こんな小説は天地開闢以来類のないものです(天地開闢以来の傑作と誤解してはいけない)」「野間先生が草枕を評して、明治文壇の最大傑作だというて来ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が適当と思います。実際珍という事に於いては珍だろうと思います。」「この種の小説は、従来存在していなかったようである。」などと言っている。

それというのは、那美という主要人物は結局何もせず、それゆえストーリーも展開しない、それを主人公の画工があちこちから観察しているだけなので、今までこういう小説はなかったはずだ、などと言うのである。普通の小説というものは、主人公が動きまわってそれで話が展開していくものだ、そう言うのだ。一人称の主人公と別に主要人物がいて、主人公は主要人物の観察役に徹している。しかも主要人物は結局何もしないのでストーリー展開もない。漱石はそう言いたいのである。

一人称視点で見て語っていく小説があって、しかし実際の主役は主人公とは別の、主人公が観察した三人称の人物である、という小説は確かにあまり無いかもしれないが、私が書いた「エウメネス」はまさにそういう仕立てになっている。一人称のエウメネスが三人称のアレクサンドロスを観察する。実際の主人公はエウメネスではなく、エウメネスは読者がアレクサンドロスを観察するための視点役になっているにすぎない。真の主人公はアレクサンドロスなのである(少なくとも当初はそんなふうに書いていたのだが、いつのまにかエウメネスが本物の主人公のようになっていった)。私はこの書き方を Half-Life: 2 から思いついた。主人公の Gordon Freeman は一人称なのだが、Alex Vance という味方の NPC が一緒に行動する。Gordon は自ら行動もし、同時に Alex を観察する視点にもなっている。Alex を主人公にして、First Person である Gordon が読者の目や耳の代わりに徹するようにして、実際の活躍はすべて Third Person の Alex がやるようにすればそれは「エウメネス」になる。なんでそういうややこしいことをするかといえば単なる三人称よりは一人称のほうが没入感が高いと思うからだ。

そんな具合に確かに「草枕」は普通の小説とは異なる視点というか、一種独特な人称で書かれている。それが読者にとってつまらなくともよい。「草枕」はただ美しい感じがすればそれで良い、「ただ、読者の頭に美しい感じが残りさえすれば、それで満足なのである。もし「草枕」がこの美しい感じを、全く読者に与えないとすれば、即ち失敗の作、多少なりとも与えられるとすれば、即ち多少の成功をしたのである。」などとも書いている。私はしかし別に「草枕」を読んで、案外面白いなとは思ったが、特別美しいなとは思わなかった。漱石がなんか世の中の評論家かキュレーターみたいな、中二病的な、文学少年か文学少女みたいなことを臆面もなく、本気で語っているなとしか思えなかった。こういうことを言う人は世の中にはいくらでもいる。全然珍しくない。ごく普通の一般人でもこういう蘊蓄を語りたがる人、知識をひけらかしたがる人はいくらでもいる。漱石もまた全然特別な存在ではなく一般人と同じじゃん、としか思えなかった。

漱石の漢詩は同時代の漢詩人たちから異端視、白眼視されていた、ということを書いている人は多いのだが、では具体的に誰がそういう批判をしていたのかという記述がどこにもない。漱石贔屓な人たちの被害妄想のようなものなのではないか。漱石も決して下手ではないのだが、漱石程度、或いはそれ以上の漢詩を作る人は当時はいくらでもいたから、たとえば伊藤博文や乃木希典なんかも漢詩はうまかったし、正岡子規の漢詩も相当なものだったから、漱石の影がかすんでもまったくおかしくない。また頼山陽のファン(詩吟好きとか)から見ると漱石の山陽批判は苦々しかったと思う。

一般大衆に「草枕」の人気が高いというのは、まず一つは、冒頭の「山路やまみちを登りながら、こう考えた。 智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。」という出だしが面白くて、それで満足してそれ以上読まない人が多いのだろうと思う。「トンネルを抜けると雪国だった」「メロスは激怒した」と同じで、たいていのひとにとっては最初だけ読んで残りも全部わかったつもりになればそれで十分なのである。江藤淳も似たようなことを言っている。

また一つは、温泉場の女将が気が狂っていて、間違えて風呂場に裸で入ってきて「ホホホホホ」と笑う、などという展開がエロチックで良いのだろう。

頸筋くびすじを軽かろく内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分わかれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑なめらかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いきおいを後うしろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾かたむく。逆ぎゃくに受くる膝頭ひざがしらのこのたびは、立て直して、長きうねりの踵かかとにつく頃、平ひらたき足が、すべての葛藤かっとうを、二枚の蹠あしのうらに安々と始末する。世の中にこれほど錯雑さくざつした配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔やわらかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
 しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛れいふんのなかに髣髴ほうふつとして、十分じゅうぶんの美を奥床おくゆかしくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗へんりんを溌墨淋漓はつぼくりんりの間あいだに点じて、虬竜の怪かいを、楮毫ちょごうのほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とを具そなえている。六々三十六鱗りんを丁寧に描きたる竜りゅうの、滑稽こっけいに落つるが事実ならば、赤裸々せきららの肉を浄洒々じょうしゃしゃに眺めぬうちに神往の余韻よいんはある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂かつらの都みやこを逃れた月界げっかいの嫦娥じょうがが、彩虹にじの追手おってに取り囲まれて、しばらく躊躇ちゅうちょする姿と眺ながめた。
 輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥じょうがが、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那せつなに、緑の髪は、波を切る霊亀れいきの尾のごとくに風を起して、莽ぼうと靡なびいた。渦捲うずまく煙りを劈つんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向むこうへ遠退とおのく。余はがぶりと湯を呑のんだまま槽ふねの中に突立つったつ。驚いた波が、胸へあたる。縁ふちを越す湯泉ゆの音がさあさあと鳴る。

こういうあたり。漱石の小説はあんまりない描写だ。官能小説作家なら参考にするに違いない。

また、俳句好きな人ならば漱石の俳句がたくさんちりばめられているから面白いかもしれない。

西洋美術や西洋文学の蘊蓄が好きな人にも衒学的な良さがあるかもしれない。骨董趣味のある人にも面白みがあるに違いない。

日本の近代化や西洋文明を批判しているようにみえるのも一部の人には愉快かもしれない。

「草枕」が最初に私の興味を引いたのは、それらとはまったく違う。漱石があからさまに頼山陽をけなし、荻生徂徠を持ち上げているのが異様だったからだ(※追記。これは吉川幸次郎「漱石詩注」序で指摘されている)。私は頼山陽の漢詩は好きなので、なぜ漱石が山陽を嫌うのか、それをまず知りたいと思った。しかしそういう動機で「草枕」を読もうという人はいまだに見かけたことがない。さらに漱石が自分の詩を小説の中に埋め込んでいるのを見て余計に興味が出た。

漱石はよくわからん人だ。なぜか大衆受けする。彼は表向きは高踏的、高等遊民的なふりをしているが、それと真逆なことを平然とする人だ。通俗小説は嫌だと言い、小説らしからぬ小説とやらを書きながら、しかもその中に大衆に迎合するあざとさがどこかにあるのだ。男女の三角関係を描いた「こころ」にさえ、どこか媚びがある。わかりにくそうで実は非常にわかりやすい、受けやすい要素があるのに違いない。そういう相矛盾した、一種の嘘というか、虚勢というか、本音と建て前というか、好きな人に見え透いた嘘をつかれてあえてだまされみたいということをみな好み、それゆえ漱石という大文豪にそれを無意識のうちに期待しているのではないか。流行作家の小説を読むとか遊園地や映画館にわざわざ行ったりする人はみなそうだ。さあうまく私をだまして喜ばせてくださいと、自らだまされたがっている人ほど虚構を楽しめるはずなのだ。落語だってそうだ。笑わせられるものなら笑わせてみろとけんか腰で、ハスに構えた人は落語を楽しめない。娯楽に飢えている人、笑って気分を晴らしたい人ほど楽しめるのではないか。人を楽しませ喜ばせられる文章を自然に書ける人は少ない。ましてそんな仕掛けを思いつく人はいない(英文学からヒントは得たかもしれないが)。多くの場合編集者などがアドバイスして読者に受けるようなものを書かせるんだが、漱石の場合はなぜか書いたものが、著者の意図思惑とは直接関係なく、そのまま読者受けするのだろう。結局そういう人が文豪と呼ばれる。漱石は新聞連載小説を嫌い、詩など作りながらも、彼ほどそうした商業媒体にぴったり適応した人はいないのだろうと思う。どんな言い訳をしようと、本人にも自覚はあったはずだ。

著者がなかなか自分の思い通りのものを書いてくれないとき、読者は著者と決別し、作品を自分の側に取り込んで、二次創作という形でその思いを果たす。或いはシリーズものという形で、読者全体の総意というか嗜好を実現するために、原作者の個性からどんどん離れて、共同作業で自分たちにとって理想的な世界観を構築していく。著者と読者は普通は対立している。しかしながら漱石は自分の中に矛盾を抱え込むことによって読者を喜ばせる方法を会得しているのではないか。

草枕3

草枕、草枕2の続き。

「草枕」だが漱石が自分で作った詩がまだあった。

青春二三月 青春二三月
愁隋芳草長 愁ひは芳草に隋ひて長し
閑花落空庭 閑花は空庭に落ち
素琴横虚堂 素琴は虚堂に横たふ
蠨蛸挂不動 蠨蛸(あしたかぐも)、挂(かか)りて動かず
篆烟繞竹梁 篆烟(篆書のようにくねくねと立ち上る煙)、竹梁を繞(めぐ)る
獨坐無隻語 獨坐し隻語無し
方寸認微光 方寸、微光を認む
人間徒多事 人間、徒(いたづ)らに事多し
此境孰可忘 此境、孰れか忘るべけむ
曾得一日靜 曾て一日の靜を得て
正知百年忙 正に百年の忙を知る
遐懐寄何處 遐懐(遠く眺める)、何處にか寄せむ
緬邈白雲鄕 緬邈(はるかかなたに)、白雲の鄕

墨場必携:漢詩 春日靜坐 夏目漱石

きたね白雲きたね。

これも押韻はしているが平仄はけっこう適当(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.73に五言古詩として載る)。

たぶんこの出来だと平仄警察がわらわらわいてきて漱石は相当、詩人としてのプライドを傷つけられたと思うなあ。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは明治39年、処女作「我が輩は猫である」は明治38年。しかしこれらの詩は明治31年、漱石が31才の時に作ったという。つまり「草枕」に出てくる画家と同じ年に作ったものだということになる。正岡子規が死ぬのは明治35年なので当時子規はまだ生きていた。

ウィキペディアによれば(書簡を見ればわかるというがそこまで調べるのはめんどくさい。よっぽどヒマがあったら調べてみるか)、熊本で英語教師をしていた漱石は、明治30年の大晦日、つまり明治31年の正月に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆したとある。漱石の誕生日は2月9日なので、明治31年正月の時点で彼はちょうど30才だった。まさに当時「三十我欲老」という心境だったのだ。やはり漱石は売れっ子作家になる以前の自分に回帰しようとして、自分自身をモデルとして、『草枕』を書いたのであろう。

漱石は「正岡子規」と題する談話で、「大将(子規)の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりもたくさん作っており、平仄もたくさん知っておる。僕のは整わんが、彼のは整っておる。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼のほうがうまかった。」などと評している。つまり若い頃漱石はあまり平仄の整わない漢詩を作っていた、それに対して子規の漢詩はきちんと整っていたのだった。だいたいつじつまが合う。

漱石が本気で(まじめに)漢詩を作り始めたのは、明治43年、修善寺で喀血した後のことだろう。『こころ』なんかを書いたのはさらにあと、大正3年頃。

岸には大きな柳がある。下に小さな舟を繋
つな
いで、一人の男がしきりに垂綸
いと
を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足
なみあし
を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人
ふたり
の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の鮒
ふな
も宿
やど
る余地がない。一行の舟は静かに太公望
たいこうぼう
の前を通り越す。(中略)顧
かえ
り見ると、安心して浮標
うき
を見詰めている。おおかた日露戦争
にちろせんそう
が済むまで見詰める気だろう。

といった具合に日露戦争中であるような記述がある。日露戦争は明治37年から38年にかけてだから、その正月あたりの状況を写したものだろう。つまりちょうど203高地が陥ちた頃だ。久一さんとは徴兵で取られていく人のように思われる。「草枕」の発表は明治39年だから、執筆中、その頃の記憶も新しかったはずだ。つまり「草枕」は7年ほど前の30才の時の自分を日露戦争当時の世相に埋め込んで作られた話だということになる。

「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪わるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
 この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の臭においも知らぬ。現代文明の弊へいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿を描かき取った。

これは主人公の画家がスケッチした町中の人だが、胃病なのは漱石のほうだ。漱石はやはりこのころすでに胃潰瘍で苦しんでいた。

漱石の妻、鏡子が書いた『漱石の思ひ出』の中に

俳句には随分と熱心で、松山時代から熊本に居る間の五年間ばかりが、一番俳句の出来た時で、生涯の句の殆んど三分の二はこの五年間に出来たもののやうです。それには中央を離れて熊本のやうな田舎に居りまして、自然文学の話などする友達もなかつたので、ただ子規さんあたりに動かされて、一生懸命で句作したといふことがあづかつて力がございませう。後には漢詩も作りましたが、とても俳句程の熱心は見られませんでした。

などとあるが、漱石の日記などみるに、確かに俳句は数は多いが、思いつくまま詠みちらかしているといったふうで、中には面白い、よく出来たものもあるようだが、どちらかと言えば単なる気晴らし、気分転換、多くはちょっとしたメモかなにかのようなものだったと思う。真剣に身構えて詠んだものではあるまい。『草枕』にも

何でも蚊
か
でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠
かわや
に上
のぼ
った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直
あんちょく
に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟
さと
りであるから軽便だと云って侮蔑
ぶべつ
する必要はない。軽便であればあるほど功徳
くどく
になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人
ひとり
が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否
いな
やうれしくなる。涙を十七字に纏
まと
めた時には、苦しみの涙は自分から遊離
ゆうり
して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉
うれ
しさだけの自分になる。

などとある。要するに俳句は詩の中では最も簡便なわけだ。

「後には漢詩も作りましたが」というのはほんとうに晩年の『こころ』なんかを書いてた頃のことを言っているのだと思う。鏡子さんが自分で書いているように漱石は子供の頃から漢詩に志があって、若い頃からけっこう作っていたはずで、日本人が漢詩を一つ作るというのは俳句を百詠むより難しいし、随分心構えが必要で、てまひまがかかるものであるから、そんなに量産できるはずがない。鏡子はその数だけを言っているように思える。

※追記。吉川幸次郎「漱石詩注」序に、「漢詩は夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである。」とある。

草枕2

先日、漱石は

自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう

などと書いたのだが、気になって『草枕』を読んでみると、実は漱石は自分の漢詩を『草枕』に埋め込んでいたのだった。

出門多所思 門を出でて思ふ所多し
春風吹吾衣 春風、吾が衣を吹く
芳草生車轍 芳草、車轍に生え
廃道入霞微 廃道、霞に入りて微かなり
停筇而矚目 筇(杖)を停めて目を矚(そそ)げば
万象帯晴暉 万象、晴暉(明るい青空)を帯ぶ
聴黄鳥宛転 黄鳥の宛転たる(ウグイスのなめらかな声)を聴き
観落英紛霏 落英の紛霏たる(花が散り乱れる)を観る
行尽平蕪遠 行き尽くして平蕪遠く
題詩古寺扉 古寺の扉に詩に題す
孤愁高雲際 孤愁、雲際に高く
大空断鴻帰 大空、断鴻帰る
寸心何窈窕 寸心、何ぞ窈窕たる (自然の景観に対して自分を卑下する意味か)
縹緲忘是非 縹緲(広く果てしない)にして是非を忘る
三十我欲老 三十にして我、老いむと欲す
韶光猶依依 韶光、猶ほ依依たり(うららかな春の日差しがなごりおしい)
逍遥随物化 逍遥して物化に随(したが)ひ
悠然対芬菲 悠然として芬菲(草花の香り)に対す

春興。

ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観
み
て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸
うな
りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払
せきばらい
が聞えた。こいつは驚いた。

この無邪気な自画自賛ならぬ自詩自賛は微笑ましくすらある。

漱石は売れっ子作家になって、そろそろ自分の「地」を出してもよかろうかと思い、詩を披露した。しかるにおそらく、その評判は決して良くはなかっただろう。世間が漱石に求める「文学的役割」から離れすぎていて、反発をくらったと思う。なんだその、盆栽をいじり詩吟をうなる年寄りのような趣味はと言われたに違いない。詩のできもあまり良いとはいえない。

「聴 + 黄鳥 + 宛転」「観 + 落英 + 紛霏」などは変則的だし、「停筇 + 而 + 矚目」のように「而」を長さ合わせに使うのはあまりかっこよくない。押韻はしているが平仄はけっこういい加減。たとえば「三十我欲老」は平仄仄仄仄だし、「韶光猶依依」は平平平平平。実際若い頃(三十才くらい?)の作なのかもしれない。こうなってくると本職の漢詩人からはヤイヤイ言われて漱石はけっこうへこんだかもしれない(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.66に五言古詩として載る。つまり平仄は守らなくてよく、2 + 3 のリズムも守らなくてよい、ということか。18行というのも変則的。一韻到底は守っている)。

私も『安藤レイ』や『紫峰軒』に自分が作った漢詩をしれっと入れたりしたので、漱石の気持ちはよくわかる、つもりなのである。まあ私は売れっ子作家ですらないが。

古寺の扉に詩を書き付けるというのは、そんなヤンキーみたいなことして良いのかなと思ってしまうが、題壁(壁に題す)というのはよくやられることのようだ。もしかすると「題詩古寺壁」としたかったのかもしれないが、それでは韻が踏めぬから「題詩古寺扉」としたのかもしれない。

老人が紫檀したんの書架から、恭うやうやしく取り下おろした紋緞子もんどんすの古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目に懸かけた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
「硯すずりよ」
「へえ、どんな硯かい」
「山陽の愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
「春水の替え蓋ぶたがついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色あずきいろの四角な石が、ちらりと角かどを見せる。
「いい色合いろあいじゃのう。端渓たんけいかい」
「端渓で鸜鵒(くよく)眼が九ここのつある」
「九つ?」と和尚大おおいに感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子りんずで張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句しちごんぜっくが書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書しょは杏坪の方が上手じょうずじゃて」
「やはり杏坪の方がいいかな」
「山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌で俗気があって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚おしょうさんは、山陽が嫌きらいだから、今日は山陽の幅ふくを懸け替かえて置いた」
「ほんに」と和尚さんは後うしろを振り向く。床とこは平床ひらどこを鏡のようにふき込んで、錆気を吹いた古銅瓶こどうへいには、木蘭もくらんを二尺の高さに、活いけてある。軸じくは底光りのある古錦襴こきんらんに、装幀そうていの工夫くふうを籠こめた物徂徠の大幅たいふくである。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色さいしきが褪あせて、金糸きんしが沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶こげちゃの砂壁すなかべに、白い象牙ぞうげの軸じくが際立きわだって、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、床とこ全体の趣おもむきは落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
「徂徠かな」と和尚おしょうが、首を向けたまま云う。
「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方が遥はるかにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある」
「広沢をして日本の能書のうしょならしめば、われはすなわち漢人の拙せつなるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そう威張いばるほどの字でもないて、ワハハハハ」
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。禅坊主ぜんぼうずは本も読まず、手習てならいもせんから、のう」
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に高泉こうせんの字を、少し稽古けいこした事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓たんけいを一つ御見せ」と和尚が催促する。
 とうとう緞子どんすの袋を取り除のける。一座の視線はことごとく硯すずりの上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまず並なみと云ってよろしい。蓋ふたには、鱗うろこのかたに研みがきをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆しゅうるしで、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
 老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁いんねんがあろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を挙あげて、
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮を剥はいで山陽が手ずから製したのですよ」
 なるほど山陽は俗な男だと思ったから、
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの鱗うろこのかたなどをぴかぴか研とぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退のけた。
「ワハハハハ。そうよ、この蓋ふたはあまり安っぽいようだな」と和尚おしょうはたちまち余に賛成した。
 若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の体ていに蓋を払いのけた。下からいよいよ硯すずりが正体しょうたいをあらわす。

漱石があからさまに荻生徂徠を持ち上げて頼山陽をこきおろしている箇所。「一座」とあるが、僧と老人と若者と一人称の主人公の四人くらいが会話している。春水は山陽の父。杏坪は春水の弟で、山陽の甥。広沢とは江戸初期の書家、細井広沢のことであるらしい。とにかく漱石は山陽の俗で才気走ったところが気に入らない。上方の俗儒が嫌いで、下手でも「品がある」江戸の官儒が好きなのだ。「多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく」とはつまり古いものだから文字の良し悪しなど論じるまでもないなどと言っているからには決して字がうまいと褒めているわけではないのである。もともとそれほど「ゆかしい」ものではなかったけれど経年変化のために派手さがなくなり渋さが増して良くなった、などとも言っている。とんだ骨董趣味だ。それはそのまま漱石本人の趣味でもある。彼は通俗小説は書きたくないのである。「草枕」のような漢学の蘊蓄を語りたいのだ。素人が自分で作るなら下手に巧まずに不器用に作れ、とまで言っている。

思うに漱石はかつて熊本を旅行したときの体験を小説に仕立てようとして、そこになにやら怪しげな女の話やら、西洋文学の話題などを入れて通俗小説を書いてもらいたい新聞の編集者のリクエストに応えつつ、自分の漢詩趣味をむりやりねじ込んでこの「草枕」を書いたのではなかったか(英詩や俳句などをちりばめたのは照れ隠しか目くらましだったのではないか。)。しかし世間は漱石にそんなものを期待してはいなかったのである。新聞の娯楽小説でなければバタ臭い西洋風な小説を書いてほしかった。

初期万葉集

白川静 孔子伝の続き。

白川静「初期万葉集」を読み始めた。これによればなぜ白川氏が万葉集の研究を始めたのか明らかだ。彼は漢学者、というより、漢字学者として、詩経を学び、詩経と万葉集を比較しようと考えたのだ。

詩経と万葉集を比較した学者ならば江戸時代にもいた。というより、平安時代にもいた。藤原公任は和漢朗詠集を作った。九条良経など漢詩も作り和歌も詠んだ。彼らは漢詩と和歌を際限なくごっちゃにしていた。

詩経に関しては荻生徂徠がかなりまとまったことを言っているはずだし、国学者も万葉集、詩経両方を研究した人がいたはずだ。私にはまずそこから研究すべきではないか、と思えたのだ。

しかし漢字学者である白川氏が江戸時代の国学者や歌学者を知っているはずもない。そうした先行研究を調べることはできなかっただろうと思う。もし万葉集の研究をするのであればまず仙覚、荷田春満、賀茂真淵の先行研究について触れなくてはならなかったのではなかろうか?

また私には、文字の無い時代から文字を得た時代の文芸について研究するのであれば、当然西アジアを含む全世界の古代文芸、ギルガメッシュ叙事詩や、ホメロスやその他の叙事詩との比較研究を行うべきであろうと思う。近代の研究者である白川氏にはその責務がある。しかしながら、世界の古代文芸との比較も行わず、江戸時代の先行研究のサーベイも行わず、白川氏独力で、いったいどれほどの研究ができるのだろうか、と私には思える。

一人の人間がそんな網羅的な研究ができるはずもない、もう少し限定的な何かを追求しようとしていたのかもしれないから、もう少し白川氏の書いたことを読んでみようとは思っている。

一人の一歌学者として思うに、日本人は古来、漢詩の理論で和歌を体系づけようとして、ことごとく失敗していた、その轍を踏むのではないかという危惧がある。

漢詩は漢詩なのである。和歌は和歌なのである。漢詩と和歌には似ている。確かに似ている部分もあろう。和歌が漢詩の影響を受けた部分は多い(逆は無いとしても)。しかしそもそもまったく違うものなのであって、これまで多くの人が陥った間違いに白川氏も陥るだけなのではないかという気がしてならない。そう、そもそも、日本歌学における漢学の影響を排除するところからしか、和歌というものは分析できないと私には思えるのだ。なぜなら、漢学の影響が日本文芸には強すぎるからだ。

漢語と大和言葉はそもそも言語として全然違う。相性は最悪だと思うが、長年の努力で混淆してきた。

私から見るとドイツ詩と漢詩は構造が良く似ている。しかし和歌はまったく違う。特に短歌形式や発句形式(俳句や川柳)は、短くて構造を持たないことが特徴である。一方(ゲーテなどの)ドイツ詩や漢詩は対句や押韻によってシンメトリカルに整った構造を持っている。今様や都々逸にはまだ構造や対称性、反復、リズムというものがあるけれども、短歌には無い。短歌でリズムを表現しようとするところに多くの人の勘違いがある。金属や宝石などの結晶は構造があるがガラスは結晶ではない。ガラスはほとんど変形しない液体なのだ。短歌もまた結晶構造を持たない、アモルファス、静止した液体なのである。という比喩でわかってもらえるだろうか?

和歌は世界中見ても類例の無い詩形だ(良く探せばアフリカとかネイティブアメリカンなどに似たものがあるのかもしれん)が、東アジアと西アジア、そしてヨーロッパの詩というものは相互に影響を与えながら成立したのではないか。詩とはなんであるかということの考察はそんなに簡単なことではない。

霞関集 大江戸和歌集

江戸時代に石野広道という人が編んだ「霞関集」という私撰集が新編国歌大観第六巻に載っていて、安政年間に蜂屋光世という人が編んだ、「霞関集」の続編的な「大江戸和歌集」という私撰集も載っている。江戸には京都から下ってきた堂上和歌の家元、つまり、冷泉、中院、武者小路、烏丸、日野などの公家が、徳川直参の幕臣に和歌を教えていた(実際に京都から公家が江戸に下ってきたのではなく、ほとんどの場合は書簡で教えを受けていただけかもしれない)。純粋に学術的に研究している人をのぞけば、この、江戸における堂上和歌に関心を持ちわざわざ調べてみようという物好きはほとんどいないようである。研究している人たちもそうした和歌に文芸的な面白みがあるとは思っていないだろう。

私はかつてもし幕末に孝明天皇が勅撰集を作ったらどんな歌集になるだろうかと考えて、「民葉和歌集」というものを試みに選ぼうとした。その頃、私には小沢蘆庵、香川景樹、上田秋成、賀茂真淵などの江戸時代の歌人はすでに見えていたのだが、近世歌人の全貌というものはまだ全然見えてはいなかった。徳川家継の生母月光院が冷泉為村に習って詠んだ歌などもわずかに知っていただけだった。

「大江戸和歌集」に採られた歌は当然「民葉和歌集」にも採られなくてはならない。今はほったらかしているが、もしこれから「民葉和歌集」を完成させるのであれば、当然それら堂上和歌も調べてみなくてはならない。また「霞関集」の編者石野広道やその同輩らの歌も、同じように調べてみなくてはならんと思った。これとは別に同時期に本居大平が編んだ「八十浦之玉」という私撰集があってこれも新編国歌大観第六巻に載っている。この「八十浦之玉」については調べなくともだいたいどんなものかは予想が付くのだが、やはりちゃんとこの機会にどんな歌が採られているか見てみる必要があると思った。

「霞関集」「大江戸和歌集」などの江戸堂上和歌は、賀茂真淵が始めた県居門の和歌、つまり万葉調の和歌とはひどく対立していたらしい。村田春海はもともと江戸堂上和歌派であり、「霞関集」の初版には歌を採られていたが、後に真淵の県居門下に入ったために、「霞関集」の新しい版からは歌を抹消されたという。「八十浦之玉」は宣長の息子が編んでいるから、真淵と同じ国学の一派ではあるが、真淵の万葉調とはまた全然違う。しかしながら村田春海と宣長は同じ真淵の弟子どうしで(表向きは)仲良しだったから、その人間関係はかなりこみ入っている。

ともかく「民葉和歌集」はそれら江戸時代の歌人らの歌を門派によらずみんな採録して、また、21代和歌集に続く、22番目の勅撰集という形でまとめたいので、それまでの勅撰集に漏れた古歌も合わせて採りたいと思っていて、ちゃんと作るのは相当な手間だ。ものすごい大仕事になる。江戸時代の和歌というものは全然知られてないだけでものすごく莫大なボリュームがあってそれを一通り調べるだけでも気の遠くなるような作業が必要で、ちゃんと研究している人はいるにはいるけどほとんど手が付けられていない状態だと思う。世の中の人たちはみんな小倉百人一首レベルの知識で止まっていて、或いは明治以降の新派和歌にしか興味がなくて、250年間続いた江戸時代の和歌を総括しようという人はいない(いや、いたのかもしれないが全然成果が出ていない)。江戸の幕臣たちが膨大な和歌を詠み遺していたなんて誰も知らない。

で、実際江戸時代の和歌には価値がない、調べる価値がそもそも無いのかというと、石野広道の歌をちらっと見た感じではけっこう面白い。たとえば、

かすかなる 田づらの庵の ともしびも 蛍やおのが 友とみるらむ

など。堂上和歌を模倣した以上の機知がある。師の冷泉為村なんかよりずっと面白いのではなかろうか(私は加藤千蔭や村田春海の歌はちっとも面白いとは思わないが石野広道の歌はかなり面白いと感じる)。現代の私たちが和歌を詠むのに役に立つヒントやアイディアがかなり含まれているように思われるのである。

江戸時代ってやっぱすげーなと思う。我らは江戸時代に対してテレビドラマの時代劇でみるうすっぺらいイメージしか持ってない。しかし水戸黄門にしろ、吉宗評判記にしろ、最初放送がスタートした頃はすごくきゅっと締まった硬派な番組だったんだが、しだいしだいにだらけてきて、ただの紋切り型のチャンバラになってしまった。そういうものばかりみているから江戸時代なんてちゃらいと思いがちである。

加藤千蔭とか村田春海とか、よくもまあこんなチャラい歌ばかり詠んだものだとあきれかえるのだが、今はほとんど忘れ去られた優れた歌人や歌が、或いは随筆や評論や研究が、長い長い江戸時代には実はみっちりとつまっていて、膨大な堆積物となって遺されている。それらは第二次世界大戦の敗戦という壁の向こうにあって、さらに明治維新というものが目隠しになっていて、今の私たちには容易に想像できないものになっていて、きちんと読む人もいない。

そういうものをどんどん掘り返す作業をしなきゃいけない。実にもったいない鉱脈である。そもそも雄略天皇以来1500年の和歌の歴史というものはものすごく分厚くて、そう簡単にわかるものじゃあない。図書館に行くと日本歌学大系という佐佐木信綱が主体となって編んだシリーズものがあるがこれとは別に歌学文庫 本居豊頴 監修 室松岩雄 編 法文館書店というものがあって、これは要するに宣長のひ孫が編集したものらしいのだが国会図書館デジタルコレクションで見れる。恐ろしい。また世の中には筑摩書房の宣長全集というものがあるが、これとは別に本居全集 吉川弘文館というものがあってこれがまたすごい。さらに荷田全集(荷田春満)というのがあるがこれまたすごい。国会図書館の送信サービスめちゃくちゃすごい。そういうのが明治以降戦前までに相当するまとめられていてこれらを読むだけでもあっという間に10年くらいはかかりそう。世の中のつまらん俗事に時間を取られている暇などないのである。

草枕

夏目漱石『草枕』の冒頭は有名な

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

であるがその数パラグラフ後に

あらゆる芸術の士は人の世を長閑
のどか
にし、人の心を豊かにするが故
ゆえ
に尊
たっ
とい。

住みにくき世から、住みにくき煩わずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画えである。あるは音楽と彫刻である。こまかに云いえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧わく。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音おんは胸裏きょうりに起おこる。丹青たんせいは画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさいの絢爛けんらんは自おのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かく観かんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収め得うれば足たる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺縑なきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのうを解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかいに出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじの乾坤けんこんを建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよくの覊絆きはんを掃蕩そうとうするの点において、―― 千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。

などと芸術論を語っているかのごとき部分がある。

人の世は住みにくい。その住みにくさを少しでもやわらげて住みよくするものが芸術である、芸術とはたとえば詩であり、絵画であり、音楽であり、彫刻である、などと言っている。

しかし漱石は決して、一般論としての芸術のことをここで論じたかったのではあるまい。まして西洋美術、西洋音楽などのことを言いたかったわけではあるまい。詩とはすなわち漱石が愛した漢詩のことであり、自ら作詩することであったに違いない。そうしてみると絵というものも実は漱石はプライベートに描いていたのではないかと調べてみると、けっこう描いていたということがすぐにわかるのである。

漱石の絵というものはしかしおそらくなにかの模写のようなものではなかったか。絵を描くのはもちろん難しい。しかしながら模写は割と誰でもできる。模写した絵は元絵があるのだが、その元絵から模写された絵というものはたいてい、構図とか画題は優れていても、なんとなくふんにゃりとしていてしまりがない。

画家が自分で描いた絵というものは、構図というか構成に主張があるし、何を描きたいかという画家の意思が見える。目の前の世界に対する感性がそこには表れている。模写にはしかしその意志がない。感性が鈍い。何を描きたいのか、その主張が弱い。個性が無い。そもそもこの人はなぜこの絵を描いたのか、描かねばならなかったのか、その必然性が伝わってこない。

写真もそうだが絵はまず世界から描きたい矩形を切り取らねばならぬ。写真と違い絵はその矩形を絵の具と筆で埋めねばならぬ。そうやって世界を解釈した結果が絵だ。その絵をみて感動した人がそれを模写する。漱石もそういうタイプの、絵を愛好する人だったはずだ。時間をかけて絵の修業をした人ではない。だからああいう、目力の無い、穴が空いただけのような目になったのだと思う。そう、人真似をして「絵」を描くことはできても「目」を描くのはむずかしい。

模写というのはつまり、私も画家のような絵が描きたいという願望だけがあって、絵そのものを描いているわけではないからだ。だから人物画でも目に力が無かったり、風景画でも配列が直線的であったりする。

漱石に画家の素養を求めるのは酷であろうが、詩は違う。漱石はかなり本気で詩を作っていた。自分の才能に密かに自信を持っていた。音楽と彫刻というのは単なる付け足し、目くらましであろう。要は、漱石は自分が漢詩を作る意味、意義というものをここで熱く語っているのである。漱石はイギリスで西洋文学を学び、それを日本に輸入し、それに基づいて小説を書く人だ、その規範となる人だと思われている。しかし漱石は江戸時代の荻生徂徠のような詩を作るのが好きであった。洋行するよりも作家になるよりもずっと前、子供の頃からそういう趣味があった。しかし漱石の詩を褒める人も、愛好する人もいなかった。漱石の描いた絵を珍重する人はいたが、漱石の詩は古めかしく退屈なもので、いわゆる旧時代の遺物のたぐいであって、何の価値もないものだとみなされていた。

漱石は漢詩はともかくとして自分の小説は誰もが注目していることを知っていた。その小説の中に、「草枕」の冒頭から少しずらして、読者がふと気を抜くあたりに、さりげなく、自分の熱い主張を埋め込んだのだ。漱石はさすがに自分の詩をそのまま小説に埋め込むことは控えた。しかし自分が詠んだ俳句はたくさんちりばめた。おそらく目くらましのためであろう、英語の詩さえ引用した。編集者に見せて、これは小説ではないと怒られただろうから、仕方なくストーリー性のある話にしたてて小説仕立てにして渡した。新聞社としては漱石先生が書いた紛れもない小説であるから掲載した。そんないきさつであったのではないか。

漱石にとって小説というものは世渡りのために書かねばならぬものであった。世の中は無理解なものであった。越すことのできぬもので、それを越してしまえば人でなしの国に行くばかりであって、人でなしの国は住みにくい今の世の中よりさらに住みにくいだろう。その住みにくい世の中で、自分にとって息抜きとなり、くつろぎとなるのが詩である。

明らかに漱石はそう主張している。

しかも、漱石はおそらく自分を芸術家だと思っている。小説家としてではない。詩人だと思っている。それが自分の天職だと思っている。人の心を豊かにするが故に尊いとまで言っている。なんという悲しい詩人ではないか。私たちは漱石のその悲しみを知っていただろうか。誰かそれを指摘した人が今までにいただろうか。

漱石は自分は王維や陶淵明のような詩人ではないと言っているがそんなことは当たり前で、どんな偉い詩人だって敢えて自分を王維や陶淵明と比較したり、まして張り合ったりしない。それ未満の、例えば日本の漢詩人とは比べようがあるくらいの詩人ではあるというプライドを持っていた。もしそんなプライドがなければ、自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう(※追記あり)。編集者に頼んで新聞に載せてもらうこともできただろうし、無理強いすれば詩壇の講師にもなれたかもしれない。しかし彼はそうはしなかった。誰かが彼の詩を評価してくれるのを待っていた。小説家としてではなく、詩人として評価されるのでなければ詩を人に見せたくはないと思っていた。詩とは違い俳句は漱石にとって単なる遊び、日々の座興に過ぎなかったから、自分の俳句を小説に載せることにはなんの抵抗もなかったようにみえる。

西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛
ばんこく
の愁
うれい
などと云う字がある。詩人だから万斛で素人
しろうと
なら一合
ごう
で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨
ぼんこつ
の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲
かなしみ
も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。

ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌
しいか
の純粋なるものもこの境
きょう
を解脱
げだつ
する事を知らぬ。
どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世
うきよ
の勧工場
かんこうば
にあるものだけで用を弁
べん
じている。いくら詩的になっても地面の上を馳
か
けてあるいて、銭
ぜに
の勘定を忘れるひまがない。

うれしい事に東洋の詩歌しいかはそこを解脱げだつしたのがある。採菊きくをとる東籬下とうりのもと、悠然ゆうぜんとして見南山なんざんをみる。ただそれぎりの裏うちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗のぞいてる訳でもなければ、南山なんざんに親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的しゅっせけんてきに利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独ひとり坐幽篁裏ゆうこうのうちにざし、弾琴きんをだんじて復長嘯またちょうしょうす、深林しんりん人不知ひとしらず、明月来めいげつきたりて相照あいてらす。ただ二十字のうちに優ゆうに別乾坤べつけんこんを建立こんりゅうしている。この乾坤の功徳くどくは「不如帰ほととぎす」や「金色夜叉こんじきやしゃ」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後のちに、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気のんきな扁舟へんしゅうを泛うかべてこの桃源とうげんに溯さかのぼるものはないようだ。余は固もとより詩人を職業にしておらんから、王維おういや淵明えんめいの境界きょうがいを今の世に布教ふきょうして広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人ひとり絵の具箱と三脚几さんきゃくきを担かついで春の山路やまじをのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間までも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからの願ねがい。一つの酔興すいきょうだ。

芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえ雅がな事と見立てて発句ほっくにした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺じいさんも婆ばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。

今の人は西洋の詩にかぶれている。西洋の詩は住みにくい世の中から解脱することができない。しかし東洋の詩は幸いなことに住みにくい人の世を解脱している。自分は詩人ではないけれども、すこしの間でも、非人間的な天地に逍遙したいから、絵を描いたり、詩を作ったりするのであると。馬がしょんべんするのを芭蕉が俳句にしたように私はありとあらゆるものを大自然の点景として詩にしてみよう。これが漱石の信仰告白でないとしてなんであろうか。

現代において詩作は睡眠と同じくらいに必要であると漱石は言う。

漱石はたぶん新聞社の編集者から、或いは読者から、或いは弟子から、徳冨蘆花の不如帰や尾崎紅葉の金色夜叉みたいな通俗小説を書いてくれとか、ファウストを書いたゲーテやハムレットを書いたシェークスピアのような文豪になってくれと言われた。あるいはそんな小説の書き方を教えてくれと頼まれたのだろう。そうじゃないんだよ、自分はそういうものが書きたいんじゃない。詩人になりたいんだ、俗世間から解脱したいんだ、そんな自分は常の人よりも苦労性で、神経が鋭敏なんだよ。漱石は明らかにそう言っているではないか。だからこんな「草枕」みたいなへんてこな文芸論のような芸術論のような小説を書いてみせたのだろう。

そういえば「坑夫」でも

自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などと最後の最後に余計な言い訳を付け足している。編集者は漱石がなかなか(幸田露伴や尾崎紅葉のような)小説らしい小説を書かないのでじれていたに違いない。漱石はいつも小説ばかり書け書けと言われて困惑していたに違いない。そして漱石が書いた小説はなぜかいつもよく読まれた。読者がついた。当代一の売れっ子作家であった。なぜなのだろうか。小説の終わりに「これは小説ではない」と言われると小説のつもりで楽しく読んだ読者(私を含む)は困ってしまう。いったいそれはどういう意味なのかと。

ウィキペディア「草枕」を見ると、「草枕」は芸術論、西洋芸術と東洋芸術の比較であると言っているが、それには違いないが、もっと端的に、詩人になりたかったのにどういうわけか小説家として名を成してしまい、詩人としてはまったく評価されなかった漱石という人の憤懣をぶちまけたものだと考えるのが正解だと思う。

松岡正剛の千夜千冊 『草枕』夏目漱石。なるほど。小説として読めばそういうことになろうが、漱石が言いたかったこと(というか訴えたかったこと)は私の解釈でほぼ間違いないと思う。

『猫』『坊っちゃん』のソフィスティケーションの奥の奥には、もとから『草枕』の俳諧漢文めいた雅趣低徊が鳴っていた。「深淵」とはそのことだ。

そんなもって回った言い方をしなくても良い。漱石は通俗小説より漢詩が好きだった。それがそのものズバリなのだ。

日本随筆大成

日本随筆大成が国会図書館デジタルコレクションの送信サービスですべて見れることがわかり、いつでも読めるようにリンク集など作っているところだ。

この日本随筆大成は昭和2年から4年にかけて出版されたとんでもない力作なのだが、随筆と言っても江戸時代のものばかりで、古くて林羅山くらいから、新しいのでは勝小吉の夢酔独言とか成島柳北などは入ってない。漢文の随筆もない。新井白石の折たく柴の記、上田秋成の胆大小心録みたいな特に有名なものもわざと入れてないようだ。水戸光圀の西山公随筆や松平定信の花月草紙なんかは入っている。新しい人では八田知紀の桃岡雜記が入っている。

第一部から第三部まであって、編集者は交代していって、戦後に吉川弘文館が再版している。

戦前に出たものは著作権切れているんだから、さっさと一般公開してもよさそうなものだが、国会図書館のアカウントさえあればオンラインで読みたいときに読めるのでよしとする。これだけの本を買い集めるには相当金がかかるしそもそも本で家が埋もれてしまう。出版社にとってはつらいが読書するには良い時代になったと言うべきか。いずれにしてもこの手の本は図書館にいけば無料で読めるので、わざわざ読もうという人は図書館に行くだろうし、そうでない人は最初から読もうとさえしないだろう。

和漢三才図会、甲子夜話などは東洋文庫にもある。

だいたい世の中は随筆といえば「枕草子」と「徒然草」を読んでおけばそれで足りると思っている人がほとんどであろう。二百五十年の江戸時代とは実に長い時代だった。明治維新から現代までにさらに五十年足した長さだ。その長い長い近世に日本人はこんなにたくさん随筆を書いたのだ。これらをみんな読めば江戸時代のおそるべき長さを実感できるだろうと思う。とりあえず大田南畝の一話一言あたりから読んでいこうかな。


1-1 梅村載筆(林羅山)/ 筆のすさひ(菅茶山)/ 覉旅漫錄/ 仙臺閑語/ 春波樓筆記/ 瓦礫雜考/ 紙魚室雜記/ 桂林漫錄/ 柳亭記/ 尙古造紙揷/
1-2 雲錦隨筆/ 松屋棟梁集/ 橿園隨筆/ 近世女風俗考/ 蘿月庵國書漫抄/ 畫譚雞肋/ 煙霞綺談/ 柳亭筆記/ 磯山千鳥/ 橘窓自語/
1-3 玄同放言/ 都の手ぶり/ 織錦舍隨筆/ 睡餘小錄/ 八水隨筆/ 歷世女裝考/ 書僧贅筆/ 楢の落葉物語/ 金曾木/ 鋸屑譚/
1-4 上代衣服考/ 雨窻閑話/ 屋氣野隨筆/ 寸錦雜綴/ 半日閑話/ 泊洦筆話/ 辨正衣服考/ 心の雙紙/
1-5 過庭綺談/ 嚶々筆語/ 花街漫錄/ 遠碧軒記/ 風のしがらみ/ 著作堂一夕話/ 海人のくゞつ/ 遊藝園隨筆/ 善庵隨筆/
1-6 古老茶話/ 秉燭譚/ 四方の硯/ 梅園叢書/ 野乃舍隨筆/ おもひくさ/ 閑窻瑣談/ 還魂紙料/ 擁書漫筆/ 西洋畵談/
1-7 思ひの儘の記/ 用捨箱/ 向岡閑話/ 撈海一得/ 松陰隨筆/ 槻の落葉信濃漫錄/ 蒹葭堂雜錄/ 文會雜記/ 閑窻瑣談(後編)/ 畏庵隨筆/
1-8 北邊隨筆/ 燕居雜話/ 骨董集/ かしのしづ枝/ 幽遠隨筆/ 松屋叢考/ 宮川舍漫筆/ 駒谷芻言/
1-9 古今沿革考/ 異說まち/ 閑際筆記/ 獨語/ 又樂庵示蒙話/ 南嶺子/ 南嶺子評/ 世事百談/ 閑田耕筆/ 閑田次筆/ 天神祭十二時/
1-10 筆の御靈/ 東牖子/ 嗚呼矣草/ 齊諧俗談/ 一宵話/ 昆陽漫錄/ 續昆陽漫錄並補/ 南嶺遺稿幷評/ 秉穗錄/ 花街漫錄正誤/
1-11 年々隨筆/ 嘉良喜隨筆/ 烹雜の記/ 三のしるべ/ 好古目錄/ 好古小錄/ 奇遊談/ 茅窻漫錄/ 庖丁書錄/ こがねくさ/
1-12 耽奇漫録
一話一言(大田南畝) 上 / 下 /
嬉遊笑覧(喜多村信節) 上 / 下
和漢三才図会(寺島良安) 上 / 下

2-1 兎園小說/ 草廬漫筆/ 松屋叢話/ 提醒紀談/ 圓珠菴雜記/ 假名世說/ 一時隨筆/ 梅の塵/ 當代江都百化物/(787)
2-2 筱舍漫筆/ 萍花漫筆/ 兎園小說外集/ 兎園小說別集/ 八十翁疇昔話/ 牟藝古雅志/ 雲萍雜志/ 閑なるあまり/ 畫證錄/
2-3 兎園小說餘錄/ 兎園小說拾遺/ 保敬隨筆/ 梅園拾葉/ 新著聞集/ 雉岡隨筆/ 三養雜記/ 淸風瑣言/ 尤の草紙/ 近世奇跡考/
2-4 它山の石/ 筠庭雜錄/ 勇魚鳥/ 蜘蛛の糸卷/ 橘牕茶話/ 一擧博覽/ 萍の跡/ 筠庭雜考/ 目さまし草/ 反古籠/ 閑窻自語/ 雜說囊話/
2-5 玉石雜志/ 二川隨筆/ 飛鳥川/ 續飛鳥川/ 江戶雀/ 積翠閑話/ 尾崎雅嘉隨筆/ 閑窻筆記/
2-6 梅翁隨筆/ 櫻の林/ 新增補 浮世繪類考 附戱作者略傳/ 笈埃隨筆/ 玲瓏隨筆/ 十八大通/ 本朝世事談綺/
2-7 河社/ 多波禮草/ 本朝世事談綺正誤/ 桑楊庵一夕話/ 隣女晤言/ 蓴菜草紙/ 足薪翁記/ 奴勞師之/ 比古婆衣/ 西山公隨筆/
2-8 南留別志/ 可成三註/ 非なるべし/ 南留別志の辨/ あるまじ/ ざるべし/ 北窻瑣談/ 酣中淸話/ 三省錄/ 火浣布略說/ 年山紀聞/
2-9 遊京漫錄/ 胡蝶庵隨筆/ 柳庵隨筆初編/ 柳庵隨筆/ 柳庵隨筆餘編/ 曲肱漫筆/ 薰風雜話/ 立路隨筆/ 北國奇談巡杖記/ 南屛燕語/ 答問雜稿/
2-10 楓軒偶記/ 諼草小言/ 南柯の夢/ 猿著聞集/ 燕石雜志/ 靜軒痴談/ 閑散餘錄/ 於路加於比/ 只今御笑草/ 夏山雜談/
2-11 折々草/ 難波江/ 下馬のおとなひ/ 松の落葉/ 蜑の燒藻の記/ 闇の曙/

3-1 傍廂/ 傍廂糾繆/ ねざめのすさび/ 理齋隨筆/ 花月草紙/ 浪華百事談/ 異本洞房語園/ 洞房語園異本考異/ 洞房語園後集/ 筆のすさび(芝屋随筆 橘泰)/ おほうみのはし/
3-2 中陵漫錄/ 柳庵雜筆/ 古今雜談思出草紙/ 俗耳皷吹/ 消閑雜記/ 賤のをだ卷/ 醒睡笑/ 近世商賈盡狂歌合
3-3 天朝墨談/ 蒼梧隨筆/ 梅窓筆記/ 關の秋風/ 浪華の風/ 癎癖談/ 三餘叢談/ とはずかたり(中井甃庵)/ 近來見聞噺の苗/ 駿臺雜話/ むさしあぶみ/ 南向茶話/
3-4 後松日記/ 妙々奇談/ 見た京物語/ 天野政德隨筆/ 凌雨漫錄/ 莛響錄/ 訓蒙淺語/ 榊巷談苑/
3-5 百草/ 我宿草/ 愚雜爼/ 松亭漫筆/ 鳥おどし/ 孝經樓漫筆/ 金剛談/ 關秘錄/ 牛馬問/ 春雨譚/ 春湊浪話/ 松竹問答/
3-6 百草露/ 麓の花/ しりうこと/ 難後言/ 梅園日記/ 瀨田問答/ 後は昔物語/ 白石先生紳書/ 桃岡雜記/
3-7 甲子夜話 上
3-8 甲子夜話 下
3-9 盬尻 上
3-10 盬尻 下
3-11 翁草 上
3-12 翁草 中
3-13 翁草 下

梅村載筆はちょっと読んでみたのだがまるで校長先生の訓話みたいな当たり前なことを言っている。林羅山が書いた(とされるもの)はほかもたいていそんなふうだ。奇抜でもなく特別役にも立たないし、そもそも全然面白くない。なんでこんなものを書いたのかといえばやはり将軍家や旗本の子弟に勉強をさせるのに、林大学頭かもしくはそのスタッフが書いたり編纂したものなのだろう。藤原惺窩先生曰く、みたいな話も多い。

浅草の土曜の朝

土曜日の朝、7時くらいに浅草場外馬券場の前、六区ブロードウェイ商店街を通ると、まだひと気は少なく、空気もまだすがすがしく、タバコ臭くもないが、なんとなくピリピリとした空気を感じる。制服の上に防寒のコートをはおり明らかに職務中とおぼしき人たちが二人か三人くらいで一組になって通りを巡回している。浅草パークホールビルというホテルのような、オフィスビルのようなよくわからない建物からぞろぞろと20人弱の警察官のようないでたちの人たちが向かいの場外馬券場へ歩いて行く。あれは警察官ではなくて場外馬券場の警備員であろう。前日から泊まりがけでここ浅草にいて、その仕事始めなのだと思われる。これから浅草では土日二日にわたる狂乱の宴が始まるのだ。つくばエクスプレスA1出口脇にある弁当屋デリカぱくぱくも店先に弁当を積み上げて朝7時から客が来るのを万全の態勢で待っている。

これがもう9時くらいになると続々と競馬ファンらが出勤してくる。地下深くに作られたつくばエクスプレス駅から長蛇の列を作ってエスカレーターに運ばれて続々と人が地上にあふれ出してくる。

競馬の何がそんなに面白いのか私にはさっぱりわからない。いろんな人になぜそんなに競馬が好きなのか、聞いてみるのだが、よくわからない。そもそもそんな儲けている人もいないようだ。中には競馬のプロがいて、現金で国税庁にバレないように大金を動かしている人もいるのかもしれないが、そんな人はごく一部であって、ここに集まってくる人たちのほとんどは損しているに決まっているのである。株のほうがまだ儲かる可能性はある。というかやり方次第で株ならば確実に儲かる方法がある。競馬にはそれはあるまい。かなりの部分が偶然性でできているからで、確実性が高いギャンブルといえばまだパチンコの方がましだろう。競馬で儲かるはずがない。

飲み屋で会ったある女性は、お酒を飲むと体を壊すかもしれないけど、競馬は体に悪い影響なくてお酒を飲んだときと同じくらいハイになれるからやるんだと言っていて、なるほどなと思った。

浅草に場外馬券場がある必然性、なくてはならない理由があるんだろうか。渋谷にも場外馬券場があるはずだが、渋谷でも同じような状況なんだろうか。渋谷も浅草もとにかくどこか別のところへ移設するなんてことは考えてもいないのだろうか。

そうした殺伐としてタバコ臭くていかがわしい雰囲気が蔵前から浅草、山谷のあたり一帯、日曜の夜まで続くのだった。

浅草の店には勝ち馬投票券、つまり馬券を置いている店が多い。土日はたいていの店が競馬中継する。実に多くの人が路地にテーブルや椅子を並べて競馬を観戦している。相撲のあるときは相撲中継を見ている。

競馬を面白いと感じるのはホモ・サピエンスのバグなのだろうか。アーリア人にせよモンゴル人にせよ馬を乗りこなすことによって交易し戦争に勝利し、子孫を大量に残した。馬乗り好きな遺伝子がそうでない遺伝子を淘汰して残ったせいで人は競馬に理由もなく、無意識に魅了されるのではなかろうか。

浅草パークホールビルはJRAの事務所や駐輪場などが入るオフィスビルなのだそうだ。やっぱりね。確かにこの建物の2階と地下には謎の駐輪場がある。無料らしいが、通勤客が利用しても良いのだろうか。つくばエクスプレス駅にも駐輪場があるがこちらは有料である。浅草辺りは地面が平らだからものすごくたくさんの人が自転車に乗っている。運転マナーも決して良くはない。極めて危険だ。坂が無いからまだなんとかなっている。

デリカぱくぱくって向島にもあるんだなあ。あと青戸と足立にもあるようだ。

越生の梅干し

越生には越生梅林というものがあるというのは昔東上線沿線に住んでいたのでなんとなく知っていた。小田原には曽我梅林というものがあって、熱海にも熱海梅林というものがあり、梅林のあるところはだいたい梅干しが名物なので、越生にも梅干しがあるのかなと思ったらやはりあった。

これが安くてうまい。大粒で20粒くらいで1000円いかないくらい。塩と梅の実しか使ってない本格的な梅干しで1粒50円はかなり安い(追記。この梅干しは農家の人が自宅で作って市場で売っていたものだというので、多少安いのは当たり前なのかもしれない)。

しかもこの越生の梅干しは、あまり塩辛くもなく酸っぱくもなくそれでもちゃんと梅干しの味がして、皮も薄くてやわらかくて、おいしいのだ。

昔ながらの梅干しとか言って売られているものはやたらと塩分が高くて22%とかある。なるほど昔はそうした長期保存用に塩辛い梅干しを作っていたかもしれんが、今はそんなことする必要なかろう。

今スーパーで売られている梅干しは、いわゆる調味梅干しというもので、蜂蜜を入れたり、出汁や鰹節を入れたりして味を調整しているからほんとうの梅干しの味というものがわからなくなってしまっている。たぶん塩と梅だけで梅干しを作っても簡単にうまくはならないのでいろんなものを足してごまかしているのだ。越生の梅干しみたいにシンプルに塩味も薄くして酸っぱさも控えめにしてしかもちゃんと梅干しの味がするほんものの梅干しを作るってのはたぶん超絶技巧なのだと思う。すごく熟成期間なんかも絶妙に管理しているのではないか。こういうものが出回れば普通の梅干しなんて食べられたもんじゃないと思う。安くてほんとうにおいしい梅干しを食べているのは実は埼玉県民、或いは越生に近い群馬県民なのかもしれない。

だがしかし越生の梅干しが安くてうまいことがばれて需要が高まったら値段も上がってしまうに違いない。越生の梅干しはこれからもずっとこのままでいてもらいたい。

越生はしかし池袋から東上線で行くにも一時間半はかかる。いかにも遠い。池袋あたりで越生の梅干しは売られているのではなかろうか。

菅茶山の和歌

菅茶山は漢詩人で、頼山陽の師として知られるが、和歌もかなり詠んでいたらしい。木村雅寿という人が書いた「筆のすさび」跋にも

書き寄せし かひこそなけれ 山川に 生ふる藻草は 玉も混じらず

などとある。この「筆のすさび」には多く歌の引用もある。またその中に「歌道評論」と題して

江戸の友人、長流契沖以下の古体をよむ人の歌をあつめて一書をなす。或人見て、「真淵以後の人、中古の歌をそしる者多し、内々は何某公の歌の中にても、きこえぬありなどどいひてそしるもあり、今其そしられし人々の歌をかくあつめ見ば、此集と執れかまさらん、もし今の集まさらずば、そしりし人々心に慚ざらめや」といひし。此言はわれ人聞きて自ら警むべき事なり。
近頃の歌といふものは、拘ること多くしておもふ事もいひがたかりしを、長流以下の人々打やぶりしは、言葉の道の大功なり、これより女文字の文もよくする人出づ、京に蒿蹊江戸に春海など其選と見えたり、蒿蹊春海みな男文字をもよくよむ人なり。春海予に逢しとき、昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべしなどかたりし、春海名山の詩をこひあつむとて、予に浅間岳の詩をつくらしむ、其後程なく身まかりしと聞きぬ、其詩いくばくかあつまりけん。
同じ時千蔭にもあひし、みな木村定良を介とす、定良俗称俊蔵といふ与力衆なり。千蔭は隠居して総髪なり、顔色容貌さしも歌人と見えたり、耳しひて息女を傍におきて彼此の言を通ず。春海は半びんにて頭大に下ほそりたる顔なり、一面旧知のごとく磊落の人なりし。
蒿蹊は近江八幡の人京に住す、小男にて剃髪す、音吐大によく談ず。

などと言っているのだが、わかるようでわからない話である。「此集」「今の集」とは何を指しているのか。「長流契沖以下の古体をよむ人」とは下河辺長流や契沖を創始者としてその流れをくむ人たちが詠む歌が古体の歌だと思ってしまうが実はそうではない。ここに最初のつまづきがある。

「江戸の友人」は茶山と交際があった知人ではあろうがしかし茶山はむしろ「或人」の批判に同情しているのである。おそらく「江戸の友人」が編んだ「今の集」が送られてきたので、同郷の学友(或人)に見せたところ、いろいろと批評をされたので、そのことを書いているのだと思う。

「此集」「今の集」とは「江戸の友人」が集めた「古体」の歌集ということで、たぶんここには下河辺長流、契沖ら「中古」の歌は含まれていない。「中古」の歌とはつまりここで「そしられし人々の歌」であり、「此の集」「今の集」とは「そしりし人々」が詠んだ歌、江戸で流行した真淵以後の、いわば、「疑似万葉」「新万葉」の歌、つまり「古体」の歌をさしているのだろう。

真淵門下の「古体」を詠む人々が「中古」の歌をそしっている。「中古」の歌と「古体」の歌を比較してみて、「古体」が「中古」にまさっていなかったとしたら、「古体」を詠む人たちは恥知らずということになる。そう言いたいのだろうと思われる。

「中古」とはつまり江戸初期の長流契沖のような歌を言い、「古体」とは江戸中期以降の万葉調を言うのだと思われるが、これは江戸時代の人の感覚であって、現代人にはわかりにくいと思う。

たとえていえば今の人が「江戸仕草」とか「恵方巻き」など昔ながらの古いしきたりのように言うことが実は最近捏造されたものであって、全然古くもなんともなく、実は新奇なものであるのに似ていると言えようか。

「近頃の歌」というのは、「拘ること多くしておもふ事もいひがたかりし」それを「長流以下の人々打やぶりし」などと言っているのを見ると、こちらはどうも、江戸時代以前の歌、もしくは江戸時代に残った堂上和歌のことを言っているらしい。つまり時系列に古い方から並べると、「近頃の歌」「中古」「古体」となる。非常に紛らわしい。江戸時代には和歌はだんだんと古代にさかのぼっていくようにみえる。古ければ古いほど新しい。逆説的ではあるがしかしそれが当時の人々の自然な感覚だったのだろう。明治以降の人にとっては新しければ新しいほど新しいに決まっている。

「古代」ではないんだよな。「古代」の「体」なんだよ。古代を模した今の世の体。

江戸時代のぬるま湯に長い間浸かり固定した身分制度の中に生まれて死んでいった人たちは、時代精神の移り変わりとか社会の変動とか未来の変革というものがまったく想像できなかったのであろう。未来は虚無であり、存在するのは過去ばかりである。江戸時代には過去を探求する道具、古文辞学というものが飛躍的に発展した。江戸時代には未来を予測するのではなく過去へ遡る歴史学が最も発達し注目された、最先端の学問であった。宣長の研究もまたその類いであった。

それゆえ江戸後期の人々は、最近になって新しく確立され見えるようになった古い過去ほど新しく見えるという錯覚に陥ったのであろう。逆に明治の人は過去を無価値なものと切り捨て、未来や海外を見通して将来を予測することが必須の課題であった。両者は全然違う時代だったのだ。

そうしてみると茶山は、国学が興った後の下河辺長流、契沖、伴蒿蹊、村田春海、加藤千蔭らの歌が良く、同じ江戸時代でも真淵やその模倣者の歌は(新しすぎて)よくないと言っているらしい、ということになる。実際、村田春海、加藤千蔭は真淵の弟子ではあるが、彼らの歌は真淵とは似てもにつかない。茶山自身が詠んだ歌をいくつか見てみると春海千蔭の歌に良く似ている。要するに江戸後期に文人たちが詠んだ平々凡々たる歌だ。

明治以降の人は現代口語を使った歌のことを新しい歌と言う。しかしながら江戸後期の人たちは古い万葉の言葉を使った歌を新しい歌、今風の珍奇な歌だと思っていた。この感覚は現代人にはなかなかわかるまい。江戸時代にはまだ現代口語など影も形もなかった。標準語、現代口語なるものは明治政府や明治の文人らが共同制作した人工言語なのだから。

春海千蔭は師が編み出した「古体」の歌を捨てて「中古」に回帰したが、同時に真淵の流れをくんで「古体」を愛好した歌人らが江戸にはいて、春海千蔭とは同門ながら対峙していたように思われる。春海千蔭は真淵よりもむしろ宣長と親和性が高かった。万葉調の流行は江戸で起きたものであり、京都で万葉調の歌を詠む人はいなかった(香川景樹や本居宣長が万葉調の歌をまったく詠まなかったわけではないが)。

ということをこの文章から読解できる人がどれくらいいるのだろうか。私はこんなふうに解釈したけれど、他の人にはそうは読めないかもしれぬ。実に朦朧とした文章だ。歌人の風貌と歌の善し悪しと何の関係があるのか。

富士川英郎『菅茶山と頼山陽』には

旅衣 たちな急ぎそ 老いが身は またあふことも 末知らぬ世に
旅にあれば 家のみ思ひ 帰りては また行かばやと 思ふ大和路

などの歌が見えて、端正によく出来た歌だと思うが、おそらくこの時代の武家や公家の子弟は子供の頃に和歌や漢詩を仕込まれて、それで人並みの和歌が詠めるようになる、と言っただけのことで(茶山は一流の文人らしく人並み以上に詠めたようではあるが)、何か特別個性的なというか、何か巧んで、凝った詠みかたをしているようには見えない。幕末の伊達宗広や中島歌子などの歌と通じるところがあるように思う。そう、飽くまでも教養人の嗜みとして、当時のハイソサエティの慣習の範疇で詠んでいる、とでも言おうか。当時の人は別に字を書くのが好きで書道をやり、お茶を飲むのが好きだから茶道をやったわけではあるまい。歌道もまたそうした教養科目の一つだからやったまでで、そこに個性や創意工夫を追求しているのではあるまい。よく出来ているのだが、褒めようと思って良いところを探し始めるとぼんやりとぼやけてしまい良さが見つけられなくなる。うまくまとまりすぎているというか、秀才的というか。

こういった歌をいったいどこから見つけてきたのだろうか。頼山陽の母、梅颸の歌も多く引用されているから、そちら関係の史料にあるのかもしれない。或いは広島の県立図書館あたりに行けばそうした郷土資料がざらにあるのかもしれないが。

富士川英郎という人は戦前に岡山で高校教師になったとあるからやはりその頃に菅茶山や頼山陽に親しんだのだろう。こういう東洋文庫に本を書くような東洋学者というものは今はいったいどこにいるのだろうか。もうほとんど絶滅してしまったのだろうか。最近では荻生徂徠全詩というものが東洋文庫から出たが、ほとんど新刊も出なくなってしまっているように思う。

梅颸の歌も調べてみると面白いのかもしれないが、今はもうあまり手を広げる気もないのである。ところで頼梅颸という呼び名はどうであろうか。江戸時代の公家や武家は夫婦別姓であったはずだから、飯岡梅颸と呼ぶべきではなかろうか。細川ガラシャなどという呼び名をみると、いやそれは明治以降の呼び名で、本来は明智玉子だろうと思ってしまう。明治は現代まである程度連続しているからみんな明治を擁護したがるが、明治政府はいろいろおかしな(日本の伝統を破壊する)ことをした。

村田春海が「昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべし」などと言っていた、というのも変な話である。古今集の撰者がみな(半ば)儒学者だったなどと言っているのだが、そんなことを言えば江戸時代の武士もみんな儒者であろう。