韃靼タイフーン

安彦良和の『韃靼タイフーン』を読んでみてまず考えたのは、これほど優れた作品が世に知られていないからには、 私のような弱小作家の小説がまったく売れなくても当たり前だな、ということだった。 『韃靼タイフーン』が彼の他の作品と比べてものすごく優れているといいたいわけではない。 出来としては『王道の狗』『虹色のトロツキー』くらいだろうか。 最近の作品で比べれば、『麗島夢譚』や『天の血脈』よりはましな気がする。

『麗島夢譚』もほとんど知られていないが、『韃靼タイフーン』と同じ理由で、連載されている雑誌がマイナーだからだ。 『天の血脈』はアフタヌーンなのでまだメジャーといえる。

安彦良和は恐れずマイナーな雑誌に書きたいものを書く人だ。 逆の言い方をすると、書きたいものを書こうとしても企画会議を通らないから、そういうネタはマイナーな雑誌に回さざるを得ず、それゆえに世間に知られないということになる。

『ナムジ』や『神武』は強烈につまらない。 たぶん『アリオン』の流れでギリシャ神話から日本神話に飛び火したのだと思うが、彼には神話(というより、ファンタジー全般)を書く才能は無いと思う。

『ヴイナス戦記』のつまらなさにはあきれた。アマゾンでまとめてポチったが1巻目の最初のところで挫折してほってある。 たぶん彼にはSFの原作を書く才能も無いと思う。 『Cコート』は非常に面白い。『ヴイナス戦記』を書かせるために『Cコート』の連載を中断させたのだというが、まったく馬鹿げたことだ。なるほど読者は『ガンダム』の作画監督・キャラクターデザイナーが書いた宇宙戦記物が読みたいのだ。『クラッシャー・ジョウ』の挿絵を描いた安彦良和のオリジナル作品が見たいのだ。そして出版社はそれをアニメ化して当てたい。しかし彼にそんな才能はない。彼には『Cコート』を書かせるべきだったのだ。『ヴイナス戦記』に費やした労力は大いなる損失だ。 『韃靼タイフーン』もまた『ガンダムオリジン』を出すために中途半端に終わらせたというのだが、まったくもったいない話である。

『三河物語』は非常に面白いのにほぼ同じ時代を描いた『麗島夢譚』がつまらないのは意外な感じもするのだが、このあたりに安彦良和という人の限界があると思う。 ある程度史実に基づいて脚色したものは面白いのだが、史実から逸脱してほとんど空想だけで書いたものはつまらない。そう思うのは私だけだろうか?鄭成功と宮本武蔵を絡ませた話が面白いだろうか?荒唐無稽というべきだろう。 『韃靼タイフーン』も破綻寸前なのだが、なんとか帳尻あわせてある。

『ジャンヌ』もつまらない。なんなのだあのフルカラー書き下ろしは。よくもこんなくだらない企画を思いついたものだ。 どうも、メジャーなメディアからの頼まれ仕事ほど本人のやる気がなくてつまらなく、 マイナーなメディアで出したものほど本人のこだわりが濃厚で面白くなるのだ。 しかし世間様の評価というものは、作品の出来とはまったく何の相関もなく、 ただメジャーな媒体に出したものほど評価が高く、 マイナーな媒体に出した作品はほとんど認知されない。

安彦良和ほどの人ですらこのようなありさまなのだから、私のようなひよっこが世の中に正当に評価されるはずもない。 そう思ってずいぶん気楽になったし、これからも周りにあわせず自分の書きたいものだけを書いて遺そうと思った。 同時に、世間に媚びず、マーケティングもせずに読者を獲得することは恐ろしく困難なのだと思った。

安彦良和の本質は「右翼作家」なので現代の出版界では決して正当に評価されることはない。笑うべし。

度胸星

第1巻が無料で面白かったので、第4巻まで買って読んだのだが(最近マンガを買うのは珍しい)、これはなあ。作者の意に反して打ち切りになったというより、これ以上話を続けられなかったのじゃないかなあ。

まあ、面白いんだよ。でも、地球では起きない超常現象が火星では起きることの説明が付かないよな。付けられれば傑作と言えるかもしれないが、たぶんできなかったんだろうと思うよ、これは。これじゃあ最後にどんな種明かしがくるかを知るためだけに金払った人は納得できないよ。

シン・ゴジラ

改めて(何度目だ?)シン・ゴジラを、メイキングなども含めて見てみたのだが、要するに、前半部分は東日本大震災に絡めた戦後日本への恨み節であって、タマ作戦はエヴァそのまんまだし、後半ヤシオリ作戦はタモリ倶楽部になってしまっている。

その主張は、日本はスクラッチアンドビルドしなきゃ良くならない。そのための自作自演がゴジラだ、というわけだ。

夏休み中ずっと、タモリ倶楽部をYouTubeで見ていたが、シン・ゴジラのどこがタモリ倶楽部かってことはすでに「ネタバレはあります。」で書いたのでくどくど繰り返さない。わざわざ新幹線や在来線が集中する東京駅でゴジラが立ち往生するというシチュエーションがあり得ない。

しかしまあこれを「庵野秀明監督最新作の日本映画」としてしてみたとき非常に良く出来ていると言わざるを得ない。庵野監督は、金と人と権限を使えばここまでちゃんと作れるのだということを実証したのは素晴らしかった。

キューティーハニー

結局ストーリーは、四人のボスキャラを倒し、ラスボスがビオランテか小林幸子、最後は愛が勝つ、というのはうーんどうかと思うが、まあ、なんとか中だるみせず、最後まで見ようと思えば見れる作品だと思う。中だるみ感を出すということはそれなりの安定感があるということだろう。

シン・ゴジラにも出てくる市川実日子が良い味出している。そのほかシン・ゴジラとの共通点も多い。CGがときどきしょぼくなるところなども。

式日

主人公とヒロイン以外はほとんどでてこない。

主人公の「カントク」は明らかに庵野秀明がモデルであるが、実際の俳優は岩井俊二という(庵野よりはずっとイケメンな)映画監督である。

ヒロインはこの映画の原作者である藤谷文子。彼女は俳優のスティーヴン・セガールの娘で日本人の母とのハーフ。藤谷文子は小説家でもあり、俳優でもあるわけだ。

この配役がまず、非常に屈折している。

物語の舞台の宇部市は庵野監督の生まれ故郷でもある。庵野が安野モヨコと結婚する以前に、故郷に帰省したときの実話として見ることも可能。描写はかなり私小説的だし、実際そうなのかもしれない。

カントクとヒロインの間に緊張感があってじょじょに接近していく前半部分は割と面白い。映像も美しい。31日間の物語で、1日ずつカウントダウンしていき、31日後に何が起きるのか期待させたわりには、結局カントクはメンヘラ女のヒロインにあいそを尽かすこともなく愛し合ってしまうし(しかもその恋愛描写はあまりにも不自然!)、最後の日は大竹しのぶがヒロインの母役で出て来て母と娘が和解するというあまりにも平凡なエンディング。ひねらないのがひねりなのだろうか?

ましかし、これは割と見るに値する作品だと思う。

帰って来たウルトラマン

もっと雑な自主制作特撮物なのかと思っていた。想像していたものとは随分違った。

比較的かっちり真面目に作ってあるのに、ハヤカワ隊員の役者は庵野監督ではない。しかしハヤカワ隊員がウルトラマンに変身するとき庵野監督本人がウルトラマン役になっており、かぶり物もしてない。非常に違和感のある作品だが、その違和感以外に何か特筆すべきものがあるのだろうか、この作品は。

見て損は無い。

ラブ&ポップ

庵野秀明監督の実写作品をいくつかみた。

『ラブ&ポップ』は原作が村上龍、『エヴァ』をやった直後にDVカメラで撮った作品。

まあ、民生用カメラ出始めの頃にそれをあえて使ったことと、アングルにこだわりは見えるものの、庵野らしさはほとんどない。

私はこういう、渋谷で女子高生がどうしたこうしたという話が好きじゃないのかもしれない。見てていらいらしたので途中でやめてしまった。渋谷、女子高生、1990年代。自分にとって嫌な思い出しかないからかもしれない。

村上龍の作品もそれほど好きではない。『限りなく透明に近いブルー』は読んだことがある。こういうものがブンガクなんだな、ついてけないな、としか思えなかった。まあ、私の中では山田詠美とか内田春菊と同じジャンル。

その村上龍が、女子高生の援助交際ものを書いて、しかもネットでネタバレなんか読むと、おじさんが援助交際する女子高生に説教するみたいなストーリーになっているらしく、まあ、まったく共感できないなと思った。さすがの村上龍も女子高生の売春を書くことは社会通念上できなかったわけよね。彼も功成り名を遂げたから、リスクを冒す必要もなかったわけだし。

小林秀雄問題

文科省が読解力を問う国語入試を導入しようとしていて、たとえばこれまでは、小林秀雄の悪文を一部切り取ってきて、そのどうしようもなく論理的に破綻した文章を読ませておいて、その設問に対して間違いから一番遠いものを選べとか、最もあり得なさそうなものを選べとか、そういう馬鹿げた問題だった。ただしこのような問題は官僚や弁護士の事務処理能力を問う問題としてはある程度有効だっただろう。法律の条文と照らして正しいのかただしくないのか。多くの場合正しいと一意には決まらないから、もっとも正しそうなものを選ぶ、より正しく無さそうなものをより分けるという作業が必要になる。実にくだらない。おかげでくだらない文系人間を大量生産することになった。

漢文の問題もひどかった。どれが正しい読み下しかを問う問題があって、明らかに間違っているものもあるが、間違いとは言えないものが複数あり、素直に考えれば正解と思われるものは間違いであり、間違いとは言い切れないものが正解であったりする。その根拠というのは、作問中の他の部分の読み下し方に統一するならば、そのように読み下さなければならないから、だというのだ。漢文の基礎をきっちり学んできた者がひっかかり、漢文についてろくに知らなくても、設問の全体の雰囲気で一番確からしそうなものを選ぶ猿知恵に長けた者が得をする。まさにセンター試験的悪問。これでは、整合性のある読み下しをすることが漢文教育にとって重要だということになってしまう。まったく馬鹿げている。

こんな問題をずっと作り続けて、よくこれまで訴訟にならなかったものだ。

新しい問題は、複数の異なる資料(図、パンフレット、討議など)の組み合わせを提示して、そこから何らかの意見を記述させるという手の込んだものであって、「小林秀雄問題」とは対極にある。いわば企画立案タイプの出題だ。

せいぜいラノベとかBLとか村上春樹くらいしか売れないこの嫌な時代を矯正してもらいたいものだ。

鳥刺し2

藤沢周平の原作を読んだ。

やはりなと思った。帯屋は、あんなふうに、城内にどやどやと押し入ったのではない。藩主の近習部屋の者たちが、みな帯屋に内通していて、あるいは帯屋に内通しているものが近習部屋の者たちをどこかほかの場所に連れ出していたのだ。

そして帯屋は誰にも見とがめられることなく、藩主のいる部屋までやってきて、そこで兼見にいきなり遭遇して、斬り合いが始まる。

こうでなきゃおかしい。帯屋は、ちゃんと段取りを組んで、藩主一人と対峙するつもりだった。

あるいはだ。帯屋に内通していると見せかけて、帯屋を油断させて、実は中老の指示で、
近習部屋のものたちは隠れていて、わざと帯屋と兼見を一対一で斬り合わせた。そういう設定でもよい。

帯屋がわあわあわめきながらたった一人で屋敷の中に闖入してくるはずがない。

兼見だが、醜男で剛直な、鋼鉄のような、愚直な男として描かれている。自らの信念で、側妾をあっさり殺してしまった。まあ、これならまだわかる。

最後の立ち回りもあっさりしている。

やはり原作には無理はなかった。脚色が悪い。

藤沢周平のほかの作品もいろいろ読んでみたが彼はまともな作家だと思う。彼の話では、本来、主人公もヒロインもそんな美男美女ではない。しかし美男美女でなくては映画にならない。派手な殺陣がなければ時代劇にならない。だから脚色と原作の関係に無理が生じる。