陽成天皇暴君説

陽成天皇が暴君だったかどうか、判断するのは難しい。同時代資料としては『日本三代実録』があるが、これには大したことは書かれてないようだ。ぼかして記述してあるというが、陽成天皇に不利な部分がぼかしてあるのか、有利なことがぼかされているのか、どちらとも解釈できる。

私はおそらく、『日本三代実録』は、宇多上皇が編纂させたものであり、藤原時平の関与はさほどなかったように思う。つまり事実が淡々と書かれているだけであって、暴君というのは隠されたというよりは、もともとなかっただけじゃないかと思う。

それでまあ、状況証拠だけから言えば、清和天皇を子供の頃から面倒見てきたのは藤原基経・高子兄妹なわけだが、清和天皇の皇子・皇女の数というのは、成人してから死ぬまでの間がほんの短いことを考えると、異常なまでに多い。子供が生まれてないケースを考えれば、そうとう多くの女性に手をつけているはずである。天皇の場合、養育費や扶養の費用を天皇自身が負担するわけではなく、女性の親族が負担するわけだが、それにしてもあれだけ遊ぶには膨大な金がかかっただろうと思う。どうように膨大な時間もかかった。政治なんかやってらんない。

天皇のお小遣いを出したのは当然基経なわけだが、すべては、基経・高子としては清和天皇が子供を産んで高子が国母つまり皇太后になるための投資なわけである。つまり皇太子貞明が即位してくれないことには、元手が回収できない。大損なわけである。おそらく実務は摂政である基経がこなしたのだろう。どういう実務だったかは知らないが、律令国家というものが今の法治国家のように法律だけ決めれば官僚組織によって自動的に動く、はずもない。いまの法治国家ですら裏で賄賂が横行するのだから、平安時代に理想的な律令国家があったとするほうがおかしい。となると、全権を委任された基経はありとあらゆる手段を使って日本全国から税金を集め、官僚を搾取し、私有地を開墾し、寄進を募る。そのお金で主君を養い、その遊興費を捻出し、面倒みてあげて、その代わりに自分の懐にもしこたま金を入れる。すべては必要経費に計上。そうやってひたすら金と権力の日々を送る。一方、天皇は外を出歩いてひたすら愛人を作ってきままにくらしている。

ある日とつぜん、清和天皇は言ったかもしれない、基経、おまえもういいわ、俺成人したから全部自分でやる。あるいはこういったかもしれない。高子、俺兄さん(惟喬親王)に譲位して隠居するわ。俺の子供、まだ若すぎるから、後は兄さんに頼む。

いずれにしても基経・高子には許されない話である。これまで一生けんめいにがんばってきたことがすべて無駄になる。特に高子としては、自分の息子を即位させる、ただそれだけのためにしんぼうしてきたのに、今更他人に譲位されちゃこまると。

ま、そんなわけで清和天皇に非があったかどうかしらんが、彼はひどい死に方をした。
兄の惟喬親王もまた、悲惨な末路に。

ところが高子の子・陽成天皇も基経・高子をないがしろにしただろうね。もう成人したから摂政いらんわ、とか、藤原氏の女御なんかいらんわ。そう言った可能性が高い。基経出仕拒否の時期が元服以後で、また女御・后に基経の関係者がいない。陽成天皇ってもしかするとけっこう男気あふれる名君だったのかもしれんが、それは基経・高子には許容できないことだった。今までいくらおまえに金貢いできたと思っているの。どうしてもそうなる。

言い方はいろいろできるがだいたいそういうことだったろうと思う。

嵯峨天皇、清和天皇、陽成天皇と、コントロール不可能な天皇が続いたのだろうと思う。天皇何もしない。陽成天皇が藤原氏を切って親政をしていたら。外戚の紀氏とかがうまく仕事をした可能性もあるが、どっちかと言えば、いきなり国家破綻したかもしれん。しかしまあ、藤原氏に任せても遅かれ早かれ律令制は崩壊したんだけどね。

誰かが何かしないといけないのだが、その仕事を一手に引き受けたのが藤原冬嗣、良房、基経。ある意味、頼朝、頼家、実朝のころの北条氏に似たような立場だっただろう。うまみがなくちゃやってられないという気持ちはあったと思う。

仁明天皇、文徳天皇なんかは割とまとも、コントロールしやすい天皇だったと思う。
そういう系統で光孝天皇が選ばれたのではなかろうか。

宇多上皇

古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。

光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、それでもどうしても即位しろと言われて、じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、とかいう条件を付けた。で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。

その侍従というのが宇多天皇なのだが、宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。神遊びの神事として相撲をとったはず。にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。

光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。基経が先に死ねば別だったろうが。だから後継者を指定しなかった。

ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、と考えていた。態度にそれがあらわれている。

光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。基経が適当に裁いて、皇籍復帰した宇多天皇が即位するが、まあ、帝王学は学んでないわけで、いきなり位を継いだわけです。で、父はもういない。しかも二十歳そこそこの若さ。さてどうしようかと途方に暮れただろう。もうなんでもかんでも摂政関白に任せちゃおうと思ってもおかしくないんだが、そこはたぶん何かしらの反骨精神、自立心があった。というより摂関家に対する対抗心とか復讐心がめらめらわいてもおかしくない。

親子二代天皇を継いでしまったわけだから、いまさら陽成天皇に皇統を戻さなきゃとは考えなかった。せっかく天皇になったんだから、努力して良い天皇になろうと思ったと思う。それで源氏だった頃に生んだ皇子がいて、後の醍醐天皇だけど、その息子になんとしても皇位を継がせられるようにしようと宇多天皇は思ったと思う。

光孝天皇と宇多天皇はほとんど接点がなかったと思う。だけど宇多天皇としてみれば光孝天皇がやりかけていた文芸復興ということを引き継ぎたいと思ったと思う。父親の遺志を継ぐというのが宇多天皇のやりかただった。

宇多天皇という人は、基本的には典型的なプランナータイプの人だったと思う。アイディアマンといってもよい。アイディアは自ら出すが、あとは臣下や息子になんでも丸投げする。政治は菅原道真に、和歌は紀貫之に、天皇という仕事は醍醐天皇に。割と放任しちゃうタイプだったと思う。

そう考えると宇多上皇と醍醐天皇と菅原道真の関係もなんとなくわかる気がする。醍醐天皇は宇多上皇の留守中に菅原道真を左遷してしまう。宇多上皇はその決定を覆すこともできたはずだ。太宰府に流されてから道真は二年以上生きていたのだから。

でもそれをしなかったというのは、さほど道真を大事に思ってなかったということじゃないか。好き嫌いで取り立てたというよりは、才能を買ったと。で道真はおそらくは才におぼれるタイプだった。どんどん一人でつっぱしって周りの忠告も耳に入らないタイプ。まあ太宰府辺りでのんびりしてろよというつもりではなかったか。太宰府権帥というのは当時そんな低い官職ではない。遣唐使盛んな頃は非常な重職で、遣唐使の大使になったりする職。遣唐使廃止されたあとも、太宰府で交易品の管理とかしなきゃならない。左遷ではあったかもしれないが、島流しというようなニュアンスはそれほどなかったのではないか。菅原道真については、彼の漢詩をじっくり読んでみようと思う。

宇多上皇という人と道真の関係は、貫之との関係とも、醍醐天皇との関係とも似ていたと思う。割とドライな感じだったと思う。そうかじゃあそうしろと。そうしたけりゃそうすりゃいいでしょ、みたいな。

宇多上皇はいろいろやりたいことがあった。日本国中御幸したかったし、法皇として仏教にも励んでみたかったし、延喜式も整備したし、和歌集も編纂したかったし。やりたいことが多すぎて自分だけじゃできないってこともあったろうし。わざわざ自分でやってたら切りないって思っただろうし。でもちゃんとプロジェクトのマネージメントはする、みたいな人ではなかったか。

そんで宇多上皇は古今集の中では法皇という名前ででてくるんだが、詞書きにしかでない。歌が一つも採られていないのだが、これはいかにも不自然だ。たとえば亭子院歌合というのがあって主催者が宇多上皇で判者も宇多上皇。すると、宇多上皇は自分では歌は詠まない。判定する側だから。でも一個だけ自分の歌を紛れ込ませた。えへ。じつはこれは私の歌だよんとか、詞書きに残している。

古今集についても同じような気分だったのではないか。宇多上皇はスーパーバイザーであるから、自分の歌は載せない。ほかにもいろいろ遠慮した理由は考えられるが、ともかく、もし、宇多上皇が何か紀貫之に注文をつけたとすれば、自分の歌は載せるな、ということ。あるいは、載せても良いが詠み人知らずにしとけということ。

古今集には詠み人知らずとして宇多上皇の歌がいくつか混じってるんじゃないか、という気がしてくる。いや、もしかすると詠み人知らずの歌の大半がそうなんじゃないかという気がしてくる。たとえば

色よりも かこそあはれと おもほゆれ たが袖ふれし やどの梅ぞも

詠み人知らずの古歌というものは、もう少しわかりやすいものだと思う。この歌はわかりにくく、従ってある個性を感じる。

この歌の解釈はこうだ。誰が私の家の梅に、袖をふれただけで去っていったのだろう。一本くらい折り取っていけば良いのに。色よりも香りのほうが優れている、とでも思ったのだろうか。

梅ノ花ハ色モヨイガ 色ヨリ香ガサ ナホヨイワイ アヽハレヨイニホヒヂヤ 此ノヤウニヨイニホヒノスルハ タレガ袖ヲフレタ此庭ノ梅ノ花ゾイマア

これは宣長の解釈。

多くの場合、だれかの袖が触れたせいで、梅にこのように良い香りがついたのだ、と解釈されるのだが、かなり無理がある。普通は梅から袖に香りが移るものであって、その逆というのはあり得ない。そこを無理に解釈しようとしてはいけない。

丸谷才一は、触れただけではなく実は折り取ったのだ、と解釈しているが、これもかなり無理がある。折り取ったのであれば、香りだけでなく色もあわれだと思ったのである。香りだけで色がないということは枝は折ってないはず。

おそらくこの歌を詠んだ人は、だれかが自分の家の軒先まできて梅の花を見ていったのを目撃したのだろう。普通は来訪のしるしに一枝折っていくものである。当時の習慣では、いろんな人がやいやい指摘するように、実際そうだったかもしれない。やあこないだ君の所から一本梅をもらったよ、今うちの瓶に差してあるんだ、へえそうかい、みたいな会話のきっかけになる。

しかし、折らなかった。だれかもわからなかった。誰だったのだろう、ずいぶん中途半端なことをして。当時の社交辞令的にはかなり不完全で不審な行動だったわけだ。それで怪しんで詠んだ。という意味だと思う。

小料理屋の女将さんが、店先をふと立ち寄って通り過ぎた客を恨んで詠んだような、そんなニュアンスの歌だと思うんだよね。そう解釈すべきなんだが、そこまで読み取るのはかなりたいへんだ。

こういうひねった歌というのは、詠み人知らずにないとは言い切れないが、どうも身分を隠しただれかの作のようにおもえてならない。貫之が詠んだ歌だとしても不思議ではないが、貫之が名を隠す必要性がない。

宇多上皇と醍醐天皇の中は決して良好でなかったのは確かである。醍醐天皇にもたくさん弟たちがいて、いつそっちに皇位が移るかしれない。しかもお父さんは教育熱心。いつまでも政治やらなにやらに口出ししてくる。邪魔くさいお父さんだったと思う。ある意味、光孝天皇と宇多天皇の関係とは真逆。

醍醐天皇がどんな性格の人だったかはさっぱりわからない。醍醐天皇がもすこし長生きして宇多上皇が崩御して、父親の影響なしでどんなことをしたかわかればいいんだが、先に死んでしまった。どうも病弱だったらしい。なんとなく気が弱く反抗的な息子、という感じがする。まあイメージだが。

亭子院歌合

勝、負、持(ぢ)は引き分け。

左の奏は巳時にたてまつる。方の宮たち、みな装束めでたくして、州浜たてまつる。
大夫四人かけり。
右の州浜は午時にたてまつる。おほきなるわらは四人、みづらゆひ、しがいはきてかけり。

かけり、というのは担いだという意味で、神輿のようにして四人がかりで州浜を担いだ、と言っている。州浜が未だによくわからんが、やはり巨大な生け花のようなものだったように思う。寛平菊合でも州浜に菊を挿すなどという話がでてくる。

左 貫之
さくらばなちりぬるかぜのなごりにはみづなきそらになみぞながるる
右 貫之
みなぞこにはるやくるらんみよしののよしののかはにかはづなくなり
みぎかつ。うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける。

州浜が入るのも、奏楽があるのも、歌を詠むのも左→右の順番のようである。

左も右も同じ歌人なのはどうなのかと思うのだが、同じ亭子院歌合ではそういう例がいくつもあるので、同一人物が判者(この場合は宇多上皇)にどちらが良いか決めてもらうという意味か。「うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける」がわかりにくい。 貫之の、右の方が良いが、私の歌なら負けなかっただろう、という意味か。この詞書きのせいでこの歌が宇多天皇の御製に間違われ、さらに醍醐天皇の歌に間違われたのだろう。 思うに、貫之の歌というのが一番自然だ。宇多天皇はこういう、見もしないみよしのの歌なんて歌わない気がする。気がするだけだが。

丸谷才一は、だがたとえそうだとしても、勅撰集に醍醐天皇御製として採られているからには、醍醐天皇の作とすべきだ、などと言っていて、そんなはずはないと思う。どこからそんな考え方がでてくるのか。

室町時代の勅撰集はそういうことをよくする。詠み人知らずの歌を猿丸大夫の歌だとかよくわからんことをする。けしからんことである。「王朝文化」というのはそういう江戸時代や室町時代から古代を眺めたフィルターのかかったものではないはず。それは結局、王朝時代の価値観ではなく、江戸時代の価値観にすぎないからで、現代人が王朝時代を江戸時代の価値観で眺める必要などない。古いものが神秘的でありがたく見えるのは人間の習性にすぎない。実際昔の方が迷信深くて信心深かっただろうが、なんでもかんでもそんなふうに解釈するのは間違っている。丸谷才一も結局は「古今伝授」と同じ病気にかかっている。古今伝授といってもそれは紀貫之が考えていたこととは似ても似つかぬものだ。紀貫之をありがたがるなら古今伝授などというもので紀貫之の姿がゆがめられていることを排除し、当時彼らがどのようなものの考え方をしていたかを推し量るべきではなかろうか。

王朝とか新古今とかいいながら、実は江戸時代や現代人の価値観で王朝とか新古今とか言ってるだけではないか。だから、王朝文化は新古今で死んだとかいいたくなる。江戸時代にも王朝文化は続いていた。連続性はあった。古今伝授のような迷信のせいで不連続に見えるだけではないのか。

左 御
はるかぜのふかぬよひだにあらませばこころのどかにはなはみてまし
ひだりはうちの御うたなりけり、まさにまけむやは

「ひだりはうちの御うたなりけり」左は実は御製だったのだ、負けるはずがない。判定は誰が詠んだかわからぬ状態でやるらしい。ま、その方が公平だわな。詠み手とは別の人がよみあげ係をやる。で、判者が宇多上皇だから、本人は自分の歌が勝ちと判定するから負けるはずがない、とまあそんな意味だろう。

新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃(藤原高子)の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」などと言っている。丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、そのように解釈された歌なのである。

それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。醍醐天皇の歌

みなそこに 春やくるらん みよしのの 吉野の川に かはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。

嵯峨天皇

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

三春出猟重城外 四望江山勢転雄
逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風
征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空
不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。当時の日本国というのは若い国家だった。この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、日本は、アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。

後拾遺和歌集

そんでまあ、 たいへんありがたいことに、 後拾遺和歌集 はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、 それで序文を読んでみたが、 言ってることはごくまともで、 古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、 その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。 だから最近の歌というものに注目するのは難しい。 だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、 などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。 重鎮たちは面白くないわな。

世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、 実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、 要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。 その言い訳だわな。 そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、
勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。 偉大なる先駆者。パイオニア。 これまたカチンとくるわな。 勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、
たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。 それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

後拾遺集の序文にファピョった連中が、 なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、 そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、 元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。 この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、 どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。 古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。 そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。 誰だか知らないが。 『難後拾遺』を書いた源経信かね?
それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。
ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。 「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。 新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。 そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

後拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。 まだ序文しか読んでないけど(笑)。 つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。 この人たち多分身分低いわな。 ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。

古今和歌集の真相

古今和歌集 は醍醐天皇の勅令によって、 延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。 普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。 宇多上皇ならばあり得るだろう。 宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。 仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。 なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、 そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

亭子院歌合 というのから古今集に採られているのだが、 これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、 古今集成立のずっと後である。 これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。 後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。 でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

桜ちる 木の下かぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞ散ける

とあって、その次に

延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

こと夏は いかが聞けん 時鳥 こよひばかりは あらじとぞ思ふ

とある。 延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、 このときもやはり宇多上皇だったのではないか。 そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、 この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、 と解釈は可能なんだが、 貫之集の中の歌の並びからいけば、 この宇多天皇からの院旨は、 亭子院歌合の後だったんじゃないか、 延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、 と思われるのである。 というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは元永本古今和歌集 という写本で、 恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。 時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。 つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、 古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。 それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、 そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、仮名序はひどい。支離滅裂だ。あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。 なるほど日記文学風の序がついている。 伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。 こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、 ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。 しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、 おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。 白河天皇の関与というものも。 しかし実際には非常に重要なものであり、 もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、 良房や基経の歌がいくつも出てくる。 しかも詞書きが異様に丁寧。 宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。 このことはすなわち、 古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。 それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。 それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、 亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。 だから、 「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下にいた。 「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。 だが、 「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」 の時には明らかに昇殿しているのである。 このときは正式な勅命を受けていると思われる。 それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。

cat shit one vol. 1

cat shit one を読み終えた。シリーズ化第一巻だけあって非常に読み応えがある。そのへんの凡百のベトナム戦記ものよりためになるだろう。

インドシナ史の入門書として読むのもありかもしれない。

cat shit one の前に dog shit one という劇画調の漫画があって、月刊コンバットマガジンという雑誌に連載され、それも収録されているのだが、正直大しておもしろくない。アメリカ兵がウサギでベトナム兵がネコという意外性がなければ、ミリオタではない私がこれを目にすることはなかったと思う。

恋と女の日本文学

丸谷才一『恋と女の日本文学』は、簡単に言えば本居宣長を攻撃するのが大好きな丸谷才一が宣長を攻撃するために書いた本である。丸谷才一という人は、戦後民主主義のホルマリン漬けみたいな人であって、思想的には大江健三郎や井上ひさしなんかに近い。國學院大學にいて国文学にものすごい影響を受けているくせに左翼だからものすごく屈折している。

で、本人は本居宣長を攻撃しているつもりなんだが、誰も怒ってくれない、放置プレイ状態だからますます彼の論説は過激になっていく。

宣長はただ一般論として儒学を攻撃しているのではない。彼は実際に講義を受けた堀景山を批判しているのだと思う。彼は凡百の儒者に過ぎなかった。その講義があまりにもつまらなかった。堀景山は反面教師としてそうとう宣長に影響を与えたのだろうなと思う。

中国人は偽善者で嘘つきだ。それが中国文学の原理である。
p.72

ここで「中国人」を「堀景山」に読み替えると意味がすんなり通ると思う。当時の儒学者、武家というものは、多かれ少なかれ偽善者で嘘つきだった。「蘆わけ小舟」は景山に学んだ宣長の卒業論文のようなものだった。普通は恩師のことを褒めなくてはならないのだが、宣長は景山の人柄はともかくとして学問や思想に決して共感できないところがあり、
それを批判したのだろうと思う。もちろん、宣長は景山なくして契沖に出会うことはなかった。ただそれだけでも、宣長が景山を尊敬していたことは間違いない。

丸谷才一は、儒教文化と日本文化を対比させて話をしたがるのだが、日本はインドからも大量の説話を輸入していて、そこには男女の愛憎や肉欲なんてものは、いやというほど描写されている。日本文学は中国と比べれば退廃的かもしれんがインドと比べれば全然清楚なほうだ。日本はただその両極端を知識として知っていただけだろう。

宣長の歌がからつ下手で
(p.63)
宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学び続けた人なのに、本当に才がなかつた。才のなさが凡庸ではなかつた。しかもさういふ人の歌のなかでもとりわけひどいのが人口に膾炙することになつた。言ふまでもなく山桜の歌だが、
(p.86)

などと書いているのだが、思うに、定家全集なんか読んでいると定家もそうとう大量の退屈な歌を詠んでいる。実際定家の歌で面白い歌なんてのはめったになく、たまたまあっても奇をてらった嫌みなやつか、本歌取りのきどったやつ。見えてくるイメージは学者の家に生まれ育った秀才、というのみ。父親の俊成のほうがずっと歌はうまいと思うのだが。で、

『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたい

などとは宣長は思ってない。京極黄門藤原定家のような歌が詠みたい、と思っていただけであり、後鳥羽院や西行みたいなぶっとんだ歌が詠みたいと思っていたわけではない。これらの天才肌の感覚派の歌は後世の京極派に通じるところがあって、むしろ宣長は嫌っていた。霊感によって自由自在に詠む歌というものを宣長は否定している。

定家の地名百首みたいなつまらん屏風歌みたいのを大量生産するのが宣長の好みであった。宣長はかなり忠実な定家の追随者だと思う。

俊成や後鳥羽院や西行の歌を、普通の歌人は真似ることはできない。方法論がない。天才の歌を凡人が真似ることは不可能だ。しかし、定家の歌を真似ることはできる(追記。下手くそな歌詠みのために定家が作ってやったテンプレをみながありがたく使うという意味)。ピアノで言えばバイエルみたいなもん。だから定家は家元になり得たし、信者を大量に獲得できたのである。その一人が宣長だったのにすぎない。それは宣長自身が言っている。京極派を毛嫌いするのもそこだろう。京極派を学んでも凡人は京極派の歌を詠むことはできない。しかし二条派の歌なら詠める。

本居宣長

wikipedia 本居宣長 を読んでいると非常に腹ただしくもあり、いろいろいじりたくもなるのだが、 いじり始めるときりがないからやめておく。

まず不満なのは17歳の時に和歌に目覚めたこと、 その後も和歌の修行に執心したこと、がまったく書かれてないこと。 京都遊学中に小沢蘆庵と出会ったことも書かれてない。 手落ちだ。

医学を堀景山以外の人に習ったように書かれているが、 堀景山は儒学者というよりは医者であって、 宣長は医者になるために堀景山に学び、ついでに儒学も学んだのである。 ニュアンスが異なる。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

これは大野晋の妄想なのだが(彼の妄想癖は有名。日本語なんとか起源説、とか)、これを読んだ人は鵜呑みにするだろう。

紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

これのどこがそんなに重要なんだ。

当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。

いやおまえ、そんな些細なことはどうでもいいからさ。 そんなことまでいちいち書いてたらほかにもいろんなことかかなきゃならなくなるよ。

要するにこれを読んで宣長のことは半分もわからん、むしろおかしなステレオタイプを覚えてしまう、ということだ。 なんだろね。 日本史の教科書の記述ってしょせんこんなもんなの?

たぶん書かねばならないことは、宣長が松坂の木綿商の次男に生まれ、
11歳の時に父が死んだということ。
15歳で1年ほど江戸の叔父の店で修行したこと。
17歳で和歌を学びはじめ、
18歳で紙商の養子になった(次男だからだろう)こと。
20歳で養子を離縁されたこと。
21歳で兄が死んで家督を継いだこと。
22歳で医者になるために京都に遊学。
堀景山に医学の他、四書五経や漢詩などを学ぶ間、契沖を知り、和歌を学び、小沢蘆庵と知遇を得て、 日本文化に心酔して仏教や儒学から距離を置くようになる。
京都で医者になろうとした(医者の娘と結婚して養子になろうとした)がかなわず、 堀景山が死去すると、27歳で帰郷して医者を開業する。
30歳の時に商家の娘と一旦結婚するが離婚。
32歳で京都時代の学友の娘と再婚。

まあ、こんなところではあるまいか。

彼は武家とははなはだ相性が悪かったが、商家とも悪かった。 どのへんが気に入らなかったかというところが非常に気になる。

いやね、 本居宣長は、 自分で、契沖に影響を受けました、ということは書いているんだが、 堀景山や荻生徂徠に影響を受けました、なんてことは書いてないと思うんだ。 荻生徂徠や伊藤仁斎に影響を受けただろう、ということは小林秀雄がそう書いてるだけでね。 しかも本論とあんま関係ない薀蓄たれてるだけなんでね。

宣長の学問の形というのは徂徠がどうのこうのと言わなくても契沖だけでほぼ完全に説明できると思うんだ、 その古文辞学的なところとか。 宣長学というのはつまるところ契沖学の延長なんだよね。 もし他に影響を与えた人をあげるなら藤原定家とか紫式部とかだろ。

宣長は真淵を師と呼んでいて、別に影響を受けなかったというつもりはないが、 宣長は真淵に会う以前にすでに完成していたのだから、その影響を完全に除外しても宣長は宣長なんだよなあ。

なんでそういうふうに宣長を説明したがるのかね、みんな。

だいたい小林秀雄という人は、雑な性格の人で、良く言えば芸術家肌なんだが、仕事にむらがある。 くだらん老人の蘊蓄を垂れている箇所と、鋭い指摘をしてるところが混在している。 伊藤仁斎の箇所なんて頼まれ仕事で仕方なく文字数埋めるためにわざと脱線してなんの関係もない蘊蓄を垂れているだけなんだが、 わかる人はそういうところはよけて読んで、面白いところだけ拾い読みすれば良い。 中国のお土産は必ず良いものと不良品を抱き合わせにして売っている。そんなもので、 不良品を捨てて良品だけ拾えばよい。 小林秀雄自身もここは脱線してるから本論とは関係なしに雑談として読んでね、っていうヒントはちゃんと出してるのに、 わからんやつにはわからん。よけいなんかありがたがっちゃう。
ああ、宣長の本を読んでてついでに仁斎の話まで読めちゃうなんて。なんてお得、とか思っちゃう。 小林秀雄著『本居宣長』を読んでる側にしてみれば、 本居宣長が伊藤仁斎から何かすごく影響を受けたように読んでしまう。 読者というものは、だいたい誤読するものである。

本居宣長を誤読しさらに小林秀雄も誤読するからもはや宣長の原型を留めていない。 自分で勝手に宣長ってこんな感じとか思っちゃう。

平田篤胤なんかも本人の許可無く勝手に誤読して自分が一番の弟子とか言い出す。

ガンダムやマクロスの二次創作もそうだが、 ともかく読者というものは業が深い。 私も自分の小説をいつも誤読されるので、よく知ってる。

たぶん小林秀雄は出版社から借金の穴埋めかなんかに原稿料を前借りして (或いは一晩で遊蕩して)、宣長について五十話書く約束をしちゃったんだが、 宣長だけでそんなたくさん書けないし書く気もない。 仕方なしに松坂に取材に行った。 それから徂徠や仁斎の話で煙にまいといて、 ほんのちょっぴり、きらっとしたことを書いたら、 もう全然書くことがなくなってしまって、 後半は古事記伝の解釈をいやいやだらだら書いて埋めた、 そういう本だと思うよ、『本居宣長』は。