「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。
「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。
「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。
いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。
「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。
「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。
「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。
「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。
いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。
「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。
[プロイセン](File:Prussiamap.gif)。
[プロイセンの領土拡張2](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap2.gif)。
[プロイセンの領土拡張3](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap3.gif)。
[ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国](http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Brandenburg-preussen-1701-1806.png)。
[ライン川](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rhein-Karte.png)。
昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。
神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、 ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。一躍大国となる。1862年にはビスマルクが宰相となる。イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。イタリアに続けという気持ちはあっただろう。
1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。ビスマルクすげえ。
[プロイセン部族](http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Prussians)。
[Königreich Preußen](http://de.wikipedia.org/wiki/K%C3%B6nigreich_Preu%C3%9Fen)。
安史の乱が755年、王仙芝・黄巣の乱が874年、907年唐滅亡。53年間の五胡十六国時代を経て、960年には趙匡胤による宋王朝の成立。
唐が貴族主義的血縁的であったのに対して、宋は士大夫による中央集権的な、皇帝と官僚組織によって統治される国家だった。
一方で日本は1068年に後三条天皇即位。おそらく貴族主義の唐が滅んで官僚主義の宋になり、世界最強の帝国となったのを見て、日本もまた藤原氏が滅んでいよいよ天皇中心の中央集権的官僚主義の時代になるのに違いない、と思ったに違いない。或いは貴族の首長であるところの天皇家が、藤原氏らとともに衰えて、大乱の後に武士の王朝に交代するかもしれない、と危惧もしたかもしれない。
後三条天皇による上からの改革は白河天皇・鳥羽天皇の時代には (院政によって一見天皇家の勢力が極大に達したに見えつつ)著しく後退し、ますます貴族や武士や寺社の力が伸張した。後白河天皇と崇徳上皇が帝位を争った保元の乱では、もはや大混乱となる。公家も武家も天皇家も自分が営む荘園に寄生することによって生きながらえている。国家の体をなしていない。これはまさに唐の末期から五胡十六国に類似する。すなわち一種の無政府状態・国を豪族が割拠する状態であり、当然それら貴族や豪族の間で覇権が争われることとなり、趙匡胤という一人の勝者に収束した、というわけだ。
後白河法皇による長すぎる院生時代には、悪左府こと藤原頼長、信西(藤原通憲)、西光(藤原師光)といったリフォーマーたちが続出した。しかし彼らは常に武士勢力によって粛清され、結局日本は長い長い封建時代へ突入する。中央集権的な政府ができるのには明治時代を待たねばならなかった。
頼長、信西、西光らは宋の政治を真似て、時代に逆らったまったく無駄な努力をした。実にかわいそうな人たちだ。もし王朝の交代があったら日本にも中央集権国家が生まれたかもしれない。しかし天皇家も公家も残りそれとは別に武家というものが生まれた。その三者が共存することによって生じた内部応力が中央集権的合理的政体の誕生を妨げた。そして地方分権的な社会が七百年も続いたというわけだ。保元の乱から承久の乱まで続く武士への権力委譲の時代、南北朝、戦国時代となんども戦乱の世が再現したのに、一度も中央集権国家に至らなかったのは、
やはりそのなんというかアモルファスな安定状態に収束してしまうからではなかろうか。
案外ヨーロッパで封建社会が長く続いたのも同じ理由かもしれない。神聖ローマ皇帝とローマ法王と地方領主の三すくみ状態によって中央集権的な国家が生まれてくるのが阻害されたのかもしれん。今のヨーロッパを見てもよくわからんが、かつてのヨーロッパは百以上の諸国の集合体だったのである。なぜこんなにとっちらかっていたのだろうか。同じことは日本にも言える。
新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。
芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。
改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。
ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。
寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉
正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり
これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。
米は1合で約150g、1升では約1.5kgとなる。1俵は35升なので52.5kg。
今時だいたい10kgの普通の米が4000円も出せば買える。となると1俵で20000円くらいとなる。
新井白石の時代には1俵が37両であった。37両 = 2万円となる。1両がわずかに540円。これは今の感覚で言えばずいぶんと安い。下級の御家人は扶持米が一年に300俵くらいだったらしい。すると年収は600万円となる。これは割とわかりやすい。つまり、新井白石の時代には、金は今よりずっと価値が低かったということか。
いつからか、義賊になった鼠小僧次郎吉 など読んでいると、幕末には1両で約1俵だというから、つまり、金貨の価値が37倍にもなったことになる。理由はよくわからんが、元禄までは金が国内ではめちゃくちゃ取れた。それで金が余った。それから金を輸出するようになり、産出量も減ってきた。そこで金の価値が暴騰した。逆に米の生産量は干拓や埋め立てなどでだいぶ増えていた。
というようなことではなかろうか。同じ江戸時代でも百年経てば物価もだいぶ変わりますわな。
いわゆる加後号というものは、後一条天皇から始まっている。これは系譜を見ると明らかなように、村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、ここで皇統が二つに分かれてしまっている。円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。これはまずいというので、三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、という意味合いが込められているのだろう。それはわかる。
しかしその後がもうわけわからない。後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。
新井白石は後三条天皇がお気に入りである。蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。
荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、きちんと国の経営をしたわけではなく、そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、新井白石はそう考える。
結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。
中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。
新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。
後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。これだけのことからでも、その志は察しえよう。
後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。
ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。
日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。
それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。
今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。
で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。
調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。
新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。
パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。
ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。
「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。
「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。
それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。
「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。
それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。
さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。
荒井白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だった。町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。低くもないが高くもない。旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。側用人間部詮房は一万石だから大名だ。後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会していたはずであり、また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなったか。いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていたか。
白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。決して低くない。藩主か大名クラスだろう。浅野内匠頭と同じくらいだ。つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。
元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。
家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては十分高齢だった。わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたのか。甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。